富田元治のブログ

臆病で小心者のブログ

「ソガ・ヒトミ」その存在に驚愕した日本政府。

2023年08月27日 | #日本政府と拉致問題
2002年10月15日。
羽田空港に止まった飛行機のタラップから、男女5人が降りてきた。
日本から北朝鮮に拉致された被害者の帰国だ。

「ソガ・ヒトミ」その存在に驚愕した日本政府。 
曽我ひとみさんは自責の念を抱えて帰国した。 




ならず者国家・北朝鮮。人さらい国家・北朝鮮。
日本政府は、人さらい国家北朝鮮に頭陀袋(ずだふくろ)に入れられ、
北朝鮮に連れ去られた日本人を、ほったらかしのままです。
この国は、国としての自覚も主権もありません。

勤勉な日本人は、汗水たらして働き、税金を納めるだけです。

政治家さんが好き勝手に使える日本の税金です!!
自民党1党独裁政治をアホな有権者が支え続けます!!






「小泉改革」が創り出した自己責任の格差社会日本。





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横田めぐみさん、2022年10月5日で58歳です。

2022年10月05日 | #日本政府と拉致問題

横田めぐみさん、2022年10月5日で58歳です。

13歳(中学1年生)の時、北朝鮮に拉致されて45年です。

日本政府は、拉致された被害者を見捨てています。

 

5人の拉致被害者とその家族を救っただけで終わりです。

日本政府は拉致被害者を見捨てています。

昨日は、北ミサイルが日本の上空を通過しました。

日本政府は、拉致被害者と同じようにただ非難しただけです。

 

全く、何ら行動を起こしません。

唯一起こした行動は、拉致被害者家族が反対する中で、

河野洋平が人道支援として米を北朝鮮に贈ったことです。

熊本の八代港から人道支援米が、

1ヶ月以上もかけて貨物船に詰め込まれ、北朝鮮に贈られました。

 

 

拉致被害者を見捨てる日本は国家ではありません。

富裕層の為だけに税金を使う国家が日本です。

旧統一教会に全財産を寄付する信者のように、

庶民は富裕層の為に税金を納め続けます。

拉致被害者を見捨てる日本は国家ではありません。

 

 

 

 

 

 

忘れられない人:李恩恵先生 (金賢姫・著)文春文庫。

忘れられない人:李恩恵先生 (金賢姫・著)文春文庫。

 

大韓航空機を爆破した金賢姫さんが1995年に書いた本です。

拉致被害者・田口八重子さん、横田めぐみさんの事が書いてあります。

 

= はじめに =

「李恩恵先生の救出に日本は全力をあげるべきです!」

つい最近のこと、軍事境界線を偵察中だった米軍のヘリコプターが、

北朝鮮領域に不時着した事件がありました。

このニュースを見ながら、

事件を処理するアメリカの態度には、新鮮な衝撃受けました。

 

たった一人の将校を召喚するためにアメリカの自尊心をかけ、

国民すべてが力をそそぐのを見て、私はこのことを李恩恵問題と

結び付けて考えずにはいられませんでした。(金賢姫)。

 

拉致被害者を見捨てる日本政府。

日本政府には、

拉致された日本人を救出する気が全く感じられません。

拉致被害者も、自己責任だと言っているようです。

小泉改革が創り出した自己責任社会・日本の現実です。

 

【北朝鮮拉致問題】 「拉致」 私たちは何故、気付かなかったのか !

 

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【北朝鮮拉致問題】 「拉致」 私たちは何故、気付かなかったのか !

2022年10月04日 | #日本政府と拉致問題

【北朝鮮拉致問題】 「拉致」 私たちは何故、気付かなかったのか !

 

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1977年11月15日、当時中学1年生だった横田めぐみちゃんが、

北朝鮮政府に拉致されたあの日からもう45年が経ちます。

 

産経新聞の阿部 雅美氏が、1980年1月7日、サンケイ新聞朝刊一面トップにおいて、

「アベック三組ナゾの蒸発」「外国情報機関が関与?」

「富山の誘拐未遂事件からわかる」の見出しで、

日本人拉致事件を初めて報道しました。

【1980年1月7日のサンケイ新聞のトップ記事】(下の画像)。

 

 

このスクープ記事は、当時の社会党とマスコミによって潰されました。

他のマスコミ各社は、 

「産経新聞は公安警察の情報に踊らされている」と、

この北朝鮮拉致問題を全く無視したのです。

 

