いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

2月21日 日々の聖言

2015年02月21日 | 日々の聖言

「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17 

 

イエス様は「空の鳥、野の花」を見なさいと言われます。神様がすべての必要を満たし、

養って下さるからです。命も健康も、富も家族も、神様によって与えられたもの。見える

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聖書からのメッセージ(477)「主を待ち望む」

2015年02月21日 | 聖書からのメッセージ
 「イザヤ書」30章15節から18節までを朗読。

 18節「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」。

 「主を待ち望め」と、よく言われますが、「主を待ち望む」ということは、どういうことでしょうか?新約聖書のほうでは、「信仰」という言葉に置き換えられています。では、主を待ち望む、あるいは、信仰とは何か? と、これは「神を信じる」ということに尽きます。「ヘブル人への手紙」に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」とあります(11:6)。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」わけですが、その神に喜ばれる信仰とは、「神のいますこと」を信じることです。
世間一般でもそうですが、どこに行っても必ず神を信じる、広い意味で神を求める心というものが、人の心にあります。その対象はいろいろと違いますが、それはそれとして、人の心にある神様を求める思い、これは万国共通、あるいは全ての人にある思いであります。これは動物には決して無いのであります。たとえゴリラだとかチンパンジーだとか、いくら人間に似ていると言われるものであっても、神を求める心はありません。これは人にだけ与えられている神様からの賜物です。ただ残念なことに多くの人々は神様を求めると言いながら、まことの神様を知りませんから、間違ったものを神として拝んでしまう。これが私たちの置かれている世の中、世界、世間です。
聖書には、まことの神様は万物の創造者でいらっしゃる、全てのものの造り主でいらっしゃると。その御方は今も生き働いておられる。「神のいますことを信じる」とは、ただ単に神様がそこにおられるというだけではなく、神様によって私たち全ての者が今ここに在らしめていただいている、存在させられている。私たちが生きていることの根源、その始まりが既に神様のわざであった、と認めることに他ならないのです。宇宙も、また森羅万象も、ありとあらゆるものを、神様はご自分の御心に従ってお造りになった。私たち人も造られたものである。こうやって今日も元気で目覚めることができ、食事を頂くことができ、歩いてくることができ、礼拝に集うことができることも、これは神様のわざなのです。神様が許して私たちにその力を与え、わざを備えてちゃんとここに集うことができるように導いてくださったのです。「いや、そんな……、私は神様に導かれたつもりはない。私は昨夜から計画しておった。今朝は目覚ましを掛けて、この礼拝に間に合うように出て来たのは、私だ」と思いやすいのですが、それは大きな間違いです。私たちのなすこと、どんなことも神様によらないものはないのです。神様が許してくださるから、神様がそのように導いてくださるから成っているのであって、あり得るのです。そのことを信じるのが「神のいますことを信じる」ことです。

もう一つは「ご自身を求める者に報いて下さる」とありますように、神様は今も具体的に生き働いておってくださる、ということです。単なる“でくの坊”、飾り物としての神様ではなく、私たちが求めればそれに応えてくださる。また、神様を離れるならば、そのように神様は応答してくださる。生きておられる。エリヤがカルメル山でバアルに仕える預言者たち、偶像の神々に仕える人たちと一騎打ちをしたとき、「火をもて應(こたふ)るをと爲(な)すべし」(列王記上18:24文語訳)。お祈りをして、天から火をもって祭壇にささげた一切の物を焼き尽くす神様をまことの神様にしようではないかと提案しました。その結果、エリヤのひと言の祈りに答えて天から火を下してくださった、エリヤの信じた神、それはまさに聖書に証詞されている万物の創造者であり、今も御手をもって全てのものを統べ治めておられる御方。だから、私たちもこうやって地上に命を与えられた。それぞれの誕生日を迎えますが、まさにその日その時、両親の下に生を受けたこと自体、これは神様のご計画と神様の許しの中にあったことです。
では、それから後は自分でやって来たかと、そうではなくて、今に至るまで60年、70年、80年、その長い生涯を振り返ってみると、波乱万丈、いろいろな事の多い中ですが、その一つ一つの事の中に神様が働いてくださって、わざを進めてくださり、いま私たちがここに在るのです。私たちが神様を絶えず見上げて、神様と共に生きること、これが実は人として造られた私たちの生き方、人間の根本的な在り方です。しかし、それを忘れて多くの者が神様から離れて自分勝手で我がままな自己中心の生き方をしておりますから、不平不満、心配や思い煩い、いろいろなことが出てきます。

