「ヘブル人への手紙」10章32節から39節までを朗読。
36節「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。
ここに「忍耐である」と、耐え忍ぶことが勧められております。「信仰」と「忍耐」とは、表裏一体といいますか、一つの事です。神様を信じていれば忍耐なんかいらないように思いますが、しかし、信仰生活は、私たちの全てを神様の手に委ねる、ささげることに尽きるわけです。今朝もこうして元気で朝目覚めて、この集会に導かれ、この後も遣わされたそれぞれの所で生活を営んでまいります。日常生活のあれをしたり、これをしたりと日常茶飯の雑事に追われて一日が終わりますが、その全てが神様の手の中に握られていることを信じる。これが「神のいますこと」を信じることに他なりません(ヘブル 11:6)。
自分の計画、自分の考え、自分の予定、そういうもので一日の時間が過ぎて行くように思いますが、決してそうではないのです。いくら私たちが願ってもできないことがあります。また、いくら私たちが「面倒くさい、疲れた、嫌だ」と言いながらも、やむ無くしなければならないこともあります。そのように自分の考えどおり、思いどおりに全ての事を推し進めているわけではありません。このことをまず私たちは信仰生活の土台に置いておかなければ、神様と私たちの間が遊離してしまう、離れてしまうのです。だから、常にそこに自分を置くことを訓練していく。これが「自ら敬虔(けいけん)を修行せよ」(Ⅰテモテ 4:7文語訳)といわれていることです。
日常生活の朝から夕べまで、あるいは生活の全て、人生の全てが、実は見えない神様の手に握られ、今日ここに生かされ、許されて在るのです。だから、神様が私たちに一つ一つの事を起こしてくださる。つまらないことでも、人がしているのではない。神様がなさっておられる。これを全てのことに認める。これが私たちの信仰であります。だから、私たちはイエス様の救いにあずかったとき、「全てが主のものです」、「これは私のものではありません。一切神様、あなたのものです」と告白しました。私たちは「 生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」と告白しているのです(ローマ 14:8)。だから、私たちの生活の中心に神様が常に立っている。
イザヤ書に神様は「わたしは神である、今より後もわたしは主である」と、繰り返し語っている。「神である」「主である」とおっしゃるのです。それほど大切な事だからです。私どもはすぐにそれを忘れます。そして自分の力と自分の考えで何か事を進めて行く。「これが良いに違いない」「これが幸いに違いない」「こうすることがベストだ」と考えて、事を持ち運ぼうとするのです。しかし、どんな事にも神様のご計画があり、御心があるのです。だから、常に神様の御思いを自覚していくこと。何かつらいことや思い掛けないこと、願わないことがあっても、そこに神様が語ろうとしていること、教えようとしてくださることがある。日常生活でつらいことや苦しいこと、病気になったり事故になったり、何か事が起こると、「何でやろう」「どうしてやろう」と、不安になったり恐れを抱いたりします。ところが、神様がその事を起こしていらっしゃるのです。「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)」とおっしゃるでしょう(エレミヤ33:2文語訳)。病気を与えるのも神様、じゃ何のためにか? 私たちにその事を通して知ってほしいこと、私たちが変わらなければならないこと、神様が願っている、求めていることがあるのです。神様が私たちの生活の全てを握って導いてくださると信じる。それと同時に、神様が今このことを通して私に語り掛けてくださる、私に求めておられることがあると、受け止めることなのです。
人はことがあると、すぐ「私は被害者だ」「私は不幸な人」「私は可哀想な人」という思いになります。私に悲しい思いをさせるあの人がいけない。あの人が問題、この人が変わらなければいけないと、そちらのほうに思いが行きます。そのとき神様を見失ってしまうのです。「いま私はこういう悲しいことに出会った」「こういうつらいことに出会った」「こういう問題の中に置かれた」。取りあえず、その具体的な事柄を解決する手立てを考えることも必要ですが、「どうしてこんなことになったのだろう」と思うとき、その「どうして」というのは、原因究明というより「何のために、何を神様はこのことを通して私に教えようとしておられるのだろうか」「今このことを通して神様は私に何を語っているのだろうか」と求める、ここが大切なのです。
