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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

語り継ぐ:女川(2013年2月の記録)

2017-09-28 12:36:59 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

女川湾に沿った道の脇に、櫓が組まれて看板が掲げられていた。

良く見ると「国道計画高さ」とある。

2階建ての高さほどもあろうか。新たな国道が、この高さに作られる計画だ。


実は、海側に津波防波堤を設け、さらに湾岸に嵩上げした国道を作る大規模な計画がある。

これほどの計画が提示されるには理由がある。

もしも、国道の嵩上げだけならば、この高さでも決して高くはないのだ。


万石浦の東端の「浦宿」辺りで、海から少し離れた所に蒲鉾工場の「高政」がある。

ここでは、各地から訪れる人々に、あの日の震災と津波のことを語り継いでいる。


当方が立ち寄った時は偶然に団体客がいて、語り部が映像を交えて淡々と、あの日のことを伝えている所だった。


語り部の伝える津波の様子から、女川では初めは静かに水が侵入したかと思うと、見る間に増水していき、建物を飲み込んでいったのが分る。


記録映像には、渦を巻いて町を飲み込む津波が映っていた。

その水の量は、熊の神社手前で高台にあった女川病院まで達したという。

病院も1階部分が浸水し、諸々流され壊された。

(↓女川病院:現・地域医療センター2012年2月撮影)

 

これほどの高さまで増水し、渦を巻いた津波。

女川で、これを目の当たりにして耐えた人々は、どれほど切なかったろう。


だからこそ考えるのだ。

同じ轍を踏まぬため、大切な命を守るために出来ることは何か。

語り部は、共に考える機会を、人々に分け与えてくれている。


空き地と再建と:石巻市渡波周辺(2013年2月の記録)

2017-09-28 12:26:12 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

石巻中心部から、中瀬のすぐ脇の内海橋を渡って女川方面へと進んだ。

八幡、湊、渡波と通っていく。

被災住宅の解体が進んで、空き地も多くなったが、再建された家もある。

工事している所が度々見られ、動きがあって、どことなく活気があるように思える。


所々に屋台のような店が出来ている。

渡波の手前で、そば屋を見かけた。


次に、ツルハ薬局手前で、少し大きな棟になっている商店が建築中なのを見かける。

まだ表の大看板は真っ白だったが、店舗の部分を見ると、「銀だこ」の看板があった。

「銀だこ」の隣は、窓の貼り紙からしてラーメン屋らしい。


近くのヤマト屋書店は、壊れたままで解体を待つ。


空き地と再建住宅とが入り混じる渡波。


道沿いに、小さな食堂が出来ていた。


商いは、人と人との関わりである。

物と人とが、商いによって繫がれていく。


被災地の人々も、他所から仕事に来た人も、現地に再建された店で同じひと時を過ごす。

何気ないやりとりが、誰かを楽しませることもある。

そうやって、町に活気や笑顔が増えていくかもしれない。


被災地に出来た小さな店は、そんな力の一つだと思う。

だから、被災で一つまた一つと店を見つけると、心地よく風が吹き抜けるように、心の中を嬉しさが通っていくのであった。


残されたものの記憶:石巻市八幡~湊(2013年2月の記録)

2017-09-28 12:10:45 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

石巻の中心部から、石ノ森萬画館を右手に見て橋を渡る。

内海橋沿いの遊歩道は、まだ壊れたままだ。

「満潮時には冠水するため立ち入り禁止」という札が立っている。



橋を渡った先は八幡地区。

歩道橋に差し掛かると、階段の途中に付いている信号のすぐ脇に、「東日本大震災 津波浸水ここまで」の表示があった。

(↓八幡町歩道橋:奥の階段で信号機脇に表示がある)

 

もう少し進むと湊地区となる。

湊歩道橋の脇には湊小学校がある。

建物や校庭を見ると、津波被害を受けたことが察せられる様子で残っている。

(↓湊歩道橋と、左脇に湊小学校)


