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世界のはずれから勝手に叫んでみる男の日記・var2

このページは大量の誤字脱字の提供でお送りしています。orz

(仮)85曲目

2012年11月04日 | クラシック

 代表作メヌエットの天丼にならずにすんだ。小品集からなんだけど、なぜかIMSLPのメインにはバラバラで揃っている。

 パデレフスキー ミセラネア(作曲集)OP16-4 ノクターン(ハフ・画質に問題あり)

 

 成立年代 1890年前後

 時代区分 後期ロマン

 形式 ノクターン

 形態 ピアノソロ

 ピアノ難易度 中級・中級中

 楽譜入手 国内出版社だと厳しいかも

 アレンジ・使用場面 なし

 参考 ショパン 革命のエチュード Op10-12 (ブーニン)

 

 参考 ショパン ワルツ Op64-2 (パデレフスキー・当時の録音の状態からか早く感じるかも)

 

 世界史をやっているのならその名を聞くことができるかもしれないポーランドが生んだピアニスト・作曲家そして首相経験者のパデレフスキーです。楽譜的に言えばパデレフスキー版という名のショパンの楽譜で見ることができますので、ショパン弾きには大抵この名前を聞くことができると思います。(ユンディ・リのノクターンアルバムもパデレフスキー版からの抜粋)生まれた場所は今のウクライナの中ですが、ポーランドとともに歩んだ生涯はまさにポーランドの国の数奇な運命と重なることが出来る人です。ただその日本でも評価は確かなものではないわけで、晩年の演奏をダメだと言っているあるピアニストなんかは逆に何を見ているんだという評価がありますし、政治的手腕に関してもそれを評価している人に対しては政治キャリアを無視して言っているので、評価に値しないという話もあるぐらいです。それぐらい評価に関しては大きく分かれています。(もっともこの評価をしている代表的な人にはそれぞれ批判がついている)

 この時期時になってくるとだんだん自作自演の演奏を多く残す作曲が多くなって来ました。きっかけになったのはブラームスのハンガリー舞曲第1番のピアノ演奏(テンパリ付き)でしょうが、パデレフスキーも演奏の画像もありますし、音源も結構が残っています。参考に上げたのもその一つでですが、残念なのはこれがパデレフスキーの解釈通りなのかそれとも違うのかという点です。録音状況がやや悪ければ、演奏速度が多く揺らめくのですが、第2主題の部分に関しては今ピアニストが引いている速度と大差がありません。パデレフスキーの解釈そのままだとすれば、解釈そのものがどうなっているのかという変遷にもつながっていきます。時代とともに解釈そのものが大きく変わるというのはどこの世界でも一緒ですが、音楽の世界とてそれは変わらないということです。パデレフスキーの録音は他にもあって、ハンガリー舞曲第2番・英雄ポロネーズ・自作のメヌエット・月光第1楽章などが今でも聞くことができます。

 政治家としてのパデレフスキーはポーランドが時代に翻弄され続けた時期でもあったために、彼自身が翻弄されてしまっています。きっかけになったのは当時の状況からですが、政治的キャリアだけ見ているとかなりのものだと思います。外務大臣・国際連合の大使・亡命政府の首相という経歴です。一見すると華やかな経歴に見えるのですが、この間にポーランドはいろいろな風にさらされます。ドイツとオーストリア・ハンガリー帝国の支配から抜けだしたあとに、ピウスツキのクーデターによる国の支配。このピウスツキの死から3年後に起きたナチスドイツによるポーランド侵攻。これらをすべて内から外から見てきたパデレフスキーは当事者として、このゆらめきをどう見ていたのでしょうか。

 歴史的にポーランドというのはその立場の弱さから何度も戦争の影と野望の影にさらされ続けます。ショパンの頃には革命の失敗によって憤ったショパンが革命のエチュードを作曲しました。シマノフスキーについてもレーニンの影響を受けた連中によって家がぼろぼろになってしまいました。パデレフスキーも例外ではなく、亡命政府が立ち上がった時にその指導的立場につくのですが、年齢は80を超えていました。アンチ・ピウスツキの中で妻をなくし、さらには80を超えての演奏活動。今でも考えられないのです(80を超えて演奏活動したのは彼とホロヴィッツ、)が、祖国のために立ち上がってアメリカ各地で演奏をしていましたが、今のように交通機関などが発達しているわけでもないので身体的負担は相当だったと思います。結局この旅行の最中にニューヨークでなくなってしまいます。

 次回はこのパデレフスキーの演奏を日本人で最初に聞いたとされる人。滝廉太郎。前回は最後の曲を紹介。


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(仮)84曲目

2012年11月02日 | クラシック

 カロル・シマノフスキー

 エチュード Op4-3 (不明)

 成立年代 1900年から1902年ごろ

 時代区分 後期ロマン(第1期)

 形式 練習曲

 形態 ピアノソロ

 ピアノ難易度 上級・上級中 ショパンのOp25-7と同じぐらいと判断

 楽譜入手 日本の会社からは出ていない?(調べる時間がなかった)

