いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

2月24日 日々の聖言

2015年02月24日 | 日々の聖言

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」ピリピ4:4 

 

誰でも喜んでいたいと願いながらも、なかなか喜べません。事情や境遇が恵まれたら

喜ぼうと思っていますが、それではいつまでも喜ぶことが出来ないからです。私達の喜

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聖書からのメッセージ(480)「聖霊の力」

2015年02月24日 | 聖書からのメッセージ
「使徒行伝」1章6節から11節までを朗読。

 8節「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

 イエス様はご自身のよみがえられたことを、40日間にわたっていろいろな形で多くの人々にあらわしてくださいました。40日過ぎた時、神様はイエス様を弟子たちの見ている前で天に引き上げなさいました。その前に弟子たちとお話をなさった記事が6節以下であります。ここで弟子たちは「イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と尋ねています。
当時、ユダヤはローマ帝国という強力な国の支配下にありました。だから、独立した国というよりは、ローマ帝国の属領になっていたのです。これはユダヤ人にとって大変屈辱的な事態です。旧約聖書の時代から、神の選びの民、他の民族とは違う者、神様に選ばれた者であるという誇り、自負心がありましたから、ローマ帝国に支配されるというのは、あり得ない事態だったのです。かつてソロモンやダビデが、王として君臨していたイスラエルの国を再興したいという、当時の多くの人の願いでもありました。ですから、革命といいますか、クーデターが起こって国が独立し、神様の恵みに満ちた国に変わるのだと、期待をしていたのです。イエス様に多くの人々がそういう期待を掛けていました。しかし、イエス様は十字架に架けられ、無能無力の姿をさらけ出してしまう。多くの人々は絶望、失望したのです。ところが、神様は人々の思いも掛けないかたちで、イエス様を死の中からよみがえらせてくださいました。これは当時の人々、いうならば、私たちも同じでありますが、世間の人々が求めているものと神様が私たちを通してあらわそうとしておられる事、それが全く違っていたのです。この地上での生活、あるいはこの世で人の業としての地位や名誉やあるいは誇り、そういうものが実現して、夢が完成することを多くの者が願っています。
しかし、この聖書を通して証詞されていることですが、神様は私たちの全てのことを通して、神が神であること、主が主でいらっしゃることを証詞すること、あらわすこと、これが目的であります。私たちが造られて、地上に命を与えられ、こうして生かされているのも、私たち一人一人の夢を実現し、願いをかなえ、この地上の生活が思いどおり願いどおり好きなように楽しく、世の中で言うところの幸せな人生を送りたい、そのために神様が助けてくれるはずだと、それは大きな間違いです。神様は私たちをしてご自分のご目的、神様の栄光、神様の御業をあらわそうとしておられるのです。弟子たちも世間の人たちと同じように、「この国をローマから独立させて、自分たちの夢を実現し、また自分たちの誇りを取り戻して、国として、あるいは民族としての夢を完成したい」と願っていたのですが、神様の御心はそこにはなかったのです。

 7節に「彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない』」と。これは、分かりやすく言うと、「あなたとは関係がない」、「そんな話は何の関わりもない」と、きっぱり断っておられるのです。イスラエルの国を復興なさるかどうか、そんなことは神様のなさることで、わたしたちは知りませんと言われたのです。それに続けて、イエス様は8節に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と。ところが、神様ははっきりとしたご目的を持っておられ、なそうとすることがある。それは何か? 私たちを神様の証人とならせる。証人というのは、その人自身が直接体験したり、目撃したことを「かくかく云々であった」と証言する人のことです。神様は私たちの目には見えません、手で触ることもできません。その声を聞くこともできません。いるかいないか分からない。人間の肉体の目をもって見ることは不可能です。ところが、神様が私たちに力を注いでくださる。「聖霊があなたがたにくだる時」とありますが、神様の霊が私たちに注がれると力が与えられます。それは神様の力です。人間的な意味での力ではありません。肉の力でもありません。神様の力です。

