ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

磯恩賜郷倉(山元町):2012年6月27日の記録  

2017-10-30 12:41:00 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

山元町の「水神沼」のほとりには、かつて木造の小屋もあった。

それは「磯恩賜郷倉(いそおんしごうそう」という建物だった。


津波が水神沼にも押し寄せ、郷倉のあった場所は今、土台だけになっている。



「磯恩賜郷倉」は、昭和9年の大冷害の際、昭和天皇からの御下賜金と政府からの補助金で建てられたものらしい。

非常用の米等を貯蔵し、冷害の時にはここから米を出して農家の方々に配分をし、稲作を奨励したという。


津波が来る前は、水神沼に冬の渡り鳥が来て、野鳥が見られる場所だった。

小屋の中は、写真や様々な案内が掲示され、木のぬくもりに包まれた憩いの場所になっていた。

※かつての郷倉①↓(2007年11月22日撮影)

②建物内部↓(2007年11月22日撮影)



③窓の外に見えた水神沼と水鳥(2007年11月22日撮影)


無くなって残念だ。

そこは、自然と共生する山元町の魅力が、じんわりと染みる場所だから。

ぜひ、町の再生の際には、同様の物が再建されることを願っている。


この日、水神沼は静かで穏やかに水面を揺らし、輝かせていた。

沼の傍に出来た大きな水溜りで、イトトンボが飛び回る。

自然は時に恐ろしく厳しいが、命の輝きに満ちて、私らを包み込み力づけてくれる。


ハロウィンがやってくる

2017-10-29 19:50:58 | 今昔あれこれ

連れ合いの転勤に伴い、引っ越してから2週間ほど経つ。

気が付けば、巷はハロウィンの催しで賑わい始めているようだ。


ハロウィンの起源は諸説あって、実は定かでないのだとか。

とはいえ、現在では祖先の霊をなぐさめ、悪霊は仮装して避けるというお祭りになっている。

 

ケルト文化のあるアイルランドでは、ハロウィンに「バーンブレック」という焼き菓子を食べる習わしがあるそう。

この焼き菓子は、中に指輪やコインなど、いくつかの物を仕込んでおき、出てきた物で先行きを占うという。

 

現代では、あらゆる菓子がハロウィン用に出回っている。

 


アメリカで発展したハロウィンでは、いつの間にか子供が家々を回ってお菓子を貰う、「トリック・オア・トリート」の催しが流行。

そのため、ハロウィンとお菓子は分かち難いものとなったのだろう。

 

日本では、ハロウィンの雰囲気を楽しむために、色や形に工夫を凝らした菓子や料理が流行。

私も、ハロウィン装飾のお菓子をいくつか買った。

 

 

ハロウィンの絵柄の箱を開けると、お化けかぼちゃ柄のビスケットが詰まっている。

 

 

10月末日から11月最初にかけて行われるハロウィン。

夏の終わりと冬の始まりであり、一年の前半と後半の境目とされる。


ゆえに、物事の移り変わりの境目にあたる。

この時、あの世とこの世も交差するのだという。


日本には八百万神という考えがあって、目に見えない物を大切に思う心がある。


だから、あの世とこの世の境や、妖精に魔法という不可思議なハロウィンが、何だか近しく思えるのかもしれない。

 

 

(参考資料:アイリッシュネットワークジャパンHP)


