ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

小路にて雪虫ふわり 

2017-11-30 16:22:34 | ゆるゆる歩き:町や通り

霜月の28と29と、二日続けて見つけた雪虫。

驚いた。

仙台では時々見かけたが、関東に来ても出会うとは。

28日は旧古川庭園近くで、29日は川口市をゆるゆる歩いている時に遭遇。

 

両日とも小春日和であった。

そのため、雪虫が命を繋ぐために引越そうと、飛び立つにふさわしい日であったろう。

 


雪虫が飛ぶと雪が降ると言われる。


そこで、民間気象情報会社が、北海道で雪虫の発生から初雪が降るまで幾日かかるか調査したことがある。

結果は、1週間から2週間程で降った地区と、3~4週間かかった地区があった。

 (参考:株式会社ウェザーニューズ雪虫大作戦』)



さて、関東ではどうだろうか。

雪虫を見た霜月の末から、数週間で雪が降るだろうか。

雪が降らぬまでも、師走の中頃にはぐんと冷える日があるかもしれぬ。


寒さが来るよと、雪虫は教えてくれた気がする。


ゆくりなく会ったゆかりの品

2017-11-18 19:04:06 | ゆるゆる歩き:町や通り

思いがけず見つけたそれは、川口納豆の酒瓶。

 

大塚の商店街をゆるゆる歩く宵の口。

灯りが町の風情を、より濃く浮かび上がらせる。

 

 

 

川口納豆は、昭和24年(1949年)から納豆造りをしている、宮城県栗原市一迫にある会社。

社長が農業人としての思いも強く、この会社は原料の大豆栽培はもちろん、米や野菜も栽培している。


川口納豆では、酒造に適した米の美山錦も栽培する。

その米を使い、同じ一迫にある金の井酒造にて醸造したのが、酒の「川口納豆」だ。


川口納豆はよく食べたものだが、この酒のほうは、好機に恵まれず、残念ながら未だ味わっていない。

飲んでみたいと思いながら、栗原の景色と空気がまざまざと浮かぶ一瞬を楽しむ。

そしてまた、大塚の町をゆるゆると歩いた。


(注/ゆくりなく=縁なく:偶然、思いがけずの意。ゆかり=所縁・縁:つながり、かかわりあいの意。)


うまい福島の桃とお福分け:2012年8月17日の記録

2017-11-18 12:20:55 | 東北被災地の歩み:福島

先月(2012年7月)に再び福島へ行った折、道の駅で桃を買った。

光センサーで、一定の糖度のものを揃えた美味しい桃だ。

果肉も果汁も多く、実に満足。



もぎたての硬い桃を好む人もいるが、私らはやはり、桃は追熟した柔らかいのがいい。

北東北では、かりりと噛んで音がする果実なら、旨いリンゴがたくさんあるもの。

桃ならば、あのとろけるような柔らかな食感で、果汁たっぷりに甘いのが美味しいと思うのだ。

 

 