 世間は、弱肉強食、常に強い者が勝利者となる。いわゆる、勝ち組とか負け組という分け方をいたします。ですから、多くの人々が何とか他人を出し抜いて、人よりもより良い者となりたい。より幸せでありたいとか、力をもって他を退けて自分がのし上がって行く、そういう競争社会です。だから、多くの人々は何とか力を得たいと思います。知力、財力、体力、ありとあらゆるどんな力でも利用する。それを用いて世の中で成功者になる。だから、子供を育てるとき、親たちは一生懸命その子に力を付けてと、小さな子供の頃から習い事をさせ、ああもし、こうもし、と努めます。学校の勉強はもちろんでしょうが、それ以外にもいろいろなものを身に着けさせようとする。それによって他の子供たちよりも人生に勝利してくれる、成功してくれるに違いない、してほしい。これは親の願望であります。
というのは、親ですらもそういう中で生きていたわけです。何とかして自分たちも人生の勝利者になりたいと思って頑張って来たけれども、いかんせん力がなかったと。知力もなければ財力もない、体力もない。いわゆる、世の中の実力者、有力者といわれる人との関係もない。だから、自分は不幸せな生涯、不満足な人生を生きて来た、と思っているから、勢い自分の子供に対して大きな期待を持ってあれもさせよう、これもさせようとします。そのために潰(つぶ)れてしまう子共もいますが、そういう力を身に着けさせようとするのがこの世の中の生き方であります。私たちもどちらかというと、神様にそういう力を与えられたいと願います。何としてもこの世に勝つ力、勝利者となる道を歩めるようにと、そのために神様に祈って求めて、力を与えられて、あの人、この人など周囲を蹴散らして、自分が先頭を切って行けるように思っているならば、それは全く見当はずれです。

 神様から与えられる力は私たちが求めている力とは違います。神様の力は私たちに宿ってくださる神の霊です。聖霊、御霊、キリストの霊といいますか、その霊が私たちの内に宿ってくださる。これが力です。イエス様はご自分が天にお帰りになったら、父の御許からあなたがたに御霊、真理の御霊、助け主を送ると(ヨハネ14:16~)、約束してくださったのです。イエス様が十字架におかかりになって死んでよみがえられ、弟子たちに命じられたのが、今の記事の少し前でありますが、4節に「そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい』」と言われた。「かねてわたしから聞いていた父の約束」とは何か。聖霊を与えてくださる、神の力を与えてくださるとの約束です。それが実現する、必ず成就する時が来る。その時を待ちなさいと。

聖霊が与えられるとどうなるのか? 8節に「力を受けて―――わたしの証人となる」。イエス・キリストの証人、神様の証人。私たちの内に神が神であること、主が主でいらっしゃる、救い主でいらっしゃる御方をはっきりと自覚することができ、その御方と共に生きる者とされる。そして、私たちを通して神様の御業、神様の力、神様の恵みを、ご愛を明らかにしてくださる。これが私たちに対する神様の求めておられること、期待しておられることであります。私どもは、神様のことよりは自分のことを考えます。「私がこうなりたい」、「私がこうありたい」、「私の夢はこうだから、それを実現するために、何とか神様、力を与えてください」と求めますが、神様は私たちを通してご自身のわざをなそうとしておられます。
イエス様が十字架におかかりになるとき、イエス様は神の子ですからどんなことでもおできになるので、ローマの兵隊であろうと、当時のユダヤ人の指導者であろうと、蹴散らしてしまうことも、もちろんおできになったでしょう。ところが、そういうことは一切なさらず、ゲツセマネの園で最後の祈りをなさったときに「わたしの思いのままでなく、御心のままになさってください」(マタイ26:39)と、徹底して父なる神様の思いにご自分を委ねきってしまわれました。
神様がイエス様に求めておられたことは、全ての人の罪のいけにえとなって、犠牲となって十字架に命を捨てることです。そのことを父なる神様は求めておられた。イエス様は神様のご目的に従って、その願いに応えてご自分を全てささげきった。神様の手に委ねた。そしてあの十字架の道を歩まれたのであります。やがてゴルゴダの丘で両手両足を釘づけられ、茨(いばら)の冠をかぶせられ、胸をやりで突かれ、苦しみの極みを味わってくださった。そこでイエス様は無能無力に見えた。何一つ反撃をすることもしない、言い逆らうこともなさらない、あるいは、自らの潔白を弁護することもなさらない。されるままに何一つ抵抗なさらないイエス様。多くの人々はそれで失望したのです。実に、イエス様はそこで徹底して父なる神様のお取り計らいの中にご自分をささげきってしまわれた。父なる神様はイエス様にそこであらがったり、抵抗したり、激しい言葉を出して相手をののしったりすることを求めておられなかった。徹底して父なる神様の手の中にご自分を委ねていく。なぜそうなのか?

