いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

2月16日 日々の聖言

2015年02月16日 | 日々の聖言

「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。」マタイ7:6 


物の値打ちを知らない人にとっては、どんなに高価な物でも、塵芥に過ぎません。

同様に、神様のご愛、主の恵みも、その価値が分からない人には、無駄なことに

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2月15日教会学校聖言葉

2015年02月16日 | 教会学校聖言葉
「絶えず祈りなさい。」

テサロニケ人への第一の手紙5.17

この聖言葉も簡単そうで実行が難しい聖言葉です。

それは、多くの日本人のように何か願い事がなければ祈らない、祈らずとも良いと考えているからです。もちろん、神様に求めるところを願うことは幸いであり、神様の求められていることでもあります。しかしクリスチャンの祈りとは願うことばかりではありません。

祈りのもう一つの目的は、聞くことです。

 神様の愛なる御思いを聞き、その愛に満たされ、愛に応えて生きるように心を整えることが祈りのもう一つの大きな目的です。そうすることで、魂に力が与えられ内側から泉がわき出るがごとく喜びに満たされることができます。祈りとは、神様からの力いわば魂の食事を頂くことと言ってもいいでしょう。

 3度の食事を絶やさずとったからといって賞賛される大人はまずいません。それは、自分に必要な栄養を摂取することは当たり前であり、何より自分の命を保つためだからです。
 
同じように、魂の命を保つために神様の力が必要だと知っていれば、無理やり心がけずともみずからそれを得ようとするに違いありません。

 ただ祈りを表面だけ心がけるのではなく、祈り本来の意味を見失うことがないように心がけましょう。(正野)

聖書からのメッセージ(472)「後知る恵み」

2015年02月16日 | 聖書からのメッセージ
「ヘブル人への手紙」12章5節から11節までを朗読。

 11節「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」。

 私たちはイエス様の救いを信じて、いま神の子供、神の民として生きる新しい生涯に入れられています。このことは私たちの信仰の中心ともいうべきことです。世間の多くの宗教、信仰は、主に御利益、この地上で日々の生活の困難なこと、苦しいこと、つらいこと、そういうことをできるだけ避けて、そういうものが自分の身に降りかからないように守られたい。家内安全、無病息災、いろいろな悩み事から解放されたいというのが、多くの宗教が目的にしております。ともするとキリスト教にもそういうものを求めて来られる方が多くいらっしゃいます。だからといって、神様は私たちの願いをお聞きにならないという御方ではないし、そういう悩みや苦しみがつらいことであり、また嫌なことだからそれを避けて行きたいという願いが人の心にあることは神様も十分ご存じでいらっしゃいます。だから、私どもはいろいろな悩みに遭うとき、神様に祈り求めて助けていただきたい、悩みや苦しみを取り除いていただきたい、と求めます。それは悪いことでも、禁じられているわけでもありません。聖書にも「悩みの日にわたしを呼べ」と神様は許しておってくださる。しかし、それが全てであるとするならば、これは間違いであります。神様が私たちにしてあげたいと願っていることは、私たちを新しく造り替えることです。

「新創造」という言葉を使いますが、まず、私たちは神様から造られた者であります。旧約聖書の初め、創世記にあるように、全てのもの、森羅万象ありとあらゆるもの全てが神様によって創られたものです。創造のわざの最後に、人を創られました。神様は、ご自分の最高傑作として人を創ったのです。大切なものとして私たちを創ってくださった。本来、神と共に生きる、神様の作品であった私たちが、造り主でいらっしゃる神様を離れて自分勝手な振る舞い、神様を離れた生活を始めた。エデンの園の生活から遠く失われてしまった者となった。このことを「迷える子羊」であるとか「罪の奴隷である」とか、いろいろな表現をしますが、いずれにしろ神様から離れた、命の根源である神様を離れて、人が呪(のろ)いと滅びの中に置かれてしまったのです。神様にとって無益なもの、価値のないものになり下がってしまった。本来、神様は私たちをご自分の大切なものとして創ったのですが、それが失われて泥だらけになって、見る影もなくなる。最初の素晴らしい輝きを失ってしまったのが人の姿であります。しかし、神様は私たちを「もう諦(あきら)めた」とおっしゃる御方ではなくて、何といっても、ご自分の傑作として創ってくださったのでありますから、神様は私たちを惜しんでくださるのです。何としてもそれをもう一度取り戻したい。これが神様の救いの原点、始まりです。私たちをして神様の最初の創造の恵みの中に取り戻してくださる。これがイエス・キリストの救いであります。

