いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

2月25日 日々の聖言

2015年02月25日 | 日々の聖言

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。

これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」哀歌3:22-23 


政治、経済、教育、文化、家庭など、私達の周囲を見ると、何一つ希望を与えてくれるものは

ありません。しかし、イエス様の十字架に目を向ける時、希望が生まれてきます。それは神様

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聖書からのメッセージ(481)「神にあってみな良し」

2015年02月25日 | 聖書からのメッセージ
「使徒行伝」10章9節から23節までを朗読。

 15節「すると、声が二度目にかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』」。

 この記事は、ペテロがヨッパという港町に滞在していたときですが、そこに3人の人が訪ねて来ました。彼らは、カイザリヤという所に駐屯していたローマ軍の百卒長コルネリオという人の部下だったのです。なぜそのような人がペテロを訪ねて来たかというと、コルネリオという百卒長は大変信心深い人でした。普段から神様を畏(おそ)れ敬い、忠実に神様の御声に従おうと努めていた。しかも彼は異邦人です。ローマの人間でありますからユダヤ人ではありません。それなのに彼は大変信心深い人であった。彼はそうやってひたすら神様を畏れ敬う信仰を持って自分なりに生活をしていたのでしょう。あるとき、神様からのお告げを受けたのです。それはヨッパにペテロという人物がいるからその人を招いて神様の話を聞きなさいと。御霊の導きでしょうか、彼は早速3人の部下を使いに出したのです。

だから9節に「この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ」とあります。彼らがペテロを訪ねて、ヨッパの町の近くまで来ました。その頃、ペテロは昼時であった。「祈をするため屋上にのぼった」とあります。屋上といっても屋根の上ぐらいでしょう。私は詳しくは知りませんが、当時の建物は四角い形のものですから、屋根に登れば夕涼みもできるような所だと思います。このときペテロは「祈をするため」とあります。しかも「時は昼の十二時ごろ」、ちょうどおなかがすく頃です。10節「空腹をおぼえて、何か食べたいと思った」というのです。他の人は「食事の用意をしている」とありますから、「ペテロ先生、どうぞ、そちらへ行っておいてください」と。「では、お祈りでもしようか」と、屋上に行ってお祈りするやら、うたた寝しているやら、夢うつつであります。そうしているとき、11節に「天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た」と。祈りつつ幻を見たのです。それは天が開けてとありますが、雲が開いて日が差すような感じでしょうか。そこから大きな包みが降りてくる。「大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて」と、風呂敷なんか四隅を結んだその中に物を入れて持ち運んだものですが、そういう物が四隅をつるされて天から地上に降りてくるのです。何が入っているか、その中身を見ると12節に「地上の四つ足や這(は)うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた」と。いろいろな生き物が動物や鳥などがそこに入っていた。何事かと? 彼が見ているうちに声が聞こえたのです。

13節に「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。空腹のゆえに、そのように思ったのか、これは定かではありませんが、神様が導かれるとき、そういうことが確かにあります。その奥に神様の大きなご計画があるからですが、単純な見方をすれば、空腹感から連想的に食べ物につながったと、恐らく精神分析医に言わせると、そのような説明をするだろうし、「ああ、なるほど、そうだよな」でおしまいでしょう。ところが、もっとその先に3人の者がやってくるという事と深くつながっている。これは神様のご計画なのです。だから、人間的に説明がつく範囲では終わらない。神様の御心とか御思いはそのようなものです。私たちは自分の理解ができる範囲、理詰めで説明がつくことだけで終わろうとしますが、実はそうではない部分がたくさんある。

私たちの生活においてもそうでしょう。説明のつかない、言葉では言えない、あるいは何か想像もしなかった事柄に私たちは常に置かれている。だからこそ私たちは神様の手に握られ、持ち運ばれている、というしかないのです。このときのペテロもそうであります。神様が握っておられる。神様のご計画の中に、わざの中に生きているのです。神様はペテロが空腹であることもご存じだったでしょうが、それを用いて一つの具体的な生き方、彼の態度を造り替えてくださる。

14節に「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚(けが)れたものは、何一つ食べたことがありません」と答えています。その当時、ユダヤ教の世界です。ユダヤ教は、旧約聖書の世界であります。律法の世界です。律法は生活上のいろいろな規則、規律を定めています。殊に食べる物についての規律は細かく定められていました。モーセの律法の書を読みますと、汚れたものとか、食べてはいけないもの、清くないものと、いろいろな分類がされています。ひづめの割れているもの、割れていないもの、反すうするとかしないとか、うろこがあるとかないとか、よくこんなことまで、と思うぐらいに、細かく分けられて、「これは食べてよろしい」、「これは汚れているから食べてはいけない」、もしそれに触れたらどうなる、こうなると言われる。彼は生まれたときからそういう教育を受けて来たのです。そして周囲の人もそれを守って生活をしている。

