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蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

婦女系統工程師

2005年04月26日 06時47分46秒 | 太古の記憶
芝浦埠頭近くの倉庫街にあるビルの一室でソフトウェア開発部隊の立ち上げ式が始まっていた。室内はまるで木造アパートの一室のような身窄らしさだ。金をかけたくないの、それともこのような場所しか見つけることができなかったのかはわからないが、わたしはこのプロジェクトの結末を見てしまったような気分になり、かなり精神的に落ち込んでしまった。室内には五十名以上のプログラマーやSEたちが集まっていたが、その中には何人かの顔見知りもいたので、ほんの少しだけ気分が和らいだ。わたしの知っている女性SEが対客先交渉担当に任命されていることをプロジェクトマネージャの部長から雑談のおりに聞かされたが、彼女も以前に別の現場でいっしょに働いたことがあった。わたしはこの配置をそれほど意外とも思わなかった。おそらく彼女は自分の職務を完璧にこなすであろうと確信した。しかしそのときわたしは彼女がなんという名前だったか思い出せなかった。おそらくはU社の現場にいた女性SEに違いないのだが。
その日の天候は荒れ模様だった。吹く風は強くおまけに湿気を含んでいるし、空には厚く雲がかかっていたが、しかしそれは雨雲のように黒くはなく一部には晴れ間さえあり青空が見え隠れしていた。岸壁の公園にある三百メートルほどの灯台機能を備えた赤い鉄塔の先端は雲に隠れてしまってよく見えない。鉄塔の横にあるまるで軍艦のようなかたちをしたモニュメントのうえで数人の女性SEがお互いに小突きあいながら何かをしている。はじめはアンテナ調整をしているようにも見えたのだが、しばらく見ているうちに、といっても数秒だったが、彼女らが単純にふざけ合っていることがわかった。みなわたしの知り合いだった。
ふたたび部屋に戻ってきてみるとまた別の女性ESが声をかけてきた。風邪を引くといけないのでバスルームで湿った身体を洗う、と彼女にいうと彼女もバスルームに一緒に入ってきて下着姿でしかも下半身裸でわたしを洗い始めようとする。わたしに背を向けているので顔は見えなかったものの、しかし彼女が以前からいっしょに仕事をしたことが何度もある最も親しい人物であることだけは確かだった。

有的學園祭

2005年04月14日 00時30分47秒 | 太古の記憶
わたしは今、自分が卒業した小学校の校舎内をうろついている。今日は何か大事な催物があるらしい。さまざまな人たちが来校しているのを確認した。もちろん在校生児童等もそのなかにいるわけだが、外来者のほうが圧倒的に多いように見受けられる。わたし自身はもうとっくの昔に成人式を終えてしまっているし、今ではいいオジサン的年齢なのだが、かつてわたしと机を並べていた少年少女たちはあいかわらず小学生、中学生のままだった。しかしわたしはそのことを別段不可解に感じることもなかった。なかには大学時代に出会ったことのある連中もいたりして、もう時間的観念などまったくない、通時性と共時性が組みつ解れつのジャム状態になっていた。そのような群集の中にわたしはN子を見つけることができた。彼女は取り巻きたちといっしょだったのでわたしは声を掛けることができなかった。しかしN子はそのようなわたしの態度からかなりの屈辱感を覚えたようすだった。わたしの方にはまったくその気がないにしろ、結果的に彼女のわたしに対する心象を害してしまったことは確かだった。N子はわたしを無視して他の教室で催されているエベントに向かってしまう。けっして自分が彼女を無視してわけでもまた嫌ったわけでもないことを、わたしはN子に弁解ししようと、一階から三階までの全ての教室を探し回った。
音楽室教室にゆく。催物の一つであるクラシック音楽、モーツァルトかバッハの作品が演奏される予定だった。しかしまだ演奏者たちは会場に到着しておらず、招待客たちは三々五々受付で記帳して教室に入りつつあるところだ。受付のテーブルにある記帳簿を一瞥すると皆が毛筆で記名している。わたし自身は招待客ではないので記帳することなく入り口の混雑する中を掻き分けながら室内に入った。互いに立ち話をしあっている客は大人ももちろんいたが、ほとんどが小学生で制服の様子から他校の児童が多いように見受けられる。しかしここにもN子はいなかった。ほかの教室も探しまわったがエベント開催中のところが多くなかなか彼女を見つけることができない。わたしはエレベータを二階で降り大教室のいくつかを覗いてみた。ある教室には入り口に紙が張ってあった。それによるとこの教室は大学の学部で使用しているということで、児童教育または幼児教育専門課程の授業が行われており、女子学生たちが薄暗い教室の中で皆熱心にノートを取っている様子がうかがわれた。

