忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

負けない作戦と負けたときの用意

2009年04月11日 | 過去記事
■2009/04/11 (土) 負けない作戦と負けたときの用意1

「アダムとイブ」は禁断の果実を口にしたことから、アダムには「労働」という苦を、イブには「出産」という苦痛を神から与えられたという。いかにも西洋らしい価値感だ。

生活するために否応なく労働せねばならない「労働者」とは、生産効率をあげるため、すなわち「資本家」がもっと儲かるようにと、安い賃金で馬車馬のように扱き使われるものということ。そして「労働者」とは、景気が悪くなり製品が売れなくなると、材料費のカットと同じく「切り捨てられる」もの。工場を閉鎖すれば、その工場で「労働」するパーツである「労働者」も不必要となる。切らねば経費を食い潰していく・・・という現実。

http://www.asahi.com/national/update/0409/TKY200904090227.html
<再就職先ない 「春の相談村」に元正社員からも切実訴え>

言うまでもなく「労働者」とは人間だ。工場が閉鎖されて放り出されても腹は減る。例えば、工場内を清掃するためにある「モップ」や、製品を運んでいく「コンベア」は工場が閉鎖されてもそこにあればいい。「用具」は腹も減らなければ家族もない。

「労働者」は先ず「切られないように」と奮起する。他の労働者との能力の差異、あるいは大量の「労働力」を安く提供することで、自身の市場価値を上げていく。そしてその「生き残り」に勝ち続けると、今度はそれを「なくさないように」と工場を守る。

だから先ずは「生き残らねばならない」のである。常に「篩(ふるい)にかけられている」という状態だ。また、「有能だから生き残れる」とも言い切れない。その「篩」を振るのは人間だ。「生き残らせる理由」はそれぞれある。そして大切なことは、

「雇ってくれ」という限り、その生存競争を放棄することはできない―――

ということだ。そして、

負けることもある――――

という現実を受け止めておかねばならない。無論、職場自体が無くなる可能性も含めてである。生産できる「パイ」が減れば競争率はあがる。生き残り競争が激しくなる。

「2」へ

■2009/04/11 (土) 負けない作戦と負けたときの用意2

当然、「負ける用意」は必要となる。

この記事からだが、

<約30年間、建設会社で正社員として働いてきた50代の男性は、3月中旬に解雇された。これまで月約30万円の給料があったが、会社から「雇用保険には入っていない」と言われ、失業手当ももらえない。次の仕事も見つからず、「とにかく何か仕事はないか」と、電話で訴えた。>

という事例が紹介されている。いきなり解雇され、失業手当もなく、次の仕事も見つからないという50代男性。たしかに苦しいだろうと思う。家族があるかどうかは書いてないが、いずれにしても厳しい現実だ。だが、私はやはり仕方がないと思う。

この50代男性は、30年間も勤めた会社に「雇用保険があるかどうか」も知らなかったのだろうか。また、建設業界が不景気だということも、もう、ずいぶん前から体感していたはずである。更に「30年も務めて月給が30万円」だという現実。解雇対象とされる立場。

アダムは「労働」という苦を与えられた――――

この50代男性は、負けるべくして負けたのではなかろうか。

更には「負ける用意」ができていなかったのではなかろうか。

なんか「基準」がずれてはいないか。

「社会で働いて家族を養う」とか「社会生活において自立する」ということは「生易しい」と勘違いしていないだろうか。もっと必死に、集中して、命懸けでやらねばならないこともあるのではないか。人生とはゲームではない。やり直しも何度も出来ない。

だから、仕事が生き甲斐、働くことは幸せなことだと認識している人は強い。勝ち続ける強さではなく、負けたときに立ち上がる速度が速いのだ。また、言うまでもなく、このタイプが多いのも日本民族の特徴だった。

「安定」とは与えられるものではない。「創出」し「奪い」取り、そして「護る」ものだ。

そう。

「平和」と同じなのだ。「あって当然」という感覚が異常なのである。

だから異常なことが連鎖する。異常がまかり通る社会になった。

異常者は異常だと思われず、粗末な偽善が正当化される。

目の前にいるのは「弱者」なのか「脱落者」なのか。目の前にあるのは「敵」なのか「味方」なのか。「友好」なのか「侵略」なのか。

それすらがわからなくなる。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。