施設で誕生日会がある。誕生日カードとプレゼントを渡して、ロウソクの立ったケーキを用意する。ふっと吹き消せるジジババは多くないが、その場合は職員がケーキを置くふりをしてふっとやる。それから中空を見つめてぼーっとしているジジババや、下を向いて生きているのか死んでいるのか、じっと動かないジジババのために歌が始まる。演奏も自前だ。そして、あの忌々しいイントロが流れる。
はっぴばーすでーつーゆー♪はっぴばーすでーつゆー♪というアレのことだ。
職員も手拍子して歌う・・・ということになっているのだが、コレが見事に口パクとなる。聞こえてくる歌声は、マイクを持った司会者のモノだけだ。わたし?もちろん、私も手拍子だけだ。だって、それには理由がある。この歌はダメなのだ。私の思想信条に反する。
この曲は本当は「Good Morning to All」という。アメリカ人の「ヒル姉妹」というのが作った。そして、この曲は日本も加盟している「ベルヌ条約」で著作権が保護されていた。条約では「著作者の没年翌年1月1日から50年間」と保護期間も決まっている。曲を作った妹が死んだのが1946年、だから著作権は1996年12月31日まで保護されることになるわけだが、コレが日本では2007年まで著作権が保護されることになった。なぜか?
同条約には「第二次大戦敗戦国における戦時加算」という条件があったからだ。だから「枢軸国」だけは2007年まで、はっぴばーすでーつーゆー♪はっぴばーすでーつゆー♪というのは著作権が存在した。つまり、この曲を歌う度に、あの敗戦の憂いを思い出す。日本はドイツと同じく敗戦国なのだ、負けた国なのだ、と思い出すと同時に、私などはアジアの人たちに申し訳ない、という気持ちになって血圧が上がる。
それに、私などはコレを歌えば、米軍に改造されたカブトムシが監視しにくるようで苦しくなる。血糖値が上がる。不整脈になる。この伴奏を聞いただけで肩腱板損傷、変形性膝関節症、椎間板ヘルニアが悪化する。これは私の思想信条の自由だ。施設は「歌いましょう」と呑気に言うが、私は過去の戦争という惨い事実を思い出し、足の裏の角質が増える思いだ。靴下を切り裂くのである。おかしゃんに怒られるのである。
介護主任が横に来る。嬉しそうに、はっぴばーすでーつーゆー♪・・・とかやってる。ふん。この親米極右め。わざわざ私の横に来て、一緒にはっぴばーすでーつーゆー♪するつもりか。しかもこれは無言の圧力、これは露骨な思想弾圧ではないのか。もしかすると、これは歌えと強制しているのか。強制による排外主義が助長されているのではないか。
それに、だ。この曲をマリリンモンローがジョン・F・ケネディに歌ったのが1962年だ。その翌年、ケネディは暗殺されたではないか。施設は入所者に対して「来年には全員死ね」とでも言うつもりか。なんと不吉なことをさせるのか。
介護職員だからとはいえ、生き方まで否定されていいのか。しかし、自分を貫けば家族に迷惑もかかる。面倒なことになるのもイヤだ。そうか、ならば施設の誕生会に来なければいい。休みます、なんざいらない。無断欠勤で自分の思想信条を示そう。「みんなうたってるから」など知ったことではない。それは私を画一的に支配しようとしているのだ・・・
・・・・と私が職場でやれば、私はめでたく「ホンモノ」のレッテルを貼付されて、次の日から誰も飲みに誘って来なくなる。また、こんなキチガイに大事な親をあずける人はいるだろうか。
しかし、これほどのキチガイに自分の子や孫が「教えられている」という現実がある。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120209k0000m040132000c.html
<教職員処分規定:「卒業式に出られぬ」大阪・不起立で免職>
この記事、読めば読むほど怖くなる。話の通じぬ阿呆が教師になっている。<何で立たへんの?>と問うた生徒は、その<歴史的な経緯や自分の思いを語ってきた>という教師に対し、ちゃんと「アホちゃうか」で済ませているはずだ。
倅は中学2年のとき、運動会で「あにょはせよ!」と親に挨拶させる学校から転校した。思えば、その中学のときは問題ばかりだった。テストも「のび太」状態だった。登校拒否も少しだがあった。ゲームやら現金やらカツアゲされてもいた。その学校で倅はおそらく初めて、他人の顔面を殴った。それはワルの中心人物だった。倅は空手の試合でも「殴られたら痛いだろう」という理由で消極的になり負けることがあった。そんな倅が我慢の限界、振り向きざまの一撃でのしてしまった。妻は一応、相手の親の手前、学校に呼ばれたが、相手が相手だということで済んだ。カツアゲはそいつがやっていた。学校には何人か、そいつが理由で登校拒否になっている生徒がいた。教頭をはじめ、担任教師や生活指導とも話したが、それはとても情けない状態だった。そのとき、ついでに「あにょはせよ」の理由も問うてみた。担任が在日だとわかった。国際感覚を学ばせる、という理由だった。
