志津川湾の南側には、被災した戸倉小学校の校舎が残っていた。
震災直後は、校舎の脇に骨組みだけになった体育館があったそうだが、既に解体されている。
校舎の南側には、震災による廃棄物が積まれていた。
校舎の窓は枠だけになり、中は空っぽだ。
だが、校舎だけが白く輝きながらしっかりとあり、まるで背筋を伸ばして立っているみたいだった。
震災当時、学校から指定地に避難した人は助かった。(但し全児童・職員のうち2名が犠牲)
今、戸倉小学校は他校に間借りしている。
子どもらは、様々な支援への感謝と、元気に学習していることを周囲に伝えていた。
ぽつんと残った校舎が、そういう出来事を伝える仲立ちのように思える。
小学校を左手に見て通り過ぎると、やがて右手にモアイ像が見えてくる。
横っ腹に穴が開いているものの、これもしっかり立って、海と通りを見守っている。
まるで、弁慶の仁王立ちのように力強い。
他所の人は、なぜに志津川でモアイなのかと不思議がるだろう。
志津川は、昭和35年のチリ津波でも被災している。
その30周年に、チリ共和国の大使が来訪。チリで作った複製のモアイ像も設置し、友好を深めた。
それで、志津川のあちこちにモアイの飾りがあるのだ。
志津川高校も、課題研究で、モアイを活用して地域活性化しようと尽力し、情報を発信している。熱心な若者の働きが、頼もしく清々しい。
モアイもまた、この町の未来を見守っている。
海を左手に見て更に進むと、志津川湾に沿って点在する漁港が見える。(津ノ宮漁港と椿島)
緑の間に、滑らかに磨いたターコイズのような青が幾度も現れ、時に船が浮かぶ様も見えた時には、一句吟じようかと思うほどだ。
惜しむらくは、称賛すべき景色に相応の句は閃くことなく、五七五を指折りながら考えるうちに日が暮れるだろうから止めておいた。
(滝浜漁港)
戸倉から先の漁港は、波伝谷から津ノ宮、滝浜、藤浜、長清水、寺浜とあり、志津川はそこまでだ。
(長清水漁港)
そこを過ぎると、石巻市北上町に入る。
すると志津川湾から、今度は追波湾(おっぱわん)沿いになる。