そのことをイエス様は「新しく生れなければ」と語っています。パリサイ人であり、指導者であるニコデモがイエス様の所へ訪ねて来たとき、イエス様は「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ 3:3)。「新しく生まれ替わる」こと、言い換えると、失われて、神様の栄光を受けることができない、神様の御許(みもと)を離れてしまった私たちを、もう一度神様のものとして取り戻してくださる。新しい生き方に造り替えることです。これが神様の私たちにしようとしてくださる事です。神様は「あれをしてください」「これをしてください」という私たちの願いに、右から左に「はい」「はい」と、「私たちの思うように願うように何でも答えてやろう」とおっしゃるのではありません。しかし、それがお出来にならないわけではない。神様ですからどんなことでもお出来になりますが、しかし、神様が私たちにしようとしてくださる目的は私たちを新しいいのちに生きる者へと造り替えてくださることです。これが信仰の中心であります。

 だから、悩みや苦しみの中にあって、「何としてもこの問題、この悩みからの解決が与えられたい」と、熱心に教会に通って来られます。集会に出ているけれども、どうも聞いている話が自分の求めているような話にはならない。「お祈りしなさい。そうしたら一夜にして全部ひっくり返りますよ」と、そういう話が聞きたいのだけれども、「どうもそうではないらしい」と知って、失望するのです。がっかりして「私が造り替えられるなんて、その必要はない。早くこの事が解決してくれたら、この悩みが取り除けられたらいいのであって、私が変わらなければなんて、そんなことは結構です」と。あるとき、ある方が悩みを持って来られたのです。いろいろな話をして、息子さんがお母さんの願いとは違っていた。高校生まではお母さんの理想とする息子であったのですが、それで東京の一流大学に入りました。それでお母さんは「やれやれ」と思いましたが、その子はお母さんの下を離れた途端に、自由気ままに生活するようになり、とうとう7年生ぐらいになった。留年、留年で、いよいよ後1年で退校となったとき、お母さんはたまらなくなって教会に来られたのです。そして私に「先生、聞いてください」と、いろいろな話をされました。そのとき私は「息子さんのことで悩んでいるあなたの気持はよく分かります。しかし、大切なのは、お母さん、あなたですよ。あなたが息子さんに対する思いを変えないと」と言ったのです。息子さんは大学に行って、音楽に夢中になって、勉学を放棄していると言われます。「その原因は息子さんにあるよりは、あなたですよ」と言ったのです。すると大変怒りまして「問題は息子ですよ!先生、分かっていますか!」と「いや、分かりますよ。でもその問題を起こしているのはあなたでしょう」と。「いいえ。違います!私は息子のことを思って、一生懸命ここまでやってきた。裏切られたのですよ。私の身にもなってください!」と「だから、あなたの身になって言うのだけれども、悪いのはあなた!」と言ったら、とうとう席を立って帰って行かれました。でもその後時々来られますから、やはりご自分が悪いということを感じられたと思います。

