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9月末、長崎を旅した。
短い日程の中であらゆる交通機関を駆使して歩き回った。以下、その長崎紀行のあらましを紹介しよう。
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行きの飛行機で、雲の間から一瞬だけ富士山を見ることが出来た。
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長崎駅向かい、NHK放送局横の坂道を上ると、西坂の開けた広場に着く。そこが二十六聖人記念碑のある広場だ。
約400年前、まだ豊臣秀吉が天下統一の途上にある1597年、この地は凄惨な悲劇の舞台となった。
「スペインは宣教師を派遣することで信者を増やし、その地の占領を図っている」との噂に危機感を覚えた秀吉は、フランシスコ会宣教師を中心としたキリシタン26人を逮捕、京都から長崎まで引き回したうえ、処刑を実行した。
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その処刑者26人が高さ5.6m、幅17mの幅広いブロンズ板にずらりと並んでいる。遠目には人物がただ一列に勢ぞろいしている青黒い石板としか見えない。だが、碑に近づくにつれ、26人の一人一人が様々な表情、姿勢をしていることに気付き始める。
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最初に目が留まったのは、小さな体の少年2人。
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右から9番目のルドビコ茨木、12歳。最年少の殉教者だ。今まさに昇って行くであろう天を見上げ、一心にその瞬間を見つめている。
修道院で働いており、神父が逮捕されると、自らも進んで逮捕を願い出たという。なので、道中の途中で役人が「信仰を捨てれば逃がしてやる」と話すと、「つかの間の命と永遠の命とを換えることはできない」と断った少年だ。
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十字架に縛られた時、「パライソ(天国)、イエス、マリア」と、祈るようにつぶやいた。
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隣はアントオニオ、13歳。長崎生まれの中国人と日本人のハーフ。京都でキリスト教の教理を学んでいた。西坂の丘で泣きながら出迎えた両親に対して「泣かないで。私は天国に行くのだから」と、逆に両親を慰めた。
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2人の横で両手を広げ、あたかも悟りの中にいるような神父は、ペドロ・バウチスタ神父。フィリピン総督の使節として来日し、京都、大阪に修道院と病院を開いて日本布教の中心的役割を果たしていた。キリストと同様に針で十字架に打ち付けて欲しいと願い出たが、日本にはそんな習慣はないと却下された。
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もう一人少年がいた。右から20番目のトマス小崎、14歳。同じく逮捕された父ミゲル小崎と共に、大阪で病人救済のために働いていた。
父の懐には、トマス小崎が母に宛てた手紙が残されていた。「私のこと、父のこと、ご心配下さいませんように。パライソでお会いしましょう」。
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また、ペドロ・バウチスタ神父と同様に全員の中で2人だけ、両手を広げているのが、パウロ三木。槍で突き刺されて殉職したその日も、十字架上で「太閤様始め処刑に関わったすべての人を許します。切に願うのは、彼とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」と、人生最後の説教をしたという。
今はビルなどで見晴らしは効かなくなっているが、400年前の西坂は広々と広がる長崎の港が一望できた。26人ははるかに広がる海を臨みながら、前後左右から槍で胸を突かれて命を絶った。
26人のうち外国人の神父、修道士は計6人、あとの20人は日本人の信徒だった。秀吉はこの10年前、1587年に伴天連追放令を出して外国人宣教師追放を掲げていたが、具体的、大規模な行動に出たのはこれが初めてだった。
この後家康の時代になると1614年に禁教令を出して本格的に日本人のキリスト教信仰をも禁止し、以降250年以上の、キリスト教にとっての暗黒時代が続くことになった。
彼ら26人の殉教は、ヨーロッパでも広く紹介され、1862年に26人全員がローマ教皇によって聖人の列に加えられた。
二十六聖人碑を制作したのは、現代日本彫刻界の第一人者、舟越保武。列聖から百周年にあたる1962年に記念碑を完成させた。
外国人、農民、少年など様々な人たちの姿、表情などを細かく分析して像を仕上げていった。
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例えば、バウチスタ神父を下から見上げると、彼と目が合う。後世の人びとに対しても優しく道を説く姿勢を取り続ける形だ。
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また、全員が裸足で、地に足がつかずにぶら下がった格好。これこそ磔刑の姿だ。ただ、実際は全員土まみれの貧しい身なりでの磔刑だったが、舟越は彼らに盛装を施した姿で表現した。
舟越は2002年に亡くなったが、その命日は2月5日。405年前26聖人が殉教した日もまさに2月5日だった。
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像の下には「人もし我に従わんと欲せば、己を捨て十字架を取りて我に従うべし」とマルコ伝8章の言葉が記されている。
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また、碑の裏側には、京都から長崎まで彼らが歩いたルートが示されていた。
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