氷河期

2005年04月07日 05時11分37秒 | 太古の記憶
わたしとM社長そしてN君の三人でヘルゲン公園のなかを、川上からクラウク橋の東詰方面に向かって歩いていた。川面を覆っていた霧が徐々に晴れてきたのを見たわたしは「今日は久しぶりに天気がよくなった」と皆にいった。いつもは遠くに霞んでいる黒海がはっきりと見えてきた。しかし海上は時化ているらしく沖からは何十メートルもある大波が岸に打ち寄せていた。そのためわたしたち三人のいる場所が海面から百メートル以上高くなっているにもかかわらず、波が砕けてできた白い飛沫が舞い上がってきていた。わたしたちはクラウク橋をわたり始めた。橋は歩行者専用のせまい鋼鉄製吊り橋だった。橋の中央まできて下を覗くと約六体の水死体が川岸に打ち上げられていた。それぞれの死体はまるで申し合わせたかのように同じ形に四肢を曲げ、しかも石灰塗れになっているのではと思えるほどに灰色に変色し、まるでポンペイ博物館に保存されているヴェスヴィオス火山噴火時の犠牲者の石膏型のようになってしまっていて、どう見ても溺死者のそれではなかった。
気分が悪くなってきたわたしはその光景から目を背けたのだがM社長に促されて再び川の方を見下ろすと、死体の側にボートが浮いていた。先ほどはボートなどなかったのにいったいいつ現れたのだろう。ボートには発動機がついていたが一度転覆した形跡が明らかに見て取れた。ボートには男性二人と女性一人が乗っていた。全員服は着ているもののずぶ濡れで、とくに女性のほうは意識を失っている様子で仰向けに寝かされていた。男たちは彼女を介抱するために着衣を脱がそうとして必死になっている。わたしは早急に彼女の服を脱がさなければならないだろうと思いながらまた橋の上を歩き始めた。何歩か歩いたのち再び川面を見ようと下に目をやったが、川面は先ほどよりもさらに降下しており、橋上からの落差は優に三百メートルはありそうに感じられた。そして死体もボートも肉眼で捉えることはできなくたってしまっていた。ようやくわたしたちはクラウク橋を渡りきった。橋は非常に高いところに架かっていたので地上に降りるには螺旋階段を使用しなくてはならない。しかしわたしは皆より先に階段を降り始めていたので、かなり早く地上にたどり着くことができた。

及時當勉励

2005年03月30日 00時21分26秒 | 太古の記憶
四月下旬の三浦半島某所、京急田浦駅から逸見駅までの間のどこかとも思えるが定かではない。わたしは小学校に登校するために歩いている。新入学ではなく転校生としてやってきたのだ。親の付き添いも無くいきなり見ず知らずの学校に行かせるのだから、乱暴といえばかなり乱暴である。なにしろ転向手続きまで小学生のわたしが行わなくてはならないのだから。事前に聞いたところによると、その学校はミッション・スクールらしいのだ。家は浄土宗の檀家なのになぜわたしがキリスト教の学校に通わねばならないのか。しかしもう決まってしまったことなのでどうしようもない。
京浜急行の駅を降りて学園までの道を進む。学校への道順さえ教えてもらっていないし、したがって学校の所在地さえわからない。アスファルト舗装された静かな道は車両の通行が規制されているのか歩行者しか見当たらない。道の両側には青々と葉を茂らせた桜の木が規則的に植えられていてその奥は林となっていている。新芽の香りが辺りに充溢し、呼吸をするたびに私自身が植物と同化してしまいそうだ。
わたしの十メートルほど先を三四名の男子小学生がふざけ合いながら歩いて行くのに気が付いた。彼らがわたしのこれから通学すべき学校の児童であることは間違いないと直感したわたしは、彼らのあとに付いて行くことにした。学校が何処にあるのかわからない以上、小学生のわたしにとってそれが最善の決断だった。彼らはわたしより高学年だろうか、それとも低学年だろうか。どうも低学年のように見えるが、しかしわたしの立場は転校生である。上だろうが下だろうが、通学するようになったらしばらくの間、例えば一ヶ月くらいは様子を見ることにしよう。一ヶ月大人しくしていれば彼らの中での位階関係がわかるというものだ。
やがて森の中に蔦の纏わる赤煉瓦造りの古風な建物が見えてきた。本館校舎は二階建てで中央部分が塔になっている典型的な学校建築。しかし校舎に至る前にわたしはグラウンドの横を歩いていた。グラウンド面はわたしのいる側道から三メートルほど高くなっていて、下つまりグラウンド地下が今は使用されていない講堂となっていた。高くなったグラウンドの壁面にはアール・デコ風の扉が等間隔に幾つも設けられていて、わたしはそのガラス張り部分から中を覗いてみた。中には運動用具やグラウンドの整備用具が収納されているようで、もう何年も講堂として使われていないことが見て取れた。床に塗る油とそして埃、微かに黴の香りも漂ってきそうな薄暗い旧講堂。中に入ってみようとしたがすべての扉は施錠されていて入ることができない。わたしはしかたなく再び学校に向かうことにした。なぜならこの瀟洒な学校はわたしの通学するはずの小学校ではなかったからだ。
とんだ道草を食ってしまったわたしは、先ほどの小学生たちとも逸れてしまい、もはや何処に行ったらよいのか完全にわからなくなってしまっていた。

世界終点

2005年03月26日 06時50分00秒 | 太古の記憶
会社の会議で誰かが「Nを殺してしまえばよいのではないか」と発言した。半ば冗談としての結論だったが、それを聞いたわたしは心の中で快哉を叫んだ。退社時刻となり、わたしとその他何名か、或る目的のために千葉県某所へ向かう事となった。JR総武線で千葉駅に到着し、そこから支線に乗り換えて「ファ」とかいう駅で降り、さらに他の線に乗り継がねばならないのだ。わたしたちが千葉駅に降り立ったとき、一行の中にガイドとして雇われている女性がいるのに気が付いた。容貌はまったく異なってはいたものの、彼女は確かにわたしのよく知っている人物だったが、しかし心には何らの感情的変化も起きはしなかった。それよりもわたしは今自分達の立っている千葉駅コンコースの構造の方に興味を覚えた。そこはむかしの両国駅が持っていたターミナル独特の雰囲気と、住宅地帯の中枢として機能する町田駅の溌剌とした空気が渾然となっている巨大空間だった。ホーム下の通り抜け通路はその先端がほとんど見極められぬほど彼方まで続いていたし、高い天井を有する中央エントランスの壁や床は古代ローマの建築を髣髴させる重厚な大理石造りとなっていて、わたしはその美しさに永久にこのままでいたい、とさえ思ってしまった。