蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

猴和古鏡

2005年05月26日 10時18分03秒 | 不知道正法眼蔵
普段の生活の中で野生猿を直接見る機会はめったにない。動物園にいけば猿山があるので見ることもできるのだが、これはあくまで飼育されている猿であって野生ではない。そういえば新聞などは記事のネタにつきると猿山のボスの跡目争いを取り上げる。しかしそのような記事はわたしの好みではない。そもそも動物園があまり好きではない。あの狭い空間のなかで一生を過ごさねばならない動物たちのことを思うと息苦しくなってしまうからだ。
さて、むかしむかし中国でのこと。雪峰真覚大師と三聖院恵然禅師が二人して寺の荘園を歩いていると野猿の群れに出会った。そのとき雪峰が「この猿たちはそれぞれ一面の古い鏡を背負っているよ」と三聖にいった、という話が『碧巌録』の第六十八則にある。ちなみに原文では「峰往寺荘、路逢彌猴乃伝、這彌猴各各佩一面古鏡」(原文では彌は獣偏をつけて作る)(注1)となっている。
これ自体ふしぎなはなしだ。まるで河童の背中にある甲羅のように古鏡を背負った猿の一団。しかも鏡であることがわかったというからには反射面を表にして背負っていたはずだ。しかし反射した光がきらきらと輝く異様な光景を目の前にしてもけっしてたじろがない、さすが修行を積んだ御坊様たち。わたしのような無学のものは単純にそう解釈してしまう。『碧巌録』なのだ、そんなばかな話であろうはずがないではないか。
そこで道元禅師の解釈に当たってみることにする。「「おのおの一面の古鏡を背せり」とは、たとひ諸仏祖面なりとも、古鏡は向上にも古鏡なり」(注2)つまりそれぞれの古鏡の面は諸々の仏祖の面であり、さらに古鏡は古鏡を越えたものとしての古鏡、諸々の仏祖の面を越えたものとしての諸々の仏祖の面なのだそうだ。しかも「「彌猴おのおの面々に背せり」といふは、面々に大面小面にあらず、一面古鏡なり」(注3)なのだという。古鏡それぞれは諸々の仏祖の面、諸々の仏祖の面を越えたものとしての諸々の仏祖の面であり、それとともに猿に背負われている古鏡それぞれは、それぞれ異なった古鏡なのではなくたった一面の古鏡、たった一人の仏祖、たった一人の仏祖をも越えた仏祖である、という事なのだろうか。また「「背す」といふは、たとへば絵像の仏のうらをおしつくるを、背すとはいふなり。彌猴の背を背するに、古鏡にて背するなり」(注4)、つまり猿の背中を古鏡で裏打ちする。猿の背中を諸々の仏祖の面、たった一人の仏祖をも越えた仏祖の面で裏打ちするということになる。そして禅師は「われらすでに彌猴か、彌猴にあらざるか」(注5)と畳み掛けてくる。
「這彌猴各各佩一面古鏡」からこれだけの解釈を引き出すのだからすごいというほかないが、七十五巻本正法眼蔵を通読してみてつくづく感じるのは道元禅師自身が言葉の重要性をとても強調しつつ、やはり実践的な仏道修行が第一であり、そのためには出家しなくてはならない、としきりに述べていることだ。「出家」しなくてはならない、しかしわたしは「出家」などしたくない。修行によって苦しみを無化することができるなら、それは快楽をも無化するこであるにちがいないから。
道元禅師はいうだろうなあ、「あわれむべし、かなしむべし」。

(注1)『碧巌録』(中) 318-319頁 岩波文庫 1994年5月16日第1刷
(注2)『日本思想体系 道元(上)』248頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注3) 同上
(注4) 同上
(注5) 同上

