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上野寛永寺(1625) Ueno-Kan-eiji

2020-08-13 13:31:56 | Memorable Places
   徳川家康(天文11年1542-元和2年1616)の信頼が厚かった天海(生年不明-寛永20年1643)が徳川家光(慶長9年1604-慶安4年1651)から寺領を受けて寛永2年1625年に開創した天台宗の寺。天台宗関東総本山。江戸城の北東の鬼門にあって京都の比叡山延暦寺が平安京に対してそうであったように、江戸城への災いを封ずる意味があったと考えられる。江戸時代には徳川将軍の菩提寺として増上寺と並ぶ権勢を誇ったが、1868年3月寛永寺に拠った彰義隊が東征軍の攻撃を受けたとき堂塔の多くを焼失。さらに第二次大戦でも空襲の被害を受けた。明治時代に入って国立博物館西北端に寺域を移されたとき川越喜多院の本地堂を移築して根本中堂としている。第二次大戦の戦災でも寛永寺は多くを失ったが、博物館裏に厳有院(家綱)霊廟勅額門や常憲院(綱吉)霊廟勅額門が残る。上野公園から袴越から入ると、清水観音堂(寛永16年1639)。近くに鐘楼。上野大仏はお顔だけが残されている(露座の大仏があったが、大正12年1923年の関東大震災のときに頭部が落ち、復興がかなわないまま胴体は第二次大戦時に供出。顔面のレリーフだけが大仏山に残されている。)。上野駅公園口右手より国立博物館を過ぎたところまで歩くと旧本坊表門(江戸初期)。五重塔については上野東照宮の項目で述べるが、動物園のなかに分かれてある。
 交通 JR上野駅から徒歩10分。
   小林一茶(宝暦13年1763年-文政11年1828年)の俳句データーベースにより一茶の俳句で、上野を詠んだものを選択して拾った。上野の山が江戸時代に庶民の行楽地になっていることを示しているようだ。
 捨人や上野歩行(あるい)てとし忘れ
 独り身や上野歩行てとし忘れ     文化11年1814年
 夕凉や草臥(くたびれ)に出る上野山 文化12年1815年
 鶯(うぐいす)も人ずれて鳴く上野哉 文政4年1821年
 なお正岡子規(1867-1902)は上野の風景について繰り返し詠んでいる。
清水堂
涼しさや梅も櫻も法の風     明治27年1894年夏
弁天堂・不忍池
蓮枯て夕栄うつる湖水かな 明治26年1893年冬
蓮枯て辨天堂の破風赤し  明治26年1893年冬
畫中の堂静かなり蓮の花  明治27年1894年夏
枯柳三味線の音更けにけり 明治28年1895年冬 
ふゆ枯や鐘にうつる雲の影 明治28年1895年冬
辨天をとりまく柳櫻かな    明治29年1896年春
鐘楼
花の山鐘楼ばかりぞ残りける     明治29年1896年春
寄席はねて上野の鐘の夜長哉 明治29年1896年春
 石川啄木(明治19年1886年-明治45年1912年)。明治41年1908年、北海道釧路での生活を切り上げた啄木は、函館を経て、東京の金田一京介(明治15年1882年-昭和46年1971年)を頼って上京する。金田一は4月に海城の国語教師になったばかりだが、啄木を支援する。やがて10月。教師資格の問題から海城を辞した金田一は三省堂に就職している。こうした折、釧路からはるばる小奴が上京してきた(12月)。啄木は釧路に奥さんを残している身でなお就職も決まらずカネもない。「散歩しようと言って二人は出た。三丁目から上野まで、不忍池の畔(あぜ)を手を取り合って歩いた。ステーション前から電車、浅草に行って蕎麦屋に上がった。二本の銚子に予はスッカリ、釧路を去って以来初めての位、酔った。」(『啄木日記』より)
 夏目漱石(1867-大正5年1916年)の『こころ』(大正3年1914年)において、上野は以下のように桜の季節に、若い男女が歩く場所として、描かれている(「こころ」あらすじ)。
「ただ一つ私の記憶に残っていることがある。或る時花時分に私は先生と一緒に上野に行った。そうしてそこで美しい一対の男女を見た。彼らは睦まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて目を峙(そば)だてている人が沢山あった。」
なお森鴎外(文久2年1862年-大正11年1922年)の『雁』(執筆明治44年1911年から大正2年1913年)でも、上野の山を散歩コースとして扱われている。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘(からたち)寺の角を曲がって帰る。」(明治44年1911年執筆)
KANEIJI TEMPLE (English)Tokyo Photo Gallery


