ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

あの日のまちかど第22景 加美町

2019-04-30 20:15:31 | ゆるゆる歩き:自然

今日は節目、平成が終わる卯月の晦日。

その十年前、広々とした農地を通り抜け、薬莱山の麓にいた。

 

 

(2009年4月30日撮影:加美町小野田下北浦)

 

薬莱山へと行く道すがら、小さな水車が見える。

小野田の町を抜けると、視界が開ける農地になり、菜の花が咲く中にそれはあった。

春爛漫。

 

薬莱の土産売り場で産物を買うと、荒沢湿原のちらしを見かける。

薬莱山と船形山の間辺りだ。

水芭蕉が咲いているとのことで寄ってみた。

 

(2009年4月30日撮影 薬莱の荒沢湿原 荒沢自然館周辺)

 

 

そこから、また薬莱山の方へ戻る。

道すがら、ちょっと大滝川の方へ曲がってみると、紅い橋と鳥居があった。


(2009年4月30日撮影 薬莱 大滝神社)


橋のたもとに大滝神社、橋からのぞき込むと、美しい流れが見える。


(2009年4月30日撮影 荒沢の滝)


加美町は、古代遺跡と自然に満ちた場所。

行くたびに、伸びやかになる。


明日から令和。

昭和、平成を経て、三つの時代を生きることになる。

良い日々を積み重ねたい。

 


あの日のまちかど第21景 気仙沼漁港

2019-04-26 20:06:33 | ゆるゆる歩き:町や通り

6年前の今日は、桜雨の気仙沼で、咲き誇る桜を見た。

震災から2年過ぎた、気仙沼の南町付近と漁港を通る。

 

(2013年4月26日撮影:気仙沼漁港 南町付近)

 

漁港対岸の陣山に、桜が明るく浮き出る。

港では、津波で浮桟橋が流され、連絡橋の部分が半分水没したままだった。

 

(2013年4月26日撮影:気仙沼陣山の桜)

 

南町商店街の方へ回ると、解体や片付けで、空き地が増えている。

駐車場所となっている所も、以前は建物があった。

 

商店街の脇は高台の浜見山で、その斜面に見事な桜を見た。

 

(2013年4月26日撮影:気仙沼南町)

 

現在、この辺りは大きく変わろうとしている。

大型施設の形で再開発される計画。

 

従来、ここで暮らしていた商店主が再建できてこそ、本当の再生。

町づくりは、そうした人々の生きる力を引き出すものであってほしい。


あの日のまちかど第20景 石巻城址

2019-04-25 21:59:06 | ゆるゆる歩き:旧跡

震災の翌年、7年前の今日は、桜が津波の傷跡を和らげる高台にいた。

 

石巻駅から少し南へ進むと、急勾配の坂道が見えてくる。
その丘陵となっている所が「日和山」だ。

 

ここに、かつて葛西氏の「石巻城」があった。

(鎌倉の頃、その地を頼朝公から葛西氏が賜ったとされる。四代目の葛西清経が大規模な居城を構えたという。)

 

この日和山の一角に、眼下の川の方を指さして立つ先人がいる。

川村孫兵衛重吉だ。

 

(2012年4月25日撮影:石巻市)

 

 

日和山の頂には「鹿島神社」がある。

神社を含めた周辺が、かつての石巻城本丸だったらしい。

(葛西氏は鹿島神社を城の敷地内に造営したという。南西側に、さらに一段下がった部分があるが、そこが二の丸だったようだ。)

 

(2012年4月25日撮影)

 

参考:紫桃正隆『仙台領内古城・館』

 

 

その神社の段の下で、孫兵衛は桜に囲まれて立っていた。

 

 (2012年4月25日撮影)

 

川村は、毛利家臣であったが、関ヶ原で敗れ浪人となったのち、政宗公に拾われた。


政宗公は、藩の発展に欠かせない治水に着手。

そのための技術者が、川村孫兵衛重吉であった。

 

かつて、川の整備に尽力した孫兵衛と地元の人々。

孫兵衛は、働く人々に温かい心配りをしたという。

 

かくして、仙台藩は見事に新田開発や水運が発展。

先人の努力の成果は、今なお、美しく実り豊かな仙台平野に名残をとどめる。

 

 

さて、7年前のこの日、石巻も桜が咲き誇っていた。

眼下には、津波の漂流物が片づけられ、解体や整備の進められる町の姿。

 

 (2012年4月25日撮影)

 

先人は、苦労を共にして未来を切り開いた。

すっと指さして立つ姿は、目指す明るい未来へと、励まし導くかのようである。


 

参考:宮城県教育委員会『みやぎの先人集 未来への架け橋』

/農林水産省 宮城県農林水産部『治水の名手川村孫兵衛』