いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

2月8日 日々の聖言

2015年02月08日 | 日々の聖言

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」

                                   第一テサロニケ5:16-18 


神様が私達に願っておられることは、同時に私達が求めていることでもあります。喜び、

祈り、感謝すること。単純なことですが、これほど困難なこともありません。しかし、この

もっと見る


聖書からのメッセージ(464)「命ある生き方」

2015年02月08日 | 聖書からのメッセージ
「申命記」30章15節から20節まで朗読。

 19節「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」。

 イスラエルの民はエジプトでの長い苦役を強いられた奴隷の生涯から救い出されました。彼らの切なる祈りに答えて神様は一人の指導者モーセを立てました。そしてイスラエルの民をエジプトの奴隷の生活から救い出して、約束の地カナンへ導き入れてくださいました。このカナンの地はそもそもイスラエルの民にとって先祖の地でもあります。
イスラエルの民の始まりはアブラハムという人物です。彼が神様から声を掛けられて「わたしの示す地へ行きなさい」と言われました(創世記12:1)。アブラハムは行く先も知らないで神様の言われるとおり国を出て、親族や家族を離れて、行き着いた所が実はカナンの地であったのです。そこで神様はアブラハムを祝福してくださって、その結果、イスラエルの民、神の民が増え広がる。数を増しました。ですから、カナンの地は、イスラエルの人々にとっては古里の地、先祖の地でもあるわけです。そこからどうしてエジプトに移ってしまったのか? これは皆さんもご存じのように、いろいろな経緯があってエジプトに図らずも住んでいた。ところが、長い年月を経(へ)るうちに数も増えました。エジプトの人々もそのいきさつが分からなくなって「どうして自分たちの国に別の民族が住んでいるんだ」、「こいつらを奴隷に使おう」という時代になったわけです。その結果、神の民であるイスラエルの人々は労役を強いられる生活になりました。彼らは自分たちの信じる神様に祈り求めたところ、モーセという人を立てて先祖の地・カナン、約束の地といわれているそこへ、神様はイスラエルの民を連れ帰るという大事業を興(おこ)されたわけです。

そのことが旧約聖書に細かく創世記から始まって記されております。では「そんな話は今の私の生活に何の関係があるか」と思われるかもしれません。しかし、これは大変大有りなのです。旧約聖書は確かに歴史、イスラエルという民族の歴史でもありますが、これは必ずしも正確な意味での歴史ではありません。その民を神様は一つのモデルとして選んで、神様のご計画、神様が人に対して抱いておられる御思いがどういうことであるかを具体的なドラマとして歴史を用いて語っておられるのであります。ですから、旧約聖書には確かにアブラハムから始まったイスラエルの歴史が語られていますし、サウル王様やダビデ、ソロモンという王様、イスラエル王国のことについても語られています。だからといって、ことごとくが現実の歴史を細かく解説したというものではありません。具体的な民族の歴史を通して、その中で神様が私たち全ての人にとって、どういう御思いをもって導いておられるかを語ったのです。ですから、旧約聖書はいま生きている私たちにも大変深い関わりのあるものです。イスラエルの民は神様の選びの民、神様の救いにあずかった特別な民だといわれています。そうしますと、その民族だけが特別なように聞こえますが、これは必ずしもそうではなくて、実は旧約聖書のいちばん初めに語られているように、人が創られたそもそもの始まりが神の民としてであった。神様は森羅万象を創られた後にアダムとエバという人の始まりである男女をお創りになった。それは神様の民として創られたのです。神のものでありました。ところがその神の民が失われてしまう。神様に対して罪を犯したためにエデンの園から追放されて、「エデンの東、ノドの地に住んだ」とあるように(創世 4:16)、神様の呪いの中に置かれてしまった。いうならば、イスラエルの民がアブラハムから始まった神様の選びの民でありながら、やがてエジプトという地で苦役を強いられる。苦しみの民となってしまう。まさにそれは神様が私たち人間をご覧になった姿であります。私たちも実は神様に造られたものでありながら、造り主を忘れて人が自分の力と自分の業と自分の計画、己を神として生きようとしたために苦しみの中に置かれてしまいました。そのことをパウロは「罪の奴隷となった」と語っています。私たちは罪によって支配される呪いの生涯に置かれた。言い換えると、これはエジプトでの苦しみに遭うイスラエルの民と重なる事柄です。神様によって造られた人間でありながら、そこに神様の栄光が消えうせてしまっている。そしてただ獣のような、といいますか、人間の悪に満ちた姿だけが残ってしまった。そして、全ての人の心を支配するものは、罪の思い。それは神様を恐れることをしない。神様に背(そむ)く罪の力が私たちを縛りつける奴隷の生涯です。その奴隷の生涯から私たちを救い出すために神様はイスラエルの民のためモーセという一人の人物を置いてくださいました。エジプトの奴隷の生涯と同じように、私たちはこの世にあって罪の力に支配されて全く望みのない闇の世界、滅びの世界に生きていました。そこから救い出して「永遠の命」、イスラエルが目指したカナンの地へ私たちを導き入れるためにイエス・キリストを遣わしてくださいました。だから、モーセは、いうならば、やがて遣わされるイエス・キリストのひな型でもあります。モーセがイスラエルの民にとって永遠の約束の地、カナンへの導き手であるように、いま私たちを永遠の命へと導き給うのは主イエス・キリストご自身であります。そしていま私たちはこの地上になお残されていますが、これこそがイスラエルの民が通らなければならなかった荒野の40年の旅路であります。ですから、旧約聖書を読むとき、世間一般のいわゆる歴史として読むのではなくて、その一つ一つの出来事の背後に神様が人に対して抱いてくださる、私たちに対して持っているご計画、御思いをくみ取るのです。これは神様が私たちに求めておられる事柄であります。