 神様が事を起こしているのは、その人の人生、生き方の根底を造り替えるのです。今まで私どもは生まれながらこの地上の生活を生きていますが、神様から離れた生き方、「咎(とが)と罪とにより死にたる者にして」と「エペソ人への手紙」にあります(2:1文語訳)。そういう生き方をしている私たちをもう一度新しいいのちに生きる者、言い換えると、それまでの人生をご破算にして、今度は新しい「新創造」、新しく造られた者にしようと、神様は私たちを選んで召してくださったのです。だから、私たちが神様によって造り替えられるためです。だから、「私は立派な人間、私はこれでいい。悪いのは主人だ、とか、子供だとか、むすこだとか、世の中だとか、……」、そうではなくて、実は神様が求めておられるのは「あなたはどこにおるのか?」ということです。「創世記」の初めにアダムとエバが罪を犯して主の顔を避けて、茂みの中に身を隠しました。まさに「自分はこれでいい。悪いのはあの人、この人」「私の身の不幸は全てがあの主人にある」というような生き方であった私たちが、そうじゃない。救われなければならないのは、誰でもない、自分である。その救われるとは、自分が根こそぎに古いものをぶち壊して、全部ご破算にして、更地にして、そこに神様は私たちを新しく造り直したいのです。これが私たちをご自分の所へ招いてくださった目的であります。後になって「そんなことは知らなかった。だったら早くにやめたはずなのに」と、言われたら困りますから、よく知っておっていただきたい。私たち一人一人を新しいのちに生きる者にしてくださるのです。その新しいいのちに生きる者とはどういう者か。そのモデルとして、神様はひとり子イエス様を肉体を持った御方として、私たちと同じ人として、この世に遣わしてくださったのです。イエス様は神の位に居給うた御方ですが、人の世に下って私たちと同じ肉体を持ってこの世に生きてくださった。それは私たちの右代表となり、罪人となって十字架で私たちの代わりに命を捨ててくださるためであると同時に、イエス様こそが私たちの模範、モデルといいますか、倣(なら)うべき御方となるために来てくださったのです。だから、神様は私たちに一つのモデルを作ってくださった。「こういう風になりますよ」と、現わしてくださった。これがイエス・キリストです。だから、何としても神様はその目的に達するまで、私たちの内側も外側もことごとく新しくしてくださるのであります。

 私も昔は教育関係の仕事をしておりましたから分かりますが、教育というのは、いろいろな一つの目標があります。こういうカリキュラム、授業内容をして、習得させるべき目標があります。1年間勉強した最後はこのくらいのことができるように、これくらいのことが理解できるようにすべきであるという教育目標があるのです。その目標に向かって、1学期間はこれをして、2学期間はこれをしてと、年間のカリキュラムが出来るわけです。その間に中間テストや期末テストが何度か繰り返されます。試験の度に達成度、どのくらい出来ているかというのを見るのです。3月になると、学校は終業式を迎えてそれぞれ1年間の成績をもらいます。
先日も神学校に行っている望都姉が帰って来まして、神学校からこの1年の成績表を持ってきまして、「こんな成績でした」と見せてくれました。なかなか立派な成績でした。「よく頑張った」と思います。神様のお恵みであったと思います。成績表を見て、どこが足りないか、これからどうすべきかが分かります。試験だとか、いろいろなテストを通ってその目標にどれ程達しているかということを確かめる。これが教育です。神様もある意味では素晴らしい教育家でいらっしゃいます。神様は私たちにきちんとカリキュラムを持っていらっしゃる。あの人、この人に目標を立てていらっしゃる。だから、いろいろな具体的な問題を与えてくださるのです。これがよく試練といわれるものです。

 12章5節以下に「また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。 6 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである』。7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」。ここに「訓練」という言葉が繰り返されています。「訓練って嫌だ」と思います。確かに私たちはできるだけ楽な道を、苦しいことや辛いこと、我慢するようなこと、そんなことはできるだけ避けて通りたい。しかし、それをしないと私たちは変わることができない、身に付かない。ただ知識として知っているだけではなくて、具体的に自分がそれを繰り返しやることによって身に付くのです。

