ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

消えた闇市、残そう茶屋:2013年4月の記録

2017-10-05 12:44:09 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

仙台駅から、およそ30分もすれば本塩釜駅に着く。

駅を出て本町通りへと向かうと、通りかかった闇市はすっかり空き地になっていた。

(↓かつての闇市:2011年1月撮影)
 



交差点で目印になる肉屋さんは、いつもどおりに営業中。右に入って本町の商店街へ。


浸水した文具屋さんでは、店頭に他所から頂いた応援の手紙を張り出していた。応援と感謝と、共に寄り添う心が嬉しい。(↓2013年4月17日:市川紙店)


昨年まであった建物が解体されている。津波の後に掃除して使っていたものの、時間が経つにつれて傷みが出る建物も多いようだ。(↓2013年4月17日撮影)

空き地も増えたが、建替え工事も所々で行われている。

(2013年4月17日撮影)



とすけやさんやお茶屋さん辺りも閉じている。

張り紙を見て驚いた。お茶屋さんまで解体されようとしていたではないか。


外から見ても趣きある建物で、歴史がありそうだと以前から思っていた建物だ。これが失われるのは何ともったいないことか。 


しかし、有志が保存と活用に向けて動き出し、支援基金を募っていた。 

調べてみると、保存会は先日、借り入れや募金で資金を工面し、買取契約をして保存活用の実現に一歩近づいたようだ。

今後も、保存活用の支援基金が集まれば、この塩釜の宝は守られる。近々また再訪して、ぜひ募金したいと思う。(↓2011年7月撮影) 

町の歴史や文化を伝えるものは、今を生きる私らの財産である。

先人の暮らしを知り、かつてそこに生きた人々と、ひと時思いを重ねる。その場所は大切な宝だ。

取り壊してしまえば、そこに刻まれた歴史や文化が消えてしまうこともある。


新たに変わることも必要だが、残すことが大事な物もある。

ことに、震災で多くを失った私らにとって、震災を風化させないのと同じくらい、その町の歴史と文化を残すことに意味があろう。

そこに生きた人々の輝きを残すのも、とても大切なことだと、つくづく知ったのだから。


マンガッタンで塩竃へ:2013年4月の記録

2017-10-05 12:08:51 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

前日(2013年4月20日)は穀雨で、穀物の成長を促す春雨が降る頃となった。

というのに、今朝は雪が積もっているではないか。

水分の多い雪で午後には解けたが、一晩で冬に戻ったみたいでびっくりだ。

しかし、庭木の芽はぐんと大きくなっていて、花咲く春は夢幻ではないようだ。


ところで、4日前には、町中を淡い紅色に染める桜を見ながら、ゆるゆる歩いた。

その日は東へ向かい、原町を越えて苦竹駅にたどり着いたので、そこから電車で塩釜まで出かけてみることにした。(↓苦竹駅:4月17日撮影)

 


改札を通って階段を上がり、間もなく来る電車を待っていると、来たのは石巻の「石ノ森萬画館」にちなんで車両に漫画が描かれた「マンガッタンライナー」だった。

(↓4月17日撮影)


平日は不定期の運行だから、くじに当たったみたいで、ちょっとした幸運だ。

「あたりもう一本」のようなおまけはないが、ちょっと嬉しい。

車窓から、この電車に向かって、ちゃっこいわらし(幼い子)が手を振っているのが見え、思わず手を振り返した。散歩中に、マンガッタンが通って喜んでいたのだろう。


20分程で本塩釜駅に到着。



震災の数ヵ月後に来た時は、本塩釜駅もまだ封鎖されていたが、約2年後の今は修繕が入っているものの、人々が行き交う和やかな空気が戻っている。

(↓本塩釜駅①:2011年7月撮影)


(↓本塩釜②:2013年4月17日)