やがてイスラエルの民はモーセに導かれて40年間の旅路を終わる。そしていよいよヨルダン川を越えたらその向こうはカナンの地であります。ここまでモーセは大変苦労に苦労をしてイスラエルの民を導いて来ました。ところが、神様は「もうお前はここでよろしい。お前の役割は終わったから若い人に代わりなさい」と言われた。カナンの地が目の前に見えるその所でモーセはイスラエルの民を集めまして「いよいよ自分はこれでこの地上を去る」ことを告白し、そしてこれまで神様がイスラエルの民を通して願った、求めておられた御思い、神様の御心が何であるか、モーセの遺言といいますか、それを記されたのが『申命記』です。ですから、神様のイスラエルの民に対して抱いてくださる様々な事柄が細かく語られています。それを全部語り終えてモーセはその生涯を閉じるのであります。

 「申命記」34章1節から8節まで朗読。

 これがモーセの最後の姿であります。私はここを読むたびに胸がキューッと来るのです。というのは「モーセがどれほど40年間苦労に苦労をしてきたか」を思う。しかも神様は彼をネボ山に登らせてはるかかなたヨルダン川の向こうに見えるカナンの地を見せておられるのです。そのうえで「あなたはそこへ渡って行くことはできない」と。そして彼はそのまま天に召されてしまう。命はそこで終わってしまうのです。しかし、その時のモーセはまだ120歳、今でいう120歳といえばヨボヨボだと思うかもしれませんが、ここにあるように彼はその時に「目はかすまず、気力は衰えていなかった」と。だから、ぽっくり病とか老衰で死んだとかそんな話ではない。まだピンピンシャンシャンして元気なモーセに、「もうよろしい」とおっしゃって、天に携え上げられました。
肉体の命は、神様が「これで終わり、人の子よ、帰れ」と定められたそのとき、モーセのように気力たっぷり、目もかすまない強健な者であっても、それでおしまいです。だから、病気で人が死ぬのではなくて、神様の時があって、一人一人の旅路が終わるときが来る。確かにモーセもそのとおりでありました。また人間的に言うならば、「もう一歩ヨルダン川を渡った所で死ねたら良かったのに」とか「もうちょっと、先を見て」と思います。だんだん年を取ってくると、孫や子供たちの家庭を見ていると心配なこと、気掛かりなこと、後ろ髪を引かれることがいろいろある。そうすると「もうちょっと、長く、もう後1日でも……」と。ところが突然ある日、神様が「よし、もうお前は帰って来なさい」、「え!もう私は帰るのですか」と、うろたえなければならなくなります。そのとき是非モーセのことを思い出してください。モーセと同じように、神様が「もうよろしい。お前の使命は終わった」と言われるとき、人生はそこで終わるのです。そうやってモーセはこの地上の旅路を終わりました。その彼の生涯の最後に語ったのが『申命記』だったのです。