 アレンジ・使用場面 ようつべにオーケストラ編曲みたいなのがあった。

 ポーランドの作曲家というのは悲劇性を持った人が多いのですが、その1人であるシマノフスキーの代表作である練習曲集の第3番です。パデレフスキーが運命を作ってしまったというぐらい絶賛した曲で、後にパデレフスキーのレパートリーの一曲にもなっています。求めめられる技巧はショパンの「恋の二重奏」にみたいな、1人三役。下の部分と上の部分と伴奏部を同時に演奏しなくてはいけないものです。と言ってもこの手の技工に関しては、原理だけ見てれいればラヴェルの「亡き女王のためのパヴァーヌ」やベートーベンの悲愴第2楽章にも使われている形式(1人三役・2伴奏)を1人三役主旋律2つという形に置き換えたもので、言葉に直してしまえば簡単に説明できるものです。じゃあ、やってみろと言われればかなり難しいものになりますが。 

 彼に大きな人生の転機をもたらしたもののひとつにボリシェヴィキの一団の存在があります。当時のポーランドはソビエトの力が強かったせいもあり、簡単に侵入を許ししかもその時にシマノフスキーの家にあるものを荒らし回りました。ボリシェヴィキの指導者はあのレーニン(成人君子のように見られる節はあるけれど、実際のところは単純な権力主義者。スターリンがいるから目立たないだけで、ジェノサイダーとして名前が上がっている)ですからこういう事は簡単に想像はできたのですが、これによって一時期音楽の道から離れることになりますが、このあとも彼は気まずい人生を送ることになります。この期はワルシャワの音楽院の改革を阻まれて失脚。困窮を解消するべくピアニストとしてたとうとするも技術不足が顕になってしまい、稼げるものがだんだん稼げなくなってしまいさらに病気が悪化。療養地を転々として結局はなくなってしまいます。高い評価を受けながらも、結局はマイナーという部分で落ち着いてしまった作曲家の1人とも言えます。

 20世紀に入ると芸術の世界全体に一つの圧力というものが襲ってきます。それは政治というもので、どこの世界にも政治的な何かを感じさせるような作品があったりします。特にソビエトの時代にはそれが露骨に出ていて、第2字世界大戦後に芸術家の弾圧とされる事件が起こってしまいます。当時の実力者を中心に起こったそれは、今で言う現代芸術の否定につながってしまい、そこから色々と現代芸術がおかしな方向に転がりそうになります。ソビエト出身で現代芸術というカテゴリーで言えば間違い無く大物に入るストラビンスキー(シマノフスキーにも影響を与えた)なんかも、革命の影響でソビエトに戻ることができませんでした。(当時スイスに住んでいたので渦には巻き込まれなかったけど土地を取られている。里帰りしたのも1回だけ)そういう意味で言うと社会主義そのものは本気を出せばとんでもないレベルを発揮するものの、そうでない場合は最低の方向に進んでしまうという嫌なイメージを芸術界に与えたとも言えます。

 レーニンという怪物を生んだ資本論の著者マルクスですが、その生涯はまさに自分の思想にかけた一生だと言えます。しかし同時にそういう理想と現実とは違う一面を各所にのぞかせています。それ故にマルクス主義の一つの問題点が浮かび上がるのですが、まず彼は極端な浪費家だという事実です。父親からも金使いすぎと指摘されるレベルで、破産との格闘をしてしまっていたと指摘もされています。さらに彼にとって死後いちばんの誤算だったのはこういう社会主義が成功したのは彼の望む先進的資本主義国家ではなく、当時のロシア・中国・キューバなどの発展の遅れた国家ばっかりだったというのがあります。結果的にこれと「人の欲」を想定していなかった部分が合わさり、歴史的大逆者を何人も生み出すシステムの根本だと思い込まされる要因にもなって行きました。

 次回はパデレフスキー。


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(仮)83曲目

2012年11月01日 | クラシック

 溜まってきたので先のナンバーの方を放出。81・82は曲が決まっているので83からのナンバリングです。

 モシュコフスキーはピアノ二曲という形にします。

 モシュコフスキー 

 火花(8つの性格的小品から) (ホロヴィッツ)

 

 15の技術的練習曲(名人芸の練習曲とも)から6番 (ネルソン・フレイレ)

 

 成立年代 不明

 時代区分 後期ロマン

 形式 火花・性格的小品/技術的練習曲から・練習曲

 ピアノ難易度 火花 中級中・中級上/技術的練習曲 上級

 楽譜入手 火花 音楽之友社の作品集/15の技術的練習曲 (イゴール・ロマの編曲は彼のホームページからダウンロードできます)

 アレンジ 火花 イゴールロマやヴォロドスが編曲している。

 使用場面 不明

 ポーランドが生んだ作曲家のモシュコフスキーです。名前からするとマイナーかも知れませんが、ピアノを演る人からすればツェルニー40番のあとの選択肢の一つである15の技術的練習曲を作曲したという人とくればピンと来るかもしれません。ピアノ曲が多く、サロン向けの曲が多いのが特徴で、パデレフスキーいわく「ショパン以降にピアノの作品を作るのはどうすればいいのかと心得ていた」という評価を得ていた人です。残念ながら日本での楽譜は全音では火花が発刊されておらず、音楽之友社でも15の練習曲集と有名曲をまとめた曲集(火花は収録されている)しか収録されていない状況ゆえに、マイナーに捉えられがちです。しかし15の練習曲集はショパンのエチュードをやる前にやる練習曲集という仕手の認識がありますし、火花に関しては後ヴォロドスやイゴール・ロマが編曲をしていますので、聞いたことがあるという人はいるかも知れません。