「ピリピ人への手紙」2章6節から8節までを朗読。

これはイエス様がこの地上に遣わされてどのように生きて来られたか、歩まれたか、そのことが短く要約されています。8節に「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」と。神様のお取り計らいの中に置かれた。私たちの知っている話は、イエス様がローマの兵隊に捕えられ、当時のユダヤ人指導者たちの悪意、ねたみ、憤りを買って、罪なき御方でありながら罪人とされて、極悪非道な者と定められてしまった。それは彼らの悪しき思いと、そのときの指導者たちが自分たちの都合のためにそんなことをしたのだと、そのように見えます。なるほど、多くの人々が「十字架につけよ」と叫び、イエス様をののしった。ところが、その事の背後に見えない神様の御心、彼らをして呪わせ、彼らをしてイエス様を十字架に付けなさったのは誰でもない、父なる神様であった。それはイエス様が多くの者の罪をあがなう犠牲の神の子羊となり給うたことの証しでもあります。
主はピラトの法廷、カヤパの屋敷、ヘロデの所にと次々と引き回されましたが、引き回したのは他ならない父なる神様です。イエス様は8節にあるように「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで」徹底して従われた。イエス様がご自分の思いを遂げようとして、ピラトの法廷で大暴れをする。大きな力を振ってカヤパの屋敷で居並ぶ者たちをぶん殴ってしまう。そうすることもできたでしょう。しかしそれでは神様のご目的を果たせない。父なる神様はイエス様を罪のあがないの犠牲として送り出してくださった。イエス様を神様のわざの中に引き込んでおられるのです。これはイエス様の十字架の場面だけでなく、そもそもイエス様がこの地上に遣わされなさった事態が父なる神様の深い大きなご計画によるのです。そしてイエス様の地上での33年半の生涯と十字架の死、これも神様ご自身のわざをそこに現わしておられるのです。決してイエス様が好きで、何か自分がしたい夢があり、野望があって、事を進めたことなどひと時もありません。「ヨハネによる福音書」に「わたしは、自分からは何事もすることができない」とはっきりと告白なさっておられます(5:30)。イエス様は徹底してご生涯を父なる神様の導かれるままに、そしてその総仕上げとしてゲツセマネの園の祈りがあり、十字架があるのです。イエス様のご生涯は父なる神様の持ち運ばれる御心に徹底して従い抜く。それが8節「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ことです。「従順であられた」とは何に対してか? 父なる神様に対してです。

いま私たちもそうです。私たちがこの地上に命を与えられた目的は何か。私たち一人一人に神様が備えておられるご計画、神様の御心を私たちが全うするためです。だから、いろいろなこの地上の生活にある悩みや困難や苦しいこと、つらいこと、患難といわれること、もちろん楽しいこと、うれしいこともありますが、様々なことを通って行きますが、どれ一つとして神様によらないものはないのです。その中で私たちがイエス様に倣ってどんな事情境遇、問題や事柄に置かれても、そこで徹底して父なる神様に従って行く。神様の御心を信じて父なる神様の前に従順になって行く。時には人から誤解され、曲解され、いろいろなことを言われるかもしれない、そういう時もあるでしょうし、また思いも掛けない素晴らしい喜びの中に置かれるかもしれません。しかし、どれもこれもことごとく神様のご計画と御業です。その中で、時に「もう我慢できません。こんな苦しいことは嫌です」と逃げ出したくなる。そのとき私たちは自分の弱さをいちばんよく知るのです。自分に力のないこと、また耐える力もなければ、といって何か積極的に打って出る、相手に対して何かをする力も勇気もない。ではどうするか? だから、神様は私たちに神様の御心に従い得るように力を与える、と約束してくださいました。それが先ほどの「使徒行伝」の記事であります。