聖書を読んでおりますと、神様は度々「思い煩うな」「心配するな」とおっしゃいます。神様は私たちが悩んだり、悲しんだり、心配したり、失望したり、嘆いている姿を見たいと願っているのではありません。神様が私たちを造られたご目的は、私たちが喜び、感謝し、絶えず平安に満ちて、望みに輝いて生きている姿なのです。では、なぜそれができなくなったのか? それは私たちが造り主でいらっしゃる神様から離れてしまったからです。私たちは神様を知っています。皆さんも神様の話を聞いて、「なるほど、神様はいらっしゃるのか」と信じました。「でも、まだ私には心配がある、悩みがある。思い煩うことがたくさんあって、本当に困っています」という方がおられる。「だから、神を信じなさい」、「いや、私は神様を信じとりますが、どうしてでしょうか? 」と。「それは信じてないからです」。信じるとは、神様のいますことを信じる。しかも、神様は報いてくださる御方であると信じて行く。だから、どんなことがあっても、神様がその事を導いておられるのだ、と認めることです。

「イザヤ書」45章5節から7節までを朗読。

5節から7節に繰り返して、「わたしは主である」「わたしは神である」「わたしの他に神はない」と、神様は熱烈に語ってくださる。しかも7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し」と、神様は光を造られる方、また暗闇も造られる御方でいらっしゃる。「繁栄をつくり、またわざわいを創造する」と。いうならば、善いことも悪いことも、私たちにとって「これは幸い」といわれることも、「いや、これは不幸の極み」と思われる事柄も、どれもこれも全部神様が知らないことはない。いや、それどころではない、その一つ一つを神様が導いておられる。そこに置いてくださっている。これが「神を信じる」ことです。だから、思い掛けない交通事故に遭ったとか、突然大変な病気になったとき、「私は不幸だ」と嘆きますが、その病気も神様が造ってくださった。交通事故も神様が起こしておられるのです。「いや、そんなことはない。自分はちゃんと交通法規に従って間違いなく運転していた。悪いのはあいつだ。相手が暴走して来た」と、あるいは「相手がこうしたから、こうなってしまった」と、確かに見た所はそうですが、その事の背後に神様の御手があり、神様がその事件や事故、事柄を通して何か語ろうとしておられる。私たちに知ってほしいと思っていることが必ずあるのです。だから、不幸なこと、嫌なこと、つらいこと、悲しいことに遭ったら、それは人生のマイナスであって、その部分を自分の人生から切り離してしまいたい、捨ててしまいたい、と思いやすいのですが、実はそうではない。それも神様の恵みなのです。私たちには分からないが、神様がそれを必要としておられる。7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」とあります。だから、どんなことにも神様を信じて行きますならば、思い煩うことはいりません。「ああ、こんな目に遭ってしまった」「こういう辛いことになってしまった」「こんな悲しいことになってしまった。どうしよう」と嘆いても、どうしようも、こうしようもない。神様がそうしていらっしゃるのなら、「主よ、感謝します」と言えばいい。「主よ、感謝します。神様、あなたがこの苦しみの中に、この悲しい中に置いておられます。主よ、あなたはなにを語ってくださるのでしょうか」と、主を求める。神様を信じるとは、ここです。だから「主を待ち望む」「信仰に立つ」ことは、どんなことも人の力や人の業、誰かによって起こるのではなく、神様の御手に私たちは握られ、一つ一つのことを神様が主となり、導かれる。ですから、5節に「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない」と。