 火花の方は可愛げのあるような曲に思えますがいきなり両手のリレーからスタートするのでなれないと大変です。比較的早い状態で曲自体が進行しますので、うまく引けないという人はどこかで減音アレンジを考えなくてはいけないかもしれません。ただ必要な技術に関してはそれほど難しいかなあというものは使用していない曲ですので、レパートリーに加えるとすればおすすめの曲です。極端な話最初の部分は右手一本という手抜きもできますし。(ロマのアレンジも分けて引くような指示なっているし→原曲の指示は小節ごとに右と左手を入れ替えている→このため技工芸に見られやすい)

 一方の技術的練習曲ですが、難易度はさっきいった通りのことを考えると上級評価です。ツェルニー40番を終わらせることが一定の条件になるわけですが、最近はいきなりショパンのエチュードに飛び込む人もいるので、軽く見られがちなのが残念ですが、クラーマ=ービューロー、グラドゥス・アド・パルナッスム、モシェレスと同じぐらいの技術的かつ音楽性にとんだ練習曲だと思います。なので、ピアニストをやるという人であれば軽視できない部分の難易度の練習曲だと思います。

 モシュコフスキーも戦争の影を踏んでしまった作曲家の一人です。と言っても彼自身はポーランド→ドイツ→パリと移り住み、特にドイツ国内で大きな人気を勝ち取ったピアニストでしたが、戦争国債をしていたことで経済的な困窮をしてしまいます。その弟子からはラヴェルに細かいところまで指示(彼以外にはしなかった)をされたピアニスト・ペルルミュテールがいます。実はラヴェルの楽譜というのは著作権が1997年までありましてかなりの期間効果だった時期があります。著作権が切れた時に各社はいろいろな人のことを参考にしたそうですが、いちばん参考にしたのはほかならぬペルルミュテールに対していったことがメインになったといいます。この時はペルルミュテール本人が健在でしたので、音楽之友社から出ているものは彼が校訂した楽譜を利用しています。そういう意味で言えば20世紀にかけて活躍してく作曲家は、この時期においても影響力を与える作曲家が多くなっていくわけです。

 次回は、シマノフスキー。


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外伝その4

2012年10月03日 | クラシック

 久しぶりのこの項目の更新。

 ドボルザーク インディアン・ラメント(ヴァイオリン諏訪根自子・ピアノ レンテンブルグ)

 

 成立年代 1893年

 時代区分 後期ロマン

 形式 ヴァイオリンとピアノのソナチネから第2楽章

 形態 ヴァイオリン+ピアノ

 アレンジ ピアノソロ

 先になくなった戦前から戦中にかけてのアイドルヴァイオリニストで、あのゲッペルスからストラディバリウス(ただこのヴァイオリン曰くつきで、盗んだものなのか具法的に入ったのか不明。どっちにも証拠があるのが難点。)を送られたことのある諏訪根自子さんによる演奏です。曲名はインディアンラメントとなっていますが、この曲名自体は後に編曲をしたクライスラーが付けたもので、作曲したドボルザークが付けたものではありません。正式名称はヴァイオリンとピアノによるソナチネの第2楽章ということになります。ピアノにも編曲はされている曲ですし、知る人ぞ知る曲という感じがします。

 まだ日本に世界的な楽器演奏者が少なかった時代に現れたヴァイオリンの奏者である彼女は日本国内にいるときから天才少女として世に出ますが、父親の浮気による別居により母方へ。しかし沢山の人も支えもありベルギーに留学をしますが、当時はナチスドイツの時代そのままドイツに移住してパリとの往復生活をします。終戦後は日本に戻り60年代頃まで活躍。しかしそこから一時的に表舞台から去る形になって、長い間表に出なかったのですが、80年代90年代に復活。昔と変わらぬ演奏で評価を受けたという人です。

 今でこそ楽器の演奏者として著名な人は沢山います。たとえば盲目の演奏者として有名な辻井伸行の師匠の一人は、これまた有名な横山幸雄(現在確認されているショパンの曲を全部弾いて、その時出来たギネス記録持ち)ですし、カンパネラが出る度に論争が起こるフジコ・ヘミングもいます。他の世界でももちろんちゃんと名声を得ている人もいます。作曲の部門でもちゃんとした評価をもらっている作曲家もいます。ただじゃんあるが細分からされている分評価がされても表に出にくい状況でもあります。現代音楽自体が不協和音が多くて聞く人間によってはただ単に不愉快な感じを与えるだけという人もいますし(自分も苦手な方)、芸術の世界と手これが何で受けているのかと言うもわからないと言うほど間隔がばらばらになっている傾向があります。それ故に最近ではいろいろと個人的な能力が問われていることが多くなったように感じます。それ故にピアニストは超絶技巧が前提になっていて、感情で演奏する人間が減りつつあるんですけど……

 次回は本編。リンク切れをした動画も探し直しか……あと探している内に一人機になるひとを見つけたのでその人をチョイスしたい


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80曲目

2012年07月14日 | クラシック

 父親はいちばん最初にやったので省略。

 シュトラウスJr 美しく青きドナウ(美しき青きドナウ)(ヤンソンス&ウィーンフィル。今年のニューイヤーコンサートより)

