ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
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大川小学校津波裁判について思う

2018-05-08 19:12:58 | 災害について考える

大川小学校津波訴訟は、現状の不備と災害対策のこれからを投げかける。


まず、失敗しない人間はいない、人は切迫時に失敗しやすいことを理解しておかねばならない。

だが、取り返しのつかない失敗は避けねばならない。

だからこそ、検証し、学習し、備えるのだ。


切迫した状況では、人は必ず、一瞬でもうろたえたり、緊張してまごついたりする。

それでも次に行動できるかは、平時に学び、備えているかどうかで決まる。


現状では、地震や火災の訓練は多いが、津波の訓練は地域が限られ、経験がない人も多いはず。

だが、津波がどんなもので、どんな行動が命を救うか、すべての人々が学習すべきである。


また、どの学校も、地域と共に避難場所の整備を行う必要があるだろう。


失われた多くの命、大切な人々の思いを無にせぬよう、我々は努めねばならない。

だが、法制度の解釈がどうあれ、学校が家庭や地域のすべてを肩代わりするのは無理である。


学校と地域が共に取り組まねば、決して安全は確保できない。


災害時の学校における安全確保は、地域と共に取り組むことで効果が高まる。

 

大川小学校とは逆に、岩手の釜石東中学校と鵜住居(うのすまい)小学校では避難に成功している。

これは、日頃の指導が活かされた結果であった。


防災を教育課程で明確化すること、市町村行事との連動を推進することが必要だと思う。

 

 

大川小学校津波訴訟は、当初、争点が津波の予見性に絞られた。

これには違和感があったので、控訴となったのは仕方がないと思った。


その後、仙台高裁では組織的過失の有無が争点となった。

これは前進だと思ったが、市は控訴を決定した。

防災の見直しと対策改善に前進すべきで、争いの激化は望まない。


重要なのは、あの日何があって、なぜ命を守れなかったか、どうしたら守れたろうか。

互いに思いを拾い上げることなく進めば、たどり着けない・・・


大川小学校の報道や公言への思い

2018-05-08 15:59:20 | 災害について考える

(2016年11月14日公表記事再編集)

確かに、大川小での避難行動は失敗だった。児童の遺族の悔しさ哀しさは痛いほどわかる。

一方で、命を落とした教員たちにも家族がいる。


教員たちも、生きるか死ぬかの避難で、子供を守らねばという思いだったはず。

一人生き残った教員が、どれほどの生き地獄にいるだろうかと、頭をよぎる。


なぜ、校庭にとどまったまま動けなかったのか、それを思うと歯がゆく口惜しい。

 

報道が遺族の側に立った時、思いは複雑だった。

誰が教員の思いを汲み取るのだろう、そんな思いもあったからだ。



だって、本当に犠牲者を思うと胸が苦しいのだ。

こんな辛いことは、二度と起きてほしくない。


当事者のほとんどが亡くなっている以上、当時の行動を知るには推測するしかない。

証言をどう捉え、当事者の思いをどう推し量るかで、見えるものが違ってくる。


だからこそ、第三者は、すれ違いを修正するよう、心を砕く必要があるのではなかろうか。

もしも、「守ろうとして失敗」したのが、「守らなかった」に見てしまったら、それは正しくないと思うのだ。


正しく見ようと努力をしてこそ、犠牲者の思いに応えることになるのではないか。

 

避難の失敗は事実だ。

守れなかった要因は?どうしたら守れたろう?

大切なのはその部分。

 