校舎は1階天井まで浸水し、体育館も床上3メートル津波到達と記録されていた。

(調査:日本建築学会 記載文書:教育委員会学校復旧計画)


震災当時、湊小学校は避難所として使われた。

震災直後には1400人ほど避難し、津波が来るからと2階へ移動を指示したため、逃げおおせたという証言がある。(大阪市コミュニティ協会の現地調査)


その後も避難所として人々が宿泊し、市の調査では470名ほどが滞在していたという。

そこでは、様々な人々の思いと人生が交錯した数ヶ月の暮らしが撮影され、記録映画として残されているそうだ。


あの日から明日で2年。


今も残されている物は、あの日から始まった苦難と、助け合い、踏ん張って輝く人々と共にあった。

そして、通りかかる人々に、その記憶を伝えているように思える。


静と動:石巻中心部(2013年2月19日の記録)

2017-09-28 11:31:58 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

震災後に、あらかた片付いた商店街は、一見、今もあまり変わりは無い。

なぜかというと、実は再開発に向けて準備中なのである。

(2011年10月:立町2丁目大通り↓)

 

(2013年2月↓)


(2011年10月:西内海橋前↓)


 (2013年2月↓)



計画を立てて動き出しているところや、修繕して再開した店舗もあり、石ノ森萬画館も再開している。


町の中で、ひと際目を引く美しい古い洋館風の建物は、「旧観かん慶けい丸まる商店」だ。

昭和5年に建てられたという観慶丸は、震災と津波で被害を受けたものの倒壊せず、文化財として保存する活動が進められている。


(↓2011年10月:中央3丁目「旧観慶丸商店」)

1階部分が浸水したため、窓や扉が覆われふさがれていた。

 (2013年2月↓)現在、1階部分が「復興ステーション」として使われている。 


石ノ森萬画館のある中瀬は、2011年10月には水浸しになっていた所もあった。

 

(2011年10月↑)

ある程度の整備はされているが、今も満潮や天候による冠水の心配が解消したわけでなく、地盤沈下の対策が必要らしい。


中瀬は、石ノ森萬画館を主軸にして整備される「中瀬公園計画」が出ており、それに伴い調査や設計が行われているようだ。


中瀬には石ノ森萬画館だけでなく、もう一つ保存活動が進められている文化財がある。

漫画館の向かいにある、国内最古の木造教会というハリストス教会だ。

これも今、保護のために覆いがかけられている。


(↓2011年萬画館とハリストス教会)


(2013年2月↓)


(↓2013年2月覆いのかけられたハリストス教会)


(↓2011年10月:ハリストス教会)


***明治13年建築で、1978年の宮城県沖地震で損傷したが、その後に中瀬公園に移築された建築物。

窓は割れ、白壁が所々剥がれて正面の扉が失われているが、かろうじて外観は残っていた。

2度の震災にも、この美しい建築物は、傷みながらも耐えて残った。***


また、中瀬は震災前に、北日本海事社(現在はNOMCO&COMPANY:松島の干支記念館を作った会社)が、町の活性化のために公園と施設を配した開発計画を立てていた。

色々あって変更となったが、計画の一つとして作られた自由の女神像が残っている。


(↓2011年10月中瀬の女神像:凛と立つその横腹に穴が開いていた)


(↓2013年2月中瀬の中央にまだ立っている)



中央から中瀬へと渡る橋の手前に、川沿いに細い通りがある。そこを進むと、新たな堤防が設けられ、反対側には「石巻まちなか復興マルシェ」が出来ている。

(2013年2月↓)


飲食や土産物販売、催しなどを行い、憩いの場にしたいと作られた市場だ。


仮設の商店街は立町大通りにもあり、少しずつ中心部にも人の集える場が戻りつつある。


静かに残っている建物も、これから大きな変化があるだろう。

今の石巻市街地は、再開発という大きな動きを前に静かに待っている所と、動き始めている所とが混在している。