1988年3月26日の参院予算委員会で、故梶山静六 国家公安委員長が、

「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁した日から34年です。

故梶山静六 国家公安委員長の答弁も旧社会党とマスコミがつぶしました。

 

 

小説家・西村寿行氏は産経新聞のスクープ前(1977年)に、

「アベック三組ナゾの蒸発」を小説・異常者の冒頭に書いています。

「アベック三組ナゾの蒸発」は、拉致された当時(1977年夏)から、

異常な事件だったのです。

1978年8月に、富山県でアベック拉致未遂事件が起こっています。

富山県アベック拉致未遂事件  ←クリック。

このアベック拉致未遂事件の調査によって北朝鮮の関与が判明しました。

 

北朝鮮の国家犯罪だと判明しても、日本政府は動きませんでした。

日本人の生命と財産を守る・・日本政府には、この基本が無いのです。

 

1980年1月7日、サンケイ新聞朝刊一面トップにおいて、

「アベック三組ナゾの蒸発」「外国情報機関が関与?」が載る。

 

1988年3月26日の参院予算委員会で、故梶山静六 国家公安委員長が、

「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁する。

 

以上全て、マスコミと旧社会党が潰しました。

 

gangeeの九州山歩き・感動した映画(横田めぐみちゃん)←クリック。

 

 

 

 

 

 

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教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO4

2022年10月03日 | #日本政府と拉致問題

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO4

(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん

産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将

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2002年(平成14年)9月17日夜、日朝首脳会談を終えた北朝鮮・平壌で、

政府関係者のブリーフィング(状況説明)が始まった。


「生存しているのは蓮池薫さん、奥土祐木子さん、地村保志さん、浜本富貴恵さん、

それにこちら(日本)から所在確認を依頼していない方1人…」

記者らは慌てふためいた。

 

日本政府が認定する拉致被害者リストに入っていない人物が含まれていたからだ。

その被害者が新潟県真野町(現・佐渡市)出身の曽我ひとみさんだ

と確認するまでに2、3日はかかったと記憶している。

 

 

佐渡島で暮らしていた当時19歳だった曽我さんと、

母、ミヨシさん(46)は1978年(昭和53年)8月12日夜、

自宅近くの商店に買い物に出かけ、その帰りに失踪した。

 

北朝鮮側から拉致の事実を知らされるまで、

誰も北朝鮮の犯行と気づくことはできなかった。

 

海上警備は突破され、地域の治安も守られなかった。

失踪から時間がたつにつれて薄れる社会の関心。

北朝鮮が悪いことに疑いはないが、

長きにわたり抑留され続けた曽我さんを思うと、

申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

ミヨシさんの消息はいまだに不明だ。

 


最初の声と同じ

曽我さんらが拉致された昭和53年夏は、各地で日本人拉致が頻発していた。

 

午後7時過ぎ、自宅から約500メートルのところにある商店に、

母子は夕飯のおかずを買いに歩いて出かけた。

 

店にいた時間は約10分。来た道と同じ道を戻った。

道路側に曽我さんが、海側にミヨシさんが、並んで歩いていた。


辺りは暗く、車通りも少なかった。

背後が気になり振り向くと、男3人が横一列にくっつくようにして歩いていた。


20~30メートル後方だっただろうか。

不気味に感じ足早に歩き始めようとした瞬間、背後から口をふさがれ、

道路わきの民家の敷地に引きずり込まれた。

曽我さんはこの時、ミヨシさんも同じように襲われたのを見た、と証言している。

 

その後、手ぬぐいのようなものを口に詰められ、手足はひもで縛られた。

大きな麻袋のようなものに足の方から入れられ、頭の上で縛られ、袋詰めにされた。

手口は蓮池さん夫妻や地村さん夫妻の拉致事件と共通する。

特殊訓練を受けた「戦闘員」と呼ばれる北朝鮮工作員たちの仕業だ。

 

通常はゴムボートに乗せられ、工作子船、工作母船と海上で乗り継ぎ、

北朝鮮に連れ去られるが、曽我さんが運び込まれたのはゴムボートではなく、木造船。

 

船床に置かれた感覚が「板張り」だったという。

その際、「女性の小さな声」を聞いた。低い穏やかな口調。

何を言っているかは聞き取れなかったが、たどたどしい日本語だった。

ミヨシさんの声ではない。

 


犯人側の女が日本語で話していたということは、

日本語を理解できる人物がその場にいたことになる。

戦闘員らと話すのに日本語は使わないだろう。

ミヨシさんに、何かを語りかけていた可能性がある。

 

船が動き始めた。エンジンの音は聞こえない。

波の音も聞こえない。川を下り、海に向かっていた。

 