そこに行かないで、まず「私はどこにも落ち度がない。私に何にも悪い所がないのに、何でこんなことになった」と、私の人生、「いつどこで間違ったのかしら」と考えてみたら、「あの人がいけなかった」、「あのことが問題だった」というように、そちらに中心が移ってしまう。その結果、せっかくの神様の御思い、恵みを取り逃がしてしまうのです。だからどんなことがあっても、その原因を誰彼が悪いとするのではありません。実は神様が今このことを通して私に求めておられること、願っておられること、私が変わらなければならないことがあり、心のどこかに神様が指を指している、「そこが駄目だよ」「そこを改めなければいけないよ」と言ってくださる声が聞こえているはずです。
それを聞きながら、なかなか「はい」と言えない。これがいつも大きな妨げです。だから、惜しいと思います。いろいろなことに遭うと、「それは本当に幸いなことだな」と思う。ところが、当事者にしてみれば幸いどころではない。不幸の極みですから、「こんな目に遭いたくなかった」と思うに違いない。そこで嘆いて身の不幸を悲しんで、悶々として心に憂鬱(ゆううつ)な思いを持って過ごしているとすれば、それはまことにもったいないといいますか、惜しいことです。なぜならば、そのとき神様から頂くものがたくさんあるのです。何か事があったとき、人のせいでも周囲のせいでも環境のせいでもない。神様にいちばん近い所に置かれている。神様が語り掛けてくださる時です。これを信じるのが私たちの信仰であります。
ですから、イエス様の救いにあずかって、一切のものが主のものとなりきった、その具体的な生き方はまさにそこにあります。だから、朝起きて「今日一日、神様はどのように私を導いてくださるだろうか」と心を神様に向ける。神様はいろいろな思いを与え、願いを起こさせ、それを実現させてくださるのです。だから、自分の勝手な思いのようだけれども、そこにも神様が教えようとしてくださることがある。そのことを知っておきたいと思います。時に失敗することもあります。右になりすぎたり、左になりすぎたり、しすぎることがあります。しかし、それはそれで、神様がちゃんと教えてくださるのです。私たちの性情性格、知らなかった自分の姿をそこで教えてくださるし、明らかにしてくださる時ですから、決して無駄にはなりません。
だから、よく言われるのです。「こんなことをしたら神様の前に申し訳ない。私の勝手な考えでこれをしてしまったのではないでしょうか。私はこうしたらいいと思ったのだけれども、それでよかったのでしょうか」と悔やまれる方がおられます。私は悔むことはいらないと思います。なぜなら、どんな事も神様の許しがなくては起こらないのです。「私が誰かにつまずかせるようなことをしてしまった」「あの人に悲しい思いをさせてしまった」ということがあったとしても、実はそれも神様がそういう事態を起こさせておられる。「だったら、私は何をしてもいいのか」と言われると、そうではない。神様がそういうことを起こさせなさったのは、私に何かを教えようとしておられるのです。
だから、失敗することも大切です。やり過ぎる、あるいはやり足らない、不足していることも幸いであります。どんなことも、何一つ無駄には終わらない。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」とあるでしょう(ローマ 8:28)。神様と私という関係の中で出来事や事態を受けとめて行くとき、どれ一つ無駄なことはありません。
自分には何一つ間違いはないのだが、周囲の人からとんでもない災難に遭うことがあります。また、逆にこちらが勝手なことをして、人に迷惑を掛けるとか、悲しい思いをさせることもあるでしょう。そのしたりされたりする出来事を通して、私たちは神様に出会う、神様に触れるのです。だから、そういう事柄が起こったとき、大切なのは私たちがへりくだって神様を求めることです。だから「わたしに立ち返れ」と神様は繰り返しおっしゃいます。私たちは神様を知っているつもりです。神様をいつも信じているつもりですが、具体的な事が起こらないと、それがはっきりしません。だから、生きていながらにいろいろな事柄に出会わざるを得ないのであります。でも、それは幸いなことです。悲しいことがある、うれしいことがある、つらいことがある、あるいは失望することもあるでしょう。しかし、その一つ一つの中で主に近づき、主との交わり、そこで教えられ、励まされ……と、言い尽すことができないたくさんの恵みを神様から頂くことができるのです。だから、問題が起こることを恐れない。悩みに遭うことを避けない。望まなくても、ちゃんと不幸はやって来ますから、心配しなくてもいいと思うのです。その時はその時、それぞれの時に神様がおられる、これも主が起こしていらっしゃることですと信じる。これが神を信じることに他なりません。
