「ヨハネの黙示録」2章8節から11節までを朗読。
10節「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」。
この記事はイエス様のお弟子であったヨハネがパトモスという島におりましたとき、神様が霊を注いで、やがて来たるべき主がどのようなことをしてくださるか、また世の終わりの時がどうであるか、その終わりの後、人がどういう道をたどって神様の御許(みもと)に行くかということを、もちろんそれ以外にもありますが、様々なことをヨハネを通して語り掛け、それを記したものがこの「黙示録」といわれております。その中でも1章から3章にかけて、「ヨハネからアジヤにある七つの教会へ」と語り掛けられています。当時、既にイエス様は天にお帰りになった後ですが、弟子たちやイエス様を信じる人々が大迫害に遭い、各地に散らされて地中海沿岸の町々にイエス様の福音が伝えられ、イエス様を救い主と信じる人々が集まり教会が建てられました。それぞれの教会に、神様が求めておられることを語っております。8節には「スミルナ」とありますし、また2章1節には「エペソのある教会」と記されています。その他「ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤ」という教会もあります。それは当時の町の名前でもあります。このスミルナの教会に対して神様は一つの事を語り、またエペソにもその教会に必要なこと、求めておられる御心を語っています。
これは昔の教会に対して語られたこと、「その教会に対してであって、私とは関係がない」と思いますが、そうではなく、実は私たち一人一人に宛(あ)てられた神様からのメッセージ、警告でもあり、励ましでもあり、また慰めでもあります。それぞれの教会には特徴がありまして、褒められる所もあれば叱(しか)られる所もある。9節に「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている」とあります。神様はスミルナの教会が置かれている状況、そして彼らが様々な悩みの中にあり、その悩みがどんなものであるかを知っておられるのです。
私たちに対してもそうであります。神様は私たちの置かれた状況を細部にわたって知っておられます。ここに私たちは集まっていますが、横にいる人と私とは違います。これは当然です。その違うという意味は、受けている悩みも、これからしようとしていること、生活も違うし心の思いも違うし、いろいろな物が全部違います。その違いが分かってもらえないと「誰も私のことを知らない」と多くの人は思います。それは当然のことであります。人というのはそんなに相手のことをよく知ることはできません。「分かっているよ、あなたのことは全部知っている」というのは、ご挨拶(あいさつ)といいますか、ただ言葉だけのことであります。知らないのが当然であります。人は、それぞれが皮膚の袋に包まれていまして、自分の皮膚から外のことは分からないのです。相手がどう感じているのか、どのように思っているのか。そして同じ問題の中に置かれてもある人にとってそれはなんの意味もないことです。ところが、ある人にとって、それによって非常な深刻な思いに落ち込んでしまうこともあります。同じ苦労をしているから分かりあえるだろう、“同病相哀れむ”という言葉がありますから、なるほど、それはある程度通じる所ももちろんあります。同じ病気をしてその悩みの中にある人を思いやるということはできます。しかし、とことん相手のことが分かっているかというと、これまた分からない。同じ境遇の中に置かれてもその人とこちらとは違うのです。これはどうしても越えられないものです。理解できない所があります。だから、私どもはある意味では孤独であります。一人一人です。いろいろな問題の中にあって自分一人がそのことを引き受けて、担(にな)って行かざるを得ないのです。どんなに親しい家族であろうと親子であろうと、相手のことは分からない。それを感じると、孤独である、寂しいと思いますが、もちろん寂しいことは当然でしょうが、誰も他人のことは理解できません。じゃ、諦(あきら)めるしかないのですが、ところが神様はご存じです。神様は私たちの思いの隅から隅まで、心の全てを知ってくださるのです。だから、「ヘブル人への手紙」に「もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから」と(4:14)、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」(4:15)とあります。また、だから「はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(4:16)と勧められています。人に期待したら失望するのは当然であります。
私も家内からよく言われる。「あなたは鈍感で私のことを分かってくれない」と言う。私も分かろうとは思うのですが、いかんせん分からないのです。だからそういうとき「私に期待されても困る」と言うのです。皆さんもそうです。子供に期待しては駄目ですよ。「これぐらい分かってくれるだろう」と思いますが、分からないのが当り前であって、通じないのであります。では、誰が知ることができるかと。実は、主がご存じ、イエス様は私たちのことを全部知っておってくださるのです。そしてその受けている問題や事柄にぴったりとあてはまる道を教えてくださる、励ましてくださる、力を与えてくださるのです。
