橋の長さは22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46m。
1634年(寛永11年)興福寺の2代目住職、黙子如定(もくすにょじょう)が架けた[2]。1648年(慶安元年)の洪水で損壊するが、平戸好夢が修復している[2][3]。その他は高欄が破損して修復したと見られる形跡があるものの、流失することなく度重なる水害に耐えてきた[2][4]。1982年(昭和57年)の長崎大水害では中島川の橋が流失したが、眼鏡橋は半分程度損壊するという深刻な被害を受けたものの流失は免れた[5]。
修復のための部分解体調査で江戸期のものとみられる階段跡が左岸橋端から見つかったため、従来はスロープとなっていた橋端は階段へと変更された[6]。橋端は1873年(明治6年)頃、人力車通行のために階段をなくしたものと見られる。ただし眼鏡橋は1948年(昭和28年)以後、車両の通行が禁止されている[7]。
流出後、下流で見つかった石材については、復元時に再利用された[8]。眼鏡橋の辺りは増水時の氾濫対策として川幅を広げる必要があったが、橋などの姿をなるべく残すよう、川幅や橋はそのままにして、両岸の地下に暗渠式のバイパス水路を設けることで解決した[9]。この際、左岸側バイパス建設地の上から川の上にまで張り出した家屋や商店など46戸は約20年の交渉を経て全戸が移転し、跡地には歩道と街路樹が整備された。
1634年(寛永11年)興福寺の2代目住職、黙子如定(もくすにょじょう)が架けた[2]。1648年(慶安元年)の洪水で損壊するが、平戸好夢が修復している[2][3]。その他は高欄が破損して修復したと見られる形跡があるものの、流失することなく度重なる水害に耐えてきた[2][4]。1982年(昭和57年)の長崎大水害では中島川の橋が流失したが、眼鏡橋は半分程度損壊するという深刻な被害を受けたものの流失は免れた[5]。
修復のための部分解体調査で江戸期のものとみられる階段跡が左岸橋端から見つかったため、従来はスロープとなっていた橋端は階段へと変更された[6]。橋端は1873年(明治6年)頃、人力車通行のために階段をなくしたものと見られる。ただし眼鏡橋は1948年(昭和28年)以後、車両の通行が禁止されている[7]。
流出後、下流で見つかった石材については、復元時に再利用された[8]。眼鏡橋の辺りは増水時の氾濫対策として川幅を広げる必要があったが、橋などの姿をなるべく残すよう、川幅や橋はそのままにして、両岸の地下に暗渠式のバイパス水路を設けることで解決した[9]。この際、左岸側バイパス建設地の上から川の上にまで張り出した家屋や商店など46戸は約20年の交渉を経て全戸が移転し、跡地には歩道と街路樹が整備された。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます