歩かない旅人

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 この日を境に日本の世界観が変わったか

2012-07-29 13:17:16 | 昭和という時代についての歴史
 今日はかなりのブログが、通州問題を扱っています。この問題もマスメディアではすっかり黙殺され、無視され、日本の教科書にも、捏造された政治的にチャイナに有利な歴史モドキハ、さまざまな表現こそ違え、教科書の中に散りばめられています。通州事件についてどれだけの日本人が認識しているんでしょうか。徹底的にチャイナが日本に牙をむいた記念日です。
 時は1937年7月29日、75年前の今日です。当時のチャイナの町の仕組みは良くわかりませんが北京から18キロ離れた通州は、ある意味、物流の集散地として、それなりの土地だったようです。そこに日本人の住民が相当数住んでいたといいます。
 そこで日本人、260人が惨たらしく虐殺されました、それもただ殺されたのではなく女子供も見境なく、人間の尊厳も人類愛もない、動物以下の憎しみに満ちた殺され方をした日です。しかも犯人は、蒋介石の国民党軍でもなく、当時彼らと戦っていた共産党軍でもなく、防共を目的に作られていた街の保安隊だというのです。チャイナというのは動物以下に成ってしまう民族だということを知らしめた事件です。
 正義感とか論語の世界はチャイナでは千年以上前に消え絶えていたということは察していますが、清朝末期ぐらい、滅茶苦茶な国とも思えない体たらくですが、その体質はいまも変わっていません。日本史の潔さはこの通州事件をきっかけに、シナ事変を始めたと出ていますが。しょうすうみんぞくはこの程度のことを戦争とは言いませんでした。
 戦争というのは、国を相手に戦うことです。その頃のチャイナは国と呼ぶにはあまりにも不様な状態でした、少数民族がやたらに多く、その頃の皇帝はまだ歳若く、実権はその祖母とも言うべき西太后という老婆が握っていました。というのは何べんも映画や物語で、知られています。映画ではラストエンペラーというハリウッド映画がやたらに金をかけて創っていますが。最近のハリウッドはネタ切れなのです。
 日本が本気になってチャイナを相手にしないのは、チャイナには国としての実体がないからです。暴力団の親分見たいのはあっちこっちにいます。それらの日本の邪魔をするものを、一つ一つ潰して、満州は生まれ変わったのです。ソ連の赤化運動を防ぐ為、朝鮮を独立させたかったのですが、ここも国の体を為していなく、やむなく日本は武力を持って立ち向かったのです。
 日清事変として煩わしいヤクザ物を片付けるくらいの気持ちで武器を持ったゴロツキをやっつけているうちに、それらの親玉は、いつの間にか蒋介石になっていました。しかしチャイナの中は、色々な勢力が巣食っていて、その中の一人が毛沢東です。支那人は昔から食べられるうちは革命は起きなかったそうですが、人間関係は酷薄です。
 支那事変も始めてから半年で、その頃中華民国と独立国として認められたかどうだか分かりませんが、その首都、南京を落としました。チャイナが弱いのもそうですが。農民や庶民は上が代わることは慣れっこで、どこの誰が権力を握ろうが、自分達の生活には、タダの関係のない話でしたし、特に日本軍は、一般人には手を出しません。規律は珍しく武士道を地で行っていましたから、歓迎され、一直線に首都を占拠しました。
 チャイナ人は弱いものには嵩にかかって向かってくる人種です。強い物には媚びまくります。こんな人種ではなかったはずですが、何べんも他民族の獰猛な人種に征服され、酷い目にあっていますから。人種も屈折しています。生きる知恵としてこのような世界でも厄介な人種が出来上がったのでしょう、南京占拠もそれほどの労なくして、民衆に歓迎されながら入場したと思います。
 ではなぜ南京の場合はうまく行って、通州の場合はこういう惨劇が起こったのかということを考えて見ますと、通州の場合は弱く見えたのでしょう。圧倒的に弱く見えたのでしょう。しかも劣等感の塊ですから、見境がつかなかったのでしょう。周りの人に、詰まらない見栄を張ったのでしょう。究極のいじめを回りに見せつけ、そんな詰まらない自分を誇らしく思うほど荒んだ精神をしていたのでしょう。
 それが南京の場合は、軍隊の出動です。周りの人たちは自分達を苦しめていた蒋介石国民軍をやっつけに来た神の軍隊に見えたのではないでしょうか。だからあっさり占領しました。そんな軍隊が南京大虐殺をするはずがないということは火を見るより明らかですが、世の中は自分達の都合で、物事を捏造します。アメリカの都市無差別爆撃、広島、長崎の原爆投下など、戦争犯罪を隠す為、チャイナの捏造南京大虐殺に一緒の乗っているに過ぎません。
 日本の政治家が、これらの利権関係を清算しない限り、この問題は、いつまでも続くでしょう。つまり日本はまだまだ余裕があるのです。しかし通州事件は、教科書に載せるか、テレビで取り上げるか、もっと日本人に知らせるべきですが、日本人は余裕がありすぎです。そんなに余裕があるのなら、チャイナなどと仲良くなる必要がありません。
 雑誌『正論』8月号の、【 (総力ワイド)恥を忘れた『ニッポンジン』・カジノ大王、井川一族にみる、戦後教育の致命的欠陥
】の中で筆者の、中条高徳氏がその中で次のように述べています。
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 ・・・・・・・[ 士は節義を嗜む ]
 そもそも我が国は長い武家政治が続き、「士農工商」と呼ばれた封建社会であった。武家に生を受けた者は、たとえ貧乏であろうが親子共に、[世のリーダーになる]との自覚が強かであった。五、六才になると必ず藩校に通い、[人間学]を説く四書五経(論語・易経など)を徹底的に教え込んだ。
 会津若松藩の「什の教え」が有名であるがリーダーとして(武士として)身につけなければ成らないことは悉く叩き込み、「ならぬことはならぬ」と仮借なく躾けた。
 明治のリーダー達は悉くこのプロセスを踏んだ。鹿児島の加治屋町から偶然、大山巌や東郷平八郎が生まれたのではない。「郷中教育」で磨きだしたのだ。薩摩の「出水兵児(いずみへこ)収容掟」を見ると数え年六歳から十四歳までを「兵児二才(へこにせ)と呼び徹底した人間学を教え込んでいた。昨今の甘い家庭・学校の教育・躾と比較する為一端を紹介しよう。
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 「士は節義を嗜み(たしなみ)申すべく候。節義の嗜みと申すものは口に偽りを言わず、身に私を構えず(私利私欲は考えない)、心 直にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂わず、下を侮らず人の患難を見捨てず、己が約諾を違えず、甲斐甲斐しく頼母しく、(中略)、譬(たとい)恥を知りて首刎ねられるとも、己が為すまじき事をせず、其心鉄石の如く、また温和慈愛にして、物の哀れを知り人に情けあるを以て節義の嗜みと申すもの也」と。
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 この一節、身にしみて、感じいりました。西郷隆盛、大久保利通も加治屋町の出身です。まことに貧しい一角で鹿児島に行ったときでさえ、バスで素通りでした。歴史としてこの精神が軽んじられ、日本の質が見事に衰えだしているのですが、まだ希望を捨ててはいません