聖書通読を皆さんにもお勧めしていますが、毎日日課のように読みますが、ただお勤めで読むのではなくて、しっかりと、旧約、新約の1章ずつを毎日読んで行きますと、自分が受けている問題や悩み、事柄にぴたっとあてはまる御言葉に出会います。それは神様が語ろうとしているときです。み言葉を通して教えようとしてくださる、知ってほしいと思うことがあるから、そのお言葉がぴたっと心にとどまるのです。時には痛い思いもします。「やっぱり私のこの思いは間違っている」と指(さ)されることがあります。また時には落ち込んで顔を上げられないようなとき、御言葉によってグッと内側から支えられて元気を与えられる、そういうことがあります。それは私たちのことを主がご存じだからです。時には、聖書を読んで何の意味もない、何の感動もない、心にも響かない、残らないで過ぎていくこともあります。だからやめてしまうのではないのです。たとえそうであっても絶えず読み続けていく。主が私たちに語るときが与えられているのです。いろいろな悩みや困難に遭うとき、人に言わないで、人に同情を求めないで、あるいは人に分かってもらおうとするよりも、まず祈って神様に知ってもらうことです。神様は私たちの悲しみも悩みも喜びも憂いもことごとく知っておられるのです。そして祈りますと、聖書のお言葉を通して慰められ、励まされ、望みを与えられる。神様との交わりの中に生きる。この黙示録でアジアの七つの教会に主が語っておられるのはまさに、いま同じ様に、ある人にとって励ましを、ある人にとっては慰めを、ある人にとっては警告を与えて叱ってくださることもあります。このときのスミルナの教会にも、神様は、いま与えられている立場で必要なことを語っているのです。
10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」とあります。この教会に、これからなにか大きな事が起こるに違いない。何であるのか具体的なことは語られていません。しかし、いずれにしても苦しみがあるに違いないが、それを恐れてはならないと。そして「見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている」。投獄されるような憂き目に遭うといいますか、困難に遭う、苦しみに遭うであろうと。しかし、それだって「あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」。これは「たった十日間か、十日間ろう屋に入るだけか」と、そういうように数的に日数を数えるというよりも、「そう長い間ではない、短い間ではあるけれども」という理解をしていただいたらいいと思います。いずれにしても「あなたがたは十日の間、苦難に遭うであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」と。神様のほうがいのちの冠を備えてくださる。だから「死ぬまで生きなさい」ということです。「死を避けないで、困難に遭い、苦しみに遭うその時に死をも覚悟して、忠実に、途中で変節したり、節を曲げない。逃げ出さないでしっかりと最後まで忠実に従って行きなさい」と。そうするなら神様のほうが報いてくださる。いのちの冠を与えてくださるという。この言葉は大変大きな励ましであり、力があります。
実は、この聖言は私の生涯のメッセージの一つであります。前にもお証詞したと思いますが、私が神様の導きを得て主のご愛に応えてこの献身に導かれました。ちょうど24,5年前になると思いますが、年末からお正月にかけて神様が迫ってくださって、イエス様の「あなたはわたしに従って来なさい」という、「ヨハネによる福音書」21章(22節)のお言葉を通してこの献身に踏み出しました。そのときお正月は全く戦いの中にあったのですが、神様は決定的に勝利を与えて確信を得させていただきました。その時大変大きな喜びが与えられました。もちろん今でもその思いは少しも変わりませんが、すぐに仕事を辞める手続きに入りました。年が明けて元旦礼拝のときまだ大変混乱した状態にありましたから、どんなメッセージであったか忘れていますが、新年最初の主日礼拝のときに与えられた御言葉がこの言葉だったのです。もちろん仕事を辞め、全く主のものとなって、これから主に従って行こうと心に決めた喜びはありましたが、現実問題として「やっていけるのだろうか。これからどういう生活が待ち受けているのだろうか」、皆目分からない、ゼロであります。そういう不安ももちろんあります。そのとき、10節にありますように「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」と語られました。やはり自分の中に恐れがあったのです。「大丈夫だろうか」。神様はそのときに全くどんぴしゃりといいますか、ピタッと私の思いを捉(とら)えて、このお言葉をもって迫ってくださった。「受けようとする苦しみ」、これからいろいろなことがある。決して楽なことではない、楽しいばかりではない。必ず苦しいことやつらいことがあるけれども、「その苦しみを恐れてはならない」と。それはそんなに長いものではなくて、やがて必ず終わるときが来る。だから「死に至るまで」、最後まで、終わりに至るまで「忠実でありなさい」と。忠実に何をするかと? 「主に従って行け」ということです。「主に仕える者となりなさい」と励ましを受けたとき、私ははっきりと「これは主から出たことであった。主が私をここに導いておられるのです」と徹底的な確信を与えられました。その時は本当にうれしくて涙があふれて仕方がなかったのであります。
