いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

2月14日 日々の聖言

2015年02月14日 | 日々の聖言

「人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。

主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。」哀歌3:27-28 


重荷やくびきを負うことはイヤなことです。そんなものは早く捨ててしまいたいと思います。

ただ、重荷と感ずるのは自分から進んで得ているわけではないからです。好きなこと、自

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聖書からのメッセージ(470)「愛に目を留めて」

2015年02月14日 | 聖書からのメッセージ
 「雅歌」2章8節から15節までを朗読。

 14節「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」。
 
 1章には「ソロモンの雅歌」と語られています。ダビデの息子であり、三代目のイスラエルの王になったソロモンが歌った詩であろうと推測もされていますが、いずれにしても、誰がどういう時に書いたか分かりません。ただ雅歌の極めて特徴的なのは、そこには神様とか、聖霊とか、そういう言葉は一切見ることができません。しかも、男女の愛といいますか、人間的な愛の関係を歌っている箇所が続いています。8節以下も「わが愛する者の声が聞える」と、愛する人と愛される人、愛し愛される関係、そういう愛の交わりについて語られているのです。どうして、これが聖書の中に入れられているのだろうか? もっと神様を褒めたたえる内容のほうがいいのではないかと、人は勝手なことを思います。

私は先日高校生の御用を頼まれまして出掛けました。そのときに何をお話しようかと祈って待ち望んでおりました。ここにいる皆さんのことは何十年とよく知っている。そして聖書をよくご存じの方々です。しかし高校生となると随分勝手が違います。高校三年生、いよいよ卒業して、大学やあるいはいろいろな新しい進路に進もうとする人たち、年代も18歳前後でしょう。
もう忘れていらっしゃると思いますが、かつて自分もその時代の頃を考えてみると、どういうことを考えていたのか、どういうことに興味があるだろうか? どういう心境にあるだろうか?いろいろ推測しても、こちらも50年以上も昔の話ですから定かではない。はたと、当惑する。どんな話をしたら若い人が聞いてくれるだろうかと、そういうことまで思います。そう思って、祈っていましたとき、初めは格好よく、こんなことも、あんなこともといろいろな思いが湧(わ)いてきました。ところが日が迫ってきてもまだ話の焦点が定まらない。静まって主の導きをと祈っていますと、やはりぎりぎりになりました。
担当の先生から「説教の表題と聖書の箇所を伝えてください」と言われる。どういうことが若い人に受けるか、受けないか、いい恰好をしようとするものですから、それは人間的な考えです。そうなったらお手上げです。後は神様にお任せするしかない。その時、もう一度自分自身の信仰の在り方といいますか、いま信じている事柄の中心点は何だろうか、信仰の中心とは何なのだろうかをよく思い返してみました。やはりこれしかないというのがあります。それはひと言です。「神は愛である」です。「愛」、これを信じることが全てだ。そう思ってもう一度聖書を開いてみますと、以前からよく言われるように、聖書は神様が私たちに与えてくださったラブレター、愛の書簡、愛の手紙です。それが全ての原点であって、そこから事が始まる。そして神様が愛なる御方でいらっしゃることを信じるのが、実は私たちの信仰の全部と言ってもいいかもしれません。だから、聖書は神様が私たち一人一人を愛しておられることを語る心からの愛の告白です。そう思って創世記から振り返ってみると、神様が人をどれほど愛し続けてくださったかが語られています。
神様のご愛を証しするものとして、「雅歌」が聖書のほぼ真ん中あたりに据えられている。いうならば、聖書の中心点は、まさに神様が私たちを愛しておられる、との一点になってしまいます。ですから、高校生にお話したときの御言葉は「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」との、「ヨハネによる福音書」3章16節のお言葉です。神様がひとり子を賜うほどに大きなご愛をもって私たち一人一人を愛していてくださる。このことを知ることです。これが実は私どもの最高の恵み、幸せに生きる道だということです。では、そのご愛はどこにあるか。これはまさに十字架以外にないのであります。イエス様が私たちの罪のあがないとして十字架に命を捨ててくださった。それが私たちに対する神様の限りなきご愛であります。「ヨハネの第一の手紙」にありますように、「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と(4:10)。まさに十字架こそ、神様が「わたしがあなたを愛しているよ」と告白してくださるしるしです。

