歩かない旅人

牛乳を毎日飲む人よりも、牛乳を毎日配達している人の方が健康である。

 メディア自体が恥を忘れたどころか、元々無い。

2012-07-18 11:10:22 | 月刊雑誌。週刊雑誌を読んで

    
 雑誌『正論』8月号の、総力ワイドは、≪恥を忘れた『ニッポン人』≫、となっています。日本人ということになっていますが、中には成りすましもいることでしょうから、今の風潮が、まさに恥じも外聞も無いメディアを中心に、この日本をどうにかしようという勢力に、満ち溢れています。
 河本潤一、鳩山由紀夫、菅直人、大王製紙の井川一族、タレントの猫ひろし、辻本清美、若宮啓文、美味んぼの雁屋哲、等々、胸糞の悪い名前が並んでいます。恥なんか毛とっくに投げ捨てた人たちはあと幾らでもいるでしょう、情けない世の中になったものです。今日はその中から潮匡人氏の朝日新聞主筆、若宮啓文氏を取り上げてみたいと思います。かってのメディアの王様だった時代もありましたが、今や汚いものの代表みたいに見られている、オゾマシイ存在です。
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 《 雑誌『正論』 8月号掲載より 》
  「 (総力ワイド) 恥を忘れた『ニッポン人』 」
 【拝啓、朝日新聞主筆殿・・・そんなに日本がお嫌いですか・・・・・】
      評論家      潮 匡人
 《 大陸や半島の風になびく 》
 いまも朝日新聞の“顔”として、論説を仕切る。論説委員、政治部長、論説主幹と、陽のあたる王道を歩んだ。現在「上席役員待遇」、名実ともの、「主筆」である。1948年(昭和二十三年)生まれ。「激しい大学紛争の時代をくぐりぬけ、70年代に朝日新聞社の記者となった」。「典型的な団塊の世代」である。朝日の公式サイトでご本人がそう自己紹介している。
 御自身の表現を借りれば、「厳しい軍事独裁の全斗煥政権時代、しかも教科書問題で『反日』が燃えさかったころ」韓国ソウルの延世大学に留学。2001年には(米民主等系のリベラルなシンクタンク)ブルッキングス研究所の客員研究員としてワシントンに駐在。現地で同時多発テロに遭遇、「歴史の転機となった惨劇を身近に体験し、異常な空気に包まれた米国で過ごした」。
 帰国後、論説主幹となり、朝刊紙面でコラム「風考計」を連載。タイトルに込めた思いをこう述べた。「戦後政治の歴史的な縦軸と地球規模の国際的な横軸の中で、日本の風向きや進路を考えていく」・・・・若宮主筆の立脚点はここにあると思う。「歴史的な縦軸と地球規模の国際的横軸の中で」、考えるのはよい。問題は、「歴史的な縦軸の長さである。なぜ「戦後政治」なのか。「戦後」以前の歴史を排除した理由が分からない。想像はつくが納得は出来ない。
 本来、拠って立つべき歴史的な縦軸は悠久の歴史伝統に根ざす。だから苦難に耐え、倒れることを知らない。希望に向かって永遠に伸びて行く。昨年十月号の本誌拙稿でそう書いた(「保守こそ希望を語れ」)。あえて漢字で表せば〔聖〕だとも書いた。ビジュアルなイメージを描くなら、伝統という地面にしっかりと根を張り、天上へと永遠に伸びていく太い樹木。
 そうした垂直次元の聖なる縦軸こそ、保守すべき「歴史的な縦軸」である。樹齢を重ねた太い樹木なら、少々の風ではビクともしない。他方、高々半世紀あまりの、「歴史」しか持たない樹木は、風に押され、根こそぎ倒れてしまう。結局「地球規模の国際的な横軸」という名の水平次元が支配する。風向きによって目指す方向が変わってしまう。「風考計」と称した風見鶏でしかない。だからブレる。大陸や半島から風が吹けば、なびく。その代表例は、2005年(平成十七年)三月二十七日付紙面に掲載された「風考計」であろう。中でこう書かれている。
 ・・・《竹島を日韓の共同管理に出来ればいいが、韓国が応じるとは思えない。ならば、いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する。/見返りに韓国はこの英断をたたえ、島を「友情島」と呼ぶ》・・・・・
 世論に最大の影響力を持つ全国紙に掲載されたのだ。単なる「夢想」では済まされない。上を含め、「風考計」はすべて英訳され、「ヘラルド朝日」にも掲載された。英文を含め、『右手に君が代、左手に憲法・・・・漂流する日本政治』(朝日新聞社)、と題して出版されている。内外への影響は計り知れない。
 あのコラムの問題点を、いまさら本誌読者に説く必要はなかろう。多くの論者が非難してきたし、私も本誌で詳論した(2007年8月号)ので控えるが、一点だけ追記したい。コラムは「元々漁業の他に価値が乏しい無人島だ」とも書いた。もし、竹島を譲れば、島を基点とした広範な排他的経済水域(EEZ)も失う。EEZ内の海底資源を含め、失われる国益は計り知れない。
 「価値が乏しい」どころか、海洋国家・日本にとって死活的な価値を有している。ちなみに、若宮客員教授(東大大学院)は、東京大学公共政策大学院の公式サイトで、上記著書を「主要研究業績」に挙げている。加えて読売新聞の渡部恒雄主筆との雑誌対談も挙げているが、ともに学術的な価値は微塵もない。東大の権威もちに堕ちた。