駅の表には、石飾りが置かれているのだが、今年は干支の白蛇さんが中央で駅番をしていた。


今年に入って、駅前に「観光物産所」が出来ている。

土産に、「塩作りの塩釜」が伝わるような菓子を買った。

塩竃の藻塩入りの落雁。

塩味と甘味が見事に調和し、緑茶に良く合う。


古事記や日本書紀に登場する「塩椎の神(しおつちのかみ)」または「塩土老翁(しおつちのおじ)」が、この地に塩作りを教えたという伝説がある。

釜で炊いて塩を作った。それが町の名の由来だ。


「塩釜」の由来を活かそうと、いろいろ工夫しているのが見えていい。

それは、自分たちの暮らす町を大事に思うことだもの。


桜麗し千賀の浦の町:2013年4月の記録

2017-10-05 11:23:11 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

本塩釜駅から本町へ出ると、商店街の間に御釜神社がある。

鳥居の脇の木は、早咲きなのでもう花が無いが、境内の奥に見事な垂れ桜があり、花が降り注ぐように咲いている。



藻塩を焼く竈の傍で、淡い紅色の枝が揺れて麗しい。 


宮町の丹六園前の大通りからも、愛宕神社や塩釜公園の辺りだろうか、泉ヶ岡の方向に満開の桜が見えた。 


その大通りの街路にも、「塩観ざくら」と愛称がつけられた八重紅垂れの桜が咲いている。

塩釜市では、数年前に「塩釜さくらの会」が作られ、樹木オーナーを募って桜を植樹している。


奥州一宮おうしゅういちのみや(格式高く上位)である「塩釜神社」には、天然記念物となった「塩釜桜」がある。かつてあった桜は老いて枯れたが、接木で甦った桜が植えられ、再び天然記念物となっている。


塩釜桜は、淡い紅色で、毬のように集まって咲く八重桜だ。


卯月の終わり頃から皐月の初め頃に咲くので、他の桜より少し後に見頃となる。


その塩釜桜が、一足早く咲いているのを見つけた。

といっても、それは繭玉で作った飾りである。


仙台藩の養蚕発祥の地という、南三陸町の女性たちが製作しているそうだ。

この繭玉細工は、根付とブローチがあり、宮町の味噌醤油を作る「太田與八郎よはちろう商店」や、駅前の観光物産案内などで販売されている。


本塩釜駅から、沿線の道を西塩釜駅方面へ進むと、海苔の柴崎屋があって、その脇にも満開の桜があった。 

傍で何ともいい声がする。

心地よい軽快な笛の音みたいな声の主は、青い鳥(胸は褐色)のイソヒヨドリだった。


満開の花に、イソヒヨドリも気分良く歌っていたようだ。


野蒜築港近辺

2017-10-02 16:40:11 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

鳴瀬川の河口に「野蒜築港(のびるちっこう)跡」がある。

明治時代、貿易港と町を作り、北上川と松島湾を運河で結ぶ計画があった。

しかし、その建設は台風のために途中で頓挫した。その幻の港の痕跡が残っている。


この辺りも、石巻湾に沿って緑にふち取られていたのだが、2011年3月11日の大津波で濁流に襲われて傷んでいる。


鳴瀬大橋から矢本へと続く石巻街道辺りも、震災の数日後は、たくさんの崩壊した家の破片で埋まり、棒を持って行方不明者を探す捜索隊の姿があったのを、我が連れ合いは目にしていた。


今はすっかり片付いて、街道から北の内陸側は穏やかさが戻り、海側だけが痛々しい跡を見せている。

(↓2012年10月11日撮影)


 

田んぼに囲まれた中に家があり、海沿いには木々が一杯あったはずだった。

そこに壊れた家が残り、修繕しているところもある。


豊かだったはずの緑地は荒れた姿になり、松林もまばらになっているし、

陸方向の北側に向かって傾いている木々もあった。

(2012年10月11日)



周辺に、駐車場があるのかと思ったら、実は壊れた車が置かれていたのだった。

乗りあがる海水の、重く強くのしかかって流れ込む怖さが分る。


近くに小学校がある。

浜市小学校だ。

(2012年10月11日撮影)