 

 成立年代 1867年

 時代区分 後期ロマン

 形式 ワルツ(組曲調)

 形態 男性合唱→管弦楽

 アレンジ・仕様場面 ピアノソロ(ピース・ドレミピースギャラリーにある・中級から中級上ぐらいのレベル)など・2001年宇宙の旅・下妻物語

 たくさんの作曲家に大きな影響を受け、またウィーンの華やかりし頃を代表する作曲家シュトラウスjrです。ワルツの父と呼ばれた1世のように、彼もまたワルツの王と呼ばれる程の印象深い作品を多く残しており、いまでも数多くの場面できくことができる曲を作曲しています。今回チョイスしたのはその代表作である美しき青きドナウ。この作品は普墺戦争で敗れたオーストリア国民を励ますために作られて、最初は男性合唱だったのですが、歌詞が皮肉めいてしまった部分があるのでそのせいで受け入れられず、管弦楽に書きなおしてから人気に火がついた曲で、今では彼の代表的な曲になっているのですが、彼自身は出来に納得がいっていなかったとか。でも、逆にこの評価が急激に上がったおかげでこの曲はオーストリアの第2の国歌という扱いになっているのも事実です。

 イメージのもとになっているのはドナウ川でその源流と周辺の森をモチーフにしています。序奏の後に彼は5つのワルツでドナウ川の情景を表しています。(演奏上の注意、序奏はワルツのテンポではない)終盤部の長さが合唱版と管弦楽版との大きな違いになり、管弦楽版がそのまんまピアノ版になっていくのですが、演奏時間もその分少しだけ長いのが特徴です。ピアノ版は序奏の部分に気が抜けない部分がありますが、(超跳躍・トレモロ・交差・ペダル使用による音響など)中級程度の腕があれば相対的に見ればなんとかなると思います。 

 シュトラウスはたくさんの音楽家と交流がありました。ブラームス派・ワーグナー派問わずにその範囲は広大で、特にブラームスとの親好はかなり厚いものがありました。それゆえにブラームスは後にシュトラウスの娘にサインするときに、この曲の一部を書いて「この曲はブラームスの作品にあらず」と言う一文を添えたというエピソードがあります。またチャイコフスキーは彼に憧れていたことがあってくるみ割り人形の「花のワルツ」はその手法を用いて書かれたものです。ブラームスの対抗馬であるワーグナーは、シュトラウスのような軽い曲がかけないことを随分と悩んでいた時期がありました。それゆえに大作曲家でさえも影響を与えることのできる作曲家として彼のいるいちというのは大きものがあると言えます。

 しかしこれだけの実力を持ちながら、彼の父親とは相反する関係にありました。というのも、シュトラウス一生は不安定な音楽家よりも別な職業になってもらいたかったらしく、音楽の勉強をさせようとはしませんでした。彼に音楽の教育を施したのは母親で、これが彼の音楽の才能開花に大きな影響を与えます。やがて父親の不倫から家族がばらばらになり、その家族を救うために父親の楽団に対抗するように自分の楽団を立ち上げウィーンを二分する人気楽団に成長させます。父親の死によって絶対的な人気を勝ちとることになります。

 次回は兄+すぐ下の弟の合作。


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79曲目

2012年07月13日 | クラシック

 ある番組の復活記念に。人によってはこの人はクラシックの作曲家じゃないと思うかもしれません。

 フォスター 草競馬 (アル・ジョルソン+そのほかは不明)(*)

 

 成立年代 1850年

 時代区分 初期ロマン・アメリカ

 形式 歌曲

 形態 いろいろ

 アレンジ・仕様場面 たくさん・クイズダービー(シンキングタイム)・ファミリージョッキー・ファミコン「独眼竜政宗」・CMも多数

 初期アメリカを代表する作曲家であるフォスターから代表作の一つである草競馬です。日本では多く知られるようになったのは1970年代からで、その後は数多くの番組やいろんな場面で聞くことが多いと思います。ここではクラシックの作曲家扱いにしていますが、今で言うポップスの作曲家に近い部類もある割合そのあたりの評価にも分かれます。しかしその影響力は大きくアメリカ作曲家の父と言われるほどの影響力を持っていますが、作曲した曲の数は他の作曲家に比べると200と少なく、しかも当時の状況から作曲家として生計を立てるには厳しい現実がフォスターを襲ったが故に、最終的にそれが彼の人生を大きく狂わせたとも言えます。

 親しみやすい曲から書かず多くのアレンジがなされています。代表的な所で言えばカントリー調にアレンジされた曲がそうだと思います。またたくさんのテレビ番組やゲームなどでも使用されることが多く、必ずどこかで一度は聞いたことがある曲の一つだとも思います。メロディーは聞いたけれど、なんという曲だったのかということと誰か作ったのかといえばぴんとこない人もいるかも知れませんが、この曲が日本に入ってきたのは1960年代と割合新しいので、人によっては最初から知らないという人もいるかも知れません。