ですから、10節以下に「わが愛する者はわたしに語って言う、『わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。11 見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える』」と。ここに「出てきなさい」と呼び掛けてくださる。冬から春、初夏にかけて、全てのものが冬の厳しい寒さ、あるいは嵐の中で、ひっそりと身を潜(ひそ)めて時を過ごし、暖かくなる時を待ちます。今年も3月に入ってだんだん日も長くなる。少しずつ暖かさを感じます。木々を見ますと枯れていた、死んだと思えるような枯れ枝に小さな芽ぶき、つぼみを見ることができます。「ああ、もう春が来た」と、解放感といいますか、そういう喜びが確かにあります。神様が「立って出てきなさい」と。私たちを「わが愛する者よ」と呼んで下さる。私たちを愛してやまないゆえに、ひとり子を私たちの罪のあがないとして、犠牲としてこの世に送ってくださった神様が「こんなにまでわたしはあなたを愛しているよ」と言ってくださる。その方が「立って、出てきなさい。もう冬は過ぎ去った」。寒く厳しい嵐はもう過ぎ去ったのだからと。私どもは日々の生活でいろいろな問題や悩み、事柄、次から次へと思い掛けない事態に遭って、嵐の吹きすさぶ中に置かれているように身を潜めてひっそりと隠れ住む状態。心の中の思いは底なしの穴に落ち込んでしまいます。だんだんと縮こまってしまいます。できるだけひっそりと隠れ住むような生き方になってしまいやすい。しかし神様は「そうじゃない。わたしがあなたを愛しているよ。だから、立って出てきなさい。さぁ、あなたはわたしのほうに顔を向けなさい」と、求めてくださる。
11節以下に「見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える」。神様は私たちに「もう冬は過ぎ去った。見てご覧なさい。花は地にあらわれ、鳥はさえずり、山ばとの声が聞こえるではないか。いつまであなたは隠れ潜んでいるのですか」。あれが心配、これが怖い。こんな不安がある、こんな思い煩いがあると、そういう事柄に私たちの目が捕らわれ、思いがそこに常に結び付いて、顔を上げることができない。神様がいらっしゃるのにそれに気がつかない。そういう厳しい冬はもう済んだのだと。「いや、だって目の前の現実にあれが心配、これが心配、こんな問題がある」と。つい私たちは冬の中にいつまでもとどまっているように思ってしまう。それに対して神様は「そうではなくて、わたしはあなたを愛している。もうその冬は過ぎ去った。そこから出てきなさい」。確かにまだ目の前に問題や事柄があるにしても、神様は私をどんなに愛してくださったか。神様は私たちに何をもって愛しているよと、応えてくださったか。それはまさにゴルゴダの十字架以外にありません。私たち滅ぶべき者がキリストと共に死んだものとなって、今、神様は私たちに「もうわたしはあなたをとがめない、罰しない」と、呼び求めてくださるのです。

ですから、12節以下に「もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。13 いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」。「立って、出てきなさい」と、「わたしの所へ来なさい。わたしはあなたを愛しているから」と、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ」と、わたしが愛してやまない、どんなものに代えても惜しくないほどにあなたを愛している。これは聖書を通して一貫して神様が絶えず語り続けておられることです。私たちは神様のご愛から離れてしまう。愛を忘れてしまう。そのために不安、恐れ、闇が私たちの心を覆ってくるのです。
いろいろな悩みの中に置かれるとき、苦しいつらいことがあると、何とかこれを逃れたい。いろいろな方法を用いて、「これさえなければ私は幸せになれる」「これさえなければ私はもっと明るく生きることができる」と思って、いろいろな方法手段を用いてそれを取り除こうとしますが、しかし、いくらどんなことをしても目の前に起こって来る具体的な事柄は次から次へと形を変え、いろいろな種類のものが生まれて来ます。私たちのこれまでの人生を振り返ってみてもそうですが、ひと時として心が安らぐといいますか、問題がなかった時などありません。この地上に生きている間、目の前に次から次へと具体的な生活上の問題、あるいは健康上の問題、あるいは家族の問題、いろいろな問題が起こってくるのです。それを一つ一つまるでモグラたたきのように「これを解決したら安心」「これを取り除いたら平安だろうか」「これをしたら大丈夫だろうか」と、いろんなことをしてみますが、どれもこれも中途半端で役に立ちません。それどころか、次々と新しい不安や悩みが生じて、間に合わなくなる時がまた来るのです。そうすると、私どもは常に不安と恐れと冬の厳しい寒さの中にいつまでもとどまっておるしかない。ところが、神様は「いろいろな問題や悩み、事柄があるけれども、大丈夫だよ」とおっしゃる。「わたしがあなたを愛しているのだから、あなたはわたしの大切なものなのだ」と。