「使徒行伝」1章8節に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。私たちに神様は力を注いでくださる。霊を与えてくださる。それはキリストの霊であり、また神の霊、御霊、聖霊です。それを私たちの内に宿してくださる。それが力となっていろいろな問題や悩み、試みの中で、しっかりと神様に結びついて、死に至るまで従順に従い抜いて行く力を与えてくださる。これがイエス・キリストの霊です。だから、私たちが聖霊によって力を与えられるのは何のためか? 私たちをして神様の力を証しする。
イエス様の場合もそうです。イエス様も私たちと全く同じ肉体をとってこの地上に生きてくださいました。弱い者となってくださいました。だから、十字架の死ですらも、私たち以上に恐れと不安と悲しみを感じておられたのです。決してイエス様はスーパーマンで「十字架もなんでもへっちゃらだ」と言われたわけではありません。深い悲しみの中で祈られました。しかし、それに耐える力、十字架の御苦しみをも乗り越えていく力はどこから来たか。父なる神様が与えてくださった霊です。それは今も私たちに注がれているのです。私たちは世の人に比べてあれもない、これもない、ないないづくしだから駄目だというのではなくて、それはそれでいいのです、無くていい。そうではなくて、いま神様は弱くて不足だらけ、欠けだらけの私たちに神の力を注いでくださる。聖霊を注いで私たちではできない、思いもしないような事態や事柄を通して、神様の神たるをあらわしてくださる。

「コリント人への第二の手紙」4章7節から10節までを朗読。

7節に「この宝を土の器の中に持っている」と語られています。「土の器」というのは、欠けやすいもろい弱い器であります。しかし、どんなに弱い者であっても、実はその中に「この宝」、キリストの霊を受けている。神様の霊が私たちに宿って、私たちの弱い所を通して神の力が現れてくださる。7節に「その測り知れない力は神のものであって」とあります。だから私たちは神様の力によって生かされて行くのです。自分の知恵や自分の努力、自分の業で人が生きる。これはすぐに行き詰ります。力がすぐに尽きてしまうといいますか、無くなってしまいます。だからそれに頼っている間、この世の人たちと同じ様に嘆いていなければならない、悲しんでいなければならない。そもそも私たちにはそういう力がないのですから、それを先ずはっきり認めようではありませんか。私たちには耐える力も何かをする力もないが、あるとすれば神様が私たちに与えてくださる力だけです。7節に「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれる」とあります。何かをすることができ、「これは私が頑張ってできた」と思いやすいですが、そうではなくて、神様があなたに力を与えて、そのことをさせてくださったのです。だから、自分の力ではないのです。これは神様から出た力です。そこをしっかりとよくよく覚えておいていただきたい。
私たちはどんなことをしても、良きことができません。神様の御心に従うことができません。しかし神の御霊が宿ってくださって「これは道なりこれを歩むべし」(イザヤ30:21文語訳)と、神様の御心を教えてくださる。神様が私たちに願っていること、神様の御心に従うことを御霊はさせてくださる。私たちは神様の御心を知りながらも、なかなかそれができないのです。もちろん力がないのですが、その上に様々な悪しき力が私たちを引っ張ります。パウロが「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ローマ 7:19)と言うように、私たちは弱い者であります。ところが、神の御霊が宿ってくださると、しなければならない「これは神様が私に求めておられることだ」と知り、知ったならばそれを行う力を与えてくださる。だから、自分では到底できないようなことを神様は私たちに力を与えてさせてくださる御方です。これが「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受ける」ことです。しかも私たちにさせなさるのは、私たちの夢を実現する手助けを神様がなさるのではなくて、私たちをして神様の御心に従う者へ変えてくださる。神様のご目的に私たちがぴったりあてはまって行くように造り替えてくださる。これが聖霊、御霊の力であります。だから、その力は7節「わたしたちから出たものでない」。そもそもそういう力は私たちにないのです。しかし、神様の力が私たちに宿ってくださるならば、「自分にはもう無理だ」、「こんなことは私にはできない」ということすらも、させなさる力です。神様の御心に従う道へと私たちを押し出してくださる力であります。それが8節以下に「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」と言われる生き方。何としぶといといいますか、タフな生き方ではないでしょうか。何か一つでも心配なことが起こってご覧なさい。一瞬にして“青菜に塩”で、しおれてしまって立つ力もなくなります。ところが、私たちにはそもそも力がないのでから、神様が私たちに聖霊を注いでくださる。私たちを立ち上がらせてくださる。神様がわざを進めようとなさるご目的に私たちを押し出してくださるのです。