しばらくすると、沖でエンジン音がする船に袋詰めのまま移された。

ようやく袋から出され、手足の拘束や口をふさいでいたものがはずされた。


船内の小部屋で目にしたのは、作業着風の服装の中年女の姿だった。

「私をどこへ連れて行くのですか」

曽我さんはたずねたが、女は無視して出ていった。

 

長い時間が過ぎた。

曽我さんはこの間、おかゆのような食事を提供されたという。

食事を持ってきた女に再びたたみかけた。

「お母さんはどこにいるの。私を帰して」。

 

女は言い放った。「甲板に出て外の空気を吸え」

最初の船で聞いた「たどたどしい日本語」と同じ声だった。

 


知っていた名字

キム・ミョンスク容疑者。

40歳代半ばぐらいで、所属は朝鮮労働党の工作機関「対外情報調査部」とみられる。

身長約150センチ。細目できつい目つき。髪はパーマ。

 


日本の警察当局は曽我さんら拉致事件を主導した実行犯とみて、

国外移送目的略取(拉致)容疑などで国際手配している。

キム容疑者は曽我さんが拉致された約1週間前に佐渡島に潜伏したとされる。


曽我さんに対し、

「浜辺の近くに電力関係の施設があり、そのあたりにいた」と告白している。

島という立地は、よそから来た人物は目立つ。

工作船など洋上で過ごせばさらに目を引く。

 

協力者が滞在するアジト(拠点)を用意していた可能性が高い。

現地に精通した補助工作員の影が見え隠れする。

北朝鮮側は、曽我さんの事件に関しては、

「日本国内の拉致請負機関から引き渡しを受けた」と伝えてきている。

 

北朝鮮の犯行に変わりはないが、不可解な説明であり、

事件の初動捜査ができなかった日本側にとっては痛い。

 


拉致された当時、准看護師だった曽我さんは平日は勤務先の病院の寮で生活していたが、

土曜の午後に実家に帰り、週末を過ごした。日曜日の午後には寮に戻った。

 

拉致されたのが土曜日だったことから、

キム容疑者らのグループが曽我さんの行動形態を把握していたのでは、

といった見方もあったが、

曽我さんとミヨシさんが突然買い物に出かけることは犯人側には予見できなかったはずだ。

 

 

 

曽我ひとみさんと母、ミヨシさんが拉致される前に買い物をした

商店付近で実況見分する新潟県警の捜査員=平成14年10月5日=

 


いまだに解明されていないのは、

キム容疑者は曽我さんが名乗る前から少なくとも名字を知っていたことだ。

曽我さんが拉致された際、名前を特定されるような物は持っていなかった。

 

「佐渡にいる。お金をたくさん置いてきたから、心配するな」。

北朝鮮に捕らわれた後もミヨシさんの所在をただす曽我さんに、

キム容疑者はそういってなだめたという。


曽我さんもそれを信じていたが、帰国を果たした後、

その言葉が噓だったことに気づいた。

 

久我良子とは…

その紙は、拉致被害者たちが暮らす平壌近郊の招待所の

備え付けの鏡台の引き出しの底板に、

小さく折りたたんで張り付けてあった。


見つけたのは地村さん夫妻。1980年代初めのことだ。

広げてみると、A4判ほどの紙にハングルで朝鮮人名が書かれ、


横には漢字で「久我良子」とあり、「くがよしこ」と読み仮名もふられていた。

こんなことも書かれていた。《1978年に革命のために朝鮮にきた》

《夫は交通事故で死亡》《娘は26歳で嫁いだ》。

 


地村さん夫妻が招待所の世話係の女性に紙に書かれていた朝鮮人名についてたずねると、

「あなたたちの前に住んでいた女性で、招待所を出て韓国人漁師と結婚した」

と説明されたという。

ほかにも記述があった。

「久我良子」が北朝鮮に来る前、

漢字と片仮名が入った名前の工場で働いていたことや、

新潟・佐渡島の住所。ボールペンで塗り消された跡もあった。

 

メモは自分の存在を誰かに知らせようとしていたようにも映る。

メモを残したことが北朝鮮当局に知られたら、ただではすまない。

「久我良子」という日本人名は偽名かもしれない。

 

北朝鮮に来た年や、娘がいること、佐渡に住んでいたことは、

ミヨシさんの境遇と重なる。

ミヨシさんが拉致された当時、

土管などを製造する「北越ヒューム管」の工場で勤務していたことも

「漢字と片仮名が入った名前の工場で働いていたこと」と一致する。

 