高校生に話すとき、「愛」を説明するのは難しいと感じました。若い人は若い人なりにそれぞれ愛についての経験、親子の愛であるとか、男女の愛であるとか、友情を含めて広い意味で愛を経験しますが、「じゃ、それはいったい何なの? 」と言われると、当惑します。思い返してみたら、ある時のことを思い出します。ある若い方が結婚したいと思ったのです。好きな人ができた。その人が私の所へ来まして、「これから結婚したいと思うから……」と結婚の相談にきました。でも相手の人がちょっと結婚するには年が若いとか、収入がどうとか、家族がいろいろなことを心配して、「その結婚に対しては反対だ」と言うのです。具体的ないろいろな話を聞いてみると、人間的に言うと、それは結婚して家庭を築くには、経済的なことだとか、いろいろなことをついつい考えますから、親としては心配して「まだ時期が早い」とか、いろいろなことを言われる。私もその話を聞いて「じゃ、あなたは彼を愛しているの? 」と問いました。決まり文句で尋ねたのです。すると彼女は「彼は私にとって本当に大切な人です。だから大切にしていきたいと思います」と言った。愛という言葉を使わなかったのです。私はそのとき「なるほど、大切な人、この人を私は愛しているとは、その人が私にとって大切な存在である」と。大事な、掛け替えのない、他のものに取って代えられない存在であること、これが愛すること。必要とするのとは違います。「この人はわたしにとってなくてはならない必要な人です」というのと「大切な人」とは、全く違います。必要とは、自分に役立つ、自分にとって利益になる相手、だから必要な人。けれども「大切な人」というのは利益だとか何とかに関わらずその人がいること、その人自身が自分にとって掛け替えのない、他に取って代えることができない大切な者。これが愛すること。この定義にそって「いちばん自分が愛しているものって何だろうか? 」と考えてみると、よく分かります。

神様は十字架をもってひとり子を賜ったほどに私たちを愛してくださったとおっしゃる。そのときの「神様は私を愛している」とは、あなたはわたしにとって代え替えのない大切な存在だということです。私たち一人一人を神様が愛しておられるとは「どんなものをもっても代えることができないあなただよ」、大切なものだとしてくださる。

ですから今お読みいたしました14節に「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」と。まさに「愛している」という言葉の具体的な姿、それがこの14節のお言葉です。「顔を見せなさい」、「声を聞かせなさい」、そして「その声は愛らしく、あなたの顔は美しい。大切なものである」と、具体的な言葉をもって「見せる」「聞かせる」「美しい」「愛らしい」と、その思いを明らかにしている。あなたがどんなにわたしにとって大切な存在であるか、掛け替えのないものであるかを神様は私たちに語っておられるのです。私たちは自分の顔を見て「だいぶしわも増えてきたし、しみも出てきた。どこが可愛いかしら」と思いますが、でも愛してくださる神様にとっては、私たちを大切な者としてくださる。愛しておってくださる。そしてその大切なもの、愛する者の顔を見たい、声を聞きたい。これは確かにそうだと思うのです。大切だからこそ、愛すればこそ「あなたの顔を見ておきたい」、「声を聞きたい」。愛する人と何かでちょっと遠く離れたりすると電話をしたくなるでしょう。あるいは、声を聞きたくなる。できれば会いたい思いが募(つの)る。これは当然のことです。愛しているからこそ、大切な存在であるからこそ、それを求めます。神様は私たちを愛してくださるがゆえに、私たちを探し求めてくださる。「わたしの所へ来なさい」と。だから14節にも「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい」。私たちが顔を見せること、声を聞かせること、神様を求めること。私たちが求める以上に神様のほうが私たちを大切にしてくださる、求めてくださる。私たちが神様を愛しているか? いうならば、私にとって神様は何物にも代えることのできない大切なものとなっているか?でもあります。そうやって自分を考えてみると案外大切なものが他にあって神様はどこかへ飛んでしまって、神様を忘れている。しかし、神様のほうは私たちを忘れていらっしゃらない。ですから、ここに繰り返して10節に「立って、出てきなさい」13節にも「立って、出てきなさい」と、どうしてあなたはわたしの前から消えて隠れてしまって、あれが心配、これが不安だ、こういう恐れがある、あのことがどうなるだろうか、このことがどうなるだろうか、そういうことばかりに頭を突っ込んで、岩の裂け目、がけの隠れ場に身を潜めて出て来ようとしない。神様を求めようとしない私たちに神様は「出てきなさい」「立ってきなさい」と。創世記にもこのことが語られています。

