普段の生活の中で野生猿を直接見る機会はめったにない。動物園にいけば猿山があるので見ることもできるのだが、これはあくまで飼育されている猿であって野生ではない。そういえば新聞などは記事のネタにつきると猿山のボスの跡目争いを取り上げる。しかしそのような記事はわたしの好みではない。そもそも動物園があまり好きではない。あの狭い空間のなかで一生を過ごさねばならない動物たちのことを思うと息苦しくなってしまうからだ。
さて、むかしむかし中国でのこと。雪峰真覚大師と三聖院恵然禅師が二人して寺の荘園を歩いていると野猿の群れに出会った。そのとき雪峰が「この猿たちはそれぞれ一面の古い鏡を背負っているよ」と三聖にいった、という話が『碧巌録』の第六十八則にある。ちなみに原文では「峰往寺荘、路逢彌猴乃伝、這彌猴各各佩一面古鏡」(原文では彌は獣偏をつけて作る)(注1)となっている。
これ自体ふしぎなはなしだ。まるで河童の背中にある甲羅のように古鏡を背負った猿の一団。しかも鏡であることがわかったというからには反射面を表にして背負っていたはずだ。しかし反射した光がきらきらと輝く異様な光景を目の前にしてもけっしてたじろがない、さすが修行を積んだ御坊様たち。わたしのような無学のものは単純にそう解釈してしまう。『碧巌録』なのだ、そんなばかな話であろうはずがないではないか。
そこで道元禅師の解釈に当たってみることにする。「「おのおの一面の古鏡を背せり」とは、たとひ諸仏祖面なりとも、古鏡は向上にも古鏡なり」(注2)つまりそれぞれの古鏡の面は諸々の仏祖の面であり、さらに古鏡は古鏡を越えたものとしての古鏡、諸々の仏祖の面を越えたものとしての諸々の仏祖の面なのだそうだ。しかも「「彌猴おのおの面々に背せり」といふは、面々に大面小面にあらず、一面古鏡なり」(注3)なのだという。古鏡それぞれは諸々の仏祖の面、諸々の仏祖の面を越えたものとしての諸々の仏祖の面であり、それとともに猿に背負われている古鏡それぞれは、それぞれ異なった古鏡なのではなくたった一面の古鏡、たった一人の仏祖、たった一人の仏祖をも越えた仏祖である、という事なのだろうか。また「「背す」といふは、たとへば絵像の仏のうらをおしつくるを、背すとはいふなり。彌猴の背を背するに、古鏡にて背するなり」(注4)、つまり猿の背中を古鏡で裏打ちする。猿の背中を諸々の仏祖の面、たった一人の仏祖をも越えた仏祖の面で裏打ちするということになる。そして禅師は「われらすでに彌猴か、彌猴にあらざるか」(注5)と畳み掛けてくる。
「這彌猴各各佩一面古鏡」からこれだけの解釈を引き出すのだからすごいというほかないが、七十五巻本正法眼蔵を通読してみてつくづく感じるのは道元禅師自身が言葉の重要性をとても強調しつつ、やはり実践的な仏道修行が第一であり、そのためには出家しなくてはならない、としきりに述べていることだ。「出家」しなくてはならない、しかしわたしは「出家」などしたくない。修行によって苦しみを無化することができるなら、それは快楽をも無化するこであるにちがいないから。
道元禅師はいうだろうなあ、「あわれむべし、かなしむべし」。
(注1)『碧巌録』(中) 318-319頁 岩波文庫 1994年5月16日第1刷
(注2)『日本思想体系 道元(上)』248頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注3) 同上
(注4) 同上
(注5) 同上
さて、むかしむかし中国でのこと。雪峰真覚大師と三聖院恵然禅師が二人して寺の荘園を歩いていると野猿の群れに出会った。そのとき雪峰が「この猿たちはそれぞれ一面の古い鏡を背負っているよ」と三聖にいった、という話が『碧巌録』の第六十八則にある。ちなみに原文では「峰往寺荘、路逢彌猴乃伝、這彌猴各各佩一面古鏡」(原文では彌は獣偏をつけて作る)(注1)となっている。
これ自体ふしぎなはなしだ。まるで河童の背中にある甲羅のように古鏡を背負った猿の一団。しかも鏡であることがわかったというからには反射面を表にして背負っていたはずだ。しかし反射した光がきらきらと輝く異様な光景を目の前にしてもけっしてたじろがない、さすが修行を積んだ御坊様たち。わたしのような無学のものは単純にそう解釈してしまう。『碧巌録』なのだ、そんなばかな話であろうはずがないではないか。
そこで道元禅師の解釈に当たってみることにする。「「おのおの一面の古鏡を背せり」とは、たとひ諸仏祖面なりとも、古鏡は向上にも古鏡なり」(注2)つまりそれぞれの古鏡の面は諸々の仏祖の面であり、さらに古鏡は古鏡を越えたものとしての古鏡、諸々の仏祖の面を越えたものとしての諸々の仏祖の面なのだそうだ。しかも「「彌猴おのおの面々に背せり」といふは、面々に大面小面にあらず、一面古鏡なり」(注3)なのだという。古鏡それぞれは諸々の仏祖の面、諸々の仏祖の面を越えたものとしての諸々の仏祖の面であり、それとともに猿に背負われている古鏡それぞれは、それぞれ異なった古鏡なのではなくたった一面の古鏡、たった一人の仏祖、たった一人の仏祖をも越えた仏祖である、という事なのだろうか。また「「背す」といふは、たとへば絵像の仏のうらをおしつくるを、背すとはいふなり。彌猴の背を背するに、古鏡にて背するなり」(注4)、つまり猿の背中を古鏡で裏打ちする。猿の背中を諸々の仏祖の面、たった一人の仏祖をも越えた仏祖の面で裏打ちするということになる。そして禅師は「われらすでに彌猴か、彌猴にあらざるか」(注5)と畳み掛けてくる。
「這彌猴各各佩一面古鏡」からこれだけの解釈を引き出すのだからすごいというほかないが、七十五巻本正法眼蔵を通読してみてつくづく感じるのは道元禅師自身が言葉の重要性をとても強調しつつ、やはり実践的な仏道修行が第一であり、そのためには出家しなくてはならない、としきりに述べていることだ。「出家」しなくてはならない、しかしわたしは「出家」などしたくない。修行によって苦しみを無化することができるなら、それは快楽をも無化するこであるにちがいないから。
道元禅師はいうだろうなあ、「あわれむべし、かなしむべし」。
(注1)『碧巌録』(中) 318-319頁 岩波文庫 1994年5月16日第1刷
(注2)『日本思想体系 道元(上)』248頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注3) 同上
(注4) 同上
(注5) 同上