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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

南三陸町から石巻市・その4(北上川河口):2012年7月2日の記録

2017-09-18 17:10:36 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

追波湾沿いの道を進むと、漁船が多く出ている漁港が見えた。大室漁港である。

何と美しい風景だろう。港から小島が見えるのも風情がある。


大室では、神楽の伝承がなされているそうだ。津波直後も、皆が同じ苦境に立ったからこそ、「やるのだ」という意欲を失わなかったという。


大室漁港を過ぎると、白浜漁港を通り、次第に河口へと近づいていく。


北上町には、追波湾に流れ込む大きな川がある。

もとは北上川支流の追波川だった。


明治に北上川の安定を図って、河口を二つに分散させるように工事し、本流を追波川に合流させたため、今はこの追波川が北上川となっている。


一方は石巻市街地を通って石巻湾へ、もう一方は北上町の追波川へと合流させて追波湾へと流れ込んでいるのだ。


長塩谷や立神の辺りは、海と川の境目で、波と川の流れが交じり合う様子も見える。


この辺りは、河口沿いに津波で壊れた車が積み上げられたり、土嚢が置かれていたりする。

 

道路が水際に近く、傷みが酷いので護岸と共に工事中で、少し陸地側を通行するように道路が整備されていた。


その道を進むと、吉浜小学校の前を通る。

(最上階まで空っぽで、上まで浸水したことが分る)


3・11津波の時、校内に残っていた児童と職員合わせて10名は、屋上に逃げて何とか助かった。

しかし、近くにあって避難所となっていた北上支所の庁舎で、児童を含む多くの方が犠牲になっている。


そこから先は、樋門や水門も破壊され、改修が必要な箇所が目につく。

(月浜第二水門)


この辺りの道路も、被災直後は堤防の決壊で分断されていたが、緊急復旧工事が進められて今では通行可能になっている。



月浜第一水門に差し掛かる。

震災時には水門は閉じたそうだが、道が傷んで周辺も荒れており、津波が水門を越えていったのが窺える。

被害の酷かった地域だが、国土交通省などの情報を見ると、余震の多発する中、震災の3日後には工事に着手していた。


必要な道を確保し、安全な道への整備と、河川施設の復旧や海岸保全など、日々努力が続いている。

土木作業に当たられる方々の尽力に感謝だ。


南三陸町から石巻市・その3(追波湾に沿う十三浜):2012年7月2日の記録

2017-09-18 14:59:29 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

道は、志津川から石巻市北上町に入り追波湾(おっぱわん)沿いへと移る。


追波湾も、北東の岬から北上川(追波川)の河口まで、小滝、大指(おおざし)、小指(こさし)、相川、小泊、大室と小室、白浜と漁港が点在していた。

         


この地域を「十三浜」といい、地図を辿ると、その名の通り十三の集落がある。

(上記八つの漁港の他、追波、吉浜、月浜、立神(たてがみ)、長塩谷(ながしおや))
 
(参考:みやぎ地図百科/NGOパルシック)



小指辺りから、道が海に近いため、所々で端が崩れているのを目にする。
隧道(ずいどう:トンネル)を抜けると、海が直ぐそこだった。


相川漁港が見える。




この辺りは、岸に歪みがあったり、砂利が多かったりして傷みが激しい。

道路の舗装が剥がれているばかりでなく、国道が途切れていた。




分断されたのは相川沢川を渡る部分で、迂回路があったので、そちらを通る。







その脇にあったのが、相川小学校だ。
崩れた赤い屋根の建物がのしかかり、枠ごと壊れた窓に歪んだ手すりなど、酷く痛んでいて全体が波をかぶったとみられ、津波の凄さを思わせる。




学校の裏手に山があり、そこへ逃げて助かったという。

(参考:大川小学校事故検証「事実情報に関するとりまとめ」
    /東京都教育委員会 被災地視察報告書)

恐ろしい津波が去り、片づけが進められた十三浜は、青釉の皿のごとき穏やかな海が、傷を和らげている。





三陸の海は、海藻や魚介をもたらし、爽快で見事な景色を作り出している。

海は、自然の理のままに動き、到底人の力の及ばぬ度量の持ち主だ。
そして海は、時に人を怖がらせるが、それ以上に様々な贈り物をくれる存在である。



そういえば、志津川と北上町の境には、昔話が伝わる岬がある。

「神割崎(かみわりざき)」という岬だ。



藩政時代のこと、その浜に鯨が打ち上げられたが、丁度村の境界だったため、鯨がどちらの物かでもめたところ、落雷で岬が2つに割れたという。

人々は驚嘆し、神のお裁きだと思い、鯨を仲良く分けて境界もここに定めたと伝わっている。

(参考:南三陸町観光協会/石巻市役所)