まさに、このスミルナの教会に対しても神様はそのことを願っていらっしゃる。と同時に、皆さんに、私たちにも、今も「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」と。どうでしょうか?新しい年を迎えて、新年聖会から御言葉によって励まされ導かれてまいりましたが、いよいよこれからが始まりです。この年も終りに至るまでどういう年であるか分かりません。良いこともあるでしょう。久しぶりに昨夜テレビを見ていたら、ニュースだとか、座談会のようなもので『今年の見通し』と題して、経済界であるとか政治だとか、教育や社会、いろいろな分野の人たちが語っていました。皆さんは「きっと良くなる」と言われる。「悪くはなるけれども、必ず良くなる」と、願望です、良くなってほしいという願い。「今のところはこの3月4月の春先ぐらいまではまだ駄目かもしれないけれども、夏ぐらいから、あるいはこの秋ぐらいから一気に経済も回復する、政治もよくなる。あれもこれも何もかも順調になる」というような見通しを語るのです。私はそれを聞きながら「みんな明るくなってほしいと願っている」と思いました。願望が詰まっているのです。果たしてそうなるかどうか、これは分かりません。そんな先のことは分からないけれども、いま目の前、いま置かれているこの所で、既に抱えている問題や悩みがあります。また解決しなければならないこと、未解決のままで持ち越して来たこともあります。いろいろなことを考えると「今年もそう楽なことはないぞ」、「いやいや、だんだん歳を取ってくると、身体的にもがたがくる。今年は何があるか分からん」と、びくびくしてしまうような事態があるかもしれません。しかし、ここでもう一度10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」と励ましてくださいます。神様は苦しみを取り除いて苦しみのない中に置いてくれたら良さそうなものをと思いますが、それでは神様の祝福と恵み、神様の力、御業を味わい知ることができません。いうならば、いろいろな悩みに遭い、その中で本当に信仰の戦いを戦い抜いていく。というのは、やがてどんなことがあっても最後は死を迎えるのであります。その死を乗り越えて更にその先に望みをつなぐことができるには、今この時に様々な悩みや困難や苦しみに遭うことが必要なのです。そういうものを抜きにただ温室の中に育って最後の土壇場になって死を目前にしたとき、七転八倒、死の苦しみばかりでなく死に対する恐れ、その死の先に望みが持てないゆえの絶望感が人を苦しめます。いま元気な時に様々な問題や悩み、事柄を通してしっかりと主に、キリストに結び付いて行くこと、主に望みを持ち、主の力に生かされる体験を積み重ねて行く。そうして行きますとき、私たちが死を目前にしても「大丈夫、私たちはこれで終わらない。見えない主が私たちのために所を備えて、永遠の家が備えられて、イエス様が私たちを迎えてくださる」と。そこまではっきりと言い得る信仰に私たちを立たせてくださる。そのためにいまいろいろな悩みと困難、苦しみ、悲しい出来事の中にも置かれるのです。ただその苦しみを我慢することよりも、私たちを整え強めて、永遠のいのち、いのちの冠を頂く者となることです。「私は主の恵みによって生かされてきました。イエス様が私と共にいます」とハッキリ告白できる。これを体験するためになおこの地上に私たちは生かされているのです。
10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」。「死に至るまで忠実に」、忠実に何をするかと? 神様を信頼して、神様の御心に従うことです。といいますのも、私たちが今この地上に命を与えられて生きているのは、私のために生きるのではなくて、主のために生きる、キリストの僕とされた者であります。かつてはそのことを知らない時代、イエス・キリストと縁のなかった時、まだこの信仰にあずかっていなかった時代は自分のために生きていた者であります。また、自分の命であり、私が、私が、と自分の力で、自分の知恵で生きようとしてきました。しかし、それは決して成功しない。いや、それどころか行き詰るのです。私たちには力がありません、知恵がありません。生きていること自体が惰性といいますか、生ける屍(しかばね)のようになって喜びを失い、望みを失い、力を失ってしまう。いうならば、死ねないから生きている、そういうその日暮らし、刹那(せつな)的な生き方しかできなくなっているのです。今の私たちの住んでいる世の中はまさにそういう姿ではないでしょうか。全ての者が、はっきりとした目的がないから無気力になります。生きる喜びがないから、仕方なしに生きる。ところが、イエス様は私たちをそこから救い出して、今度は主に仕える者としてこの世に置いてくださったのです。
「ヨハネによる福音書」17章14節から19節までを朗読。
14節後半に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」とあります。イエス様はこの地上に大工ヨセフの子、母マリヤの下に生まれました。そして人の子として、私たちと同じ人となってこの世に生きてくださいました。どこにも何一つ違いのない御方でありました。ところが、イエス様はご自身が神の位にいた御子であること、そして父なる神様の命(めい)に従ってこの世に遣わされた者であることを自覚しておられました。だから、イエス様は私たちイエス様を信じる者をキリストに付く者、キリストに連なる者としてこの世から選び出してくださった。それはイエス様がこの世のものでないのと同じように私たちもこの世からキリストのものに移し替えられることです。そのことがこの14節に語られているのです。「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」。更に続いて15節に「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」。取り分ける、いいかえると、この世からキリストのものとして私たちを救い出してくださった。それはこの世から私たちを取りのけてしまう、どこか隠された秘密の場所に全部置いてくださるというのではなく、18節に「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」。実はこの世から取り去ることではなくて、イエス様が父なる神様から、神の位に居給うた御方が人の世に遣わされたように、わたしも信じる者たちをこの世に遣わす。これがイエス様の救いにあずかった者の姿であります。だから、私たちの生きる目的がそこで変わります。かつて、イエス様を知らない時は自分のために生きる、自分の努力と自分の知恵と自分の計画と自分の何かで生きてきた。しかし、それは必ず行き詰って、生きる目的が失われてしまう。それどころか無気力になり、喜びを失くし、力を失ってしまうのです。その姿がいまの日本の社会、多くの人々や若者が生きる喜びを失い、いのちを失ってしまう。私たちも同じものであったのですが、そこから救い出してくださって、今度はキリストのために生きる者とされた。だから、私たちはいま主のために生きる者となる。「コリント人への第二の手紙」に「彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きる」(5:15)とあります。イエス・キリストの救いにあずかること、イエス・キリストを信じる信仰に立つとは、キリストのために生きるという大切な目的があるのです。だから、私たちは何もできなくなろうとも、身体的にどんな境遇の中に置かれようとも、生きるべき使命があるのです。これが救いにあずかった者の姿であります。だから私たちはイエス・キリストに仕え、主のものとなる。このことに徹底する。朝起きてから夜寝るまで、常にこの世に遣わされた者、派遣されて来ている。私たちの国籍は天に移されて、やがてこの地上の生涯が終わったならば、主の御許(みもと)に帰って行くのであります。その間、私たちは全力を尽くして死に至るまで忠実に、私たちの主でいらっしゃる御方、派遣者でいらっしゃる、私たちを「この世に遣わした」とおっしゃるイエス様に従う者となる。これが勝利の人生を生きる秘訣です。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(Ⅰヨハネ 5:5)とあります。イエス様を信じることは「イエス様を私の主である」と告白することに他なりません。イエス様のために生きる者とされるとき、私たちはこの世に勝つ者となることができます。16節33章に「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と語っています。ここにも「あなたがたは、この世ではなやみがある」と、はっきりイエス様はおっしゃいます。イエス様の救いにあずかってこの世に遣わされた者となりますと、この世から選び分かたれた、この世のものでない者、この世から取り分けられた者となります。そうすると、おのずからどうしてもこの世と妥協できない、慣れ合うことのできない所が必ずあるのです。ですから、いろいろな問題、戦い、困難、そういうものが伴ってきます。これは覚悟をしたいと思います。今年も事なく何事も順調に終わってほしいと思うかもしれませんが、決してそうはいきません。いや、むしろいろいろな問題が起こってくるに違いない。しかし、その中で常に「私は誰のために生きているのか? 」と問う。キリストが今ここで私たちの力となり、主となってくださって、イエス様のために生きていることを認める。いろいろな問題を見ていると、あの人のため、この人のため、この世の人の人事百般といいますか、世の中の出来事のように見えますが、そうではないのです。その一つ一つの事柄は全部主の前に、私たちが果たさなければならない事柄として神様が置いてくださる問題であり、事柄であります。だから、その中で私たちは主に仕える僕となりきっていくこと。私たちの生きる目的は、主の僕となって主に仕えさせていただく。その仕える場所はどこかというと、それはまさに皆さんの家庭であり、職場であり、それぞれ遣わされたその所でイエス様の僕となりきって行く。どうぞ、この年いよいよそのことを徹底して行きたいと思います。そして僕は主人の言葉に忠実でなければ勤まりません。どんな時にも主の御心を求めて行くこと。だから、イエス様は徹底してしもべとしての道を歩んでくださいました。神の位に居給うた御方でありますが、「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」(2:6)と「ピリピ人への手紙」にあります。そしてこの世に下ってくださった。しもべとなり、死に至るまでも従順に従い抜いてくださった。父なる神様の言葉に、命令に忠実に従い抜いて、しかも「十字架の死にまで」とあります。私たちはこのキリストに倣(なら)う者としていま召された者であります。ですからもう一度私どもの身分がどういうものであるか、どうぞ、自覚してそれぞれ遣わされた所で主の命(めい)に従って、忠実に主に従う民となりたいと思うのです。