私どもは「しまった。あのときあんなことを言わなければ良かった」「あんなことをしなければ良かった。あれが不幸の始まりだった。その後、次々と悪いこと、不幸なことが続いて来た。どうもこれは厄払い(やくばらい)でもしてもらわなければ」と。「考えたら、今年は厄年だ。だから、仕方がない」と、そんな厄年なんてあるはずがない。神様は私たちを愛してくださる御方であり、限りないご愛をもって事を起こしている。「わたしは主である」とおっしゃいます。主でいらっしゃいます。私たちは自分の人生の主人公ではない。私たちはあくまでも神様によって書かれたシナリオといいますか、ストーリーの中を生きているだけです。神様がどのようにでもその道を整えてくださる。では、神様の好き勝手にされて、私のことを神様は考慮してくれないのかと。そんなことはありません。神様は私たちにいちばん善いことを願ってくださる。私たちの心の隅から隅までいちばんよく知っているのは神様です。私たちは「自分のことは自分がよく知っている」と思いますが、案外知らないのです。自分の仮想といいますか、夢のような自分を思い描いて「私はこんなだ」と思い込んでいます。周囲の人から見たら「あの人は言うほどではない」と、思われている。人は自分を正当に評価ができないのです。でも、神様は私たちの心の隅から隅まで全てを知っていてくださる。そして私たちに最もふさわしい事柄、必要なこと、神様が「よし」とおっしゃることを起こしておられる。これを信じて行きますと、つぶやくことがいらない、嘆くことがいらない。

それを信じられないのはなぜか。神様は私に罰を与えられるのではないかと恐れているのです。神様を求める心と同時に、神様を怖いと恐れる。恐怖です。神様は私を責めるのではないか。私をとがめているのではないかと。というのは、普段から自分の中にやましい所がある。自分の情欲といいますか、欲や何かで、あるいは自我で、人を憎んだり、嫌ってみたり、こけにしてみたり、いろいろなことで自分の心の汚れは自分がよく知っていますから、「あんなことを言わなければ良かった」「あんなことを思わなければ良かった」「あんなことをしなければ良かった」と、いつも後悔の念を引きずっています。「こんなことを神様に知られたらえらい目に遭わせられる」「神様は私を罰するのじゃないか」。だから、不幸な目に遭うと、すぐに「罰(ばち)が当たった」と言うでしょう。神様は怖い御方で、裁かれる御方、「私は裁かれて当然だ」と思っているから、怖いのです。人に対してもそうでしょう。「あの人にあんなことをしてしまった」と思ったら、その人の顔を見るのが怖いから避けて行く。「神様」と信頼をしているつもりだけれども、どこかで「ひょっとしたら、神様はあの事を知っているのではないか」と、神様の顔を避けようとする思いがあるから信頼できない。悲しいことに遭うと「これは過去にあんなことをしたから、神様から罰を与えられた」と、私たちはすぐ思う。ところが、神様はそうはおっしゃらない。神様は私たちに何としても善いことをしたいと願っている。

5節に「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない」と。万物の創造者、聖書によって証詞されている神様、目には見えないけれども、今も生き働いてくださる神様がおられ、しかもその御方は、「あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」と。私たちが神様を知らないとき、既に神様は私たちを知っておられた。「エペソ人への手紙」にありますように、「地の基を置かない先から」、まだ何にもなかった時代から、はるか昔から、やがて生まれてくるであろう私たちの姿かたちを知っておられた、とあります。そして私たちを「愛のうちにあらかじめ定めて下さった」(1:5)。私たちをこの世に命を与えてくださった神様は、懲(こ)らしめるために苦のシャバといわれるこの世に送り出してくださったのではない。愛をもって私たちを造ってくださった。

 「詩篇」86篇3節から5節までを朗読。

 5節に「あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者にいつくしみを豊かに施されます」と。なんと愛に満ちた神様ではないでしょうか。聖書は神様が私たちをどんなに愛していらっしゃるかを、「創世記」から「黙示録」にわたって一貫して語っておられるのです。「わたしはあなたを愛しているよ」と。ここでもそうですが、15節に「しかし主よ、あなたはあわれみと恵みに富み、怒りをおそくし、いつくしみと、まこととに豊かな神でいらせられます」。これは短く言うと「神は愛である」と言っておられるのであります。神様は「あわれみと恵みに富み、怒りをおそくして」、「いつくしみ」、慈愛とまこととに真実であって、「豊かな」、それに満ちあふれた神様です。そのような神様がどうして私たちを苦しい目に遭わせて、つらいことに遭わせて、「そら、見たことか、ざまを見ろ」とおっしゃる御方ではない。大切なのはここです。神様を信じると言いつつ、神様のご愛を信じようとしない。だから、ちょっとしたこと、思い掛けないこと、願わないこと、つらいことに遭うと恐れが湧(わ)いてくる、不安が来る。神様を信じることがどういうことなのか?

