koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

「平清盛」-第4回「殿上の闇討ち」

2012年01月29日 20時37分29秒 | TV&エンターティメント

いや~,今回ものっけから楽しませていただきました。
長承元(1132)年に清盛が北面の武士となったとありましたが,清盛はこの年14歳です。あり得ないことではないでしょうが,松ケンが演じるには無理があるというものでしょう。
・・・ということは,殴り合いの喧嘩をした義朝は9歳です。
千秋もとい玉木くんが演じるのも無理があるというものです。


で,殿上の闇討ちですが,「平家物語」にも載っている名場面です。
あくまでも長承元年に拘っていたようですが,忠盛が昇殿を許されたのは白河法王の時代ではなかったでしょうか・・・。
つまり法王崩御が大治3(1128)年だとすると,従四位下となったのがその前年ですから,もっと以前のこととなるでしょう。
保安元(1120)年のことだったとも考えられますので,清盛や義朝には全く関係ないことだ
ったとなります。
但し,内昇殿を許されたのが長承元年と言いますので,そう考えれば辻褄は合います。
勿論,公卿たちが白昼から酒をぶっかけるようなことは無かったでしょう。
関白の前であんな狼藉をしたら,それこそ大変です。
公卿の嫌がらせはもっと陰湿で,自分の手を汚さない筈です・・・。
しかし,為義がヒットマンとなってあっさり忠盛に取り押さえられたあたりでさらにぶっ飛びました・・・(為義弱すぎ)。
確かに,忠盛の父正盛は,為義の父である義親を討ったことになっています。
しかし,武勇高き八幡太郎義家の次男であり,悪対馬守と呼ばれた義親がさしたる武勇も聞かない正盛にあっという間に(追討軍が出た翌月)討たれるなどということが果たして有り得るのか甚だ疑問であり,その後義親を名乗るものが散々あたこたに現れたそうです。
で,為義が源氏を継ぐ経緯は,義親の後源家の正嫡となった河内守義忠(義家三男にして忠盛の烏帽子親。忠盛の忠は義忠から来ていたのか・・・)が突然暗殺され,犯人と目された賀茂次郎義綱(義家次弟)が佐渡に追放(子6人は全員死亡。後に義綱も佐渡にて為義に討たれます)。
その結果,長男でもない為義に源氏の頭領というお鉢が回ってくることになったということです(このあたりの源家内紛を述べると,それこそとんでもないことに・・・)。

ですから,為義が忠盛を父の仇の子として狙うことは無かったのでは・・・と思います。
それよりも,何故この時代,源氏と平氏に差がついていたのか・・・の方が重要でしょう・・・。
そのあたりがどうも本作でははっきりせず,すっきりしません。
単に為義が情けないから・・・で済ませているような気もします(今更,義親が正盛に討たれたなどと為義に言わせても遅いでしょう・・・)。


これを語ると長くなるので,ひと言で言ってしまえば,摂関家の家人として勢力を伸ばしてきた源氏が,摂関家の衰退と共に力を失い,院に付いて北面の武士として力を伸ばしてきた平氏が台頭したということです。
では摂関家衰退のきっかけは何か・・・というと,やはり後三条天皇による延久の荘園整理令かと思われます。
摂関家の経済的基盤は寄進地系の荘園ですから,それを禁じられたらアウトです。
また義親の反乱(というと如何にも悪そうですが,それはあくまでも中央政界にとってのことです)とその後の内紛によっても源氏が力を落としたこともあるでしょう(義忠暗殺・義綱失脚の黒幕は判明しています)。
また為義は当初白河院に近侍したようですが,家来および本人の狼藉によって院の信任を失っていき,摂関家に近づくようになったようです。


・・・で,さらなる突っ込みを。
忠実が自ら
「この藤原摂関家」
などと言うでしょうか・・・。
摂関家ということばは,戦国時代同様後の時代に呼ばれたものではないでしょうか・・・。
それを言ってしまうと,「武士」ということばも果たしてどの時代から言われたのでしょう・・・。
12世紀初頭はに「武士」ということばが果たして有ったのかどうか・・・。
宮廷を警護する武者(むさ)ということばは有ったでしょうが・・・。
そのあたりは,私も分かりませんので,いずれ調べてみたいものですが・・・。


あ,そうそう。
藤木直人くんが佐藤義清(若き日の西行)を演じていましたね。
鳥羽院に仕える北面の武士だったことは事実でしょうが,何と百人一首にもある有名な

ながからむ 心も知らず 黒髪の みだれてけさは ものをこそ思へ

の句を若き日の西行が注釈したという・・・(唖然・・・)
これって,堀河局が老いてから,当時を顧みて技巧として詠んだものだったのでは・・・。同時代の歌人として西行との接点は有ったでしょうが,北面の武士に後朝の別れ云々を問うなんてことはあり得ないでしょうし,第一御所の女房たちの近くにむくつけき武者たちが居る筈も無いでしょう・・・。


・・・ということで,皮肉ではなく大いに楽しませていただきました。
次回は海賊退治らしいですが,清盛までの平氏三代が果たしてどのように海賊を討伐したのか,寡聞にして知りません。
長承4(1135)年のことと言いますから,清盛は既に27歳。
1週間で13年も経ってしまうとは・・・。
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