これは推量だが、様々な公表資料を読んで心理学の面から考えた時、こう見える。

教諭は、助けたい思いと不安の狭間で、周囲にも自分にも「落ち着こう」と言い聞かせつつ、当惑して動けなかったと思われる。


次の行動を起こすことに、教諭たちは自信がなかったのだろう。

「多数派同調バイアス」と「正常性バイアス」に陥ったのではないか。


「大川小学校は指定避難所だから安全」「余震で裏山は危険」という考えに傾いたのだろう。

津波経験がなく、慎重さが足かせとなったか、「それでも裏山へ」と決断できなかった。


長く迷った挙句、迷い歩いて結局、対岸に行こうとしたかのように大橋前に出たのは、向こうに他校があり、協力者が多いと思ったからではないか。


しかし、決断が遅すぎた。


次にどうするか決断する勇気がもっとあれば、

平時にもっと避難の段階を決めていたならば、

この犠牲は避けられたのに・・・


本当に歯がゆく口惜しい。


様々な記事や報告書などから、生き残った教諭は、避難先で情動麻痺のような様子が見られ、聞き取り時には泣いて話がまとまらないという様子が見受けられた。

その情報からも、すでにPTSDと察せられる。

だが、誤解を解くには、ただ証人から外すのではなく、その状態を知ってもらうことも必要かもしれない。


児童の遺族は、我が子のいた学校であの日何が起きたのか、あの日の出来事を知りたいと願っていた。

しかし、当初、市教委の対応は適切とは言えなかった。

切なる思いが置き去りにされるのは、本当に辛いものである。


きちんと向き合うために、児童の遺族は行動したのだった。


第三者が、その思いに寄り添うのは、正しいこと。

だが、肩入れし過ぎると、見えているものを正しく捉えられないこともしばしばある。

すると、理解しあって前に進むのが望みなのに、かえって溝を深めてしまいかねない。


互いの傷に塩を塗りあうのではなく、互いの傷の痛みを共有することが必要なのに・・・


だから、第三者は、すれ違いを助長しないよう、立場の違う側の言動に偏見を持っていないか、時々考え直さなくてはいけないと思う。

 

 

もう一つ、災害時の報道で気になることがある。

被害状況にばかり目が行きがちなことだ。


もっと頻繁に、注意喚起や避難の成功例について知らせる方が、被害を最小限にする助けになると思う。

例えば、毎年発生する台風などでは、その都度、何をどう注意すべきか報じる方が良いだろう。


戊辰150年の片隅で

2018-05-06 19:54:25 | ゆるゆる歩き:旧跡

静かな木立に囲まれ、整った石畳の奥に円墳がある。

最後の将軍、徳川慶喜公の墓である。

 

(谷中霊園内 慶喜公墓/左が慶喜公・右は正室の美賀君:2018年4月11日撮影)

埋葬される時には、明治維新の功労者として評された。

だが、幕末には苦渋を味わった人だ。

 


慶応三年十月に大政奉還した後、十二月に天皇政治の宣言がなされた。


その夜、小御所会議で論争があった。

徳川慶喜を公儀にと推す山内と、反対する岩倉とで論戦となる。

この時の新政府構想は、旧幕府側の力をそぐことが目的と見える。


水戸出身の慶喜が、そもそも尊王思想の気風だとしても、排除したかったのだろう。

しかし、そうした偏った思惑に、旧幕臣が不満を募らせるのは当然と言える。

慶応4年1月、ついに鳥羽伏見にて衝突し、戊辰戦争が始まる。


この動きに乗じて、討幕派は、旧幕側を「朝敵」とみなす策をとって地位を得た。


朝敵を作り出して倒す、それが体制を一気に塗り替えるための、官軍の策だったのではないか。

やがて官軍は、会津追討を東北諸藩に迫った。


一方、筋を通さねば、納得いかぬうちは動かない、東北人はそういう気風が強い。

頭ごなしの官軍に、東北人が従うはずはなかったろう。


東北諸藩は、会津を救済すべく嘆願書を出すも、官軍は追討を強行した。

この時、奥羽鎮撫総督府側による密書が事件を引き起こす。


密書の出所は実のところ謎だが、下参謀の世良が書いたものと言われている。

この密書に「奥羽皆敵」の文言があり、世良は激高した仙台藩士に殺害される。

そして、東北諸藩は官軍への抗戦を強め、戦禍を被ることとなった。


上野で彰義隊が壊滅し、会津では苛烈な戦となる。


政権を固めたい官軍は、強硬に会津を責め、義を重んじた東北諸藩を追い詰めた。

会津では、娘子軍や白虎隊も応戦し、血を流したのである。


会津白虎隊の悲運は、隊で唯一生き残った飯沼貞吉によって語り継がれる。

生き残った己を責め、会津に戻らなかった貞吉は名を貞雄と改め、仙台を終焉の地とした。

(仙台市錦町 蘇生白虎隊士 飯沼貞雄終焉の地:2016年5月18日撮影)


今、その戊辰から150年。

 

権力抗争から早々に退いた慶喜公は、戊辰戦争をどんな風に思っていたろうか。

今はただ、風が木々の枝を揺らしながら通り過ぎるだけである。

 

 

参考:明治神宮外苑 聖徳記念絵画館/山口市文化政策課「山口市の歴史・錦の御旗制作所跡」

   会津若松市戊辰戦争150周年記念事業「戊辰戦争について」/白石市戊辰150年しろいし慕心プロジェクト/

   茨城県立歴史館「徳川慶喜Q&A」/三重県県史編さん班「戊辰戦争、津藩と桑名藩」/

   仙台市錦町/みやぎ会津会