goo blog サービス終了のお知らせ 

ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

南三陸町から石巻・その8(女川):2012年7月の記録

2017-09-21 17:54:59 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

以前に訪れたのは、前年の2月末。

その5ヶ月後、震災からは1年と4ヶ月が経っていたが、変化はあったろうか。


2月には、震災による廃棄物がたくさん積まれていた。(2012/2/28撮影↓)


その後、女川の震災がれきは、3月に東京都が受け入れを開始し、運搬された。

おかげで、解体や片づけが進んだように思われる。


広域処理には賛否あり、色んな事を言う人がいる。

けれども、現地に行ってみると、やはり震災がれきを早く移動したい気持ちが分る。


置き場の確保のために、道をふさいでいる場所もあった。(↓2012/2/8)

処理がままならずに置き場が一杯になれば、次の解体や片づけが進まないだろうと察せられる。

そうなると、港の整備や漁業の再開も遠のく。港の町にとって大きな問題だった。


実際、震災で出た町の破片が運ばれて行ったことで、次の片づけが進められ、道路や港の整備も進んでいったように思う。


2月には、旧マリンパル女川や銀行の建物が残っていたが、7月には解体が住み、手前の横倒しになった建物だけが残っていた。

(2月の様子↓ 横倒し建物の左にマリンパル、奥に銀行)

(7月の様子↓)

この横倒しの建物は、江島(えのしま)共済会館という建物だ。


江島会館は、津波の伝承のために残したいという意向と、撤去して欲しいという意向の間で、保存するかどうか迷いながら残されていた。


女川魚市場の仮事務所では、周辺に資材が置かれ、整備が進められる様子。

(2月の仮事務所周辺↓)



(7月の仮事務所周辺↓)


2月には、まだ町の破片があちこちに残っていた港。

仮橋が置かれているようだが、片付けに利用しているのだろうか。

(2月の様子↓)


7月には、橋の先の土地が削られていた。壊れた舗装や礫を片付けたためか、少し地形が変わっている気がする。(↓7月の様子)


2月には、湾岸の舗装は割れてでこぼこになっていた所が多かったが、7月には砂利敷きで平地となっている部分もあった。

護岸の整備も始めている様子だ。



南三陸町から石巻・その7(御前湾から女川湾):2012年7月の記録

2017-09-21 17:23:33 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

雄勝石を釉薬にしたという青い器があるが、その焼き物のごとく、綺麗に輝く雄勝湾を眺めながら、湾の南側に沿って進み、女川へと出る。


女川に入ると、カツオとウミネコが迎えてくれた。

看板の装飾だけれど。

さすがに、カツオはウミネコの相手ではないだろうが、何やら物言いたげなウミネコの顔が面白い。

「よう、また来たかい。待ってたぞ。」といったところか。


女川には北と中央と南とに、3つの湾がある。

北は御前(おんまえ)湾わんだ。(ただし、御前湾を含み竹ノ浦の岬の端まで雄勝湾の範囲)