「マタイによる福音書」25章14節から21節までを朗読。
これはタラントについてのイエス様のお話であります。ある人が僕たちに5タラント、2タラント、1タラントをそれぞれに託して旅に出ました。しばらくたって戻って来て清算をしようというわけです。5タラントをあずかった者は更に5タラントをもうけて主人の所へ、「これで5タラントをもうけました」と言って出しました。2タラントをあずかった人は2タラントをもうけたのです。ところが1タラントを預かった人は、この主人は過酷な人、厳しい人だから減らしては困る。何か叱られやしないかと思って、それを土の中に埋めてそのままにしておった。帰ってきてから、預かっていた1タラントをお返しした。5タラントをもうけた人に対して21節に「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」と。ここで主人は大変喜んで5タラントをもうけた者に「良い忠実な僕よ」と、忠実であることを褒めてくださいました。そのあと同じく2タラントをもうけた人がいましたが、その時も23節に「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と。5タラントをもうけた人と全く同じ言葉で褒めています。2タラントの人は2タラントをもうけて、5タラントの人が5タラントをもうけた。いずれにしても「良い忠実な僕よ」と言われたのです。ところがもう一人1タラントを隠しておいた者に対して、26節以下に「すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに』」。ここで1タラントをお返しした人に「悪い怠惰な僕よ」と言われる。預かった物を預かっただけ返したのでしょう。利息は付かなかったのでしょうが、別に叱られるほど減らしたわけではない、失ったわけではない。また自分勝手に使ったわけでもない。何で怠惰なのか? ここです。預かった一人一人が預けた主人の意図、その隠された思いをどこまでくみ取っていくか。忠実というのは、ただ口先、言葉面(づら)だけを守るのが忠実なのではなくて、その言葉を発した主人はどういう思いで、どういう意図でこれを私に預けているのかということまでを押し測る。そして、その主人の期待にどれほど応えるかが問われるのです。私たちに対して神様はこの忠実さを求めておられる。
日々の生活の中でいろいろなことが起こります。祈って主の御心はいかに? 「神様、あなたの御思いはどこにあるのでしょうか」、そのことをしっかりと求めること、これが大切です。このとき5タラント、2タラントを預かった人は「主人がこれだけ預けてくれたのは、何か主人の意図があるに違いない。その主人が期待しているところに応えて行こう」と思ったから、踏み出したのです。1タラントの人は預かっておけばいいと思ったでしょう。そうではないのです。もう一つ踏み込んで「主の御思いはどこにあるのだろうか」。ただ上っ面な従い方ではなくて、徹底して忠実に主の御思いをしっかりと、その事柄の中からくみ取って行く。日々出会う問題や事柄の中で「主の御心はいったい何なのだろうか? 」、「ここで私がしようとすること、これは主の御心なんだろうか? 」。そのことを是非しっかりと知ってほしい。そして「死に至るまで忠実であれ」。たとえ主の御心が厳しいことであり、まさに十字架を担わなければならない、あのゲッセマネの祈りのように、イエス様が血が流れるごとく汗をしたたらせて祈り続けて、父なる神様の御思い、はらわたを握って、ついに「さあ、行こう。立て」とゴルゴダに向かって歩み始める。イエス様はそこで忠実なしもべとなりきって歩み抜いてくださった。私たちも同じ様に主のみ足の跡を踏み従うように召された者であります。
「ヨハネの黙示録」2章10節に「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」。「いのちの冠」、主が私たちを永遠のいのちの恵みの中に引き入れてくださるその時を望み見て、待ち望みつつ与えられたこの地上での生活を、自分のためではなく、人のためでもない、家族のため、誰のためでもない、キリストのための生涯として、主に仕える者であることに徹底して行きたいと思います。忠実なしもべとなりきって生きる。そのためにしっかりと祈って御言葉に立って、日々、主の御思いを探って、確信を持って「主よ、今日もあなたにお仕えすることができました」「今日も主よ、あなたの御業に加えていただきました」と感謝して一日が終わる日々を歩んで行きたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。