蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

憂鬱な旅(二)わたしはレモンティーが飲みたいっ!

2005年12月05日 04時58分48秒 | 太古の記憶
ホームでは既に数百人もの乗客たちが列車の入線を待っていた。
乗降口に当たる位置には陶製の板が埋め込まれていて、乗客たちはそれを目当てに各自整然と列を作っている。乗降口案内用のこの陶板にはいろいろな文様や文字が描かれていて、その一枚一枚が一つのエピソードを表し駅全体の陶板を合わせるとギルガメッシュ叙事詩が構成されるという話を、いつか聞いたことがある。わたしが四十一番線ホームの車止のところに埋め込まれた陶板から1つずつ読み始めてみようかと思ったとき、信越線富山行き特急列車が入線してきたのであの壮大な叙事詩の読解作業を早々に諦めた。並んでいた乗客たちが一斉に動き出すと、御影石が敷き詰められたホームにはまるで朝靄がはうように綿埃が立ち昇り、列車の先頭部分がほとんど判別しがたいくらいにぼやけて見えた。
のどの渇きを覚えたわたしは、列車に乗り込む前に飲み物を買おうとホームの売店に寄ってみた。車内販売で購入することもできたが、駅の売店とは比べ物にならないほど品数が乏しかったからだ。売店にはわたしと同じ考えの五六人の先客が既に来ていて売り子の女性に注文しているその騒ぎの中に、わたしも参加しなくてはならなかった。他の客たちの声が途切れたころあいを見計らって、客への応対にはもううんざりした様子の売り子に注文した。
「あの、缶ビールをください」
「すみません。アルコール飲料は今月から置かないことになったんです」
「え、あそうですか。それじゃ缶紅茶なんかありますか」
「セリン、スレオニン、ヒスチヂン、グリシン、パリン、トリプトファン、どれにしますか。ほかにもメチオニン、イソロイシン、アラニンもありますけど」
「なんですかそれ、むかし高校で化学の授業のときに聞いたような記憶があるけど」
「缶紅茶の種類ですよ。お客さんはやくしてください、ほかのお客さんも待ってるんですから」
決めるにもなにも初めて耳にする品名ばかりなので、いったいどのような味がするのだかまったく想像することもできず、わたしは売り子の女性のまえで狼狽するしかなかった。
「そうれじゃあお客さん、決まったらそういってください」
彼女はわたしとの遣り取りを放棄してあとから来た客たちの相手を始めた。セリンだのヒスチヂンだのとそんな銘柄の紅茶など見たことも聞いたこともない、と彼女と争ってみたところで事態の進展は望めないと悟ったわたしは、紅茶やそのほかコーラなどの炭酸飲料水の並べてある冷蔵ケースをのぞいてみた。中には缶や瓶が隙間なく置かれているのだが、どれもこれも見たこともないものばかりだった。
「店員さん、それではトリプトファンを下さい」
格別トリプトファンがよいと思ったわけではない。つまりイソロイシンのような極太の注射器で打ち込まれそうな紅茶などとても飲む気になれなかっただけのことだ。
「トリプトファンね、はい三百六十円です」
「え、百五十円じゃないの」
「三百六十円です。ほかになにか買いますか」
「いや、もういい」
わたしが売店を離れようとしたとき、小学校の三年生くらいの男の子がやってきて彼女にいった。
「レモンティー」
「は~い。レモンティーは百五十円ね」
初めからそういえばよかったのか。そうすればトリプトファンとやらを三百六十円も出して買うことはなかったのだ。
「何なんだ、君。まともな缶紅茶だってあるんじゃないか」
無性に腹が立ってきたわたしは売り子に思いっきり食って掛かった。
「へんなこといわないで下さい。お客さんがトリプトファンを注文したんじゃないですか」
「それは君がレモンティーっていわなかったからだろう。いってくれれば三百六十円もするわけのわからない缶紅茶なんか買わずに済んだんだぞ」
四十代はとうに越しているように見えるその売り子は動揺した様子もなく、わたしには視線も向けず淡々と商品の整理をしながら応じてきた。
「あのね、お客さん。駅の売店にレモンティーがあるのは当たり前じゃあないですか。うちではかけそば出しますなんてわざわざいう蕎麦屋がないように、レモンティーありますなんて御大層にいう売店なんてないですよ。かえってマイナーな商品を教えてあげるのがサービスてもんじゃあないんですかあ」
「だからって、高いものを勧めることはないじゃないか。そもそもこのケースの中にはレモンティーなんてまったく見つからなかったぞ」
「ちゃんと見てください。下から三段目に並んでますよ」
わたしは再び冷凍ケースの中を見て驚いた。ついさっきまでメチオニンとかアラニンとかが並んでいた同じ場所に、どこにでもある定価百五十円のレモンティー缶が、しっかりと置かれていた。

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