 だから、同じく「コリント人への第二の手紙」12章5節から10節までを朗読。

 素晴らしいですね。これは聖徒パウロの告白です。彼は5節に語っているように「自分の弱さ以外には誇ることをすまい」と。「弱い」ことはあまり誇りになりません。世間では弱いことはできるだけ隠しておく。世の有力者などという人は特にそうです。政治家など、「この人は病気だ、弱い」と見られたら、皆離れて行きます。だから、弱いところはできるだけ見せたくない。これが世間の行き方です。ところが、神様はそうではない。「弱いのを誇りなさい」と、「自分の弱さを誇ろう」と。そしてパウロは、彼は誇ろうと思えばいくらでも誇ることがあったと、「ピリピ人への手紙」(3:5~)に告白しています。家柄も良いし、学識もあり、また大変優れた有能な人物でありました。だから、誇ろうとするならばいくらでも誇ることはあったのです。人よりも優れた人物でありました。しかし、それでも彼はまだ自分が弱い者であることを知っていました。
その一つとして、7節に「肉体に一つのとげが与えられた」と語っています。彼は具体的に身体的な弱さを持っていた。これが無くなったら、これさえなければ、もっと自分は力強くなれる、と思っていたのです。ところが、そのことについて彼は神様に「何とかこれを取り除いてください」と祈り続けたのです。9節に「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』」。あなたの弱いのはそのままでよろしい。何が不満ですかという。神様は「わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり」(文語訳)と言われ、あなたが弱いと思っているその弱い所にこそ、神様の力、キリストの力が現れてくださる。「お前はその弱さを誇りなさい」と。これは私たちにとって大変うれしい話であります。
自分は弱い、力がない、あれもできない、これもできない。神様の御声を聞きながらも「しようと思うけれども、気持ちばかりで何一つできない」と、自分を嘆く。その必要はありません。パウロもそうです。この弱さがなかったら、もっと神様のために役に立つはずなのに、と思いましたが、神様は「いや、そんなお前の力はいらない。わたしの力をあらわす」と。実はこれが証人、神様の証しをする道です。世のため人のため大事業をし、人の目を驚かせるようなことをする。それは必要ありません。そんなために神様は私たちを置いていらっしゃるのではなくて、私たちを通して神の力をあらわしてくださる。だから、私どもは自分の弱いこと、できないこと、神様の御声を聞きながら、「あの人のためにあれもしてやりたい」、「この人のためにも……」とつい欲が出たり、いろいろなことで「あれもできん」「これもできん」「お金さえあればしてやれる」と嘆きます。しかしそんなものではないのです。お金がなくてもできる。できないのは自分が弱く、欠けだらけだからです。神様の力が臨んでくださるとき、聖霊が私たちに宿ってくださるとき、その弱い所にキリストの力があらわれてくる。自分が思わない、考えもしない、想像もできないような事態や事柄を起こしてくださる。私たちが神様の力をあらわしていく者となる。これが「証人」です。

