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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

節分に追儺の立春前夜

2019-02-03 21:10:47 | 今昔あれこれ

暦は、冬の終わりと春の始まりの狭間になる「節分」を告げる。

年中行事を振り返ると、祝いと厄払いは一対であるように思う。


節分の行事も、春を迎える祝いと共に、一年の災いを祓う意味が込められているからだ。
もともとは、中国から伝来した風習で、大晦日に疫病の鬼を追い払う「追儺」の儀式だった。


いつしか、節分に追儺が行われるようになり、鬼を祓うのに豆まきするようになったという。

豆まきは、南北朝時代には行われていたらしい。

(参考:国立国会図書館「大豆~粒よりマメ知識 第1章節分と豆まき」)



当時は人々の暮らしに、祈りの力が強く影響する世の中で、病や天変地異などの、様々な災いごとを鎮めるのに行う儀式は、とても大事だったに違いない。
昔の人に習って、日々の暮らしに行事を取り入れるのも、活気が出て良いものだ。


豆まきも、近頃は小分けになった豆が売られているし、落花生を撒くという家も多いだろう。
我が家では、豆を小分けにして包むこともある。撒き易いし、威力を発揮しそうである。

落花生なら、八街産がうまい。


今年買った節分の豆は、紅白の糖衣豆で「善光寺のご祈祷」という物。

大変歴史のある寺で、ありがたみがある。


なにしろ善光寺のご本尊は、百済から寄贈された仏像だと伝わっている。
欽明天皇の時だというので、隣の朝鮮もまだ三韓統一していない昔、わが国は倭国と呼ばれ、聖徳太子となる厩戸皇子が少年の頃という昔だ。


そういえば、東日本大震災の被災地に祈りを込め、陸前高田の「高田松原」の松から地蔵菩薩が彫られており、その入魂供養は2012年に善光寺さんで行ったという。

 

さて、節分は大寒最後の日で、翌日は立春。
豆まきをして鬼を祓い、清々しく春を迎えたい。 

     


73年前の今日、戦争は終わっていなかった。

2018-08-21 21:22:05 | 今昔あれこれ

玉音放送により、天皇陛下から国民に降伏宣言がなされた8月15日。

日本はこの日を終戦と思っているが、正式な終戦はまだだった。

実際は、15日以降も戦闘を終えられなかった。

73年前の今日(1945/8/21)、ソ連による千島列島への攻撃があったのだ。


北端の占守島(しゅむしゅとう)では、武装解除の準備をしていた日本軍だったが、急遽、防衛のために戦闘開始したという。

必死の防戦でソ連軍の出端を挫き、北海道へのソ連軍侵攻を食い止めたのであった。


ことによっては、日本は分割占領されるかもしれなかったが、米国はソ連の提案を拒否。

米国による戦後日本の管理政策が打ち出され、日本は分割を免れた。

そして、正式に終戦宣言がなされたのは9月2日のことだった。


あれから73年目の8月を迎えた。

東京の靖国神社内にある遊就館には戦没者の写真が並ぶ。

仙台市にある護国神社内にも、英霊顕彰館があり、やはり戦没者の遺品や遺影が並んでいる。


この人々は、国と家族を守るために戦ったが、決して戦争したかったわけではない。

夢を諦め、愛する人との心温まる日々を断ち切って散っていったのである。

この戦没者も、きっと我々と同じく、こう願っているはずだ。


尊い命を無残に捨て去る戦争なんぞ、もう二度と起こさぬようにと。

(宮城県護国神社 英霊顕彰館にて:撮影日2018年5月15日)


参考:『池上彰の教科書に載っていない20世紀~戦後ニッポンを救った知られざる人々~』/浅田次郎著『終わらざる夏』/

    国立国会図書館電子展示会『日本国憲法の誕生・詳細年表』/靖国神社遊就館/

    SBクリエイティブ連載 松本利秋著『日本人が知らない終戦秘話』


今日はスイカの日

2018-07-27 22:20:30 | 今昔あれこれ
二十年程前、仙台朝市にて、それは立派な尾花沢すいかを見て足を止めた。
大きくて丸く、緑色も黒筋も濃い、見事な出来だった。
 
「食べたいが、持って帰るのは重いなあ」と、逡巡していたら、連れ合いが
「大丈夫、持てる。買いなよ。」と言うので買った。
 
「重いでしょ、大丈夫?」と、凄いスイカを抱える連れ合いに、何度も問いかけながら帰ってきた。
何しろあの大きさだから、10㎏位はあったのではないか。
今に比べたら、まだ若かったから頑張れたろうが、よくやったものだ。
 