夢也未見在

2005年05月13日 00時03分52秒 | 不知道正法眼蔵
「有時に経歴の功徳あり、いはゆる今日より明日へ経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日ゑ経歴す。今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す。経歴はそれ時の功徳なるがゆへに」(注1)。時間と存在が一体化したものとしての有時というものはあちらこちらを巡る機能がある。有時は今日より明日、今日より昨日、昨日より今日、今日より今日、明日より明日へと経巡るのである。同型構造の文を語の配置を入れ替えて繰り返すこのような表現を道元禅師はよく用いる。上記の文は正法眼蔵「有時」からの引用だが、そのほかにこれとほぼ同じ表現を「伝衣」のなかにも見ることができる。「過去より現在に正伝し、現在より未来に正伝し、現在より過去に正伝し、過去より過去に正伝し、現在より現在に正伝し、未来より未来に正伝し、未来より現在に正伝し、未来より過去に正伝して、唯仏与仏の正伝也」(注2)といったぐあいに。
どうもこのような書き方をされると、なんだか船酔いしたときの気分に似た状態になってくるのはわたしだけだろうか。正法眼蔵は和文で書かれた仏教書の最高峰として夙に有名だけれども、じつはこの和文で書かれたというところに躓きの石があるのではないか。この頭の痛くなるような本を読めば読むほどわたしはそう思う。
そしてさらに同じ鎌倉仏教の日蓮聖人と比較するのも興味深い。日蓮聖人は1222年から1282年まで生きた人だから道元禅師より22歳若いのだが、すくなくとも日蓮聖人が道元禅師を知っていた可能性はあるのではないかと勝手に推測している。わたしは日蓮聖人のいわゆる御書を渉猟したことがないのでなんともいえないのだが、宗派が異なるので恐らく道元禅師その人に言及したものは、残念ながらないのではないだろうか。
さて、今日残されている道元禅師のディスクールはテキストだけなので、それでは実際に道元禅師がどのような語り口で示衆したのか、これはとても興味がある。言文一致はたかだか明治以降だから、それ以前は書かれた言葉がすなわち語られた言葉というわけではなかった。今流の講演記録とは違うのだ。しかも時は鎌倉時代とあってみれば正法眼蔵に書かれている内容を書かれているままに語ったなどとはとうてい考えられない。高い仏教知識をもった修行僧をあいてに説法するのだから、専門用語は了解済みとしているには違いないとしても、もうすこし判りやすい日本語を使っていたはずなのだ。テキストも書写に書写を重ねれば誤字脱字も発生し、そこでフィロロギッシュな研究もおこなわれることとなるとしてもである。
たとえば「おおきにあやまりなり」といった表現を読むと禅師も関西の人なのだなあと、みょうに親しみがわいてくる。おそらく道元禅師は日頃京都言葉で話していたに違いない、もちろん説法も京都言葉のはずである。京都言葉で語られる正法眼蔵をぜひ聞いてみたかった。

(注1)『日本思想体系 道元(上)』258頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注2) 同 373頁