 「使徒行伝」1章8節に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。自分が弱い、足らない、年も取って来て記憶力も弱ってくる、足腰もたたなくなってきて、「生きていても意味がない、早く死にたい、早くお迎えが来ないものかな」といいますが、そういうときにこそ、力がないことを感謝しましょう。弱いことを誇ろうではありませんか。生きているか死んでいるか分からない、気息えんえんとして「この人、生きているのかしら」という状態であっても、神様が力を与えて、今日もここに置いてくださる。その中で喜び、感謝し、主を褒めたたえて行く。これが力です。もちろん何か具体的な業をさせなさるのも神様です。しかし、神様は千変万化いろいろなわざを、いろいろな事柄を私たち一人一人にそれぞれの所で、「ここに神様の力が働いている」ことを明らかにする。そのための人生なのです。だから、自分の人生をあの人と比べ、この人と比べ、「私の人生、これ程貧相な人生はなかった」なんて思ったら、むしろ感謝したらいい。「そういう中でも、神様が憐れんでここまで持ち運んでくださった。私はこの年まで生かされて来た」と、このこと自体がまことに神様の力によるしかないのであります。

 私は自分自身のことを振り返ってみてもそう思います。世の中が終末を迎えようと私は絶対牧師にはならん、と思っていたのです。自分で決めておりました。でも、神様の力が働いてくださるとき、そんなかたくなな思いが一気にひっくり返ります。だから、父に「牧師なんかにならん」と言ったら「なりたくない者をさせるはずがない!」と。「神様がさせなさるときは喜んでするように変えてくださる」、「そうか。じゃ俺は喜べないから、なりそうもないな。安心した」と思っておりました。ところが神様は、そうなることを喜びとするように心を変えて、その道へ進ませなさるのです。いやいやながら、しぶしぶ引っ張って行かれる神様ではありません。「あれもこれもいりません」と喜んで言えるぐらいまで変えてくださるのです。これは確かです。弱い者の中に神様の力が働くとき、それはとてつもない大きな力です。人のかたくなな心をひっくり返します。そして新しく造り替えてくださる。

 隈上望都姉妹が献身したときの証しがまさに「証人」です。姉妹をしてこの道に引き入れてくださった神様の力、これだけでもまさに驚きです。到底、そんなことにはなりそうもない人を、神様はちゃんと造り変えなさいます。だから、「しめしめ、私はそんな器ではないし、これは神様からはねられて当然、良かった、良かった」と思うなら、そうではありません。到底そうとは似つかわしくもない「これは無理だよ」と思える状況の中にあろうと、驚くべき力を神様は注がれる。御霊が働く、聖霊が注がれる。望都姉妹の心に神様が霊を注いでくださった。神様の力を与えてくださったとき、それまでの彼女を造り替えてしまわれる。根こそぎに変えてしまいなさる。神様はそうやって、そのことを通して神が神たること、主が主でいらっしゃること、神の力があることを証しされるのです。

 だから、いま悩みの中にあり、苦しみ、悲しいことがありますなら、だったら、喜んだらいいのです。そこで神様の力に満たされるように、主を待ち望む。神様を待つとはそこです。私たちが「神様、どうぞ、あなたの力を与えてください。あなたの力によって私を持ち運んでください。あなたの御手に委ねます」と、主を待ち望んで行きますとき、神様は私たち一人一人に御霊を備えて、御心に従う道を、喜びをもって、輝いて進ませてくださるのです。徹底して神様の力を信じて行こうではありませんか。

 今日、この約束を信じて行きたいと思う。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時」、「聖霊がくだる時」、これ以外にないのです。それはいつか? もう既にくだっているのです。神様は二千年前ペンテコステの日にそのことを実現してくださって、それから後、いつでもどんな時でも神の御霊が皆さんに注がれている。その力が今日も私たちをこの礼拝に引き出してくださったのです。どんなことも自分の力によるのではない。測り知れない神様の力によって今日生きている者であることをしっかりと感謝して行きたい。それを認めましょう。そうすると次に神様はまた新しい力を注いで、私たちの思わない、願わない、それでいて大きな喜びにつながる道を神様は備えておられるのです。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。