私は「最近の子供は、近所でこんにちは、が言えなくて困っている。それを“あにょはせよ”とはどういう理由からか」と問い直したが、教頭先生は返答に困っていた。そんな学校だったから、生徒はちゃらちゃらしてどうしようもなかった。運動会を見に行ったが、そのあまりのダラダラぶりに、妻と一緒に驚愕した。冗談ではなく、本当に「なんだこいつらは・・・?」と唖然とした。先生は何度も「整列してください」とやるのだが、過半の生徒が聞こえていないようだった。私はダッシュでグラウンドの真ん中に行き、全員に往復ビンタしたい衝動に駆られた。倅はジェンダー教育の餌食となり、ピンクのポンポンを持ってケツを振って踊らされていた。我ら夫婦は見るに堪えなくなり、途中で帰った。
お姉ちゃんが結婚するから引っ越した。倅は転校となる。その学校は校門に日の丸があった。卒業式も国旗掲揚、国歌斉唱があった。これは偶然だが、倅の成績はウソのように上がった。猛烈な巻き返しだった。
以前、私は倅を車に乗せて西成やらを見せて回った。ブルーテントが並ぶ公園などだ。成績などはどうでもいいが、ちゃんとやらねばならぬことを放置すると、将来、必ず、ここにくることになる。いまからちゃんと知っておけと、水道はここ、トイレはここ、ボスはあそこ、と紹介した。最後の親の務めとして500円のブルーシートは買ってやると。特別に2枚買ってやる、とても便利だぞと。
勉強しないなら遊びに没頭せよ、学校に行かぬなら不良になれと言った。何事も中途半端がもっともよろしくない。喧嘩が怖いから不良になれず、勉強が邪魔臭いから真面目にやらず、キツイからスポーツもやらず、好きなときに好きなことだけやる、という生活をずっと続ければ、必ず、社会からは落伍する。お前はまさに、その道をまっすぐに進んでいる。覚悟せよと。
結果、倅は「真面目」を選んだ。合格すると思わなかった公立高校ではトップになった。いまは法学部に通っている。将来、なりたいモノが多くて困っている。そして、私はこっそりと、その要因のひとつを転校だと思っている。日の丸が揚がるあの学校のお陰だ。
もちろん、日の丸君が代にそのような効力はない。ただ、環境がマトモになった。
しかし、引っ越してからすぐ、妻と二人で近所の魚を喰わせる居酒屋に行った。御近所だし、もしかして美味かったら儲けもんだ。近くに引っ越してきまして、と挨拶すると女将さんも出てきた。明るくて気さくな感じがした。これは当たりだと、我ら夫婦は思った。
また、その女将さんの長女が倅と同じ年で同じ学校だとわかる。知らぬ土地に来て不安な妻も喜んだ。私は麦焼酎を一升瓶でキープした。また来るから、ということだ。
話しているうちに「名札」とか「ゼッケン」の話が出た。女将さんは「娘にはつけさせていない」と威張った。学校にも文句を言った、と自慢し始める。嫌な予感がした。
やはり、校門に戦争の旗(日の丸)があるのが気に入らない、と言い始める。卒業式に君が代は歌わせない、自分の娘に「テンノーのうた」など歌わせてたまるか、と興奮気味にやりだした。私にも「君が代の“きみ”はテンノーのことなんですよ!」と馬鹿の底が抜けた説明をしてきた。妻は私が語気を荒げてやり返さないか心配したが、ああ、おとうさんは相手にしていない、と安心した。こんな馬鹿、相手にしていたら疲れる。
私は「日本人なら天皇陛下を敬っている人も多いですよ」とだけ言い、女将さんの話の腰を丁寧にブチ折り、妻に「出るぞ」と言って先に店を出た。妻も溜息をついて席を立った。まだ、注文した造りにも手をつけていなかった。
焼酎のボトルキープが8千円も取られていた。私はひっくり返った。大阪で3000円の酒だ。反日のくるくるぱーは商売の基本も知らぬ。こんなの支那朝鮮のぼったくり、だ。我ら夫婦が「テンノー」に拒絶反応したのがムカついたのか、それなら、10万円とやればいい。
その学校は「親御さんからの要望」ということ、更に「防犯のため」という建前から、本当に「名札」はなかったが、祝日、校門にはいまでも日の丸が揚がる。私は車で前を通るが、通学する子供らを見るとき、いつも倅を思い出す。ここが普通の学校でよかったと。
しかしながら、国の旗を揚げる、国の歌を斉唱する、だけのことを「職務命令」だの「条約違反」だの。私は橋下市長のやり方に賛成の反対だ。<公務員だからといって、生き方まで否定していいのか>というバカボンのパパよりも馬鹿な教師は座らせておけばいい。みんな立って歌っている中、自分の腐った思想信条とやらを胸に抱き、子供らから指さされて笑われておればいい。あいつ、なんで立たないんだよ、と馬鹿にされていればいい。ちゃんと「反面教師」という言葉もある。「あんなふうになったお仕舞いだ」という姿を子供らに見せることは大切なことだ。私が倅にブルーシートの公園を見せたように、ああなりたくなければ―――というのは説得力のある教育、指導なのだ。
逆に言えば、マトモな人なら「国歌斉唱」と言われて立たず、歌わず、ということをやれ、と言われたらどうするのか?コレは苦痛だ。恥ずかしいし、居た堪れないはずだ。つまり、あいつらは恥ずかしいし、居た堪れないのである。罰ゲームでもないのに、自ら小恥ずかしい姿を晒しているのだ。真正の変態なのである。そっとしておき、子供らには「あんなふうになったお仕舞い」と教えるべきだ。あれがどれほどの恥ずかしい行為なのか、と子供らが理解するとき、処分せずとも変態は消え去る運命にある。