 「創世記」3章8節から10節までを朗読。

 人は初めに創(つく)られて神様の備えられた園に置かれました。そこで彼らは神様の創られた森羅万象あらゆるものを治(おさ)める使命を与えられていました。エデンの園での生活は神と人とが裸で恥じないという、いうならば、神様と共に生きる幸いな恵みの場でありました。ところが3章1節以下に語られているように、サタンが忍び込んで来て、神様と人との間を罪によって切り離してしまった。その結果、人は自分が裸であることに恥ずかしくなる。隠す者となる。いうならば、神様の前に立てない、陰の中に身を潜めてしまう、そういう結果になります。今でもそうですが、罪の働く所とはそういう所です。私たちが神様から顔を背(そむ)ける。それはサタンが私たちの心をそこに引っ張るのです。私たちが不安や心配の中にとどまることをサタンは願っています、喜びます。私たちが神様のほうに心を向け、思いを向けて、主のご愛の中にとどまるとき、平安と喜びと望みが与えられる。それをサタンはぶち壊そうとしてきます。このときも神様との間が断たれてしまって、彼らは自分たちが裸であることに恥ずかしいと思って、「いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」とあります。隠す、いうならば、神様の前に隠れる者となる。神様に見られたくない者となることです。これは極めて象徴的な事柄です。人の心がどこにあるかをあらわしている状況であります。

その後彼らは、園の中に神様の歩む音を聞いて、8節に「そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」。神の顔を避ける。まともに見られなくなる。そういうことがあります。私どもでも、何か人に対して不義理をしたり、何か悪いことをしたら「あの人に会わせる顔がない」となります。その人をちょっと見かけたら顔を背ける。まさにそういう状態です。彼らは園の木の間に身を隠していました。9節「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。神様はそれでも人が罪のゆえに失われてしまうことを「それは自業自得仕方がない、放っておこう」とおっしゃったのではない。私たちを愛してやまないから、それゆえにこそ「あなたはどこにいるのか」と探してくださる、求めてくださる。神様は人が隠れた場所が分からないのではありません。知っておられるに違いない。これは場所の問題ではなくて、人が神様に対してどういう思いでいるのか? 神様から隠れてしまう。「あなたはいったいどうしているのだ」という意味であります。確かにここでは「どこにいるのか」と、呼び掛けてはいますが、10節に「彼は答えた、『園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです』」と答えています。「身を隠す」、神様のそばに近づけない、神様の前にまともに立てない。これは神様にとってまことに悲しい事態であります。ご自分の愛する者がサタンに奪われてどこにいるか分からなくなってしまう。体はそこにあっても心が神様から離れてしまっている。失われてしまった。そういう状態、それを神様は悲しみ憂いてくださる。

その後、神様は人をエデンの園から追放なさいましたが、裸である彼らのために皮の着る物を用意いたします。
「創世記」3章20節、21節を朗読。

神様はここで裸である彼らに体を覆う皮の着物を着せます。これはやがて後に私たちの罪を覆ってくださる神様のご愛の証しであるキリストを着ることにつながってまいります。私たちのために神様は、ご自分のひとり子すらも惜しまないで私たちを愛して、掛け替えのない存在としてくださる。