 ロマンは以前の音楽の中心はウィーンのほかはドイツとかパリ、ロンドンとか西側の都市が中心になっていました。ロマン派になってショパン・リストなどが故郷の音楽をベースにした新しい音楽を持ち込んで新しい時代を作って行きました。その時代の流れの中でヨーロッパとは違う流れとしてアメリカの存在が浮上していきます。まだフォスターはロマン派の影響力というのが強いですが、次代が下るにつれジャズと融合する形でラグタイムが生れ、さらにガーシュウィンによってアメリカ独自の音楽が一気に花開いていきます。これに映画音楽などで起用されることも多くなり、その影響が逆に世界中に広まっていきます。ただ人によってはクラシックはヨーロッパの中に存在するものだと思っている人もいますので、大っぴらにそういうことを言える状況ではまだないと思いますが

 フォスターはこれだけの評価を得ながら余りいい人生を送れませんでした。それは当時の出版事情が大きく関わっています。彼自身がこう言うタイプの作曲家で指揮者とかの収入を得ていないというのもあったのですが、大量に曲が売れたにもかかわらず得た収入は雀の涙にもならないという状況がありました。今では考えられないかもしれませんが、当時としては破格の10万部を売っても報酬が100ドル程度しなかったというのもあり、それが彼の創作意欲を奪うには十分すぎるものでもありました。もし十分な経済事情があれば、彼は悲惨な状況での死を迎えることもなかったので、もっといい曲が世に出たかもしれません。それだけに当時の作曲家を取り巻く事情は、今と余り変わらないと言えます。最も今の方が肥えたネズミのせいでとんでもない方向に転がっているのですが。

 次回は80曲目。シュトラウス息子。

 (*)歌っている人は、役のためにこうして顔を塗っているのですが、これが人種差別を助長することになるので、第2次世界大戦時にはアメリカを代表するエンターテイナーでありながら、その功績は無視されているとか。アメリカはどこの世界でも、こういう問題が横たわっているのがアメリカたる所以なんだと思う。


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78曲目

2012年07月09日 | クラシック

 久しぶりの更新

 ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調(カラヤン+ウィーンフィル)(長時間注意)

 

 成立年代 1887年→改定1890年

 時代区分 後期ロマン

 形式 交響曲

 形態 オーケストラ

 アレンジ ピアノ連弾&ソロ

 参考 ドビュッシー 前奏曲第1集より 「夕暮れの大気に漂う音と香り」(ミケランジェリ)

 

 後期ロマン派の先駆けとも言えるブルックナーです。ただ年代的にいえばリスト・ワーグナーの現役世代ですし、ブルックナーもワーグナーに大きな影響を受けた一人ですので、どちらかと言えばリストの系図の延長戦にいる人だと思います。一時間を超える演奏時間ですので、演奏する方にも聞く方にもそれなりの忍耐力が必要になってくる曲です。ブルックナー自身は楽曲の影響やその作風的にいえば後期ロマン派に当たる人物ですが、他の作曲者から比べるとかなり異質のソン座にいるのではと言う人です。ワーグナーの信仰者ですので、当然ブラームス派からは攻撃を受け続けていましたが、独特の手法(独自の和声法やトレモロからスタートする手法、3拍子と2拍子を合わせるリズム法など→これは後にドビュッシーの前奏曲1巻の4番「夕べの大気に漂うと音と香り」の冒頭部・中間部へみらつなぎに採用されている)を用いることで曲の特徴を大きく出す作品が多くあり、現在でも演奏されることの多い作曲家の一人です。

 この曲が演奏されるまでには紆余曲折がありました。元々この曲は校訂に献上されていましたので、それなりの報酬は受け取っていたのですが、初演の指揮者が見つからないという状況になってしまっています。ブルックナーに紹介された指揮者もブルックナーの催促の件もあり事態にしてしまい、結局初演は1892年と改定からも時期がたったあたりでの初演となりました。指揮者は当時一流の指揮者のハンス・リヒター。しかも演奏会にはブラームスを始め大物が続々とそろう物でしたが、その中で成功を収めます。前の7番による成功も合わせて、作曲家として認められたのですが、年齢的に言えば60歳を超えていて、しかも彼自身がこのあたりから死の病に冒されるなどを考えると、もうちょっと早い段階で成功を収めたらどう南端だろうと思います。

 ワーグナーの音楽を聴いたあたりからかれは自分の曲に大きく手を加えます。1回目はワーグナーの曲をバイロイド音楽祭で聴いたとき、そして2回目は代表作と言えるこの交響曲第8番に対して周辺から余りいい評価をもらえなかったことから大きな改定につながっていきます。これが後にブルックナーの版問題というある種の問題につながっていきますが、それ以上にここから端を発する形で表面化してくるのがそれまで主要だった交響曲の破壊という事が生まれてきてしまいます。曲自体が長いのもそうですが、4楽章併せて1時間半にもなってしまうのはさすがに聞く方にも耐久力が必要になってきます。曲の中の楽章が長いというのは別に珍しくはない(新世界の第2楽章「家路」。なんかがいい例。他の楽章が10分前後なのに、この局だけはとりようによっては15分以上時間がかかることがある)のですが、全楽章が15分以上というのはさすがに好局が一つの時代の終わりにさしかかっていると言ってもいいと思います。この兆候にとどめを刺したのがマーラーですが、これに関しては彼の章で話したいと思います。