 「イザヤ書」30章に戻りますが、神様は私たちに「わたしは恵み豊かな者であるよ」と言いながらも、なおそれを悟ることのできない私たちのために、ご自分のひとり子を世に遣わしてくださった。そして私たちの罪のあがないの供え物として十字架に釘づけてくださった。「ひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神様は私たちを愛してくださる。「愛してくださるのにどうしてこんなつらいことがあるのでしょうか」と。それは私たちが神様のご愛を信じ続けないからです。神様は私たちを愛してくださる。それゆえ、苦しいことや辛いこと、悲しい出来事の中を通って、そこでしか味わうことのできない神様の恵みを知ってほしい、と願っておられる。私たちは悲しいことは避けて行きたい。辛いことは逃げ出したい、あるいは早く何とかしたい。ついそちらに行ってしまいます。しかし、神を信じて行くことは、今、このことを起こしていらっしゃるのは神様だと認める。

 「イザヤ書」43章13節を朗読。

 神様は全てのものをご自分の手に握って、持ち運んでくださるといいますか、それを実行してくださる。だから「わが手から救い出しうる者はない」。一旦、神様が「こうする」と決められたら、誰もそれを阻(はば)むことはできない。いや、それどころか、神様はその事を最後まで貫徹なさる、全うしてくださる御方です。だから、神様を信頼して、神様の手に自分を委ねきって行くこと、これが「信仰」「主を待ち望む」ことです。だから、信仰に立って行きますと、「これも神様がしていらっしゃる」となる。だから、思い煩うことはいらない。「それじゃ神様はこれからどのようにしてくださるか」。いつまでもその状態にあるわけではありません。必ず神様はそこから次なる手を打たれるのです。「主を待ち望む」とはこのことです。「今このことを神様はしていらっしゃる。いま私はつらい悲しい出来事の中に置かれて、真っただ中にあるけれども、ここから神様はどのように展開されるか。次なるステップはどうなるか」。大いに期待したらいいのです。望みを神様に置けばいいのです。ところが、私どもはそれができないのです。「早く何とかしなければ……」と。

 「イザヤ書」30章15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」。ここに「立ち返って」と、心を新しくして、「そうだ。このことは神様から出たこと。神様、あなたがこのことをご存じです。このことの始まりも、あれもこれもどれ一つ取って、あなたによらないものはありません」と、神に立ち返る。そして「落ちついて、穏やかに信頼する」のです。

 先だってもある一人の方が電話してきて、「こういう問題が起こって、今非常に心配で不安でいます。どうしたものでしょうか? 」と。「大丈夫、死ぬまでは生きているのだから、安心したら」と言った。「そういえば、利三郎先生もそう言っておられましたよね。『人は死ぬまでは生きている』と、確かにそうだとは思うのですが、でも心配です」と。
皆さん、いま何を心配していますか?あなたの晴れやかな顔を曇らしているものは、いったい何なのか? それは「こうなったらどうしようか」「ああなったらどうしようか」「早くしないとどうなるか分からん」と、焦る気持ち、自分の頭では考えきれないがゆえに「どうなるやろうか」という不安。考えられないのは当り前です。私たちの知恵は実に小さなものでしかありません。神様の手の中にあるのです。主の手の中に落ち込んで主を待ち望んで行く。信仰は、ある意味で忍耐という言葉とくっ付いたものであります。私たちは主を待つのです。15節に「立ち返って、落ち着いて」「穏やかにして信頼して行く」、そうすれば「救われ」「力を得る」。これが私たちの最善の生き方であります。「しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」と。そのとおりであります。私どもはそういうことをあまり好まない。待てないのです。焦る。「早く何とかしなければ…、どうしようか」と。