その中でも、今日神様が私たちに是非覚えておいて欲しいと願っておられることだと思いますが、30章19節に「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない」と。これからイスラエルの民はヨルダン川を渡ってカナンの地に入って行きます。そこには既に三十幾つかの群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)している王様がいました。強健な丈の高い、体の強い民もいました。またそれぞれの人々は自分たちの神々を拝んでいた。そういう様々な習慣の違った人々が住んでいる。イスラエルの民がそこへ入って行くにあたって、これからの旅路が大変困難を極める。このことはモーセもよく分かっていました。ですから、神様もそのことを大変心配しておられたに違いない。ですから「これからあなたがたは入って行くけれども、そこでいろいろな人に出会って、あるいは戦いがあり、困難があり、苦しみに遭う」。しかし、その中で常にここにあるように「命を選ばなければならない」と勧めています。15節にも「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた」とあります。カナンの地は「命とさいわい、死と災」とが同居する場所、そこで人が必ず選ばなければならないことがある。これは私たちにも求められていることです。神様は私たちを操り人形としてお造りになったのではありません。人をご自分のかたちにかたどって尊い者として造ってくださった。神に似る者としてくださったのであります。ですから、一方的に神様から強制されるといいますか、無理強いされて生きるのではない。神様はそれぞれの人を大切に思うゆえに、自立した思い、自発の思いを一人一人に与えてくださっているのです。だから、恐怖とか、恐れによって縛りつけるのではなく、自らの意志と決断できちんと自分の道を選び取ってほしい、これが神様の願いであります。私たちに対しても今もそう願っておられます。私たちは神様に造られ、神様によって生かされています。神様は今日も生きる命、肉体的な物も含めて全ての必要を豊かに満たしてくださる。しかし、だからといって無理やり「俺が神だぞ。お前は俺を神としてあがめないから今日即刻天から火を下して滅ぼしてやる」と言われる神様ではありません。いや、それどころか、私たちのためにちゃんと命に生きる、幸いと喜びと望みに生きる道を備えてくださる。その道を選び取ってほしいと神様は願っておられるのです。もちろんそれ以外の道もあるでしょう。しかし「それは呪いと死と災いの道である」と神様は語っています。

だから、15節以下に「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう」と。まず命の道とは、16節に「あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる」と。「これが命に至る道、幸いを得る道であるよ」と神様は語っておられる。このことは今も変わることがありません。神様を愛して、神様の備えられた道を歩む。また「戒めと定めと、おきてとを守る」、言い換えると神様の御心に従うこと、神様のお言葉に信頼し、そこに従って行く、これが命に至る道である。それに対してもう一方17節以下に「しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう」と。「滅びとのろい、災いの道」はどういうものか。それは17節に「あなたが心をそむけて聞き従わず」、神様から離れてしまうこと、まことの神様、目には見えませんが万物の創造者でいらっしゃる、全能の神であられる御方に私たちが心を向けようとしない、そこから離れて、「誘われて他の神々を拝み、それに仕える」。「他の神々に仕える」とは、まことの神様以外のものを神とすること、言い換えると、自分を神とする、あるいは人を神とする、人を恐れる。あるいはお金であったり地位や名誉や職業であったり、「これが私の絶対大切なもの」を持つこと、これが「他の神々を拝み、それに仕える」ことです。別の宗教を選ぶということばかりではありません。「神」は、天地万物の創造の神、この御方が神ご自身でいらっしゃいますが、私たちはそれに代わるいろいろなものを神としようとします。健康であったり、家族であったり、友人であったり、仕事であったり、そういうものを自分の譲(ゆず)れない絶対大切なもの、「これがなければ生きることができない」と思い込んでいるもの、そういうものがある。そうではなくて、そういうものから離れて心をまことの造り主なる神様に向ける。そしてその方の御声に従って行くとき、命に至る道を生きることができる。その後の19節に「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない」と。ここで「命を選べ」と言われています。
「命」という言葉は非常に間違いやすい。ともすると肉体の命、この世に生きている生物的な意味での命を思います。自分の健康であるとか、「日々の生活に支障なく身体が自由に動いている、だから私は生きている」と思います。ところが聖書で言う所の「命」は肉体の命のことではありません。私たちの内なるもの、魂の命であります。「そんな物は何の役に立つか」と思われるかもしれませんが、私たちの内にこの内なる力、魂の力、この命が欠けてきますと、たとえ健康であっても、生活に支障がない、元気で生活を日々送っている生活であろうと、そこに喜びがありません。感謝ができない、望みが得られない。不平や不満、つぶやき、いらだち、憤りなど、そういう様々な闇の思いといいますか、そういうものが絶えず心を悩ませてきます。そうすると肉体の力すらもだんだんとむしばまれていきます。だから「病気」は気を病むというでしょう。気なんてどこにあるか、それは心、魂です。だから内なる命が消えていきますと人は確かに生きてはいますが、まるで死んだ者のごとく生きざるを得ない。生ける屍(しかばね)と語られています。「エペソ人への手紙」には「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」と語られています(2:1)。「罪過と罪とによって死ぬ」、私たちの内に魂の命が消えてしまった状態。私たちの生きる命はどこから来るか? それは神様から私たちに注がれる力です。神様からの力が満ちてこないと、私たちはどんなことをしても内なるものを強くすることはできません。肉体の健康、あるいは力、これは訓練をすれば少しは役に立ちます。しかしいくら強健であっても、体はシャンシャンピンピンしておっても、心、魂の火が消え去ってしまったら私たちは滅びであります。