1階部分は壊れていて、人の気配は無い。


新聞報道によると、ここにいた児童や教職員、消防団や周辺住民は、押し寄せる津波にも機転を利かせて行動し、全員無事であったという。

(参考:朝日新聞 2011年5月9日『〈学びと震災〉先生ら機転 犠牲者ゼロ 宮城県東松島・浜市小』)

 

 

さて、この小学校の前に、人名の刻まれた石碑がある。


なぜだろうと思って調べると、この学校の土地が寄贈されたもので、石碑の文字は寄贈者の名だと分った。


浜市小学校には、大正12年と昭和5年の2度に渡り、斉藤宗蔵氏から土地の寄贈を受けて校地を拡張してきた記録がある。

(参考:市報ひがしまつしま2013年5月1日号鳴瀬旧4小・中学校を振り返る』)


地域のために財産を分けたのだろうか。人情の厚さに感動。


今、津波で住まいや職場を失い、再出発するための土地を探す人がたくさんいる。


巷では、土地を分割せずに広くしか売らない例や、値が高いなどという話もちらほら。

だが、中には出来うる限り条件を下げてくれる人や、自費で整備し、借家を建てて被災者の再出発を助けたいという人もいる。


こんな時、実際は政治家よりも一般市民の方が良く動く。

だから、善良な人の動きを、しっかり補助して適切に進めるよう助けるのが国の役目となろう。

市民の善意を助ける施策も、良い国と政治にあるべき一つではなかろうか。


そして、明日を生きる人々への応援や、困っている人に手を差し伸べるという、市民の善意が広まる世の中を、いつの時代も失わずにいたい。


東松島えんまん亭:2012年10月の記録

2017-10-02 16:25:32 | 東北被災地の歩み:塩釜・松島

震災前に寄った店だった。

東名運河を渡り、東の野蒜海岸(のびるかいがん:洲崎浜)に沿った松原を左手に見て、少し西に入った所にあった。


今も、店の雰囲気を覚えている。

戸口から左手に厨房があり、その横が椅子と食卓のある座席。

奥の窓際に小上がりの席もあって、爽やかな風と柔らかな光が、すだれの間から穏やかに店の中へと流れ出ていた。


馴染みの客が来て、店主のお父さんとお母さんとは、親戚みたいに言葉を交わしていたし、当方にもお父さんが品を運びがてら、笑顔で気さくに声を掛けてくれたっけ。


店の名は「えんまん亭」。

その名の通り、和やかな店だった。

(撮影:2010年9月15日)



震災後、この店はどうなったかと気がかりで行ってみたが、周辺の住宅ごと店も消えていた。

小型の漁船が乗り上がって、土台がかすかに見えるだけ。

(撮影:2012年2月7日)



住宅の陰になっていたはずの体育館がぽつんと残り、周りは空き地ばかり。


どうしよう、あのお父さんお母さんは元気だろうか。

ずっと、気になっていた。


調べ続けて見つけた。

また会えることを知った。


野蒜から北東へ、鳴瀬川を越えて進むと矢本町に入る。

仙石線の矢本駅の辺りは、役場などのある中心部で、さらに東の東矢本駅から石巻街道へ出ると、近くに運動公園がある。


その運動公園内に、今、仮設住宅と小さな仮設の商店がある。

矢本の仮設商店の中に、えんまん亭があった。

先日、かつて食べた品、あの思い出の品を味わった。



店内は、かつての店に似ていた。品書きも、懐かしい思い出のままだ。

息子さんが店を継いでいるという。


頼んだ品が運ばれ、思わず喜びの声を上げた。

大きく綺麗な殻の、旨味のある貝がたっぷりと乗った中華そば。


「あさりラーメン」だ。


お母さんの笑顔にも再会できて嬉しかった。

格別の味だった。


連れ合いはホルモン定食を頼んだが、付いてきたあら汁がまた凄い。


魚の骨際と、皮際の身の旨味はもちろん、魚卵まで入っていて、魚の持つ色んな美味さを味わえる。

さすが、野蒜でも人気だったわけだ。


「また来てね」の声と笑顔に送られて、身も心も温まって店を出る。

再会の嬉しさと、再開に感謝した秋のひと時だった。