 楽譜というものはいろんな人の手を経て、時代にあった最新盤に変わっていくというのが一般的な解釈です。たとえばバッハの平均律で言えばクロール編なんかはバッハ全集の一つとして認められていますが、演奏するのあれば注釈もこう弾けばいいとのアドバイスもの無いので初めて見た人にとってはまず楽譜の中に隠されている意味を感じることから始まります。ツェルニーやブゾーニのように指使いも速度も書くような版が次に出て来ますがあからさまに早かったり、演奏に困難をともなるような指使い指定をしたりするので、評判に大きな差が出ます。(全体的に手が大きくない日本人の場合はなおさら)で、さらにそれを基にした校訂がどんどん増えていって、今度は選ぶ人間がどれにすればいいのか混乱する事態が発生します。そのため最新に近い校訂をした楽譜にはとんでもない値段が付けられていることもしばしばあります。(とうにウィーン原典版は全音版の倍以上の値段がすることも)ブルックナーの場合はこれがさらに酷くなって形で「版問題」と総称されているほどです。本人自身が何回も手を加えていること、本人の死後弟子によって改定されたもの、さらに第2次世界大戦以前以後で校訂者がわかって、戦後の校訂者が前の校訂を否定して全部やり直して二つできあがってしまったこと。これらが複雑に絡み合ってしまい、ことなる内容の楽譜が多く出回ってしまっています。(とはいえ同じようなことがショパンの映画で有名になった遺作ノクターンにも言えるわけで……)

 次回はフォスター。この先の予定はシュトラウス息子・シュトラウス息子弟・ボロディン・ルービンシュタイン・ブラームス・マーラー2回目の予定。


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外伝その3

2012年05月24日 | クラシック

 外伝その4は今年はこの人が生誕150周年に当たるので、前の日記でやったときの曲をもう一回紹介と言うことで(一部は数回やっているけど)、後久しぶりの更新なので説明の内容がかぶっていたらゴメンナサイと言うことで。

 ドビュッシー ベルガマスク組曲

 プレリュード&メヌエット (リヒテル)

 月の光 (マリア・コバチェフスキー)

 パスピエ (サンソン・フランソワ)

 

 成立年代 1890年(初出版は1904年)

 時代区分 印象派

 形式 組曲

 形態 ピアノソロ

 ピアノ難易度 中級 中級中 中級上 上級

 楽譜入手 全音・音楽之友社(全集)・ショパン社(運指や弾き方が充実)・月の光に関しては沢山

 アレンジ 月の光のアレンジは沢山

 使用状況 月の光は沢山・パスピエはドラクエ1のフィールドの元ネタ?&大塚商会のCMソングとして適用されたことも

 今年生誕150周年を迎えるドビュッシーの初期中の初期の作品であるベルガマスク組曲です。一瞬ソナタを連想させるような作りにはなっていますが、ソナタの法則からは大きく外れていますので組曲という認識がなされています。出版されたのは20世紀に入ってからですが、それ以前に作曲をされていてドビュッシーが本格的に作曲家をめざし始めた20代前半の頃の作品です。二つのアラベスク同様に後期ロマンの影響を多段に受けながらも、後の印象派の象徴である調性の崩壊などを混ぜ込んだような編成になっています。特に3曲の目の月の光はあまりにも有名で、たびたびこの曲だ単独で演奏会の演目になると言うことがあります。

 ベルガマスクというのはベルガモ風という意味で、バロック時代の音楽をベースにドビュッシー風に味付けをした作品になっています。4番目のパスピエ(17世紀に流行をした早い音楽をベースとした舞曲、意味は「通行する足」)は題名だけを見れば明らかにそれなのですが、ドビュッシーはそれを維持しながらも行進曲風に作り変えています。(多分4曲中では一番難しい)メヌエットも通常から考えれば若干方向性は違うのですが、のちのドビュッシーが太陽するグリュッサンドが最後にあったり、曲調ものちのドビュッシーの曲の中に現れるあっさりとした感じを感じることが出来ます。

 よく楽譜を見るときは本人が書いてものを参照にして考えなさいという側面があります。今出ている楽譜の内たとえば平均律のように楽譜の強弱やテンポは後から付けられたというものもありますし、響きの関係からいくつかの音が編纂者によって変わっていたり(月光にもツェルニー40番にも、クラーマー=ビューローにもある)しています。またという時の風習からその風習従うみたいな習慣もある(ショパンOp25-2の最後の部分)ため、作曲者の思惑が伝わらないという部分があるわけです。ベルガマスク組曲は出版社のミスがかなり多い(ショパン社の修正を見るとそりゃ抜けが目立つ目立つ)ので、作曲者の意志を一番感じるのは自筆譜が一番なのですが、肝心要の自筆譜がこの曲集に関してはありません。作曲してから出版されるまでの愛が15年もあいていたというのが一番の原因だと思いますが、これだと逆に解釈の部分で大きな隔たりを感じてしまうことがあります。たとえば月の光なのですが、最近では5分半ぐらいで弾くような感じになっていますが、自分が昔聞いて今でもいいと思っているのは7分ぐらいかかるものでした。月光と対をなす付きが絡んだ曲というイメージを考えると最近の演奏時間は急ぎすぎているように感じます。