 私は小さな幼児を見ていてそう思います。1才前後の子供たちがハイハイして、今度はつかまり立ちをします。そのつかまり立ちから今度は手を離して3歩4歩、一人でよちよちっ、トトッと歩きます。私は見ていて本当に教えられることですが、決して諦めないのです。ハイハイしていた子がつかまり立ちを始めたら、立ってもよろけます。よろけてペタッと床にお尻を着きますが、また手でもって立ちます。また尻餅(もち)をつきます、また立ちます。何回かするとくたびれるのか、もう諦(あきら)めます。でもまた次の日、同じことをする。また次の日も、そのうち平気で立つようになる。しかも今度は横に伝い歩きをします。伝い歩きをしていてもバランスを崩しますから、ゴタッと崩れる。見ていると、また立ち上がるのです。やがてそれもクリアーして、今度は自由に横動きができるようになると、手でつかまなくて歩き出します。タッタと歩くのですが、見ているとヨロヨロッとする。それでも踏ん張って、そしてドンとお尻を着く。それを飽きることなく何度もやります。もちろん嫌になってすぐ「抱っこ、抱っこ」と言うこともありますが、しばらく抱っこされていても、また愚図って下におります。そして何日かするうちにどんどん歩き始めます。成長とはそういうものです。途中でやめてしまったら駄目です。嫌がっているといつまでもおんぶに抱っこです。でも子供の中に意欲があるといいますか、一生懸命に繰り返します。

 大人になると駄目です。私の知人が、60代で半身不随になりました、脳出血でしたか、リハビリを嫌がるのです。確かにリハビリは鬱陶(うっとう)しいし、面倒くさいし、「何のためにするか、私はもうこのままでいい」となります。赤ちゃんとの違いは大きいですね。しかし、熱心にやる人は幾つになっても、どんどん新しい力が付いてきます。神様が私たちに願っているのは今の状態に満足するのではなくて、神様が求めておられる標準にまで変わってほしい。そのために神様はいろいろな訓練をされる。

 5節に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない」。「責められる」というと、苦しみがわざと与えられるような思いがしますが、神様は私たちを愛していらっしゃる。何としても造り替えたい。神様の標準にまで私たちを引き上げたいという切なる願いがあるから、訓練を与えてくださる。だから6節に「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」と。よく言われますが「信仰に導かれてイエス様を信じてはいるのだが、次から次へと悩みが来るし、つらいことが起こってくるし、悲しいこともある。何のために信仰しているやらよう分からん。もうがっかりしました」と、文句を言われるのです。私は「気の毒だな」と思います。それはお門違いです。「神様はあなたを愛しているゆえにこの訓練を与えてくださる」。人でもそうですが「この人は見込みがある」と思えばこそ、熱心になって指導します。ところが、諦めて「これは駄目だ。何をしたってこの人は変わり様がない。出来ようがない。能力がない。だったらもうこの辺にしておこうか」となってしまう。しかし、神様は私たちに大きく期待しています。だから、次々と問題や悩みを与えられるのです。

 私たちにいろいろな嫌なこと、つらいこと、苦しいこと……、「何で私ばっかり」と思っている。「あの人は涼しい顔をして、どうしてあの人にこの病気がないの」「あの人にどうしてこの悩みがない」「あそこの家庭は子供が多いのに皆しゃんとしている。うちは1人なのにえらい違いや」と嘆く。そうじゃないのです。「あなたは愛されているがゆえに神様は大切に思うからこそ訓練してくださる」。6節に「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。「むち打たれる」のでありますから、生易しいことではありません。可愛がっておんぶに抱っこではない。むち打つというのですから厳しいです。7節にありますように「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」。あなたがたを、子供としてご自分の神の家族として、神の子にふさわしく名実ともに造り替えようとしてくださる。だから、私たちは次々と悩みがある、困難があるということは、神様が私を愛していらっしゃる。そこで大切なのは私たちが、神様はいったい私をどのように造り替えようとしておられるのか、神様が教育目標として抱いておられる目標はどこにあるのかを知らないから「いつまで続くのだろう、こんなのが」と思ってしまう。神様が求めておられる姿はどこにあるのか?

