koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

軍師官兵衛-第6回「信長の賭け」

2014年02月10日 20時55分42秒 | TV&エンターティメント

都知事選を気にしつつ,6時半までBSを見て,例によってサザエさん(永井一郎さんの最後の出演・・・)に譲り,7時から,録画の続きを見ました。


いや~,やっぱ,江口洋介の信長は,悪いけど違和感ありありです。
反町隆史(であるな・・・は,笑った)や緒形直人のそれと良い勝負です・・・。
かつて,高橋幸治や高橋英樹を見てきた者としては,かなりもの足りません・・・(いつの時代だ・・・)。
先ず,あんな饒舌であってはいけません。
「出陣じゃあ」
などと,絶対に言わない男です。
自分が単騎で飛び出し,それに遅れじと家臣(前田孫四郎とか佐々内藏助とか)が追いかけて,軍勢が膨れあがって・・・という感じではなかったでしょうか・・・(少なくても,桶狭間や美濃攻略戦までは・・・)。
何と言っても,苛烈にして冷酷な男ですので,諸将の前で光秀を平気で打ち据えるようなことをする訳です。
 スマートで格好良い信長像をイメージしたのかも知れませんが,イケメン過ぎて爽やかなイメージは合いません・・・。
元亀から天正にかけては,将軍義昭の謀略で,各地の反織田勢力が一斉に蜂起した時期で,信長の生涯で,最もしんどい時期であったことは疑いありません。
大坂石山本願寺,伊勢長島一向一揆,叡山と結ぶ浅井朝倉,阿波三好党と裏切った松永久秀,伊賀地侍衆,そして甲斐の武田と越後の上杉(直接戦闘が有ったかどうか甚だ疑問ですが,上杉好きは手取川の戦いを,鬼の首を取ったように言います)・・・。
まさに四面楚歌の様相でしたが,京畿と岐阜の間を悪鬼羅刹のように荒れ狂い,見事にその難局を切り抜けます。
そんな強さが,爽やか系の江口信長からは,感じられないのです・・・。
ま,私だけがそう思っているのかも知れませんが・・・。


この時期は,元亀元年の朝倉征伐失敗(浅井長政の造反)に,姉川の戦い,叡山焼き討ちに,石山本願寺包囲戦(雑賀衆の鈴木孫市に狙撃されている),槇島城攻略戦,そして三方ヶ原の戦いに長島一向一揆殲滅戦・・・と,とにかく獅子奮迅の勢いだったに違い有りません(三方ヶ原には差直接参戦していませんが・・・)。
で,この中で語られたのは,叡山焼き討ちと槇島城と三方ヶ原のみでした。
将軍追放がさらにクローズアップされても良いし,三方ヶ原も,せめて
「援軍の林佐渡(道勝・秀貞)殿と佐久間右衛門尉(信盛)殿は撤退,平手監物(汎秀-諫死した平手政秀二男とも孫とも・・・)殿,御討ち死に・・・」
ぐらい言って欲しかったです・・・。
さらに,この時期の信長を語るならば,元亀元(1570)年の朝倉征伐失敗と姉川の戦いは必須だと思いますし,将軍義昭の造反劇に際して,光秀や藤孝が両者の板挟みになった様子もあっても良かったか・・・と,思いました。


あっという間に20年経ってしまいましたが,官兵衛はいつどこで信長と会うのでしょう・・・。
安土に単身乗り込むのが史実に近いとは思うのですが,この後,半兵衛との出会いや播州三木城攻防戦,小寺政職造反,有岡城幽閉,松寿丸が半兵衛によって助けられ,有岡城脱出,中国征伐・・・と,エピソードがてんこ盛りとなるだけに,最初の20年は一気に進ということでしょうか・・・。
これを機会に,「播磨灘物語」と,「黒田如水」を再読してみようかと,思います・・・。


あ,そうそう,官兵衛室櫛橋氏の父伊定って,天正6(1578)年の志方城にて,別所長治に荷担した小寺政職に味方した責任を取って自害したと記憶しているのですが,私の記憶違いでしょうか・・・(最近多いからな・・・)。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