 先だってもある一人の兄弟と会ったのです。彼はそれまでパートで働いていた。今まで週に何十時間か働いていた。ところが4月からガラッと組織が変わって、彼の働く時間数が1ヶ月に5時間か6時間に減らされた。家族がいるから養わなければいけない。どうするか? 「先生、どうしましょうか」と、「どうしましょうかって、なったら仕方がない」と。「いや、そんな冷たいことを言わないで、何か方法はないですかね」と。「ある」と「え!何ですか?」「お祈りしなさい」と言ったのです。「あなたに今の仕事を与えたのも神様。神様がそこで止められた。次も神様がちゃんと用意してくださるから、慌てなさんな」と。言ったものの、こちらも不安になってお祈りします。一生懸命に祈る。そうすると、「そうだ。これは神様から出たこと」。「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)エホバその名をエホバと名のる者かく言ふ 汝われによび求めよわれ汝に應へん」、「エレミヤ書」33章のお言葉ですが(2,3節文語訳)、「事を行うエホバ」とあります。小さいこと、大きいこと、ひっくるめて全てのことを進めていらっしゃるのは神様である。「事をなしてこれを成就(とぐる)」と、神様がその事を最後まで持ち運ぶと。神様の力ある御手に、大船に乗らなければいけません。自分の小船に乗って波の中を行きますならば、すぐ転覆します。
よく父がそう言っていました。『どうなろうと、こうなろうと』と。どっちにひっくりこけても神様の手の中にしかないのであります。だから、ここで「立ち返って」「落ちついて」「穏やかにして信頼しなさい」。ところがこのことを好まない。どうしたか?16節に「かえって、あなたがたは言った、『否、われわれは馬に乗って、とんで行こう』と」。「いや、そんなことは言っておられない。そんな神様を待っている時間がない。早くあれをしなければ、これをしなければ」と。「あの人に頼もう」「この人に頼もう」「あっちに行け」「こっちに行け」。右往左往走り回る。「われわれは馬に乗って飛んで行こう」と、いま皆さんが探している馬はどこにあるのでしょうか? あの人に、この人に、あれはどうなる……。その後に「また言った、『われらは速い馬に乗ろう』と」。馬は馬でももっと速いやつがある。もっと役に立つやつが……、方法、方策、私たちはすぐそういう所に思いが行ってしまう。そうすると、不安と心配と思い煩いの渦(うず)の中に引き込まれます。どんどん底なしの中に……、夜も眠られなくなります。そういうときこそ「立ち返って」、事が起こった時、ドシッと心を定めるのです。思いを神様に向ける、つないでしまう。「神様、いま私はこういう状態の中にあります。しかし、これも神様、あなたのわざであることを信じますから、どうぞ、よろしく御心のままになさってください。いま私がすべきことは何でしょうか」。神様を信頼して、神様が何をどうせよとおっしゃるか、それを待つ。これが大切です。すぐに右から左に飛びださない。「しばし、待て」。
皆さんによく申し上げるように、人から何か言われたときに「え!どうしよう。早く何とかしなければ」と、あちらに電話をし、こちらに電話を掛けまくって、周囲の人からひんしゅくを買うのです。そうすると、そのうちにあの人からの電話は「すぐ切ろう」となるのです。だから、心を落ち着けて、事があったときに、まず「汝ら静まりて我のたるを知れ」(詩篇46篇10節文語訳)。神様の前に出て、祈って、「神様、何をどうすべきでしょうか。今このことはあなたが始めたことです。どうぞ、あなたの道を拓(ひら)いてください、教えてください」と。どうぞ、待ってください。一日や二日、一ヶ月、そのくらい待ったって、事はひっくり返るわけがない。そこでジッと待っていると、向こう側から事が変わってきます。こちらが働き掛けなくても、事柄は向こうから変わって来ます。これは神様がなさることです。神様が道を拓(ひら)かれます。だから、私はよく皆さんに言うのですが、決して自分から「こうなったら、ああしようか。こうしようか」「あっちに行こうか。こっちに行こうか」と言わないで、ただ黙って待つ。神様を信じて祈って、神様の時を待つ。というのは、神様がその事を始めなさったならば、最後までそれを全うなさるのも神様。神様のご計画の中で、スケジュールの中にその事は進んでいるのだ、と認めて行く。そうしますと、自分であれこれ思い煩わないで、神様のわざが次に起こる時を待つのです。