「ガラテヤ人への手紙」4章19,20節を朗読。

これはガラテヤの教会に対してパウロが切々とした思いを語っている一節です。神様はかつて律法の下で苦しんでいた、奴隷の生涯を送って恐れと恐怖の中にいた人々をイエス・キリストの福音によって新しいいのちに生きる者と変えてくださったのですが、彼らはそこから離れて行こうとしている。それに対してパウロが19節に「わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは」と語っています。ここですね。キリストの形を私たちの内に造ってくださる。これが最終目標です。皆さん一人一人を小キリスト、キリストの形が私たちの内に造りだされること。そう言われてももう一つピンと来ない。「キリストの形」ってなんだろうか?

 「ガラテヤ人への手紙」5章22節から24節までを朗読。

 ここに「御霊の実」とあります。これがキリストのかたちです。イエス・キリストはこの地上にあってご自身の救い主としての使命を終わって天に帰られました。その後私たちに御霊、聖霊を送ってくださいました。私たち一人一人の内に神の霊を宿してくださいました。その神の霊が私たちに働き掛けてくださる。善き願いを起こさせ、思いを与え、私たちの考えること、語ること、手の業、歩む一つ一つの日々の生活のすみずみにまでキリストの御思いが行き渡る者になる。これがキリストのかたちが出来るプロセス、過程であります。その具体的な姿として、22節に「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制」、極めて抽象的な言葉に思われますが、この一つ一つの性質が私たちの内に具体化されて行く。愛に満ちているか、いつも喜んでおられるか、また平和、私たちの心が穏やかにして人と和らいでいるか、争うことがないのか。どうですか、皆さん、自分の生活の一コマ一コマの中に、この事柄を考えていただきたい。「あの人に対してあんなことを言って、平和が私にはない」、「あの心配、この心配。喜ばれんことばかりで不平不満つぶやいている私、喜びがない」。また「善意、忠実、柔和、自制」、一つ一つ挙げて行けばいろいろなことがありますが、その全てのことが私たちに備わってくるまでいろいろな悩みの中で、問題や事柄の中に置かれてそこで自分を知り、砕かれた者となり、肉なるものを離れて、霊に導かれる。24節に「自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」。肉に付けるもの、自我といいますか、我欲といいますか、そういう情欲の全てを捨てて、御霊の実、聖霊の実に輝く者に造り替えてくださる。キリストのかたちにまで私たちを変えてくださる。もうだいぶ近づいている方は……、「私はイエス様に90%近づいている」という方は感謝したらいい。明日ぐらい天国に召されるに違いない。その準備ができるまで私どもはなおこの地上に置かれるのです。訓練が必要ですから。「だったら、私はできるだけゆっくりしてもらいましょう」と。そうしたら訓練が長引きますから、どちらを取るかです。神様は何としてもキリストの身丈にまで……。

 「エペソ人への手紙」4章12,13節を朗読。

 13節に「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るため」とあります。標準は高いですよ、皆さん。かなりハードルが高い。でも、神様は何とかして私どもをそこへ押し上げようとしてくださる。だから、いろいろな悩みに遭い、苦しみに遭い、悲しいことにも遭います。この悲しみや苦しみ、悩みを通して、自我、自分の我がままな思いを捨てて砕かれた者となる。粉々になって、キリストのかたちに造り替えられる。これは素晴らしい大事業です。だから、今の自分に満足しては駄目です。「もっと私は変わるのだ」と期待しましょう。変えられるのです。「いや、私はそんな変えられんでもいい」と、逃げないで、大いに神様の目的にかなう者へと私たちを造り替えられたい。15節に「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」と。ここにも私たちがキリストに達するまで「あらゆる点において」とあります。「あらゆる」オールラウンドに、どこを取ってもキリストそのものと、そうなりたい。