今でもユダヤ教の人たちはそういう生活をしています。アメリカにいましたときに一人のユダヤ人の友達がいました。一緒に中華料理を食べに行ったのです。中華料理にはいろいろなかたちで豚肉が使われています。「これは何だ」「これは何だ」と、いちいち聞かれる。とうとう何を食べたか定かではありませんが、チャーハンなら良いだろうと思って、取ったところがベーコンのようなものが入っていた。彼は食べないのです。

このときのペテロはもっと厳しい。また当時の人々はそういう生活をしていたのです。だから、「それらをほふって食べなさい」と、「それはできません」とペテロが答えたのは当然といえば当然であります。14節に「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。ペテロはイエス様を信じて聖霊に満たされた人ではありますが、まだ実際的な生活、その考え方の中には古い自分といいますか、ユダヤ教の時代に育ってきた価値観、世界観、そういう考え方が根強くしみ込んでいるのです。

それは日本人でもそうだと思います。私は比較的そういうものから離れた生活をして来ました、生まれたときから。ですから、それほど大きな影響はないけれども、しかし、知らないうちに見るもの、聞くものを通してやはり日本の伝統的な神道であるとか、仏教であるとか、そういうものの考え方がしみ込みます。ましてや、仏教であったという家庭の中で育ったクリスチャンにとって、やはりペテロと同じようなものが確かにあると思うのです。

ペテロの中にそういう古い時代の、昔流といいますか、イエス様を知らなかった時代の生活のパターンがしみ込んでいます。14節「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。この答えは見事にペテロやその当時のユダヤ人の価値観がどこにあったかが明らかになっています。彼らは律法を守ることによって義とされようとする。パウロがそう言ったのです。「あなたがたは、神様に義なる者と認められるために律法を守って、そして、その律法によって義とされようとするならば、あなたがたは滅びるしかない」と(ガラテヤ 2:16~)。ペテロはここで何の気なしに言っているのだと思うのです。「清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」と。この言葉はまさに「私は義なる人間です。正しいことをして来ました」という自己主張です。だから「主よ、それはできません」。どなたに向かって言っている言葉でしょうか。考えてみたらペテロは神様に対して「いや、あなた、それはできんよ」と言っている。自分を義とすることには、大きな罪があるのです。自分はこういう人生を生きて来た、だから、私は義だと、ペテロはどこかでそれを誇りとしているものがあったのです。ユダヤ人として、しかも生まれながらに生粋のユダヤ人として何一つ落ち度はなく、全て守って来たと。イエス様の所へ「 先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と聞きに来た人がいます(マタイ 19:16)。その人もイエス様が「律法を守れ」と言われたとき、「それはみな守ってきました」と彼は言いました。彼は己を義なる者、正しい人間だと主張したのです。でも、人の業(わざ)で自分を義としようとすることは、到底できません。私たちもそうですけれども、自分の力でやり遂げようとすると、どうしても「これで良し」というところがない。そうなると人様から、外側から太鼓判を押してもらう。「お前はそれでよろしいよ」と言われて初めて、「そうか、俺はこれで良かったのか」と思えるのですが、それだってまだまだ不十分です。ましてやそういう物がないと自分で「これを頑張って守る」と一生懸命にやります。やり遂げてそれじゃ、余程満足するかと、そうはいきません。終わった後、「いや、これで良かっただろうか。まだ足らないのではないだろうか。これでは神様の前に受け入れられないのではないだろうか」「ここまで守って来たけれども、まだ足らない」と。イエス様の所へ来た富める青年は、まさにそうです。幼い時から律法を落ち度なく守って来た。彼は自分が義人だ、正しい人間だと思いつつも「いや、まだ足らないことがあるかもしれない。もう一つ……」、だからイエス様の所に尋ねて来たのです。もし彼が自分のしてきたことに自信を持って「はい、私はこれ以上する必要がない。もうこれで完璧です」と言えたならば、イエス様の所へ来る必要はない。どうしても来なければならない……、それは当然です。私たちでもそうだと思います。一生懸命に、あのために、このためにとやっている。「これで良かっただろうか。まだ足らないことがある。ひょっとしたらあれが抜けているのではないか。これが……」と。お客さんを招いてご馳走しようとする。落ち度なく上手くやろうと思って、綿密に計画を立てて準備する。しかしいくらしても前の日になると「何か抜けているのではないか」と不安になる。それと同じです。神様の前に落ち度なく欠けなく何もかも自分が努力して頑張ってやり遂げたと。でも、まだ抜けているかもしれない、と常に不安が伴う。いつも満足できない、欠けた所を常に感じる。これが律法の要求なのです。ところが、イエス様が律法の完成者となってくださったのは、私たちが何もできない人間であるから、イエス様ができない者の身代わりとなって律法を完成してくださった。イエス・キリストを信じさえすれば、私たちは義なる者、キリストの義を着る者となる。これに不足はないのです。しかも、神の御子でいらっしゃる、神なる御方、罪なき御方が罪人となって私たちのために死んだのです。だから、お前をとがめる者はもういないと、神様がおっしゃるのですから、無罪放免、「あなたはそれで大丈夫」と言われているのですから、こんなうれしい話はない。私たちはそれ以上何もする必要はないわけです。神様は完成してくださったのですから、終わったのです。これがいま私たちの受けている福音です。