 楽譜の件で逆に資料がありすぎて困るのと言うのはショパンです。彼の場合は自作譜の他に、各国の出版社に送りつけた分の複写譜(本人ではなく秘書が書いたものも含む)、生徒に対して書いた注釈があり、そこからショパンの意志をくみ取ろうとするとかなり大変な作業になります。しかもばつの悪いことに各出版社でもミスがあったり、ショパン自身がいろいろと書き間違っていたりする場面もある(たとえば「別れの曲」。最初の指示テンポに従うと難曲に化けるほど移動の激しい曲になる)ので、どれをとるかで考える必要があります。参考に出来るのは弟子のミクリ版までなのでしょうが、今権威があるのはベースではあっても後の人が作ったものでそれではないというのが、ある意味矛盾を感じてしまうような気がします。

 次回は通常枠に戻れるかな……まだ書いていないブルックナーが一応の次回分。それじゃなかったらもう一回外伝を。


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76曲目

2012年03月04日 | クラシック

 久しぶりのこっちの更新。

 ワーグナー 「ニュルンベルグのマイスタージンガー」より「序曲」 (トスカッチーニ+NBC交響楽団)

  

 成立年代 1867年

 時代区分 後期ロマン

 形式 オペラの序曲

 形態 オーケストラ

 アレンジ たくさん

 ワーグナーの二曲目は。代表作の一つであるニュルンベルグのマイスタージンガーの序曲です。マイスタージンガーとはそのままの意味で訳すとマイスター=職人・ジンガー=シンガー=歌手(複数形)ですので、職人的な歌手たちという意味であって、よく言われている名歌手とは明らかに違う意味です。現代基準でいうとシンガーソングライターが、この意味に直結すると思います。構想20年というこの局はワーグナーのオペラの中で、2つしかない喜劇のうちの一つであり、然しその中で反ユダヤ思想が入っていたりとする複雑な背景をのぞかせているオペラでもあります。しかもこの歌劇はワーグナーとしては唯一の歴史物で、それだけにそれを尊重したような楽曲が多いのも特徴です。今で言う時代劇(設定と現実が違う)の一面もこの歌曲にはあります。(主人公は実在の人物)

 台本事態の構想は1840年代にはもう構想されていましたが、ワーグナー自身がこの時はまだ貧困状態だったこと、しかも革命(*)に参加したことで負われる身になったことから、構想そのものが何度も作られてはそれがハッキリとした形になるのは相当の時間がかかりました。同じように構想上はできあがっている者の、前回紹介した曲を含むラインの指輪シリーズもお蔵入り寸前の状態になっていました。彼自身がまだ成功していなかった時代からのものだったので、そこまでに手が回る余裕がなかったこともこの曲の完成を起こらせることになっています。

 時代背景を見る上でさらに忘れていけないのは音楽の質の問題でですが、これをワーグナーはあえて使って映し出しています。ただしそれをそのままの形で使うことではなく、ワーグナーなりのアレンジと複雑化を持ってさらに印象深いものにしているといった方がいいかもしれません。ワーグナー自身はバッハの音楽の延長線にこの曲があると言っていますが、ほとんどが彼自身のオリジナルの延長線にあり、厳格に言えば作曲技能的に言えばやや足りないかなあという印象を受けるときがあります。それでもワーグナーの音楽性を充分に感じる曲だと思いますし、単独で聞くにしてもいい曲だと思います。時代劇を標榜しながら、台詞回しは時代劇じゃないというのなんかは日本でもよく見られますし。

 ワーグナーの歌劇を上演し続ける音楽祭があります。世界的にも有名なバイロイド音楽祭なのですが、この歌劇はかなりの回数で上演されています。というのも、本来上演従ったのはジークフリードシリーズ(ラインの指輪)だったのですが、それが出来るほどの予算がなかった(コジマが娘に当てた手紙から)ので、やむなくマイスタージンガーにしたという話が残っています。それから規模も拡大されるにつけだんだんと上演回数も増えていくのですが、いつまでも一人の演出家にこだわるわけにもいきませんので、演出家によっていろいろな趣向が凝らされている場合があります。特にワーグナーの子孫たちが関わるとこういう事が大きくなり、50年代から60年代にかけてのヴィーランド・ワーグナーの舞台装置の演出はシンプルすぎて、何がなんだかわからないままだったという批判(もっともこうした理由の一つが母親がナチス・ドイツに協力していたから、その影響を消そうとしていたという話もある)がありますし、その弟の娘(今年もこの人)の場合は現代の音楽学校に部隊を置き換えるというレオナルド・ディカプリオ主演の「ロミオとジュリエット」クラスの誇大解釈をやって、大論議を巻き起こしています。オペラで特に指定がなければ置き換えることも演出上在りなのですが、この過激の舞台は明らかに16世紀のニュルンベルグという指定があるものなので、やすやすと置き換えてしまう(演出家によってはプラスの場面を加えるということも)というのはどうなのかという論議もあります。いまだに解釈をめぐって色々と対立がある歌劇というのも、どうなんだろうかと思います。

 次回はブルックナーだったんだけど、前にショパン4回目を書いたので、そっちが便宜上77曲目という扱いになります。なので次は78曲目。

 (*)ドレスデン蜂起。


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77曲目

2012年01月08日 | クラシック

 76曲目を飛ばして77曲目。単純にいえば楽譜を購入したのと、もともと入れるがあった曲が重なったのですが。

 ショパン プレリュード(Op28)より24番

 (ダン・ダイ・ソン)