35節に「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」。「確信」というのは、「信仰」と言い換えても間違いではないと思います。私たちが神様に信頼する、神様を求めて行くとき、不幸なこと、悲しいこと、つらいこと、うれしいこと、楽しいこと、いろいろなことの中で、「神様、私は今こういう問題にありますが、ここで何をすべきでしょうか。どうあるべきでしょうか」、「私のどこが間違っているのでしょうか」、「私がしなければならないことは何でしょうか」と、神様と私との関係で常に求めて行くとき、そこには必ず大きな報いが伴う。神様が必ず私たちに喜びと感謝と、神様を賛美する、褒めたたえる者へと変えてくださるのです。これが私たちの信仰の結果であります。
そればかりでなく、36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため」、「神様の御旨を行う」「約束のもの」、神様の御心に従って生活する私たちに「あなたがたに必要なのは、忍耐である」と。いま申し上げたように、神様が私たちの人生、生活、一日一日の全ての主でいらっしゃる。それを導いておられる。そして神様は私たちを恵んでくださる、私たちを神様の豊かな祝福にあずからせてくださるのです。その約束を具体化していただくに必要なのは忍耐です。
我慢する忍耐と、似ていますが、我慢とは違います。忍耐とは、はっきりした望みを持っていま置かれた所で待ち望む、神様を信頼して行くことです。苦しいけれども、とにかく我慢、我慢という、かつてのテレビドラマの『おしん』のような、それが忍耐というわけではない。ここで言われている忍耐とは、ここにありますように「約束を信じて待つ」ことです。神様の御業を待つ、神様の約束を待つ、神様を待つ。それは、ご礼拝でも教えられましたように、私たちは「穏やかにより頼んで、そして主を待ち望む」、その時に神様のほうが「待っていて、あなたがたに恵みを施される」と。
まことに神様は、私たちが立ち返るのを待っておってくださる。神様のほうが忍耐しておられるのです。私どもは何か事があると、「ああしようか、こうしようか」と、右往左往して走りまわるので、その間、神様はしばらく見ていらっしゃる。「早くわたしに気付くように」、「わたしが主であるよ」、「わたしが神であるよ」と。ところが私たちはそんなこととはつゆ知らず「あれが悪い」「これが良くなかった」「早い馬に乗って飛んで行こう」と、更に「もっと速い馬に乗ろう」と、あちらこちら右往左往する。そしてとうとう何もかも行き詰まってお手上げになる。「山の頂にある旗ざおのようになる」とあります(イザヤ30:15~)。全く孤立無援になって、初めて「神様、私はもうできません」と言ったとき、「主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」。神様は忍耐強い御方です。私たちが早く主に立ち返るようにと待っておられる。ところが私たちはなかなかしぶとい、強情ですから、少々つらいことや苦しいことがあっても「何とか自分でやれるだろう」と思う。ところが神様のほうが忍耐してくださる。今度は、私たちのほうが神様を待つのです。これが求められる。神様が忍耐してくださっておられるから、私たちが早く神様の所へ立ち返ること、これが一つ。今度は神様が事を始めなさるのです。神様の時がある。これを待つこと。これが次に大切です。
「使徒行伝」1章4,5節を朗読。
4節に「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」。ここでイエス様はよみがえられた後、40日間にわたっていろいろな人々の所へご自身がよみがえられたことを現わしてくださいました。3節に「自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて」とあるように、いろいろな所で「わたしはよみがえったよ」と証詞してくださいました。4節にありますように、弟子たちの所に現れて食事を一緒にしてくださった。これはご存じのように、ガリラヤ湖の湖畔で朝早く弟子たちのところに現れてくださった。彼らは漁をしていたのですが、何も取れなかったとき、「船の右に網をおろせ」とおっしゃった。おろしてみると153匹の魚が取れた。ふと見るとそれはイエス様だったという記事があります(ヨハネ21章)。