だから、ペテロに対して、神様が律法の世界でいわれる汚れたもの、清くないもの、そういう動物を見せて「それらをほふって食べなさい」と言われました。ところが、彼は14節に「主よ、それはできません」と、まだ古い時代の自分の義、己の義をしっかりと握っていたのです。「清くないもの、汚れたものを食べたことがない。だから、私はそんなことはできません」と。ところがそれに対して15節に「すると、声が二度目にかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』」。神様が「食べなさい」。神様が清めてくださったのだから、そこに何を更に付け加えることがいるだろうか。これはただ目の前の食べる、食べない、の問題というよりは、「イエス様の十字架」がどこにあるのか、に尽きるのです。だから、ペテロがイエス様の十字架の恵みにあずかるには、こういう一つ一つの具体的なことを通して古い自分を捨てる。自分の価値観、世界観を捨て去って、キリストのものとなって行く、そういう段階を踏んでいるのです。15節「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。神様がこれを「よし」とおっしゃってくださるのだったら、誰がそれに逆らうことができるか。確かにそうだと思います。そのことをしっかりと心にとどめておきたいと思うのです。神様は絶対者です。神様がなさることは全て正しいのであります。だから神様が「よし」とおっしゃってくださるのに、「いや、それはできません」「それは駄目です」と言うのは、これはあまりにも高慢、神様をないがしろにする態度と言うしかない。

だからパウロは肉体に一つのとげが与えられたため、何としてもこれを取り去ってほしいと祈った。それに対して神様は「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われた(Ⅱコリント12:9)。パウロの願いとしては「この弱い所を取り除いてもらえば、私が頑張ってやれるのに」と、「神様のために役立ってあげられるのに」と思ったのです。ところが神様は「いや、その必要はない」と言われた。「欠けたお前のそれでよろしい」と、「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。そのお前が弱いからこそ選んだのであって、お前が完全ならばお前なんか必要がない、ということです。いうならば「パウロのその欠けた所、そのものでよろしい」とおっしゃる。ここは私たちがいつもぶつかる、戦わなければならない事柄です。私たちの日常生活でもいろいろなことで「もう少しこうなったら良かったのに」「あの人がもう少しこうしておいてくれたら……」「私にもっと力があったら、知恵があったら、若かったら、元気だったら……」と、いつも思う。ところが、私たちが今日ここにこうしていること自体、神様が「よし」としてくださる。足らない所や不足していること、あるいはもっとああなりたい、こうなりたいと、その願いはあっても、神様は今日、今この瞬間、今の状態、「あなたのそれでよろしい」と、「わたしが主なのだから、わたしが神なのだから。だからわたしがする」とおっしゃる。ところが、私どもはそれが納得できない。「いや、そうは言われても私はこうありたかった」「こうであったほうがいい」「こうでなければ嫌だ」と、そこの所でいつも悶々(もんもん)として神様の思いを受け入れられない。神様のしてくださることを感謝できない。「神様だったらもうちょっとこうもしてくれたらいい。ああもしてくれたら良かろう」と、神様に対する姿勢が、私どもの心が変わって行く、高慢になってしまう。