「ソガミヨシ」と「クガヨシコ」。

偶然にしては、共通点が少なくないが、ミヨシさんか否かを、

日本側から北朝鮮側にぶつける情報はそれ以上持ち合わせていない。

北朝鮮側はミヨシさんが入境したことさえもいまだに認めていない。

 

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(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん ←この記事です。


(3)国家主権の侵害 不法に出入国繰り返した工作員  ←←クリック。


(2)誰が日本人を… 辛光洙容疑者、リーダーの素顔 ←クリック。 


(1)大韓航空機爆破事件の点と線 なぜ日本人を…  ←クリック。

 

 

 

 

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教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO3

2022年10月02日 | #日本政府と拉致問題

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO3

産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将

 

(3)国家主権の侵害 不法に出入国繰り返した工作員。

 

 

警視庁公安部が押収した、西新井事件などで使用された工作機器類。

北朝鮮による日本人拉致事件が頻発した1978年(昭和53)の夏に、時計の針を戻す。

 

 

1978年7月7日の七夕の夜、福井県小浜市の海岸で、

地村保志さんと浜本富貴恵さんが北朝鮮工作員、

辛光洙容疑者と、特殊訓練を受けた「戦闘員」と呼ばれる工作員3人に拉致された。

 

その24日後の7月31日夜、同じく日本海側の新潟県柏崎市の海岸から、

帰省中だった中央大学法学部3年の蓮池薫さんと、

当時交際していた奥土祐木子さんも北朝鮮工作員らに連れ去られた。

 


真夏ゆえに日は長かったが、午後7時半ごろになると、さすがに夕闇が迫る。

人けのない海岸に腰を下ろした2人の背後から4人組の男が近づいてきた。

1人は40代、残りの3人はいずれも体格の良い20代にみえた。

年長の男が話しかけてきた。

 

「たばこの火を貸してくれないか」

蓮池さんが火を差し出そうとした瞬間、

後方から体格の良い3人組に羽交いじめにされ、拘束された。

その後、祐木子さんも拘束され、2人は船に乗せられ北朝鮮に拉致された。

 


手口は、地村さん事件と酷似していた。

拉致実行犯部隊は、指揮役の日本語ができる工作員と、

腕っぷしが強い「戦闘員」3人で構成。

 

蓮池さん事件を指揮した工作員も、地村さん事件の辛容疑者のように、

日本に密入国を繰り返していた大物工作員だった。


あえて「大物」と付言したのは、

警視庁公安部などの公安当局が後に血眼になって行方を追うことになったからだ。

その男は、戦後屈指の北朝鮮スパイ事件の容疑者でもあった。

 


 頓挫した背乗り


昭和45年夏、大物工作員は秋田県の男鹿半島から秘密裏に入国した。

おそらくは、工作船を乗り継ぎ、最後はゴムボートで接岸したのだろう。


「松田忠雄」を名乗り、東京都足立区のゴム製造会社に就職した。

日本人の身分がすでに用意されていたことをみれば、

国内に協力者がいたことは間違いない。

 

「松田」は未亡人の同僚女性に近づき、

彼女の連れ子とともに一つ屋根の下で暮らすようになった。

 


工場の作業員にカムフラージュした北の工作員は大阪に赴き、裏の顔をあらわにする。

あらかじめ目をつけていた在日朝鮮人の男を訪ね、切り出した。

「北朝鮮にいる家族を知っている。

協力してほしい」。有無を言わさず、男を配下に置いた。

 


工作船に乗せ、北朝鮮に送り込み、

補助工作員としての技能を習得させ、日本に再上陸させたのだ。

このころ、「松田」は名前を変える。

 

日雇い労働者らが集う東京・

山谷の街で路上に倒れていた福島県出身の小熊和也さん(34)に近づき、

入院させた上で、自らが「小熊和也」を名乗るようになった。

 


戸籍抄本も入手し、旅券と運転免許証を取得。

日本人の身分を合法的に獲得したわけだ。

ところが、〝本物〟が日本にいると、不都合が生じる。

〝偽物〟は配下の補助工作員に命じた。

「小熊を共和国に送れ」。

 


日本人拉致の目的の一つに、

「身分の盗用」があるが、拉致の〝源流〟がここにあった。

 


実在の日本人に成りすますスパイ行為は「背乗り」と呼ばれるが、

入院していた小熊さんの容体が悪化し死亡したことで、背乗りは頓挫した。

 

病院から死亡届が出されたからだ。

「小熊和也」として非合法活動することができなくなった

大物工作員は昭和51年ごろ、北へ戻っていった。

 

