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護国寺(1681) Gokoku-ji

   護国寺は5代将軍徳川綱吉(1646-1709)が母桂昌院の願いにより1681年に建立したもの。護国寺はその後、徳川将軍の祈願寺となった。江戸中期の仁王門をくぐると右手に富士塚。この仁王門のことだと思うが、 永井荷風は『日和下駄』(大正4年1915年)において、以下のように誉めている。
 「今日東京市中の寺院にして輪奐(りんかん)の美人目を眩惑せしめるものは僅に浅草の観音堂音羽護国寺の山門その他二、三に過ぎない。歴史また美術の上よりして東京市中の寺院がさしたる興味を牽かないのは当然の事である。」
 護国寺の山門が、輪奐の美(高大壮麗であること)だという永井の評価は、少し合点がゆかない。
 階段を見上げるとすでに、重要文化財でもある本堂(観音堂 元禄10年1697年建立)が見える。階段を上がり不老門(中門)を抜けると右手に大師堂、左手に多宝塔(昭和13年1938年に石山寺の多宝塔を模して建築)。
 なお桃山期の月光殿。元禄期の薬師堂がある。本堂とともに重要文化財である月光殿は、滋賀県大津市の園城寺の客殿を1928年に移築したもので桃山時代の書院建築の代表例として知られる。
 護国寺内墓地には、安田善次郎、大隈重信、山形有朋、三条実美らの墓もある。
   また護国寺惣門は5万石の大名屋敷の格式によるもの。交通 地下鉄護国寺出口を出てすぐ。東京都文京区大塚。 GOKOKUJI (English) 
 ところで歌人窪田空穂(1877-1967)は、護国寺についていくつか短歌を詠んでいる。目白台に住み、早稲田大学で長く教壇に立った空穂にとって、護国寺は通勤の途中に通る場所だったのだろう。
 巷(ちまた)にと出て行く自分を、妻は子を連れて送って来、暫くを護国寺の側の草原に遊んだ。
 この道を行きつつ見えるや谷超えて蒼くけぶる護国寺の屋根
 護国寺の山門の朱(あか)の丸柱 強きものこそ美しくあれ
 護国寺の松の木下ゆ秋日照る 音羽通りの真直ぐにみゆる
 護国寺大仏と筑波山中禅寺廃寺の顛末 明治に入ってからの廃仏毀釈の混乱の中で、筑波山中禅寺は廃寺され、筑波神社に改変された。この中禅寺の一部のものが、護国寺に伝えられた。護国寺大仏、そして銅造金剛力士像、銅造多宝塔などがそれである。護国寺大仏は、したがって明治に入ってから、筑波山中禅寺から引き取られたもので、江戸時代からここに鎮座していたものではない。また調べた限りでは、鋳造時期については不明確。なお、筑波山のものが護国寺に移されたのは、もともと筑波山の江戸別院にあたる護持院が、護国寺内におかれていた縁による。なお明治以降に護持院そのものは廃止されている。また大仏などの移動は、霞ケ浦からの水運によったものだとのこと。以下を見よ。消えた筑波山の「お宝」を巡って(かるだもん)
 護国寺の残念である点。残念に思えるのは本堂までのアプローチ。仁王門から階段まで広い空間が舗装され緑がないこと(かつて観光バスが押し寄せた時代はこれでよかったのかも)。さらにそのあと階段を上がったあと、本堂までも砂利が敷かれて緑が少ないことだ。大量の車の駐車や、車を使った参拝を想定しているようだが、田舎の寺院ならともかく、交通機関が発達した東京にあって車で参詣に来るような人を相手にするのは無駄で愚かなことだ。こうした駐車スペースをすべて廃止して緑化し、周辺に乏しい参詣人を接待する施設を整備すれば護国寺は素晴らしい空間になるだろう。





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