 (ボゴレリチ)

 成立年代 1836年から1838年の間

 時代区分 初期ロマン

 形式 前奏曲

 形態 ピアノソロ

 ピアノ難易度 上級→上級中→上級上

 楽譜入手 全音・音楽之友社共に「プレリュードとロンド」・ショパンポケットスコア

 アレンジ この曲に関してはなし

 ピアノの形式に一つの革命を与えたといってもいいほどの作品集であるプレリュードから最後の24番目です。勢い良く弾かれるこの曲はなんとも言えない咆哮を表していると思います。この曲単独で見るとショパンらしさが至る所に散りばめられていて、かなりのとっつき辛さを感じます。ただ楽譜自体はそう難しことは書いていないと思うので、絶えずでてくる違うリズム感覚と、下り3どの半音階の処理が鍵になってくる曲だと思います。ので、難易度設定はやや高めの評価になっています。

 ショパンのプレリュードは明らかにバッハの平均律のプレリュードを参考にしています。24曲という数字。すべての調性による曲。さらに1番なんかはあからさまにその影響が出ているような曲です。しかしこの前奏曲集が出たときには評価があまり良くはありませんでした。(練習曲の断片を集めたような)難易度に極端なばらつき(4番が一番簡単でバイエルの終わりぐらいでも弾ける。有名な雨だれの前奏曲もブルグミュラー25ぐらい。しかしそれと同時に簡単に引けない曲も存在する)があることがあり、しかも一曲一曲の長さも極端に違う。(1分ぐらいから6分ぐらいまで。一番長いのが雨だれの前奏曲)ということで、発売された当初は全く見向きもされませんでした。しかし完成された時期がショパンの中で一番充実をしていた頃だったこと、さらにショパンを理解するのであれば全小曲集がいちばんだという後の音楽家(ビューローもクラーマ=ビューローの前書きに名前をあげている)の評価があることから、今ではショパンの事を知るのであれば避けては通れない曲集として名が通っています。太田胃散のCMとしてお馴染みの7番なんかは彼の故郷の舞踏であるマズルカ形式を踏んでいますし、他の形式の曲も数多く含まれていますのでショパンを知るのであればここから入るという人が多いお思います。難易度の問題なんかはピアノを教える人間がちゃんと見てやればいいことですし。

 この前奏曲集が大きな影響を与えたのは、当時の音楽かと言うよりも後の時代の作曲家に与えた影響が大きいと言えます。ラフマニノフは3回に分けてプレリュードを書いていますが、全24曲でかなさっている調はひとつもありません(ショパンはコレ以外に2曲前奏曲となのつく作品を作曲しているので重なっている)し、スクリャービンはこの曲集に系統をしていて、最初の前奏曲集は24曲きっちりとショパンと同じ形式で入っています。ショスターコビッチも二種類の前奏曲集を作っています。(一つはそのままの前奏曲集。もう一つは「24の前奏曲集とフーガ」というタイトルでこっちのほうが有名)そういう意味ではショパンのやってきたことというのは決してムダではなかったような気がします。

 演奏をしている二人はショパンコンクールで対決をした二人でもあります。一人はこのグランプリを取る「苦労人」ダン・ダイ・ソン、そしてもう一人はセンセーショナルを巻き起こしながらも予選落ちという憂き目にあってしまったボゴレリチです。この二人に因縁はないんですが、ボゴレリチに関しては審査員から因縁を付けられる形になります。最初に第1時予選では彼を低評価していたルイス・ケントナーが彼を通したことにより審査員を辞任します。しかし波乱はこれだけではすまず、こんどは彼が3時予選で落ちたことからショパンコンクールのかつての優勝者で、いまでも世界的ピアニストの一人であるアルゲリッチがこの結果にキレて審査員を辞任してしまいます。彼女はこのあともボゴレリチと共演をしていることを考えると相当彼の実力をかっていたことになります。そんなさなかで優勝したのがアジア人初の優勝でもあるダン・ダイ・ソン。優勝したことからスレば輝かしい経歴ですが、今のピアニストの傾向からするとちょっと異端児的な感じになるかもしれません。生粋のショパン弾きとして活躍をしていたために、最近のテクニック重視のピアニスト全盛の中ではやや埋もれてしまう存在になっています。もちろんケンプの「月光」のように光るものがあるのでいいのですが、最近ではそれすら埋もれさせてしまう傾向が強いだけに……

 もっとも何度も言うのですが、このコンクールやたらめったらエピソードが多く、第3回では日本人のピアニストが観客から大絶賛を受けたのに入選をさせなかったことで、観客が切れて警察沙汰になったり、上にも書いたショスタコーヴィチが第1回に参加したのだが優勝出来なかったり、ミケランジェリが審査方法に納得が行かなくて退場したりとかいろいろなことがありました。去年行われた分では停電ぐらいしかなかったのですが、審査の内容を見ると嫌に地域性に偏りがあったような気がしますし。(ただしユンディ・リの時は逆にアジアの時代だと思うぐらいアジア出身が多かった)

 78回目の方はブルックナーで。その前に76回目のワーグナーのほうが先だが……


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