この日は寄らなかったが、名勝と讃えられる所なので、また行ってみたいと思う。 

しかも神割崎は、年に2回、岩の割れ目を通って朝日が昇るのを見られることで有名だ。(2月中旬と10月下旬、どちらも1週間程とのこと)

神割崎では、早朝から元気な人ならば、早起きは三文の徳どころか、寿命も延びそうな素晴らしき光景をみられるだろう。


南三陸町から石巻市・その2(戸倉から北上町):2012年7月2日の記録

2017-09-18 14:53:10 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

志津川湾の南側には、被災した戸倉小学校の校舎が残っていた。 

震災直後は、校舎の脇に骨組みだけになった体育館があったそうだが、既に解体されている。

校舎の南側には、震災による廃棄物が積まれていた。

校舎の窓は枠だけになり、中は空っぽだ。

だが、校舎だけが白く輝きながらしっかりとあり、まるで背筋を伸ばして立っているみたいだった。


震災当時、学校から指定地に避難した人は助かった。(但し全児童・職員のうち2名が犠牲)

今、戸倉小学校は他校に間借りしている。

子どもらは、様々な支援への感謝と、元気に学習していることを周囲に伝えていた。


ぽつんと残った校舎が、そういう出来事を伝える仲立ちのように思える。



小学校を左手に見て通り過ぎると、やがて右手にモアイ像が見えてくる。

横っ腹に穴が開いているものの、これもしっかり立って、海と通りを見守っている。

まるで、弁慶の仁王立ちのように力強い。


他所の人は、なぜに志津川でモアイなのかと不思議がるだろう。


志津川は、昭和35年のチリ津波でも被災している。

その30周年に、チリ共和国の大使が来訪。チリで作った複製のモアイ像も設置し、友好を深めた。

それで、志津川のあちこちにモアイの飾りがあるのだ。


志津川高校も、課題研究で、モアイを活用して地域活性化しようと尽力し、情報を発信している。熱心な若者の働きが、頼もしく清々しい。


モアイもまた、この町の未来を見守っている。


海を左手に見て更に進むと、志津川湾に沿って点在する漁港が見える。(津ノ宮漁港と椿島)


緑の間に、滑らかに磨いたターコイズのような青が幾度も現れ、時に船が浮かぶ様も見えた時には、一句吟じようかと思うほどだ。


惜しむらくは、称賛すべき景色に相応の句は閃くことなく、五七五を指折りながら考えるうちに日が暮れるだろうから止めておいた。

(滝浜漁港)


戸倉から先の漁港は、波伝谷から津ノ宮、滝浜、藤浜、長清水、寺浜とあり、志津川はそこまでだ。

(長清水漁港)

そこを過ぎると、石巻市北上町に入る。

すると志津川湾から、今度は追波湾(おっぱわん)沿いになる。


南三陸町から石巻市・その1(志津川湾沿い):2012年7月2日の記録

2017-09-18 14:18:11 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

2012年7月、志津川から海沿いの道を通って、雄勝や女川を回った。

志津川病院前を行き、南へと湾に沿って進む。

昨年には、傷みが激しくて海水が入り込んでいる箇所もあり、通ることが出来なかった道であった。


だが、今年の7月には、その道も片付いていたし、工事に当たる人々の他、交通整理に当たる方もいて通ることが出来た。

土木工事や交通整理にと働く方々に、頭を下げて通る。本当にありがたい。


湾の縁は崩れ、水際が道に迫りやすい。

湾内や周辺の片づけにも、港の整備工事にも時間がかかるから、今は湾岸各地に大型土嚢が積まれている状態だ。

湾岸には、町の欠片が築山のようになって、所々に積まれている。


その向こうにある穏やかな海は、青く澄んで輝き美しい。

普段なら、こんなに素晴らしい海なのだ。


志津川湾には小さな漁港がたくさんある。


今は、養殖用の浮きが並ぶ穏やかな光景が津波の傷跡を和らげるが、あの日は、まるで違う光景があった。


激しく岬にぶつかり迫る波、何とか上った家の屋根ごと志津川湾に流され、駄目かも知れぬと思いながら懸命に耐えて漂い、沖に出して戻ってきた漁船に助けられたという証言もある。


志津川湾は、北側の奥に志津川の市街地があって、南側が「戸倉地区」であった。

陸地は、戸倉の小学校の辺りから東へと張り出す形になり、志津川市街地の対岸辺りに「波伝谷(はでんや)」という地域がある。


そこには、戸倉神社や戸倉漁協があった。


階段の上にある神社の社殿は残っていたが、下は建物の流された跡が見え、漁協もがらんどうになっていて、津波の凄さを思い知る。



海は時に姿を変え、うねりながら陸に乗りあがってしまえば、重くのしかかって町を崩していく。

これから先は、そんな時の海も理解し、命を守れる暮らし方や町づくりが必要だ。

これからも海と人が、良い関係であるように。