ここに語られていることはもう一つ別の意味がありまして、これは教会というキリストの体を建て上げる意味でもあります。そのキリストの体の部分たる私たち一人一人が既に小キリストでなければこれは完成しません。だから「キリストの満ちみちた徳の高さにまで」私たちを引き上げてくださる。

 「ヘブル人への手紙」12章10節に、「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」。ここに「たましいの父は」とあります、いうならば、神様は私たちの益のため、キリストのかたちに造り替える。キリストが私たちの内に形づくられる。それは私たちにとって最高の恵みです。病気が治るとか、お金に不自由しなくなったとか、何かがよくなった、そんなチョロイことではない。キリストのかたちに私たちが変えられて行く。これは私たちの最高の恵みであり、益であります。そうなるために今日も神様は熱心に私たちに臨んでおってくださる。事を起こしていらっしゃる。だから、目の前にいろいろな悩みに遭うとき、苦しみに遭うとき、ただそれを早く解決したいと、つい心が揺れますが、そこでもう一度静まって「我のたるを知れ」とおっしゃるように(詩篇46篇10節文語訳)、もう一度「この問題を通して何を私はしなければいけないのか」「何が私の問題なのか」。他人ではない、周囲の事情や境遇、事柄ではなくて、自分がここで神様の前にどう歩むべきかが問われている。これが大切です。ですから「たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせる」と。いうならば、神様の標準に、神様のご性質にまで私たちを造り替えてくださる。

11節「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる」。確かにそうです。私どもはできるだけそういう苦しみに遭いたくない、試みに遭いたくない。『主の祈り』に私たちはいつも「我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ」と祈ります。試みに遭わないままに、私たちが素直に優しく「はい」「はい」と神様の御心にかなうように変わればいいのです。ところが、なかなか強情で突っ張りやすくて素直ではないから、神様は「パン」「パン」と、きちんと指導してくださいます。それは優しい愛のむちでありますから、悩みに遭うとき、苦しみに遭うとき、悲しいことがあるとき、自分を振り返って、先ほどの「ガラテヤ人への手紙」にありましたように、御霊の実、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制」が私たちにあふれてくるように、造り替えられて、新しい者へと変わる。これが私たちに対する神様のご期待であります。神様は私たちをそのようになそうとしてこの救いに引き入れてくださった。

 ですから、11節に「しかし後になれば」と、「それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」。「平安な義の実」と、これは御霊の実であり、キリストのかたちであります。私たちの内にキリストのかたちが形づくられるまで、神様はなお産みの苦しみをするとおっしゃる。私たちを造り替えようと熱心になって、神様は私たちにそれを求めておってくださる。臨んでくださるのです。ですから、私たちはどんな時にもつぶやくことなく疑わないで主の御心はいかに? 問題や悩みがあるとき、むしろそれは恵みのときであり、そこで神様が私たちを造り替えようとする何かポイントがある。だから、へりくだって「主よ、この中で私はどうすべきでしょうか。どうあるべきでしょうか」と、神様のご愛に触れ、神様の深いご計画の御思いに私どもが触れて行くとき、私たちも変わります。私たちを根こそぎに新しくしてくださるのです。

 どうぞ、この恵みにあずかるために今日も主は大いに訓練をしてくださる。といって、脅かすわけではありません。神様は愛なる御方ですから、「あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」とあります(Ⅰコリント 10:13)。のがれる道も備えてくださるのです。一人一人に耐えられるかどうか、ちゃんと見ておられる。主は立派な教育者でいらせられますから、安心して主の手に委ねて行こうではありませんか。11節に「それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」と約束されています。大いに私たちはこの望みをもって、神様はどのように私を造り替え、また新しくしてくださるかを期待しつつ、一日、一日与えられた道のりをしっかりと歩いて行きたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。