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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

震災遺構の保存に思うこと:2014年12月の記録

2017-09-29 21:14:53 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

忌まわしいと思う遺族の気持ちも、痛いほどわかる。
でも、他の人の助けになるかもしれない。

その道を見ることで、自分たちの痛みが和らぐこともある。



原爆ドームは、今なお後遺症に苦しむ人もいる中、未来のために残された。
二度と繰り返さぬために、切なる思いを世界中に知らしめるために。



遺構は、未経験者に気づきを与えると同時に、傷ついた人々の心を汲み取ることにもつながる。
他所の人とかけ離れてしまわずに、共に思いあう場を残せないだろうか。


宮城県の有識者会議が、昨日(2014/12/8)最終会合を開いたという報道があった。
その見解には共感している。

ただし、南三陸町では、遺族の間でも防災庁舎の保存と解体とで意見が分かれている中、町は解体を表明している。



↓南三陸町の旧防災庁舎(手前右、鉄骨の建物):2013年当時。

2014年12月も同様の状態で残っている。


 


犠牲者という一括りの中にも、本当は一人一人の苦楽と明日への思いがあった。

それを思うと、どうにも涙が出てしかたがない。


だが、それだからこそ、あの日を風化させぬよう、目を背けることもできない。

 

 


↓保存を決めた女川交番(横倒し状態):2013年当時。
現在、周辺の解体や整備が進む中で残っている。


↓県南では、山元町の中浜小学校が保存の方向にある:2012年当時。
 2014年現在、道路側の体育館は解体され、左側の校舎のみ残っている。


新たしき 橋梁仰ぐ 志津川道:2013年5月の記録

2017-09-29 21:09:34 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

南三陸町に入り、志津川のモアイが迎える橋を渡って道なりに行くと、「三陸沿岸道路」の建築が進められていた。


普段は、産業や観光など暮らしの中で使う道。

非常時には、避難や救助などに必要な道。



三陸を繋ぐ道が、復興の力になるように。

新たな橋梁を仰いで思う。

(↓志津川湾周辺:2013年5月)


田束の つつじ色越し 青も青:南三陸町(2013年5月22日の記録)

2017-09-29 12:17:29 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

丘陵に、「田束山(たつがねさん)こちら」と掲げられた道案内が、歌津の目印。

丘陵は、伊里前川の脇にあり、向かって左が田束山方面、右が伊里前の町。


表示どおりに田束山へと行くが、少々戸惑いつつも、枝道に入らず道なりに行く。

震災の傷跡を過ぎ、棚田や緑が光る、里山の美しい風景に取り囲まれていた。


やがて、緑いっぱいの中に線を引いたように整備された道が見え、上り坂になっていく。

しばらく行くと、新しい施設が目に付いた。

出来たばかりの「払川(はらいかわ)ダム」だ。


素晴らしい。



でも高くて怖い。

足に力が入らず、前に出難いのを何とか進みながら、田束湖を眺めた。


直ぐ近くに右へと曲がる道があり、田束山への登り口となっている。


いよいよ田束山の山頂に近づく。

今年(2013年)は春に寒さがぶり返したので、ツツジの咲くのが遅いようだ。

(5/22は、まだ咲き始めで蕾多し。この年は6月上旬が見頃か。)


躑躅に囲まれた細道を行くと、先人が心を込めて納めた経塚があった。



そして山頂に着く。



山頂手前の「展望案内図」の近くへ戻る。

そこからの見晴らしといったら、何と見事なことか。


空と海と岬が一望できるではないか。

ツツジの紅色の向こうは、若葉茂る岬と海と空の青、青、青。


田束山から、里を越えて川を通ってあの海へ、自然の恵みは流れていく。

自然の巡りを大切にし、共に暮らすことを、ここは教えてくれる。


シロウオの 力賜る 伊里前:南三陸町歌津(2013年5月22日の記録)

2017-09-29 12:04:21 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

小満の翌日だった。

若葉はきらめき、森では木々が、衣みたいに藤の花を羽織っている。

志津川湾を正面に見て左に曲がり、うねる坂道を進んで歌津へと向かう。


伊里前川には、ぎざぎざに折れ曲がる形に、石が積まれていた。

「ざわ」と呼ばれる、漁の仕掛けだという。


この仕掛けで、シロウオを獲っている。


歌津のシロウオは、ハゼの仲間で、産卵のために遡上するもの。

海でも獲れるが、伊里前川に遡上したのを「ざわ」で捕まえるのが、いわば名物。


「ざわ」では、キアシシギも並んで待っていた。


いただきます。

そして命は廻る。


川で獲るシロウオは、少し飴色ががり、ぬめりもある。

朝に獲ったシロウオが、福幸商店のマルアラさんで売られていた。

何と、昼過ぎでもまだ生きているではないか。


買って仙台まで帰り、台所で思わず叫びながら飛び上がった。


夕餉にする段になっても、まだ数匹生きていたからびっくりだ。

思えば、海へ出て川へ戻るのだから、小さくもなかなか強い。


歌津で教わった通り、塩を振ってざっと洗ってぬめりを取り、韮も入れて卵とじにした。


かき揚げや、熱いご飯に乗せたシロウオ丼もこしらえた。

淡白だが、だしが出て美味しい。


伊里前川でのシロウオ漁は、4月5月6月と、春から初夏にかけて行われる。

自然の廻りは、恩恵でもある。

巧く付き合えば、小さくも、生きる強さを見せるシロウオも来て、元気をくれる。


          シロウオの 力賜る 伊里前 


女川と新たな町の片鱗:(記録日2013年2月)

2017-09-29 11:57:35 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

今、女川湾の周辺は、被災した建物の解体が進んで更地が増え、山となっていた町の破片も消えている。

そして、新たな町を思わせる国道計画の高さ表示や、盛土などが所々にあった。

(↓解体済みの場所に盛土・旧七十七銀行・マリンパル跡地辺り)

(↓左端に国道計画高さ表示)

(↓女川湾周辺)

 

かつては、湾に沿ってたくさんの建物が立ち並んでいた。

女川町観光協会が作った小冊子には、かつての町の写真も載っていて、どれほど多くを失ったかが分る。


震災当時のことを見聞きし、現地を巡って歩くと、いろいろな事を再認識する。


どこへ逃げるべきか、迷っているうちに津波に飲まれてしまう。

避難場所の選定も、避難路の整備も、日頃から良く考えて用意しておかねばならない。


津波は、その時の条件や、地形によっても微妙に違う形で現れる。

一律の構造物で防げるものではなく、地域に応じた対策が必要になるのだ。


また、構造物だけではなく、人々の適切な避難意識や行動と合わさって、大切な命が守られることを忘れてはいけない。


少しずつ動きを見せる女川。


女川湾には漁船があり、製氷施設も出来た。


(↓女川湾と漁船)


(↓製氷施設)


でも、あの日から一変した暮らしはいつまで続くだろう。

困惑することも多いだろうに、そこには、出来ることから懸命に一つずつやっていく人々がいる。


現地の人々は、今日も仮の暮らしで辛抱している。

新たな町を作るべく、再び生業も住まいも取り戻すよう願って。


やがて花が咲くように、空き地に公園や店や工場が戻るだろう。

高台に家が作られ、人々が行き交うだろう。


だって、私らは生きているのだから。

きっとまた、町は作られ、ふるさとが生まれるはずだ。