 「テモテへの第一の手紙」4章7節から9節までを朗読。

 7節に「俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい」と。ここに信心のために自分を訓練せよと、「信心」とは、神様を信じる心です。私たちはなにもしないで神様を信じられるようになるわけではありません。というのは、私たちは生まれながらに神様から離れて罪の中に、神様から呪われた者としてこの世に生まれ出た者であります。だから、そのまま放っておけばいつまでたっても罪のままで終わるのです。だから、そういう私たちに神様はもう一度救いを与えようと、命に立ち返らせようとしていろいろなことを起こして、皆さんを神様は命の源、神様ご自身の所へ引き出してくださったのであります。そしていま私たちがなすべきことは与えられた信仰をいよいよ強くする、豊かにしていく。「信心を訓練する」とはそのことです。だから、日々のこの地上の生活で、たとえ健康であっても私は心の中に喜びがあり、望みがあり、輝いて生きているかどうか、そこに命があるのか? ですから、8節に「からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる」と。「からだの訓練」、スポーツをしたり、あるいは健康のためにいろいろなことをしたりします。たしかにそれは「少しは益するところがある」とあります。無駄とは言わないのです。少しはあるけれども、しかし、その後に「信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてある」。ここに「今のいのち」、この世にあっても命に生きることができ、またその命はこの世ばかりでなく、私たちが死んでその後に至る永遠の命であると。実はこれがいま頂く神様からの恵みであります。命を与えてくださる。その命になるために、私たちの命となってくださる御方、それは主イエス・キリストです。イエス様が私たちの所へ来てくださった。

「ヨハネによる福音書」3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。「永遠の命を得るために」イエス様が私たちの所へ来てくださった。これが私たちの命であります。その命を得る道、これを歩めと神様は私たちに勧めてくださる。命にあふれてきますと、どんなことにもめげない、くじけない、失望しない。

最近寒波が押し寄せてあちらこちら大雪のニュースがあります。昨日もある方とお話をしておりました。「寒くなりましたね」という話から「寒くなるとその方は思い出すことがある」と。「何ですか? 」「お召されになった利三郎先生がいつもメッセージの中で『雪が降るのが自分は大好きだ。吹雪始めると気がそわそわして出て行って、雪に向かってどんどんそこを突き進んで行くときのそう快感は忘れられない』と。『それは心に命があるとき、そのとき人はどんなことにも耐えることができる』譬えとして、先生がご自分の経験を話しておられましたよね」と。私も忘れておりましたら、その方が「私はこうやって雪のニュースを聞くと、そのお話を思い出しては自分が暖かい所でじっとしている姿を見て、私は命が少ないと思う」と言って笑っていました。確かに昔から言われるように、子供は元気ですから雪が降ると、大喜びをして外へ飛び出して行きます。私も「子供の頃はそうだったな」と思います。皆さんもそうだと思いますが、今はどうでしょうか。今は雪を見ると「これは出掛けまい」と、「この部屋から一歩も出まい」と、冬籠(ごも)りしてしまいます。命が消えて行く、年を取るとはそういうことですね。私たちの具体的な命が消えてしまうわけでしょう。