このときペテロに対して神様は「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。神様が「よし」とおっしゃっているのに、どうしてお前は駄目だと言うのか。これは自分のこともそうですよ。「こんなことになって、私が悪かった。私がもうちょっとああだったら良かったのに」と、それは神様に対して反抗しているのです。「今の自分は私が造った」と思っているなら大間違いです。神様がそのように導いて「それでよろしい」とおっしゃってくださる。神様が「よし」とおっしゃっているのに「いや、私は駄目です。こんな私は神様、もう申し訳ありません。死んでおわびします」などと言う。気がつかないうちに神様を引きずりおろして行く。そして自分が神様になり代わる。ですから、何か悩んでいるとき、悶々(もんもん)としているとき、よくよく自分の思いを探っていただきたい。神様を神様としているだろうか? 私は神様の前に立っているのだろうか?神様が「清い」とおっしゃっているのに、それを「清くない」と誰も言ってはならない。また周囲の人のことについてもそうですね。家族のことについても「もっとああすべきだ。こうすべきだ」「こんなことをしているから駄目だ」と、いろいろなことで裁く、批判する、評価する。これも大きな間違いです。なぜならば、神様がその一人一人を握っておられる。だから、自分自身が神様に握られ、神様に造られ、神様の許しがあってここに生きていることをしっかり自覚する、認めていく。それと同時にたとえ自分の気に入らない、あるいは「ああしたらいいのに、あの人は駄目やな」と思うその人も実は神様が責任者なのです、握っていらっしゃるのです。「いや、私の息子だから、私が……」ではありません。それも神様が握っていらっしゃる。そこを認める。そのためには、まず自分自身です。自分のことを神様の手にささげてしまう。「神様が私を清めてくださって、こんな私を許して、今日もここに置いてくださる」「この家庭に置いてくださる」「この業をさせてくださっている」と、その一つ一つどんなことにも、そこで神様の手に自分を委ねる。と同時に、周囲のものについても神様の手に委ねていく。これが徹底しない。だから、いつまでも苦しいのです、きついのです。自分が抱え込もうとするから。神様が握ってくださって、一人一人を神様が「よし」と見給う道へ導いてくださる。だから、心を思い煩わせることは何もいらない。つい現実の目の前を見ると「あそこはもっとああしておけばいいのに。こうしておけばいいのに。ひと言いってやろうかしら」と。

以前、私もどこかそういう所がありまして、いらないお節介で言わなくてもいいことをよく言ったものであります。今でもまだ言いそうですが、最近は確かにこの聖書のお言葉の通りだとしみじみと教えられる。他人がそばであれこれ何か言ったって人は変わらないのです。どだい自分が変わりませんからね。それでいて人は変わるだろうと思って諌言しますが、それはありえない。だから全部神様に申し上げる。神様が握っていらっしゃる。だから、若いお父さん、お母さん、子育てをしている方々を見ていると、いろいろ見えてきます。「あんなことをしていたらこうなる」と、その度、「神様」「神様だよ」と、最近は神様を身近に感じます。これが大切です。そうすると、このことは神様が見ていらっしゃる、知っていらっしゃる。ひょっとしたら、予想のようにとんでもない困難、苦しいことに遭うかもしれない。しかし、それもまた必要なことです。つい “転ばぬ先の杖”で、何とかそういう痛い思いをしないように、ぶつからないようにと思いますが、最近は、「神様はいろいろなことを通して、一人一人を教育し、教えようとしていらっしゃる。それをこちらが邪魔をしているのだな」と思います。下手(へた)に手を出し、口を出すのはよろしくない。恐らく皆さんの心配事の大半はその辺にあるのです。それを全部神様に委ねたら余程楽になります。

だから、神様が清めてくださる。神様が事を進めてくださる。それを「清くない」「それは駄目です」「神様、そんなことをしてはいけません」と言うのではない。神様が「よし」とおっしゃるのに……。このとき、ペテロにその事を教えてくださった。それはその次に来る大きな出来事の前触れだったのです。