 

 

チェ・スンチョル容疑者が小住健蔵さんに成りすまし

取得した運転免許証(警察庁刊行「焦点」)から。

 

 各国9回の渡航。

チェ・スンチョル容疑者(自称1932年生まれ)。

両親は朝鮮半島出身で、本人は大阪生まれ。

父親は幼いころ事故死し、母子家庭で育った。

 


先の大戦中は、小牧飛行場(愛知県)で整備担当に従事した。

終戦と同時に現在の韓国慶尚道に渡り、農家の手伝いをしていたが、

朝鮮戦争勃発(1950年)とともに北朝鮮の義勇軍に入隊する。

 

休戦後は北朝鮮で炭鉱労働者として働いたが、

日本語能力を買われ、工作員に選抜されたという。

 


工作員としての評価も高く、

「日本で初めて合法身分を獲得した工作員」と称賛されていた、との証言もある。

 

風貌は身長約170センチ、髪は七三分けに整えられ、

四角い顔に金縁のめがねをかけていた。


地村さん夫妻や、大阪の中華料理店員、原敕晁さん(43)の拉致を主導した辛容疑者と、

生い立ちや経歴、身なりが重なる。


日本語が堪能で、日本で暮らしていても違和感がない。

表面上はある意味、目立たない人物だった。

 


「小熊和也」としての身分を浄化したチェ容疑者は再び日本に密入国し、

昭和53年7月に、蓮池さん夫妻を拉致し、北朝鮮に連れ去った。

そして、翌昭和54年に、また日本で別の背乗り事件に関与していった。

 

 

北朝鮮工作員らは当時、いとも簡単に、不法に、出入国を繰り返していた。

日本人拉致はそうした文脈の中で起きたのだ。

水際の警備、国内の防諜捜査はかいくぐられ、わが国の主権は侵害された。

 


チェ容疑者は昭和36年以降、

行方不明扱いになっていた北海道出身の小住健蔵さん(51)の戸籍抄本を入手し、

小熊さんの時と同じように旅券と運転免許証を取得した。

 


公安当局によれば、小熊さん、小住さんに背乗りしたチェ容疑者は

北朝鮮の工作機関、対外調査部の極東地域幹部として、

フランス、ソ連、タイ、香港、韓国などに延べ9回にわたって渡航。

 

①北朝鮮やその海外拠点との連絡。

②在日韓国人の取り込みや韓国への送り込み。

③在日スパイ網の構築。

④日本の防衛力、極東外交などの情報収集。

⑤米軍基地に関する情報収集―などの工作活動を展開していた。


小住さんの消息は不明のままで、拉致されたのか、

亡くなったのかも含め、真相は藪の中だ。

 

チェ容疑者の2つの背乗り事件は、

容疑者の住んでいた地名にちなみ「西新井事件」といわれている。

 


補助工作員とは、チェ容疑者や辛容疑者がスパイ活動をするにあたって、

補助工作員の存在は重要だった。活動拠点や協力者の確保は欠かせない。

 


小住健蔵(51)として、チェ容疑者が暗躍していたころ、

東京都内のアパートを借りる際に保証人になったのは、

「宮本明」こと「李京雨(イ・ギョンウ)」という在日工作員だった。

 

 

この男もまた昭和53年に起きた日本人拉致事件に

関与していたことが公安当局の調べで分かっている。

 


1987年11月(昭和62年11月)に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯、

金賢姫元工作員に日本人化教育をさせられた田口八重子さん(22)に近づき、

誘い出し、工作員らに引き渡したとみられている。

 


爆破事件のもう一人の実行犯、金勝一工作員(事件直後に服毒自殺)が使用した

「蜂谷真一」名義の偽造旅券の入手にも強く関与していた。

 


工作員と「戦闘員」、補助工作員らの非公然ネットワークが

蜘蛛の巣状に張り巡らされていた実態が浮かぶ。

日本社会はそうしたことを知る由もなかった。

 


警視庁公安部が昭和60年3月、西新井事件の摘発に踏み切った際、

チェ容疑者と「李京雨」はすでに行方をくらましていた。

 

チェ容疑者が配下に置いた大阪の補助工作員を逮捕し、

非公然活動に使用していた機器類などを押収するだけにとどまった。

 

 

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(3)国家主権の侵害 張り巡らされた北のスパイ網

   不法に出入国繰り返した工作員  ←この記事です。


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(1)大韓航空機爆破事件の点と線 なぜ日本人を…  ←クリック。

 

 

 

 

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