「イザヤ書」43章1節から7節までを朗読。

 3節に「わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、エチオピヤとセバとをあなたの代りとする」。私たちの救い主でいらっしゃる御方はエジプトであろうとエチオピヤであろうとセバであろうと、どんなものを捨てても惜しくないと。「あがないしろとする」とは、私たちの身代金としてそれを差し出すという意味です。エジプトやエチオピヤ、いまではどこの国かな? と思いますが、その当時としてはエジプトやエチオピヤは大国であり、また豊かな富にあふれた国の象徴であります。そういうこの世の富といわれるどんな物でも惜しくない。そればかりでなく4節に「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」と、あなたはわたしの目に尊い、いうならば、目に入れても痛くない、大切なものだと。「重んぜられるもの」、貴重な存在だということです。「わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える」。だから、どんな人でも、どんなものであろうと、あなたの代わりに捨てて惜しくない。「あなたを愛するがゆえ」と。5節に「恐れるな、わたしはあなたと共におる」。わたしはあなたと共にいるから。愛する者と共におることは、当然のことであり、またうれしいこと、大きな喜びでもあります。神様は私たちを掛け替えのない存在、大切なものとして、私たちといつもどんな時にも共におりたいと願ってくださる。一つになるとはそういうことです。だから「さぁ、立って出てきなさい。わたしの所へ来なさい」と。

 「雅歌」2章14節に、「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」。愛する者にとってそれがどんなものであろうと、掛け替えのない大切なものであるかぎり、自分にとっていちばん麗しい者であり、美しい者である。神様は私たちがどんなに汚れ果てた、罪にまみれて、罪ととがとに死んだような、生ける屍(しかばね)である私たちでしたが、神様は私たちを愛して大切なものとして、美しく愛らしいものとして共におりたいと切なる願いを持って、私たちを求め続けておられる。その神様の御思いをしっかりと受け止めて、どんな問題や悩み、事柄があっても、常に神様は私を愛してやまない御方、ひとり子をも惜しまないあの十字架を見上げてください。そこに神様は「わたしはあなたを愛しているよ。あなたは大切だよ」と、告白しておられる。これは大きな私たちの力です。これを信じなければ、私たちの信仰は命がない。神様が私を大切なものとして今日も共に生きてくださる、共に歩んでくださることを知る。そこにいつも目を向けていく。ともすると、目の前の事柄、あのことこのことに心を奪われやすくなります。そうではない。私を大切なものとしてくださる御方がおられる。神様は私をいちばん麗しい、美しいとおっしゃってくださる。そんなにまで愛してくださる御方がおられるのに、私どもは人を見、世を見て、いろいろなことを恐れる。そして「岩の裂け目」、あるいは「がけの隠れ場に」ひっそりと隠れ住んでしまう。「見てご覧なさい。あなたの罪は赦され、あなたのとがは霧のように消されて、そしてもう春の雨はやんで、もろもろの花が地に咲き緑にあふれているではないか。さぁ、出てきなさい」。

 C.Sルイスという人が書いた『ライオンと魔女』、ナルニヤ国物語という本があります。4人の少年たちが大きな洋服ダンスから別の世界に入るのです。そこは氷に閉ざされた冬の厳しい時代の中です。そこには氷の女王というサタンの親玉のようなものがいて、一切のものが死んだ状態になっている。いろいろないきさつがあって最後にアスランというライオンが死ぬのです。このライオンはキリストの象徴ですが、ライオンが死ぬことによってだんだんと氷が溶けていって、厳しい冬の中に置かれていたその世界が緑にあふれる世界に変わる。

イエス様が罪のあがないとして十字架に命を捨てて、今どんな問題や事柄の中でも恐れないでいい、心配するなと励ましてくださる。声を聞かせなさい、顔を見せなさい。わたしに呼び求めなさい、私に近づきなさいと。神様は私を愛してやまない御方と絶えず心に信じて、私を大切なものと思ってくださる御方がおられる。今この事の中にも、この問題の中にも、この悩みの中にも共におられる。神様のご愛に目を留めていくとき、心が喜びになり、命が輝いてきます。

神様は私を愛してやまない御方です。そのことを信じていきたいと思います。14節にありますように「顔を見せなさい」と、いつまでも悩みの中に、苦しみの中に、悲しいことの中に頭を突っ込んで、「ああじゃないか」「こうじゃないか」と、思い煩わないで「あなたはわたしの大切な存在なのだから悲しむことはいらない、悩むことはいらないよ」と求めてくださる主がおられる。そのことに心を向け、その御方を求めて、その御方の前に思いを、心をささげていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。