昨日もテレビのニュースを見ていると山形や新潟や東北の豪雪地帯は大変だそうです。屋根に積もった大雪の雪下ろしをする。ところが高齢化してしまって70代80代ばかりの人が残っているから雪下ろしができない。雪が屋根に積もると何十トンという重さになりますから、古い家だったら潰(つぶ)れてしまう。だから雪下ろしをしなければならない。ところがもう降ろせないのです。そこへ大学生のグループがボランティアでやって来た。そのことがニュースになっている。若い青年たちがキャッキャ喜びながら、元気よく雪をスコップで放り投げている。そこでお年寄りが身を縮めて眺めて「有難うございます。有難うございます」と喜ぶ。「ああなるほど、年を取るとはこういうことかな」と思う。片や若い人たち、20代手前でしょうか、はつらつとして大喜びでやっているのです。
肉体の命ですらもだんだんと乏しくなって消えて行きます。では、私たちはそれで全部おしまい、滅びかというとそうではない。確かに肉体は滅びて行く。しかし、「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」とあるでしょう(Ⅱコリント 4:16)。私たちの内にはもう一つ大切な命がある。今日その命をしっかりと選び取って行こうではありませんか。その命は何か? イエス・キリストご自身です。「永遠の命を得るためである」と、「永遠の命」とは、いつまでも死なない肉体の命のことではありません。「永遠」という言い方は、別の言葉に換えるなら「まことの命」と言い換えていいと思います。いつまでも長生きするという意味ではなくて、まことの、本当の意味での命はイエス・キリストご自身である。神様ご自身。神様を私たちの内にしっかりと置いて生きる。常に神様を見上げて、神様の御言葉と御思いに従って行く。これが命です。

「申命記」30章19節に「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない」。私たちがイエス・キリスト、神様から頂くいのちに満たされますと、肉体は衰えて行くにしても、あの若い人たちが寒さや、吹雪の中をも物ともせず喜んで突き進んで行く力を神様は私たちに与えてくださる。「じゃ、命に満たされたら雪が降っても外へ出なければならないのか」と、そういう話ではない。慌てて出て肺炎を起こしたら困りますから、そういう意味ではありません。人生の嵐とはなんですか? それは決して目に見える雪であるとか、あるいは真夏の日の暑いとか寒いとか、肉体的な意味ではありません。絶えず不安や恐れ、心配、次々と起こってくる悩み事、まさにこれこそが寒波であります。肉体的には何の問題はないけれども、あのことが心配、このこと何とか、あそこがどうなっている。人間関係の問題であったり、家族の問題であったり、いろいろなことを心に悩んでいる。すると、その悩みのゆえに押し潰(つぶ)されて生きる気力を失う。出てくるのはため息ばかりという、毎日を送ってしまう。吹雪といいますか、嵐と思われる事態の中にも絶えず前に向かって進んで行く力はどこから湧(わ)いてくるか? それはイエス・キリスト、父なる神様を私たちがしっかりと握って行くといいますか、宿して行くことに他なりません。

