江戸の頃、狐火が見えると有名になった飛鳥山。(北区王子)
大正の頃、ここに渋沢栄一が邸を構えた。
今は渋沢史料館となり、戦災で焼け残った大正期建築の晩香廬と青淵文庫も見られる。
(↓晩香廬(ばんこうろ):2018年9月撮影)
渋沢栄一は、新たな工農商の実業を築き、民間外交にも尽力した人物。
晩香廬(ばんこうろ)は、賓客をもてなす洋風茶室である。
渋沢は、ここでも様々な人々と交流した。
渋沢が、様々な事業で関わった人々との写真が残っている。
その中に、懐かしい顔があった。
「新平さんではないか。」
奥州市水沢の偉人、後藤新平である。
水沢は、伊達政宗の従弟である留守宗利が入って以来、留守家の所領地。
新平は、幕末に留守家に仕え、明治に平民となって胆沢県庁の給仕となった。
そうした少年期だったが、人材発掘に長けた安場に見いだされる。
新平は、後に医師から政界にまで身を投じて活躍した。
仕事では挫折もしたが、志は挫けずに終生、公共公益と自治の精神を貫いた人であった。
この志は、渋沢栄一と共鳴するものであった。
渋沢は、慶喜に仕えた幕臣だが、慶喜の弟と共に留学して帰国後に明治政府の一員となる。
その後、経済界に身を置き、渋沢が志したのは「道徳経済合一」であった。
私益に走らず、公益につながる誠実な商いこそ、永続する事業となって私益にもなる。
後藤新平との出会いは、関東大震災後の救済と復興事業がきっかけであった。
人々の命を守り豊かな世へと、広い街路や公園を配し、安全と美観を備えた商業都市を目指す。
後藤と渋沢は、官民の間柄で、協力して救済と復興事業にあたった。
渋沢は17歳年上で、後藤とは年は違えども、志に相通ずるものがあった。
二人の抱いた公益の志は、今こそ、我々が見直すべき世の在り方への道しるべではなかろうか。
さて、現在も渋沢旧邸内に残る、晩香廬と青淵文庫は、美しい建築物である。
(↓青淵(せいえん)文庫・外観:2018年9月撮影)
渋沢の祝い事の際、渋沢に寄贈されたもので、晩香廬は賓客のもてなし、青淵文庫は書庫として使われていたという。
何気なく訪ねたのだが、心に残る場所である。
渋沢の生きた時代を、現在の同地に立って、わずかに交錯するひと時であった。
(↓青淵文庫内部:2018年9月撮影)
参考:北区王子 渋沢史料館/奥州市水沢 後藤新平記念館/内閣府防災担当「帝都復興の展開」