忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

待機児童、大都市で昨年比8%減…地方は増加(読売新聞) >2012.7.9

2012年07月09日 | 過去記事

    




待機児童、大都市で昨年比8%減…地方は増加(読売新聞) - goo ニュース

<今年4月時点で保育所に入れない待機児童が、首都圏や政令市などの大都市で昨年より約8%減少したことが読売新聞の調査で分かった。

 各自治体が保育所の整備を進めたためだが、待機児童数は約2万人の高水準で、依然深刻な状況が続いている。

 調査は、東京都内の市区と神奈川、千葉、埼玉県の全市町村、全国の政令市に、昨年4月の待機児童数が全国50位以内に入った市を加えた計225市区町村を対象にした。その結果、今年4月1日時点での待機児童数は計1万9526人で、昨年同期比で7・9%減った。昨年はこの225市区町村で全国の待機児童2万5556人の8割を占めた。

 今回待機児童が最も多かったのは、昨年に続き名古屋市で1032人。これに札幌市929人、福岡市893人が続く。待機児童は都市部に集中しているが、保育所の整備が一定程度進んだ首都圏などに比べ、地方都市での増加が目立つ>








倅が支那語検定2級とやらに落ちた。帰宅後、妻が小さな声で教えてくれた。教えてくれたのは、デリカシーのない私が「よぉ!おまえ落ちたんだってなぁ!ww」とでもからかうと恐れてのことだ。妻曰く「本人はショックを受けているだろうから」とのことだった。

笑って頭を掻いていた、なら私も笑って聞き流すが、これが「ショックを受けている」とは聞き捨てならない。普通、このような場合はショックを受けたりするのではなく、どうしようもなく突き付けられた現実に自信喪失、あるいはオノレの怠惰を棚に上げて不合格とした「誰か」や「何か」を呪うものだ。こういう「落ちた人数分誰かが合格する」類ではない「資格検定」というシステムは、単純に「オノレが有資格者ではない」と評価されるだけの話であって、ある一定数、限られた枠の中に飛び込むような苛烈さはない。合格率100%もあれば10%もある呑気で平和な性質のモノだ。数億匹の精子が1匹の卵子めがけて、まさに正真正銘の生存競争をする場合や、就職の際にあるような「数名募集」に数百名が応募するような「熾烈な争い」ではない。要すれば本人がサボっただけ、のことだから「ショックを受ける」ということは、あくまでも自己評価内でのことではあるも「ボクはサボっていない」という自負心があるということだ。

それならもっと深刻なことがある。つまり、自分は「全力」で取り組んだのに「合格ライン」に届かなかったわけだから、それはもう、無能とか阿呆のレッテルを貼付されても仕方がない。何事も「本気」でやればなんとかなるが、これが例えば「プロ野球選手を目指す」ならばそうはいかない。いくら練習しても「プロ」の領域まで達するには想像を絶する壁がある。才能もいる。センスもいる。野球というモノに対する考え方も大事になってくる。周囲の人が真似できない自己鍛練や自己節制は標準的なこと、それを自慢したところで周囲もびっくりしない。ボク、プロ野球選手になりたいから2時間ずつ、週に3回はバッティングセンターに通っています、は現実を知らぬ阿呆か、それとも冗談を言っているだけと解釈される。周囲は言うだろう。ボク?世の中、そんなに甘くないよと。

倅が落ちた支那語検定とは「勉強すれば誰でも取得できる」という性質のモノだった。すなわち、我が倅は無能で阿呆か、それとも「努力を怠った」だけだとわかる。「ショックを受けている」ならば前者の可能性がある。私が聞き流せない、という理由だ。

しかし、我が妻は「おとしゃん、おちょくったりせんといてな~」とか頼んでくる。私をどれほどの意地悪、腹黒と思っているのか。ったく、倅には甘い妻なのだった。



そんな妻は娘の家によく行く。娘の旦那であるトカゲ星人は見たくないが、私だって娘の顔と孫の顔は見たいのだが、これが3回に1回は遠慮する。私がついて行けば妻が気を使う。やることがない私は孫と遊んだり、トカゲの部屋を物色して、何か壊したり隠したりして過ごすのだが、コレも数時間となれば退屈して間が持たぬ。孫も寝てしまうし。