自分はさほど食べないくせに、私に食べさせたいと買ってくれた。
本当に甘くて美味しかった。
 
さて、今は、我が家で丸ごとのスイカを買うことはまずない。
だが、先日は面白いスイカを見つけたので、久々に丸ごとすいかを買ってみた。
 
何と、一口大である。
 
これは「白鷺宝」という菓子。
埼玉の菓匠花見の作った季節限定品。
 
ちゃんと中身も、赤い実と黒い種のすいかである。
 
穏やかな甘さで、美味しい。
和菓子ながら、滑らかでしっとりとしたプラリネのよう。
卵入り白あんを、乳脂の入った蜜の衣で覆ったこの菓子は、洋菓子のような味わいもある。
 
大正元年創業という店だけに、伝統と近代化の入り混じった時代の空気が、菓子に表れているようだ。

四十年前の今日は宮城県沖地震

2018-06-12 17:18:46 | 今昔あれこれ

昨夜、もう四十年になるのかと連れ合いと話していた。

1978年6月12日、夕方5時頃のことであった。宮城県沖地震発生。


連れ合いは、近所の小学校で、校庭が地割れしたのを見たという。

すごい揺れで、その場から動けなかったそうだ。


当時の私は岩手にいて、被害が無かったため記憶が薄いが、地震報道は覚えている。

ことに、仙台でブロック塀の倒壊によって、何人も死者が出たという報道は強く心に残った。

 

建物の倒壊が多かった宮城県沖地震。これを機に、建物や外構の強度を高めることとなった。


後に私は、東海地方に住んだことがあり、その頃に阪神淡路大震災もあって、地震への意識がかなり高まった。

応急手当の講習や、起震車乗車を含む防災訓練も何度か参加した。


さらに後、東北に帰って仙台に住み、岩手・宮城内陸地震や東日本大震災を経験する。


家具や物の置き方、持ち物、心構えなど、事前の準備が有効だった。

不気味な本震と度重なる余震にも、落下物はほとんど無く、収納箱ごと棚からずれた本と茶碗2つだけ。


平時に意識していることが、いざという時に役立つのだと実感。

町内会も、震災前から、地震への意識を高める活動をしていて、これに参加したことも有益だった。


私がいた町内会では、消防隊を招いて、消火活動と併せて応急手当の講習も行うよう、行事を設定してくれたし、さらに、東北大教授による地震に対する講習会も開催してくれた。

震災後も講習会を開催し、震災時に起きた混乱や課題を消防の方から聞くことができた。


一人一人が事前に学んでおくことで、いざという時に、どうにか落ち着いて行動できる。

あまたの人々に、備えを忘れないでほしい。

 

  ↓ 講習会資料と、震災前に自作の応急手当手引き


梅雨入り翌日晴れ楽天勝利

2018-06-07 23:33:14 | 今昔あれこれ

昨日六月六日に梅雨入りした関東。


雨の中、向かった先は東京ドーム。

先ずはバッティング練習を見て、胸を踊らせる。

                                                       

                                            

試合は、新人の近藤君が初登板。

本塁打を浴びながらも、その後崩れることなく健闘したが、五回途中降板。 

しかしながら、力強いストレートは魅力的であった。

今後が楽しみである。 

 

かなりアウェイ感の強い中で、周りの視線は冷たいが、構わず熱く大声で応援。

3点を追いかけての9回表、挫けず声援を送り続けた願いが通じたらしい。

フォアボールで茂木が出塁し、ノーマークの中2塁に走塁。

ランナー2塁において、2アウト。

あと一人コールも出る中、外野レフト側の楽天応援団の声が高まり、当方もバックネット後方で声をあげる。


ウィーラーがやってくれた。もうちょっとで本塁打、壁に当たって2ベース。

惜しかったなあ。

しかし、そのおかげで茂木が生還し、

「お帰り茂木ちゃん、やったー」と大喜びであった。


ただし、結果は3対1でこの日は負けた。


翌日、梅雨空が消えて晴れて暑い。


この日はテレビ観戦だが、東京ドームで岸が登板し、見事1500奪三振記録達成。

空と同じく気分も晴れ晴れとした日であった。


それにしても、東京ドームは温度湿度が一定で虫もいないし快適であった。

しかし、どこか臨場感に欠ける。


仙台の球場は虫が出るし、風も吹くが、空の下で自然の空気と人の呼吸や鼓動が調和する感覚がいい。

選手と共にある臨場感が、より一層あふれている。

やっぱり仙台がいいなと恋しくなった。