歩かない旅人

牛乳を毎日飲む人よりも、牛乳を毎日配達している人の方が健康である。

 左翼的文化人の化けの皮を剥ぐ。

2012-07-28 12:05:50 | 産経新聞を読んで

 産経新聞土曜日には、オピニオンページにかって活躍した言論人の言葉が再録されています。今日はオリンピックで朝からテレビは浮かれていますが、なるべく触らないように避けていますといっても、中々それは困難なことです。オリンピックの入場式はあれが最善なのでしょうか。東京オリンピックの身の引き締まる、尊厳と誇りに満ちた、入場式はあれが最後になりました。
 それでは昭和正論座のできれば全文を載せたいと思います。著者もいままで聞いたことがありません。書かれたのは昭和57年2月5日掲載となっていますから、30年以上前になります。その頃から産経新聞はこの路線を走り続けていたことになります。親会社がフジテレビになった今、この路線を堅持するのは難しくなるのでしょうか。あるいは世論を背景に強くなっていくのでしょうか、注目すべき成り行きに日本の運命がかかっています。
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 【 《昭和正論座》 崩壊した左翼的知識人の論理 】
    東大教授  辻村 明   昭和57年2月5日掲載
 《なぜ正当化したがるのか》
 ある大学の先生は、碁が好きで学生とやって勝つと、「お前は頭が悪いなあ」といって学生をやっつけ、学生に負けると、こんどは「お前は碁ばっかりやっていて、ちっとも勉強しない】といって、また学生をやっつけたという。
 こうしたやり取りが面白いのは、どっちに転んでも自分の立場は維持できるようになっていて論理的な肩すかしが含まれているからだ。勝ったときに「お前は頭が悪いなあ」という論理を使うのであれば、負けたときには「お前は頭がいいなあ」となるのが論理的帰結であるはずだが、それでは自分が完全に負けたことを表明することになってしまうので、何とか別のがやくにたつ論理を使って、自分の完敗を回避しようとするわけだ。
 そこで、「お前は碁ばかりやっていて、ちっとも勉強しない」と別の論理を持ってくる。こうした「いいわけ」の論理を分析するのに、社会心理学で最近、評判の「帰属論理」が役に立つ。これは行為の成功・失敗の原因を何に帰属させるかを研究する分野で、一般的に言って、成功の原因は自分の「能力」や「努力」といった内的な原因に帰属させ、失敗の原因は「課題の困難性」や「運」といった外的な原因に帰属させるという理論だ。
 人間、誰しも自分は可愛いから、成功しても失敗しても自分の立場は維持したい。そして成功した場合には、自分の内的な「能力」がすぐれていたからであって、ラッキーな外敵条件によるのではないと積極的に自己を主張したいし、失敗した場合には、自分の「無能」の故ではなく、外的な条件がたまたま悪かったのだと、「いいわけ」をしたいわけである。個人にしろ集団にしろ、我々は多かれ少なかれ、こうした「いいわけ」をおこなっている。
 《 左翼知識人の詭弁の論理 》
 私は最近、雑誌『諸君!』の一月号と二月号に、朝日の論壇時評を批判する長文を書いた関係から、左翼知識人達が使う詭弁の論理を分析することに興味を持っている。いくつかの具体的な例を挙げてみよう。
 大分古い話になるが、昭和30年代のベストセラーの一つに、遠山茂樹氏他の『昭和史』が有った。これは基本的に言って、日本共産党の動きを中心にして。昭和の歴史を記述したものであるが、共産党が躍進した時には、共産主義イデオロギーがすぐれているが故に、大衆の支持を獲得したのだと説明され、共産党の勢力が退潮したときには、社会党と共産党とが共食いになってしまって、選挙戦術が拙かったのだと説明されている。
 共産党の勝利が、イデオロギーの優秀性に帰属されるのであれば、共産党の敗北はイデオロギーの劣悪性に帰せられて然るべきなのに、共産主義イデオロギーは、「神聖にして犯すべからざるもの」として祭り上げられ、外的な戦術的条件に原因が帰属されていくのである。
 『諸君!』の拙稿では、戦後三十五年間に渡って、朝日の「論壇時評」で活躍した錚々たる進歩的文化人たちを取り上げ、相当に遠慮のない批判を加えたのだが、今のところ、誰からも反論はない。批判された人たちは、相当腹に据えかねていると思われるが、「黙殺」することが「安全」だと見ているのだろうか。何か反論があったら前述の「帰属理論」を酷使して、論理的に論駁して行こうと待ち構えているのだが、中々相手はでてこない。
 そうしたなかで、現在、朝日の「論壇時評」を担当している高畠通敬氏が一月二十九日付夕刊の「論壇時評」で拙稿を批判したので、それを取り上げてみよう。私は朝日の、「論壇時評」もおそらくは黙殺してくるのではないかと思っていたが、例え批判的にせよ、取り上げてくれたことは有り難いと思っている。まず第一に、拙稿の題名、「朝日新聞の仮面・・論壇時評の偏向と欺瞞をつく」がそのまま印刷され、朝日の読者に初めて知らされたことに感謝しなければならない。
 というのは、一般読者は気付かなかったであろうが、『諸君!』1月号が発売になったときの朝日の広告では「朝日新聞『論壇時評』の研究』と変えられていたからである。
 《 変わった事実を説明せよ 》
 それはともかく、高畠氏の言わんとする所は、私が、「進歩的文化人」や、「左翼的知識人」の集団を想定して、執拗にそれを批判しているが、「これまでのような社会主義革命を理想と考える文化人の集団などというものは、すでにはるかな昔から存在していないのである」として、都留重人氏の、「新しい文化を創りだすために」(『エコノミスト』)。という論文を例証にあげている。
 都留氏としては例証に上げられて迷惑であろうが、この都留論文は、「自然と付き合って生きることの中に生活の内実の豊かさを求めた日本の伝統の再評価を求めている」ものらしいが、そんなことはとっくの昔に、保守的知識人が繰り返し指摘してきたことである。だから社会主義革命に夢を託していた時代の都留氏は、確かにそこにはいないが、どうしてそのように変わったのか。
 その論理的説明がない限り、それは単なるオポチュニズム(便宜主義)であり、日和見主義だといわれても致し方あるまい。私が批判したいことは、「進歩的文化人」たちが、「変わった」ということではなく、「変わった」事についての論理的な説明がないということなのである。
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 真剣に読めば読むほど、津留氏の論文の内容がわからない為か、今一つ生ぬるい論文になっている気がします。辻村明東大教授も、三十年前の津留氏の活躍も記憶にないためか、そして今この論文を何の為に取り上げたか意味不明です。しかしながら左翼的文化人のいい加減な生き方はこの前の原発反対デモの大江健三郎氏のふざけたアジ演説からもうかがえます。
 共産主義イデオロギーの、「神聖にして犯すべからず」的な笑ってしまうような幼稚な、カルトに似た考え方を、未だに持ち続けているのでしょうか。意地を張っているのか、もうそんな考えの人はいないという言葉がありましたが何をやっているんだかさっぱりわかりません。こんな日もあります。