だから16節に「あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう」。「神様の道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守る」とはどうすることか?「聖書の言葉を逐一全部守らなければならないのか」と。そうではありません。私たちと共にいてくださるイエス様を絶えず信じて、「いま私の内に宿ってくださったイエス様が私に求めておられることが何であるか」「いま私がしていることは、主のためであると信じて生きているか」。このことです。だから「その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる」と言われる。「先生、この戒めとはどこにあるのでしょうか。何ページでしょうか」と言われても分かりません。イエス様は旧約の戒め全てを完成してくださった御方。だからイエス・キリストに私たちが結び付いて生きるとき、これが命の道を生きることです。イエス・キリストに結び付くのはどうするか。それは日々の生活の一つ一つの事柄の中で、「いま私はイエス様と共に歩んでいるのだ」と信じることに他なりません。「いまこのことを神様が私に求めておられるから、従って行きます」と、神様の求めに答える。これが命に生きる道です。日々の生活の中に常にそのことが問われます。常に「命と死」が目の前にあります。何かしようとするときに自分の好みで選ぶ。自分の好き嫌いで、自分の財布加減を考えて、できる、できないを決める。そうであるかぎり死の道です。ところが、祈って「神様が今私にこのことを求めておられる」、「今日、ここに行くのは私がしたいからではなくて、神様がそのことを喜んでくださるからだ」と「信じてやっているか? 」ということです。これが命です。だから「今日も私は、イエス様、あなたと共に生きることができました、と一日を感謝して終わることができるか? 」そのことを絶えず自分に問い掛けていただきたい。命に生きるとはそこです。我がままで自己中心な、自分の思いだけで一日を過ごすかぎり、そこには喜びも満足もありません。確かに自分のしたいことが思うようにできて、自分の願うように事が進んで「してやったり」と思うとき、その瞬間は喜び満足するかもしれません。しかし、それはすぐにつぶやきと不平に変わって行きます。しかし、「イエス様が私に求めておられることです」と信じて従って行きますと、主に従う喜び、感謝と望みが生まれて来ます。その結果については悔いることがありません。悔むことがありません。これは私たちの命の道だからです。しかし、時にそれは厳しい道、時にはそれは大変つらいことであるかもしれません。イエス様は、神の位に居給うた御方でありましたが、父なる神様の御心に従って人の世に下ってくださいました。これは大変苦しいことです。しかし、イエス様はそれを物ともしないで父なる神様がお喜びになる道であると信じてこの世に来てくださった。そして、十字架の死をもいとわないで父なる神様に徹底して従い抜いてくださったのです。それが命の道です。イエス様は十字架に命をお捨てになりました。肉体の命はそこで消えましたが、しかし父なる神様はその墓からよみがえらせて、まことの命に生きる道がどこにあるかを私たちに示してくださった。命の道、それがたとえ十字架の道で肉体の命は滅びることがあろうとも、そこがキリストのために生きる道であるならば主のための道を選び取って行くかぎり、必ず永遠の命、まことの命に生きることができるのです。このことをしっかりと心に置きたいと思います。毎日の生活、病院の検査結果ばかりを見ていても命はありません。常に御言葉に立って祈りつつ、祈りつつ、内に宿ってくださるキリストの霊に導かれてまいりましょう。「イエス様、ここはどうしましょうか」、「イエス様、ここは何と答えましょうか」、「ここで私がすべきことは何でしょうか」と。これが私たちのなすべき事です。そこに命があるのです。

 ある一人の姉妹が、親族の方のお世話をズーッとしておられたのです。そのお世話を受けている方には娘さんがいて、娘さんが世話をすればいいのですが、遠く離れていたものですから、その方が身内だということで一生懸命にお世話をしていた。けれども少しも報われることのない関係が続いていました。何十年と長かったのですが、とうとうお世話を受けている方も自分一人で生活できないようになって、お世話をする方がそばにいてくれるのですが、何もかもできない。となると、ずっと離れていた娘さんがやって来て「これからお母さんの世話をします」と、さっさと自分のお母さんを自分の所へ引き取ってくれた。それまでズーッとお世話をしていた方はホッとしたと同時に「今まで自分は何をして来たのだろうか」。あれだけ一生懸命にしたのに、有難う、という一言もなく、さっさと「私は娘の所へ行きます」と。「ここへ来てよかった。娘の所はいちばん居心地がいい」という話を聞くと心が収まらない。鬱々(うつうつ)としてまるで死んだ人のような顔をしている。「いったい、どうしたの? 」と「いや、実はこんな風で……、今まで何十年とお世話したのだけれども、こんなことになってしまって」と。人のためにしている間は、滅びです。「肉の思いは死である」と「ローマ人への手紙」にあります(8:6)。「これは神様があなたにここまで御用をさせてくださった。一切の栄光を主に帰する。このことがなかったら喜びが湧(わ)いてこないのです」。

 私はその方のことを見ながら祈っておりますが、どうしてもつい「あの人が可哀想だからしてやろう」とか「この人のために何とかしてやろう」と、人を見てやっている間は駄目です。その背後に見えない主、命の道を選ばなければなりません。「ここは主が私に求めておられること」、「神様がいま私にこのことをさせておられるのです」と、栄光を主に帰する。そして感謝して、喜んで身を尽くし、財を尽くし、時間を尽くし、時には自分の健康を失うかもしれない。その中でなお神様に従って歩んだという喜びを求めて行くこと。これが命の道を生きることです。ともすると世を見てあの人を見て、この人を見て……、そういう人を見、時代や事柄を見ているかぎり、必ず行き詰ります。そこは滅びであります。

 19節にありますように「あなたは命を選ばなければならない」。私どもはこの地上に生かされている間、絶えず見えない主を見上げて、キリストと共に、主と共に生きる命、永遠の命、まことの命を選び取って行こうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。