磯崎山と水神沼(山元町):2012年6月27日の記録

2017-10-29 13:31:09 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

山元町の海辺には、福島との県境近くに「磯崎山公園」という小高い場所がある。

磯崎山は眺望が良く、海が見渡せる。

藩政時代に、外国船を監視するための「唐船番所」が置かれていたことで知られている。


磯崎山公園へ行くと、海側の丘陵の上に見える東屋が唐船番所跡であった。

今は、上り口の階段辺りは荒れていて、東屋の前にある柵も壊れている。

津波が丘陵を上り、頂上の目の前まで濁流が迫ったそうだ。


磯崎山の脇を、小川が流れている。「赤川」という名だ。

赤川を辿って西へ進むと、沼に突き当たる。これが「水神沼」といい、隣に「水神社」があった。 


津波はここへも押し寄せたらしい。

水神社は、周囲の木々が緩衝になったのか、外観は残っている。ご神体などの中身は運び出されたものか、今は空っぽだ。



沼は静かで、穏やかに水面を揺らし、輝かせている。

「水神沼」は、古くから農業用水として利用され、幾度か起きた干ばつの時にも、枯渇する事がなかったという。


昔話では、大蛇がこの沼の主だったそうだ。


ある時、家族総出で農作業をするため、赤子をエジコに入れて田んぼの端で待たせていたところ、それに大蛇が巻きついたので、驚いて大蛇を退治した。

ところが、大蛇は赤子を守っていただけだったと、後で知る。

そこで、大蛇のために松の木を植え、祠を建てて祀ったという話があった。


その「蛇塚と松」は、水神沼からずっと西の離れた場所にある。


樹齢300年は越えると言われているが、これを植えて蛇塚を作ったのが大條家臣の川名氏だという話だから納得だ。



大條氏が坂元城主となったのが1616年、江戸前期の頃。

坂元城の南側に中山地区があるが、そこに城外武士の住居が、11軒あったらしい。

「蛇塚と松」は、中山の近くで瀧ノ沢と山室の脇、現在の宮城野ゴルフクラブの辺りにある。



察するに、おそらくは大蛇の散った地は水神沼付近で、後になって蛇塚を作ったのは、移り住んだ屋敷近くだったのではあるまいか。


今、磯浜周辺は集落が消え、緑と水の輝きが、震災の傷を和らげるようにそこにある。


水神沼は、その沼底に昔の津波の跡を沈めていたという。

水神社は、磯浜の人々が神輿を担いで、春や夏に祭りをしてきた所だ。

楽しみだった祭り、神輿担ぎの伝統がまた繋げられるよう願っている。


震災前後の坂元駅周辺:2012年6月27日の記録

2017-10-28 16:40:52 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

山元町の沿岸を走る常磐線。

山元町には、山下駅と坂元駅があった。


水無月の末頃、梅雨の内だが青空の日だった。

草地となった平野の緑と青空の間に、ひと際濃い青色で線を引いたように、海が見えている。

坂元駅に立ち寄った。


かつて、白い柱と壁に赤い屋根の、木造の駅舎があった。

(2007年11月22日撮影の坂元駅↑↓)


どことなく、ゆったりした気分になる、穏やかな雰囲気の駅舎。

それも津波で壊れ、今はもう無い。



塀のように、高く長く駅の跡地を縁取る段差があった。

連れ合いの手を借りて、何とか少し足場がある所を探して上ると、目の前に線路があった。

上った所は、津波ででこぼこになった、駅のホームだった。


錆びた線路が、所々に砂利で埋もれながら、まっすぐに横たわっている。


だが、その線路ももう少し先へ行くと、分断されていた。



坂元駅から南へ進むと、まるで湿地の広場を行くみたいに、でこぼこの道と水溜りのある草地が続く。

方々から、オオヨシキリの声が聞こえる。


しばらく行くと、大きな建物が見えてくる。

窓は開け放たれ、人の気配が無い。震災による廃棄物が、敷地内に積まれていた。

そこは、中浜小学校だった。 


この校舎は、その時そこにいた人々を守ったそうだ。

津波情報から、2階でも危ういと判断して屋上に逃げたという。そして津波は2階まで達した。


津波の間、周りは海、屋上は島のような状態になったが、そこにいた人々は助かった。

取り残されたものの、みんなで協力し合い、冷える屋上で、びっくりするくらい美しい星空を見て一晩過ごし、翌朝救助されたそうだ。



あの日、みんな生き残るのに懸命だった。

翌朝の空は、切れ切れの雲の間が、朝焼けの紅色で染まっていた。

この屋上の人々も、それを眺めたろうか。

闇の中で輝いていた星たちが人々を慰め、やがて陽光が空いっぱいに広がり、人々を照らす。

今を、明日を大事に生きよう。 


今、この海辺の草むらの中で、オオヨシキリが暮らしている。

渡り鳥の彼らは、ここで子を育てているのだ。

この地で、命の輝きは繋がっていた。


山元町:2012年5月16日の記録

2017-10-28 16:35:16 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

前年は11月に寄った山元町。

その頃、一応は海沿いの立ち入り制限は解かれたが、片付けの邪魔になるからと6号線から様子を見たのだった。


それからおよそ半年後、再び山元町へ足を運ぶ。


皐月の空は青く、景色の輪郭が鮮明で、草花が輝いて見える。

緑は町の傷を癒すかのように、そっと風に揺れている。


その傍らで、壊れた家々の土台が、静かに周囲を見つめていた。

海辺の方には、まるで堤防みたいに、町の破片が積み重なって連なっている。


震災から1年と2ヶ月あまり、津波被災地は、まだ片付けが続く。

海辺の整備もこれからだ。


それでも、お弁当を売る店が、ぽつんと再開していた。

「きく邑」と看板にある。 

町のために、作業に励む人々のためにも、という気持ちが見えるようだ。


更に進むと、釣鐘が見えた。奥には鳥居が見える。

「青巣稲荷神社」の跡だった。



お寺ボランティアの「テラセン」という、現地の方と有志によって立ち上げた組織がある。

昨年、海辺の立ち入り制限で、ボランティアの派遣もままならなかったため、地元の人々が立ち上がったという。

そのテラセンの活動で、青巣神社跡の片付けや、流されて見つかった釣鐘が戻されたそうだ。


青巣神社は、伝承によると随分と古くからあったようだ。

花釜浜の守り神であったが、後年、その地に奥州藤原家の家臣が数名が移り住み、塩焼きを生業としたという。その者達が、社殿を修築して御神木にタブノキ(別名タマグス)を植えたという話がある。


現代になり、宮司さんが氏子のために奉納したというカエルの石像もある。

鳥居の奥に見えるのは、タブノキだろうか。幹の具合からして、御神木の何代目かなのだろうか。よく分からないが、よくぞ残った。


鳥居の手前の桜の苗木は、テラセンによって植樹されたそうだ。

人々のあったかさが伝わってくる。


カエルの石像が、山元の海辺の町と、その地に暮らした人々の再出発を見守っている。

良き町、良き日々が、きっとカエルぞと。