倅が病弱だったため、お姉ちゃんである娘はいつも留守番だった。倅は病室で母親が来るのを待っている。幼少の頃の倅は母親の顔を見るなり泣きだしていた。幼児の一日は長い。朝からずっと母親の来るのを待っている。夜間、寝て起きればいなくなっている。それから朝が来て、また長すぎる一日が始まる。お姉ちゃんもそうだ。朝、学校に行けば、次に母親と会えるのは病院から帰り、となる。家事と仕事、それから倅の見舞いでへとへとだから、シャワーを浴びたら晩飯も喰うか喰わずで寝てしまう。

私も当時は大変だった。深夜に帰宅して風呂に入り、何か喰うとまた、トラックに乗って仕事に行った。こんな状態だったから月に1度、あるかないかの休日は死んだように寝た。娘も倅も構う余裕などなかったが、それでもなんとか、妻と協力しながらやってきた。

そんな娘が早過ぎる嫁入り。妻はどれほど寂しかったか。いま、まだ家にいて、夕方になると「ただいまぁ」と帰ってきても不思議でもなんでもない年齢だ。「一緒に買い物したり、ごはん食べに行ったりしたかった」と妻は言う。そしていま、それがどれほどの貴重なことだったかが身に沁みる。だから私は3回に1回だけだが遠慮する。トカゲと倅、私で子守りを買って出て、妻と娘を送り出すこともする。

ほんの数時間、妻と娘は駅前のどこかで買い物して、近くのどこかでパスタとかパフェを食べて帰ってくる。何の予定もない、何の約束もない。ただ、しばらく「一緒にいた」というだけのことだが、本人らはとても充実した表情で戻ってくる。私と倅で「トカゲはなにもしなかった。トカゲみたいに寝ていただけ」と嘘を吐き、娘にトカゲを責めさせることもするが、娘が連れ去られて数年、未だに離婚して戻ってくる気配はない。無念だ。


ところで、日本は少子化で困っているはずだが、社民党や共産党は「待機児童が!」とやる。私の周囲の若いママさん、あるいは、子供が小さいママさんも困っている、と言う。旦那はいる。つまり、それでも外に出て働かなければならない、という家庭状況、経済状況なのかと思えば、ディズニーランドに行ったとか聞く。家族総出で2泊もすれば、相手は「夢の国」とはいえ現実に結構な金もかかる。また、昼間は子供を預けないと困るが、夜は困らないようで飲み会にカラオケにと遊び倒しだ。私は理解不能になる。

それから、そういう家、親に限って「子供が大きくなったら相手にしてくれない」とか言う。聞けば小学校高学年とか中学生とか。母親に無愛想で買い物も付いて来てくれない、とかぼやいている。その子供は幼少の頃、つまり「小さかったときに相手してくれない」と覚えている。「親に相手して欲しい」がマックスの状態のとき、相手にせず保育所に放り込んでおいて、自分が大きくなったら「相手してくれない」は通じない。無論、拠無い事情があって、親が必死で働いていたなら、それはちゃんと子供に通じてもいる。かまってやれなくてごめんね、という「親の背中」は大いに語る。これは私の個人的主観も交えて言うが、子供というのは小学校に上がるまで「べったり」がベストだ。その後は嫌でも離れていく。心配せずとも成長すれば自分の足で立つ。

育児的にも教育的にも最適な状態とは「母親がべったり一緒にいる」ことだ。「甘え癖がつく」とはなんのことか。幼児が母親に甘える姿が正常に見えぬなら、それはその人がおかしいのである。テレビのコメンテーターは阿呆なことばかりだが、定型文の中に「親の愛情不足が原因」とかいうのがある。私はそれには一部、賛同してもよろしい。

親が子供に愛情を注ぐのは普通、言わば当然のことだが、もっと当然なことは「それが足りなければ具合が悪い」という事実だ。正確に換言すれば「伝わらない場合」でもいい。子供に理屈は通じぬが、その代わりに理屈抜きに敏感だったりする。親が仕事で疲れているのはわかる。伝わる。同時にカラオケで遊んでいるのも伝わる。余力がある、のは伝わってしまう。「ママ、遊んでいるなら、自分とも遊んでよ」と背中に語りかけている。