食卓に新聞紙を敷いて、桃を真ん中に乗せる。


ちなみに、この新聞紙は、なかなか重要な任務を負っている。

たっぷりの果汁は、うっかりすると後々、べたべたと人を机や床にくっつけさせるが、新聞紙作戦でこれを阻止できる。

しかも、食べた後の皮や種は、これに包んで始末でき、見事に美しく片付くのだ。



さてさて、新聞紙の真ん中で、素晴らしい香りを放って桃が鎮座している。


追熟して柔らかい桃は、手で果皮がするりと剥がれ、白く淡い紅のさしたビロードみたいな実が現れる。

これに、丸ごと噛り付いて食むのが、本当に旨い。


「桃だ、桃だぞ」と、体中をちび桃太郎が走って伝達し、頭に灯りがつくがごとく、かぶりついて目を張り、旨い旨いと喜んで食べた。


さらに、到来物もあった。


嬉しいことに、今年はその後も、幾人かの心温かき知人から、立派な桃を頂戴したのだ。

よって、我が家では度々桃を食み、満ち足りた夕餉を得ている。



福島の生産者は、震災後の原発事故による風評被害で、随分と泣かされた。


安全が確認されたにも関わらず、「福島産」というだけで売れなくなったという。

それまでの3分の1ほど、桃の売り上げが減った農園もあったそうだ。

そんな報道を知るたび、胸が痛んだ。


福島の桃は、丹精して作られ、とても良い出来だった。

そうした良さを、正しく認められる世の中でありたい。


一巡り 桃と笑顔の お福分け 



馬九行久その2・浪江の太っちょ:2012年7月19日の記録

2017-11-17 14:16:05 | 東北被災地の歩み:福島

「何事も馬九行久(うまくいく)」と、袋の赤い縁取りに書いてあった。

願いを込めた言葉も、語呂合わせで面白みを忘れないところがいい。


旭屋の「太っちょ」が、道の駅「南相馬」で売られていた。

「太っちょ」は、浪江名物の「なみえ焼きそば」である。

一袋に、麺と特製ソースを一組にして三食分入っていた。


この「なみえ焼きそば」には、ちょっとした決まりがある。


具は、もやしと豚肉だけというのが、基本の「なみえ焼きそば」である。

もやしが、麺の量より少なくてはいけない。



何しろ、「なみえ焼きそば」は、「安くて旨くて腹持ち良く」と思って作られたというから、簡素で力強いわけだ。仕上げに一味唐辛子をかけるといいらしい。



「太っちょ」は名前の通り太麺で、もやしと同じくらい太い。

だが、うどんとはまた違う味わいだ。

見事に、そばの滑らかさと、うどんの弾力とを併せ持っているのである。


もやしの多さも、食べて「なるほど」と思う。


もやしの歯切れ良い食感とみずみずしさが、太っちょ麺の弾力や、肉とソースのコクとも調和して旨いのだ。ソースも、程よい甘味とコクがあり、酸味が穏やかで良く合う。


色々試したが、少し肉に下味をつけて作ると、好みの味になっていい。


浪江の人々は、原発事故によって町を離れることになってしまった。

けれども、ふるさとで培った産品は大事に守り、作り続けている。


旭屋は今(2012年)、郡山に仮事務所を置き、仙台に生産委託しているそうだ。

どうにか、浪江名物として人々に親しまれた「なみえ焼きそば 太っちょ」を作りながら、相馬や双葉地区での操業を目指しているという。(2015年から相馬の新工場にて製造再開)



「太っちょ」に添えられた、「何事も馬九行久」の願いも広がるだろう。

その願い、きっと叶えたいものだ。


馬九行久その1・福島の踏ん張り:2012年7月19日の記録  

2017-11-16 13:19:54 | 東北被災地の歩み:福島

「馬九行久」は、躍動する馬の力にあやかり「うまくいく」ということを表した言葉らしい。

福島でこの言葉を目にした。


江戸時代、相馬大堀村の武士に半谷仁左衛門(はんがいにざえもん)という人がいた。

左馬(さま)という使用人が陶器作りをし、これを村の産業にしようと半谷が動いた後、相馬藩がこの焼き物を保護し、奨励して藩の特産品としたらしい。


これが「大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)」であり、今も伝承されている。


藩で窯業が盛んになり、相馬の城下では、「相馬駒焼き」と呼ばれる馬の絵付けの物も、贈答品や土産物に作られていたそうだ。


今の「大堀相馬焼き」は、見事な貫入や二重構造が特徴で、中には躍動感のある馬の絵付けの器も多くある。

見事な馬の絵付けは、将門が野馬を捕らえて神前に奉納したのが由来という、「野馬追い」を思わせる。

 

(参考:大堀相馬焼協同組合「大堀相馬焼の歴史」)



さて、7月19日(2012年)に再度訪れた相馬は、折りしも野馬追いが間近で、町中のあちこちに旗が飾られていた。


南相馬市の鹿島駅付近も、旗が飾られた。

鹿島駅を通る常磐線は、亘理~相馬と原ノ町~広野は途切れたままだ。(2012年7月19日時)

けれども、相馬から鹿島を経て原町へと列車が走っている。



鹿島駅から道をまっすぐ進んで辻へ出ると、左右(南北)に伸びる通りがあるが、これが陸前浜街道だ。


この街道を北へ進むと横手地区があって、歴史民俗資料館のある辺りが野馬追いの「北郷本陣」であるという。

さらに北に永田地区があり、そこが総大将を迎える「永田本陣」とのこと。

(参考:相馬野馬追 北郷騎馬会「野馬追日程」)

 

南相馬市の鹿島区も、東側は津波に襲われ、国道の右と左で景色が違う。


昨年の3月11日、海岸線にたなびく雲のように、大きく長い水煙が押し寄せる、その時の写真を見た。

南相馬市が、「写真で見る東日本大震災」として公表している。


野馬追いも、震災で昨年は行えなかったが、今年は7月28~30日にかけて行われ、伝統を再び繋いだ。


原発の被害に、風評被害までも起こって被災地に追い討ちをかけたが、地元はただ負けてはいない。

伝統を守り、町の産物を絶やさずに、精一杯の努力を続けている。