その時イエス様は岸辺で火をおこして朝食の準備をして彼らが来るのを待っていて、一緒に食事をしました。その所でペテロに「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と問われ、そして「わたしに従ってきなさい」と、ペテロの再献身の場がありますが、これがその時であったかどうかは分かりません。食事を共にするときが他にも恐らくあったに違いありません。そのときに「彼らにお命じになった」と。命じて言われたというのですから、かなり強い意志、イエス様のはっきりとした思いがここに示されたのです。他の記事を読みますと、大抵「主は言われた」と語られていますが、ここではその程度ではないのです。「お命じ」になったのです。その命令は「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」と。「父の約束を待て」というのです。その「父の約束」とは何であったか、それはイエス様が父の御許に帰った時、この地上を離れて御国に帰って神様の右に座したとき、そこから真理の御霊、聖霊をあなたがたの所へ送るという約束であります(ヨハネ14:16,17)。神様からの霊を頂くまで待ちなさい、ということです。彼らはどうしたかというと、その後の記事にありますが、イエス様はオリブ山で弟子たちの見ている前で天に携えられて行きました。消えて見えなくなってしまった。12節以下にありますが、エルサレムに戻って、ひとつの家に彼らは集まりました。14節に「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた」と。
彼らは「待て」と命じられましたから、エルサレムにとどまってその約束のものを待つ。ところが、いつまでという約束の期限がない。10日間待ちなさいとか、あるいは何月何日までとか、そういうのではありません。カウントダウンができないのです。待つというのは、なかなか難しいですよ、皆さん。「待っていなさい」「はい、分かりました。待ちます」。1分も経ってごらんなさい。「え!いつまで待てばいいの」とか、10分ぐらい経ったら「もう、嫌や」と思います。彼らはいつまでと言われたのではありません。「待ちなさい」と、ただそれだけです。それで彼らは心を合わせて祈っておりました。14節に「心を合わせて、ひたすら祈をしていた」と。祈りつつ、その約束のものを受けるのを待っていた。「約束のものを受ける」といっても、宅急便で来るのか、飛脚便で来るのか、そんなことは分からないのです。どの状態になったら、約束の実現だと言えるか分からない。イエス様は「結果はこのようになるぞ」と、具体的な話はひと言もない。ただ「待ちなさい」だけです。そうしたところ、更に10日ほどたって、2章1節にありますように、「五旬節の日がきて」「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて」「舌のようなものが、炎のように分れて」 と、「ようなもの」「ように」であって、なんだか分かりませんが、今まで体験したことのない未知の事柄が起こったのです。約束のものを受けたときにはこのようになりますよ、あのようになりますよという話は一度も聞いていないのです。しかし、神様は時を定めてその事を実行してくださる。
これは全てのことに相通じる事柄であります。神様は事をなす御方であられ、全てのことの始まりとなる御方、「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」(ローマ 11:36)といわれるように、神様がことを起こしなさる。それは私たちの時間、私たちのスケジュール、私たちに予定表とは一切関係がないのであります。「神様、なさるならば、どうぞ、この連休あたりにお願いします」とか、「私の都合はこの辺がいいのですが」とか、そのようなことは一切考慮なしです。神様はどんなことも「待ちなさい」とおっしゃる。だから、主の時を待つ、神様が働かれるときがある。だから、どんなことをどんなときに、どんな方法をもって答えてくださるか、これは分からない。それを一切神様に委ねる、神様のなさるところに任せる。これが忍耐することです。大切なことはここです。つい私どもは「神様がしてくださるならば、ああしてください。こうしてください。せっかくならばこのようにがいいのじゃないでしょうか」と、神様にいちいちご意見して、「神様、右側にできるだけ寄ってください。左側はちょっと困る」とか、いろいろなことに条件を付けてしまうのです。それは駄目です。
イエス様が4節に「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」と言われ、5節に「 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」と。このことを聞いて弟子たちは具体的なイメージが湧いて「なるほど、そうなんですか」と言えたはずがない。水のバプテスマは見ていて知っていますから、ヨルダン川で水に浸(ひた)されるバプテスマ。「あのことか」と。「聖霊のバプテスマ」ときたら、何のことやら分からない。でも分からないのだけれども、「待て」とおっしゃる神様のお言葉を信じる。私たちが理解できる、納得できるから信じるのではないのです。聖書にそのように約束されている、神様がそうせよ、とおっしゃるから「はい」と信じる。そしてそれを待つ。どんな方法で、どんな時に、どんなものを神様が備えてくださるか私たちには分かりません。しかし、必ず神様はそれに応えてくださる。これを待ち望んで行く、これが忍耐です。