アメリカ人のように無理矢理に「個人主義」を教えなくともよろしい。ちゃんとアメリカを見よ。結果は最悪と出ている。欧米では幼児を個室で寝かせる。映画などでもよく見るシーンだ。育児書にも<乳児は、人格を持った一個人なので、早くから自立心や独立心を植えつけるには、個室で一人寝をさせるべきで、添い寝は悪い習慣をつけ、睡眠障害を引き起こし、依存心を増強させるので避けるべきだ>とか書いてあった。いま、そんなブラゼルトン博士みたいな育児書は否定され始めている。生まれてから母親が接する時間と、赤子の情緒の安定は比例する。十月十日と言われるが、およそ280日間、母親と子供は「一体」なのである。生まれて飛び出て半年やそこら、個性はあってもまだまだ、人格もヘチマもない。自立心やら独立心も関係ない。というか、そんな赤ちゃん気持ち悪い。

欧米でもようやく「出産後の1年~2年」は「一体」だと認識され始めた。「(せめて)夜は添い寝しましょう」ということだ。ならば昼間も一緒、がどれほど子供の情緒を安定させるか。保育所に放り込み、パート勤務しての差額が数万円あれば良い方、これでは割に合わないというのだ。たかが贅沢する金、遊ぶ金なら潔く捨てて、子供と一緒に過ごすほうが理に適っている。だから社民党や共産党はそれを壊そうとする。騙されてはいけない。




―――朝起きてリビングに行くと妻がいた。昨日の夜、倅は晩飯を喰わなかった、と心配していた。バイト先で何か喰ったんだろう、という想像も出来ていない。「ショックを受けている」のは妻だとわかる。倅は?と問えば、いま、シャワーを浴びているという。私は風呂場に行って「何か喰うか?」と聞く。普通の声と調子で「ん?いらない」と聞こえてくる。ふざけるな、ということで「ぶっかけうどん(冷)」を作る。ゲルショッカーに「ゲルショッカーの掟」があるように、我が家にも「我が家の掟」というモノがある。「我が家の掟その3」は「朝メシを喰わない者は、殺す」だ。だから倅も風呂場から出てきて「ありがとう」と喰っていた。妻は少しだけ安心した顔をしていた。


「―――この怠け者が。落ちたらしいな」

妻は「・・・!!あ、あんた・・」と黙り込んだが、倅は「うん、落ちたw」とへらへらと笑う。







「―――敗因は?」

リスニング、と倅は言った。低い支那人男性の声が聞き取り難かった、ということだった。

「――――貴様、支那人には男がいないとでも?」

・・・・・・倅はまだ、へらへらしていた。


しかしまあ、逆切れした倅が五星紅旗を翻し、お父さんがこんなブログを書いているからだい!中国様の悪口ばっかり書かないでよ!!毛沢東国家主席様バンザイ!と言わなかっただけマシか。ともかく、要するに敗因は「勉強不足」だった。どうせ検定料金は倅のバイト代だし、まあ、そのままの意味で「勉強代」にもなっただろう。しかし、我が家の掟「その6」は「ゲルショッカーの掟・⑥」と同じだったりする。「怠け者・臆病者は、殺す」だ。これは倅にしか適用されない。私の背中、ではなく、腹のほうに「鬼の顔」が出る。背中には、なんか、ぶつぶつがある。







崖から突き落として「護ってみせろ!!!!」とでも言いたかったが、我が家には適当な崖がなかったから、仕方なく「次は?」と問うてみた。倅は「次は大丈夫」とのことだ。


「というか、舐めてたww」


と真因を認めた。体が弱く、喘息で死にかけていた倅は病院のベッドの上、部屋を出る母親の背中に鬼を見たのか。理屈はわからなくとも、家事と仕事で疲れ切った母親の小さな背中に「何か」を誓ったのかもしれない。とすれば、もう、母親が案ずるほど弱くはない。





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