食在永平寺乎

2005年05月01日 05時34分37秒 | 不知道正法眼蔵
わたしは美味いものが大好きだ。これはわたしだけに限る話ではない、みんな美味いものが大好きにちがいない。そこで美味いものを供する食べ物屋に出向くわけなのだ。どのような料理でもよい、とにかく美味ければよい。仏蘭西料理でも独逸料理でも中華料理でも、あるいは伊太利亜料理、西班牙料理、希臘料理、印度料理でもよい。ところで最近は料理人が調理場で仕事をしている姿をやたらとテレビなどで放映しているが、そこでちょっと気になるのが偶さか目にする味見の場面。あれは本来客に見せるべきものではないはずだ。そもそも調理場とは芝居でいえば舞台裏にあたり、観客の夢を創るところでこそあれ、けっして観客に披露すべきものではない。料理も同断でたとえばせっかく美味い寿司を食べようと来たのに親方が弟子を叱り飛ばす場面を見せられては食べた気にもならない。これは少々極端だったかもしれぬが、そもそもわたしたちが料理屋にゆくのは料理人の働いている姿を見るためでないのはいうまでもない。
道元禅師の著作に『日本國越前永平寺知事清規』というのがある。少々薀蓄を傾けるならばこれは『永平清規』(えいへいしんぎと読む)全六巻の中の一巻で、知事とは簡単にいえば禅林の役職の総称なのだか、道元禅師はこのなかで「尊重猶如御饌之法。料理之間鹽梅油醤等、不可喫試。不可嘗試」(注1)と書いている。要すれば料理の最中は味見してはいけないということだろう。もちろんこのように道元禅師が指示する背景には深遠な仏教体系が控えている。それは調理を「尊重猶如御饌之法」という言葉によって窺うことができるわけだが、わたしのような凡夫はもっと単純に他人様が食するものに口をつけてはいけないと理解した。料理人は真剣勝負で客に料理を提供するはずなのだとすれば、いちいち味見などするようではまだ一人前ではないということになる。まして生き物(菜食主義者ってのがいるが植物だって立派な生き物)を殺してつくるのが料理である。わたしたちのために命を落とした生き物のためにも、作る側もまた食する側も常に真剣勝負の姿勢が求められているということなのですね。
ところで『正法眼蔵 洗浄』などであれだけ事細かに顔の洗い方からトイレでの用の足し方まで規定した道元禅師であれば、どのような物を食すべきか具体的な指示がありそうなものなのだがそのような記述を読んだことがない。わたしが不勉強のため単に知らないのかもしれぬが。たとえば夏安居のあとは鰻を食すべしなんぞといったかいわなかったのか、ぜひとも知りたいもの。

(注1)『永平元禅師清規』332頁 曹洞宗宗務庁 平成10年12月8日再版第9刷。


観音導利興聖寶林寺

2005年04月17日 00時08分15秒 | 不知道正法眼蔵
今もっとも多くの註解書が出版されているわが国の仏教者といえば、いうまでもなく日蓮聖人と永平道元の二人ではないだろうか。もちろん他にも恵心僧都源信や法然、親鸞もいるにはいるのだが、人気を二分するのはやはりこの二人に違いない、実感としてそう思う。日蓮聖人と道元禅師が生れも育ちも対極にあるということもなんだか興味深い。日蓮聖人は安房国小港の漁師の倅。一方道元はというと父は内大臣久我通親(こがみちちか)母は藤原基房(ふじわらもとふさ)の娘伊子(いし)というのだから当時としてはまさに超一流の家庭(家庭って概念など当時は無かったか、失礼しました)に生れている。日蓮の書簡、いわゆる御書や道元の著作は現代でも魅力的文献で、専門家からちょってあやしい素人まで、なんやらかんやらといろいろな人々が論じているが、まあそれだけ人々が食いつきたくなるような偉大な宗教家であったということか。
そこで道元禅師の正法眼蔵やその他の遺文から、わたしに興味のある文言を勝手に引用して「よしなしこと」を記述しようと考えた。なぜ日蓮聖人ではないかというと、どうもこちらのほうは文献学的論争に埋没してしまいそうだからである。もちろん道元禅師の著作にしても斯界ではフィロロギッシュな研究が行われているとはいえ、じつはこれは道元禅師自身が実践していることなのだけれども、というのは『正法眼蔵』にも散見されるのだが「経師・論師」つまり文献的研究者を徹底的に否定している、つまり自分で実践的に参学せよと書いているところから拝察するに、固定的な観念に囚われた文献の読み方を否定しているのではないかと推察したからである。
とはいうものの、もちろんこれがあくまでわたしの牽強付会であることもまた重々承知してはいる。それでも自分流の読み方をしてみたくなるような妖しい魅力が、じつは道元禅師の文章にはあるのだ。比較的理解容易な「洗面」にしても、そこには深読みしたくなるような謎めいた文言が埋め込まれている。例えば六十巻本『正法眼蔵』所収の「洗面」の次のような文章、「見楊枝は見仏祖なるべし、逢人なり、逢自なり」つまり「楊枝を見ることは仏祖を見るはずなのだ、人に逢うのであり、己に逢うのである」。これは判ったようで判らない、いやぜんぜん判らないといってよい。そこでわたしも参学弁究しようというわけだ。