少しばかり丘陵の森の間を行くと、やがて開けて海が見える。

そこが御前湾で、指ヶ浜(さしのはま)漁港があった。 


色々と苦労も多いはずだが、それでも漁港に漁船が戻っているのを見るとほっとする。

生業なりわいを取り戻す一歩を、踏み出せることは大事なことだから。


御前浜おんまえはま海水浴場の辺りは、道端の柵が歪んでいた。


浜辺も荒れている。


岬がいくつかあって、その合間に尾浦や竹浦、桐ヶ崎と漁港があるのを見ながら、曲がりくねった山間の道を進んでいく。

その道路は、所々、崩れて工事中になっていた。 


竹浦漁港辺りから、道は女川湾沿いになる。


雄勝を出てから、通ってきた湾岸の道沿いは、店が無い。

御前湾を過ぎると、木々に囲まれた道が続く。


一段低い所に、仮設住宅が見える箇所がある。

この辺りは、暮らしに必要な物を買うにも難儀だと聞いていたが、実際に通ってみてよく分かった。


嬉しいことに、こうした事情を察して、移動販売として来てくれる人がいるという。

被災地で、必要な物を売りに来てくれるというのはありがたい。

昔は売り歩きが多かったが、こうした形で見直されるのはいい。

人との交流と、信用を大事にした商人の心意気はいいものだ。


崎山公園も過ぎれば、女川港の中心地だった女川浜に近づいていく。


南三陸町から石巻・その6(雄勝町):2012年7月の記録

2017-09-21 17:11:27 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

追波川(北上川)を渡り、しばし山間を進むと、やがて雄勝町に入る。

特産品は、魚介の他、雄勝石とその加工品。

町の入り口を示す案内にも、雄勝硯の飾りがあった。


西の硯けん上山じょうさんを背後に、奥まった雄勝湾が漁港を成している。

その雄勝港に沿って、町があった。

・・・はずであった。


流れ込む水は重く、押すのも引くのも物凄いなのだと思い知る。

湾岸にぎっしりと並んでいた家や店が無い。

代わりに、壊れた町の断片や港の物が積まれている。


残っている建物も、酷く傷んでいる。

弓なりの道を行くと、雄勝庁舎が目の前に現れた。 

庁舎入り口には、既に「津波襲来」を伝える碑が建てられていた。


 

敷地内に、仮設の商店が作られている。


壊れた庁舎の中から、鳥の声がした。


イソヒヨドリがいる。

庁舎から雛の声が聞こえ、子育ての真っ最中だった。


生ぎでんだもの。

痛いことも辛いこともあっけど、あれ食いたいとか、おもしぇなぁとか思う時だってあんだよ。

そういう声が、聞こえてくるようだ。



雄勝湾に沿って幾分道を戻り、南側の道を進んでいく。

波打ち際の見える所で、海を見ると、水面の下の石が透けている。

雄勝の海は、何と澄んでいることか。


震災で沈んだ物が多くあるが、この海を守るために、幾度も海底掃除を行っているそうだ。


雄勝湾に沿った、庁舎の対岸の方に来ると、呉壷くれつぼという地区がある。

そこに、支倉六右衛門造船の地という碑があった。


江戸の初期、政宗公は、イスパニア(スペイン)領だったメキシコと交易しようと、イスパニアやローマに使節を派遣する。


そのために西洋式の帆船が造られた。

船の名は、「サン・ファン・バウティスタ」という。

その造船地と伝わるのが、雄勝町だ。


ただし、出航の地は、石巻湾の月浦だとされている。

ということは、雄勝で造船された「サン・ファン・バウティスタ」は、牡鹿半島をぐるりと回って月浦に出た後、使節団を乗せて正式に出航したのかもしれない。


造船の地と言われる場所から、雄勝湾を望む。

湾内には、青い水面に養殖の浮きが映える。雄勝はホタテの養殖が盛んな所。

また、たくさんのホタテが水揚げるよう願っている。


南三陸町から石巻市・その5(新北上大橋付近):2012年7月2日の記録

2017-09-21 16:59:01 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻
追波湾へと流れ込む北上川は、それは見事な葦原を育み、ゆったりとして、人は小さく屈託も溶けて流れるように思う程、広々と満ち足りた光景であった。

だが、あの日の津波は、葦原も、河畔の家や学校も押し潰していった。
新北上大橋が、広大な川の左右を繋ぐ。




この大橋も、津波の力で一部が欠損したのだが、緊急修復された。

大川小学校が、橋の袂に見える。



ここでは、何とかして助かりたかったはずの教師と児童が津波に消えた。

公表されている様々な証言からは、どこへ逃げたら良いか、次にどうするか迷っていた様子が浮かび上がる。

なぜ、判断が遅れたのか、失った命の重さを思えば、口惜しくて考えずにはいられない。


大川小学校は、背後に山があって湾が見えず、前には北上川が洋々と流れている。




おそらく、普段は海を意識しないような場所であったろうと思われる。
この地形では、津波への危機感が薄らぐかもしれない。

とはいえ、教育機関には地域の指導的役割もあり、学校は大切な命を預かる場だからこそ、地域を先導するくらいの意識で、災害対策を練っていて欲しかった。


しかし、災害への対応は学校だけのことではなく、地域全体で取り組む必要がある。


犠牲者を思うと、胸元に何かを当てて押し付けられるかのように苦しくなる。
この人々が、私らに伝えようとしていることや、教えたいことは何だろうか。

それを考えると、誰に何の責任かを重視するのではなく、どうすれば良かったのかを検証し、地域全体で対策を練って欲しいと切に願うのであった。


今、北上川は、ゆったりとして洋々と追波湾へと注ぐ、かつての姿を取り戻しはじめている。



川面に浮かぶように茂る緑が、新たに姿を現していたのだ。

それは、生きることの輝きを、私らに伝えているように思う。

再生することは、失った者への感謝や敬意や、努力に報いることだと、教えてくれている気がする。