イエス様がカナの村で婚宴に出ました。マリヤさんが「ぶどう酒が無くなった」と伝えました。そのときイエス様は何とおっしゃったか。「わたしの時は、まだきていません」と。お母さんから言われたら「そうか、じゃ、買いに行こうか、どこに行こうか。お金はどうしよう、何しよう」と、そんなことをイエス様はひと言も言われない。「わたしの時は、まだきていません」。どうぞ、皆さん、「あなた、こんな大変なことになったよ!」と言われたら、「わたしの時は、まだきていません」と。神様を待つのです。お医者さんから「あなたはちょっと手遅れかも……」と言われたら、「わたしの時は、まだきていません。死ぬ時ではありません」と。イエス様は「ラザロが死んだ」と聞いたとき、まだ二日間も行かなかったのです。マルタさんもマリヤさんも「イエス様、あなたがいてくれたらよかったのに」と言われても、神様はご自分の時、スケジュールに従って事を進めていらっしゃる。だから、神様の手を超えて私たちが走り出したら、奈落の底ですから、そうならないために、どうぞ、ジッと腰を据えて、主の時を待つ。
18節「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」。「主は待っていて」と、神様はちゃんと見ていらっしゃるのです。「また走り回って、あの人は……」と。神様は上の方からご覧になって笑っていらっしゃる。「まだ、わたしの時は先なのにそんなに焦らないで」と。神様は恵んでくださる御方、その後に「それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる」。神様が立ち上がって、事を動かし始められる。それまでどうでもこうでも動かない。「これはもう諦(あきら)めるしかない」と思えるような事柄が、神様が働き始めるとにわかに、がぜん、事が大回転します。ひっくり返ります。どんなに人が、あっちから攻めてもこっちから攻めても、うんともすんとも言わなかった事態や事柄が、神様の「よし」と見給う時が来ると、全ての事態は変わって行きます。だから、そこまで私たちが耐え忍んで、主を信じて行く、これは信仰の訓練です。

どんな時にも恵もうとしてくださる神様がおられるのです。神様は私たちを愛するがゆえに恵もうとして待っていらっしゃる。だから、早く降参して、手を挙げて「神様、あなたに一切をお任せしますから、よろしくお願いします。私がすべきことがあったらどうぞ、おっしゃってください。どんなことでも、何なりとさせていただきます」と、神様の前に出て行くとき、神様はご自分の力でわざを始めなさる。これが信仰に生きる生き方です。だから、信仰生活というのは、ある意味で非常にダイナミックです。躍動的です。祈りの生活と言うと、動かないジーッとした生活の様ですが、そうではない。私たちがお祈りしていると、神様のほうが次から次へと思い掛けないことを起こしてくださる。その中を喜びと感謝と望みと平安を得させていただいて、勝利から勝利に導かれて行くのです。神様はそういうドラマチックな人生を私たちに与えようとしてくださる。「いや、もう80歳。もう結構です」と、あと何年生きるか分からないから、できるだけ静かに、老後を静かに消えて行きたい、なんて、そのようには神様はなさいません。もっと華やかな、もっと波乱に満ちた最後を導かれます。そのために大切なのは信仰です。神様を信じることです。

18節に「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる」。神様は私たちを憐れんでくださる。「主は公平の神でいらせられる」。信頼する者にはそのごとく、信じない者にはそのようにきちっと応えてくださる。また「すべて主を待ち望む者はさいわいである」。神様の御手に一切を握っていただく。「どうぞ、よろしく」と。先のことは分かりません。明日のことも分からない、次のことはどうなるか分かりません。知っていらっしゃるのは神様、神様は何でも知っていて、ご計画の中で私たちを導かれるのですから、いま受けている、与えられている、置かれている持ちが立場、その問題も、そのことも実は神様が与えておられる。そこでしっかりと神様に立ち返って、主を待ち望んで行く者となりたいと思う。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。