ですから、「ヘブル人への手紙」10章36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。今このことが起こっている、これがどのように変わって行くのか、この事柄がどういう結果になるのか、あるいは、その先さらに、どうなるのか、私の老後はどうなるのか、あるいは死んだ先はどうなるのか、これは分かりません。しかし、神様は「待て」とおっしゃいますから、神様を信じて、神様の手に握られて、今、今日、一つ一つの問題や事柄を起こしてくださる神様は、私たちに教えたいこと、知ってほしいこと、変わってほしいこと、神様の御心を知ってほしいこと、いろいろと私たちに願っていらっしゃることがある。その事を信じて、主の時を待つ。「いつまででしょうか」、それは主が「よし」とおっしゃるときまで待つのです。37節に「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」。「濡滞(とどこほ)りはせじ」と「ハバクク書」のお言葉でありますが(2:3文語訳)、神様は必ずご自身の時を備えてわざを進めてくださる。
私は小さなお子さんたちの成長を見ていてそう思います。生まれて何一つできなかった赤ちゃんが、時が来ると、はうようになり、つかまり立ちをし、歩くようになる。その時時に応じて子供は神様の力によってどんどんと変化して行きます。まさに神様の手に人が握られている。神様の時間、神様の方法、神様のなさる事柄、それに私たちがあてはまって行くのです。だから「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」と。
神様は一つ一つのことを決して忘れているのではない。時々そう思う時がある。お祈りをしているが、一向にらちがあかない、事が進まない。「いったい、どうなっているのか」と、どこかたなざらしにされているのじゃないか。役所あたりなら、苦情を言えば「忘れとりました」となりますが、神様はそのような御方ではない。ちゃんといちばん善い時に、いちばん善い事を備えようとして、神様のほうが事を起こしなさる。だから、私はよく皆さんにお勧めするのです。「事が始まるまで動かないでジッとしていなさい」と。必ず神様のほうが事を動かされる、人を動かします、事態を変えます。それまでジッと待つのです。必ずそうなります。「いや、そんなことをしたら手遅れになるかもしれない。早く何とかしておかなければ」と。そんなことはありません。「この世の中に、絶対こうでなければいけない」というものは一つもないのです。どっちみち私たちは皆死ぬのですから、心配しなくていいのです。必ず事は進みます。いつまでもこの状態で、ということはありません。
よく皆さんにそういうことで嘆かれる。「先生、体がこの状況で痛くてたまりません。このまま死ぬまで続くのでしょうか」と。「いいえ、大丈夫。早く死んだほうがいいならば、神様はすぐそのように処置なさるから、その状態はいつまでも……、死ぬまでなんてありません。明日よくなるかもしれない。神様の時があるから、待ちなさい」と言う。全てのことに神様の時がある。決していつまでもこの状態にとどまることはない。逆に、元気はつらつ「私は死ぬまでこの元気で行くぞ」と思っても、それはありません。けれども、逆に「明日死ぬかな、死ぬかな」と言う人は、まだ死なない。家内の叔母は、97、8歳になりますが、「後1週間」「1週間」と言われながら、2ヶ月近くになります。先日、叔父に電話をしたら「もう間もなく、近いと思う」と、でもあまり当てにしていません。神様の時があるのです。どんなことも失望することはない。神様に望みを置いて行く。主が働いてくださることがあって、全てのことが神様の御心のままに今行われている。私たちの良し悪しの判断によるのではない。
36節「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。神様の手にあることを信じて、「このことを神様はこれからどのようにしてくださるか」。期待して待とうではありませんか。神様は忘れていらっしゃるのではなくて、いろいろなことを通して神様のほうが事を起こしなさいます。だから、何がどこから起こってくるか分からないけれども、楽しみながら神様のドラマを、展開してくださる道筋をしっかりと見て行きたいと思います。そのために必要なのは「忍耐」です。どうぞ、神様を信じて一つ一つ御言葉を握って、事あるたびに主を見上げて行こうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。