 《 中国が反発するからダメ? 》
 韓国留学経験からか、主筆に就任したいまも、韓国贔屓は健在である。現在のコラムは題して、「座標軸」。今年三月二十六日付朝刊紙面のタイトルは、《従軍慰安婦問題 「おわび」生かし打開しよう》。こう書いた。・・・《愚かな泥試合になりかねない。それを避けるためリスクを冒して投じた、李大統領のボールは野田首相が返す番である》・・・・・。
 私は正反対ではないかと思うが、主筆のお考えは違う。確信犯だ。「日本には慰安婦に対して国家の責任はないという右派の声も厳しい。だが(以下略)と書き、「おわび」を説く。そもそも責任がないなら、謝罪する必要も、賠償する必要もない。「右派」に限らず、それが国際法上の通説である。逆に、謝罪すれば、裁判上の自白に等しい効果が生まれる。ないはずの責任を負う。朝日主筆が説く謝罪外交を、私は自殺外交と呼んでいる。
 半島に向けた若宮主筆の温かい眼差しは、三十八度線を越えている。昨年十二月二十二日付「座標軸」で「北の後継者にどう臨む、不安やわらげ転換うながせ」と題し、「いま各国がすべきは外からの不安を和らげて希望の光を示すことだ」と書いた。強い異論を禁じ得ない。昨年末も今も、各国がすべきは、外からの圧力を強めることだ。後継者の不安を募らせ、揺さぶり、独裁体制を倒す。その先にしか希望の光はない。
 今年四月二十三日付、「座標軸」も看過しがたい。題して《石原都知事の挑発、日中政府は大人の対応を》。端から、都知事の決断と行動に、「挑発」のレッテルを貼る。本文でも、「石原氏の挑発なのだ」と断じながら、「屈折した情念」、「挫折感が重なって」、「屈折した思い」等など、人格攻撃に近い揶揄誹謗を連ねた。大人げない。子供じみている。朝日主筆こそ、「大人の対応を」すべきであろう。表現同様、中身も酷い。
 ・・・《東京都がこの諸島を買うのは筋違いなだけでなく外交上も決して好ましくない。なぜなら、村山首相談話が謝罪したアジア侵略の責任を強く否定する石原氏だけに、東京都が島を買うとなれば、中国の反発は歴史認識とからみあい、領土の問題がより難しくなるに違いないからだ》・・・・・。
 要するに中国が反発するから、ダメだという論法である。「外交上も決して好ましくない」というが、外交にすら、なっていない。反発のない外交など存在しない。法律上、外務省は「国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ることを任務とする」(外務省設置法第三条)。中国の反発を恐れ、国益を犠牲にする「外交」は法的にも倫理的にも許されない。
 そもそも、尖閣諸島は日本固有の領土である。歴代内閣も、日本共産党も、そう明言してきた。朝日新聞もそう認めている、と思っていたが、一抹の不安がよぎる。《日中政府は大人の対応を》との題が象徴するとおり、中立的なスタンスに立とうとしているのか。欧米の新聞ならともかく、この問題で日本の新聞が中立などありえない。
 あろうことか、むしろ中国よりのスタンスに立っている。日本の東京都知事に厳しく、大陸の共産主義国家にはやさしい。若宮記者の筆は、総じて半島や大陸になびく。一貫して日本に冷たい共産主義思想に理解を示すのは勝手だが、これでは、主筆ならぬ朱筆ではないか。
 いや、思想以前に人間性への疑問が残る。「朝日新聞主筆、女・カネ・中国の醜聞」と題した『週刊文春』(5月17日号)の記事内容が事実なら破廉恥きわまる。「不徳の致すところ」(若宮氏)で済む話ではない。都知事の人格を揶揄誹謗する資格があろうか。若宮主筆には「座標軸」がない。有るのは、水平次元の横軸だけ。垂直次元の縦軸を持たない。だから座標軸を描けない。連載コラムの題は皮肉に思える。
 廉恥廉潔(恥を知る心。心が清く、私欲がなく、行いが正しいこと)、は聖なる次元出生まれる。聖なる縦軸を持たないから、文字通り、破廉恥となる。リベラルな俗物は私利私欲が蠢く水平次元でしか生きられない。若宮主筆はそうした世代、そうした思想を代表している。それ自体、恥ずかしいことだと私は思う。
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 何が情けないといって、一部ではまだ朝日新聞神話が、まだ残っているという事です、政治家の一部はまだこの新聞の記事に世論が動いていると信じて政治に反映させているということです。全く昔のカビの生えた理論で、心に葛藤が生まれないのでしょうか、本当に恥を忘れたというか、厚かましくも、羞恥心というものを初めから持ち合わせてはいなかったのでしょう。
 しかし、朝日に関する悪い噂は、よくも次から次へと出てくるのに、朝日新聞の持つムードとか理論形態が世の標準になっているのに愕然とします。それが顕著に表れる世界が、テレビメディアです。テレビの信用度が落ち始めたのもうなづけます。