このとき、コルネリオから遣わされた3人がシモンの家を訪ねて来ます。そこで彼に「シモンというかたが、こちらにお泊まりではございませんか」と、19節以下に「ペテロはなおも幻について、思いめぐらしていると、御霊が言った、『ごらんなさい、三人の人たちが、あなたを尋ねてきている。 20 さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである』」。
ちょうどその幻がどういう意味だろうと思っていたとき、御霊が「3人の人が来るけれども、これはわたしがよこした」と。だからその人たちを受け入れ、その人たちの話をちゃんと聞くようにと勧めてくれたのです。そこで彼らは何のために来たかを22節に説明しています。「彼らは答えた、『正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている百卒長コルネリオが、あなたを家に招いてお話を伺うようにとのお告げを、聖なる御使から受けましたので、参りました』」。これは彼らに神様がペテロの話を聞くように導かれた、と語っている。ペテロにも、3人の使いを送ったのは神様ご自身、わたしである、と言われました。そしてコルネリオに対しても神の使いがペテロを招いて話を聞くようにと伝えました。いうならば、この一連のドラマの指揮者といいますか、監督といいますか、主人公は神様です。神様がペテロに語り、コルネリオに語り、それらのものを導いて一つに合わせていく。

これはペテロの場合だけでなく、私たちの今もそうなのです。「いま自分がこんなことをしていていいのだろうか」「こんな年になってもまだこんなことをさせられて」とか、いま自分のしていることがどういう意味があるのか、どういうことになるのか分からないことがいくらでもありますが、後になると「なるほど、あの時あれをさせられたのはこのことのため」、こちらの人がこう言って来たときに「このことのためだったのか」と、不思議な出来事になるのです。

私の考える範囲はそれだけですが、神様はもっと大きなご計画をもっておられる。だから、どれひとつ無駄には終わらない。「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」(Ⅰテモテ 4:4)。どんなことも神様が備えておられることです。神様によらないものはどこにもない。だから病気もそうです。あるいは交通事故に遭うこともそうです。

一人の兄弟はいつも車を教会の駐車場に留めているのですが、駐車場に入り掛けて、後ろからポーンと追突されて勢い余って、教会と隣との境のレンガ塀を壊してお隣に飛び込むような事故になりました。ところが、本人はどこもかすり傷ひとつなく元気だったのです。「えらいことになったな、可哀想に……」と、車は廃車になってしまって、どうしようと。ところが、隣の家も大迷惑です。隣の家の車もレンガがぶつかって傷ついてしまっている。ところが、保険屋さんがそれを全部修理してくれました。お隣さんは大喜びで、「こんなにまでしてもらって」と、それはそうでしょう。昔の古い何十年と続いていた塀が壊れて全部やり替えてくれた。家の中のことも全部やってくれた。お隣さんが訪ねてきて「自分は今まで神も仏もない、そんなものは信じない人間でしたが、この度のことを通して、神様ってすごいことですね。こんなお恵みにあずかって申し訳ない」とお礼に来られたのです。私は何の関係もないのですが、追突された彼のほうも車が新しくなりましたし、けがはなかった。交通事故だって決して無駄じゃない。感謝して受けるとき捨てるべきものはないどころか、考えもしないことになります。神様のなさるわざは、そういう恵みなのです。だから、病気だとか事故だとか、ああなった、こうなったと嘆くのではなく、これも神様が「よし」とおっしゃることと信じる。これが大切です。

使徒行伝10章15節に「すると、声が二度目にかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』」。訪ねて来た彼らは異邦人でありました。その後にペテロが語っていますが、当時はユダヤ人と異邦人とは交際してはならないと禁じられていたのです。それに対して神様が「そうではない」と、彼らもまた神様の民であること、神に造られた者であることをペテロに教えてくださったのです。ですから「ためらわずに付いて行きなさい」とペテロを押し出すための教育といいますか、訓練でもあったのです。

いま私たちもそういう中に置かれているのです。いろいろなことの中で神様を神様とすること。神様の御思いを知り、それに私たちが従って行く者となるようにいろいろなことを通して、神様が清めていらっしゃる。神様がわざを進めておられるのにそれを信じられなくて、つい「ああじゃない」「こうじゃない」「ああなったら良かった。こうなったら……」とつぶやいたり嘆いたり、いろいろな思い煩いに自分で入り込んでしまう。そうならないためにいつも「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。何か文句を言いそうになったら、このお言葉を思い出して、「ああ、そうだ。神様がこの人を置いてくださった。神様がこの人に言わせていらっしゃる」「神様がこのことをさせなさる」。いつもそこに心を向けていきますと、決して失望することがない。いや、むしろ大いに楽しみになります。どのように神様がそこからわざを進めてくださるか、期待しつつ祈ることができ、主を待ち望むことができるのです。

どうぞ、このお言葉を心にとどめて、神様が「こうするよ」とおっしゃるなら、「いや、それはできません」と言わないで、「神様、そうですか。分かりました」と、すぐそれに素直に従って行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。