中山法華経寺(1260)Nakayama-Hokekyo-ji

2020-08-09 20:53:51 | Memorable Places


 法華経寺は日蓮(1222-1282)に帰依した富木常忍(日常)が下総国若宮に法華堂を建てたことに始まる(1253年)。ところで日蓮は1260年に浄土門徒宗の襲撃を受けて富木の屋敷に落ち延びる。このとき地元の豪族太田乗明の助力もあり、法華経寺の基礎が固まった。参道を進んで最初に左手に現れるのは祖師堂(1678 重要文化財)。比翼入母屋造りという特殊な構造の屋根。右手正面には前田利光(1559-1628)寄進の朱塗りの五重塔(1622 重要文化財)。高さ98尺(30M)。そして創建時の1260年に建立された法華堂(1260 重要文化財)は祖師堂後ろの一段高いところに残されている。これは関東圏では最古に属する室町時代の木造建築物。和様を加えた禅宗様式がめずらしい。法華経寺には、日蓮が時の権力者である北条時頼(1227-63 5代執権1246-56)に提出した「立正安国論」(1260 国宝)も保管されている。交通 京成中山駅から徒歩6分。千葉県市川市中山。
法華経寺HP

なお五重塔のそばには享保4年1719年鋳造のいわゆる「中山大仏」。2018年12月に保存修理が終わった。座高3.46M総高4.53Mの大きさ。なお別の資料では像高3.56m 膝張2.795mとある。
 正岡子規(1867-1902)の俳句に中山法華経寺を詠んだとされるものがある。
中山寺「気違ひの並びし秋の夕かな」 明治29年1895年秋
「山門をぎいと鎖すや秋の暮」
「看経や証はやめたる秋の暮」
中山の蕎麦屋にて「新酒酌むは中山寺の僧どもか」 明治29年1895年秋
中山寺にて「釣鐘の寄進につくや葉鶏頭」 明治29年1895年秋

なお子規の俳句で中山の文字は以下の三句にもある。これらは千葉の中山を示唆するものだろうか。総武本線本所佐倉間開通は明治27年1893年12月。それゆえ第二句から1894年春 中山を訪ねた可能性は読める。
命なり佐夜の中山ほととぎす 明治26年1892年
中山をひとりこえたる二月哉 明治28年1894年春
命なり小夜の中山秋の蝶   明治28年1894年秋
 しかし常識的にはこの三句のうち一番目と三番目は、西行法師が新古今和歌集で静岡県掛川の中山峠を念頭に「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」と詠んでいることを念頭に詠んだもの。「小夜の中山」は、峠の意味からさらに越えがたい難所を意味する歌枕。紀友則の「あづまぢのさやの中山なかなかに なにしか人は思ひそけむ」はまさにそれであり、子規の「命なり佐夜の中山ほととぎす」「命なり小夜の中山秋の蝶」はその意味にとると心に落ちる。他方、芭蕉が「忘れずば小夜の中山にて涼め」と詠むのは、西行の句に近くまさに中山峠の意味であろう。

高浜虚子(1874-1959)に写生文集「中山寺」明治31年1897年がある


Tourist Spots in Tokyo
Hot Springs in Tokyo


護国寺(1681) Gokoku-ji

2020-08-06 22:23:09 | Memorable Places
   護国寺は5代将軍徳川綱吉(1646-1709)が母桂昌院の願いにより1681年に建立したもの。護国寺はその後、徳川将軍の祈願寺となった。江戸中期の仁王門をくぐると右手に富士塚。この仁王門のことだと思うが、 永井荷風は『日和下駄』(大正4年1915年)において、以下のように誉めている。
 「今日東京市中の寺院にして輪奐(りんかん)の美人目を眩惑せしめるものは僅に浅草の観音堂音羽護国寺の山門その他二、三に過ぎない。歴史また美術の上よりして東京市中の寺院がさしたる興味を牽かないのは当然の事である。」
 護国寺の山門が、輪奐の美(高大壮麗であること)だという永井の評価は、少し合点がゆかない。
 階段を見上げるとすでに、重要文化財でもある本堂(観音堂 元禄10年1697年建立)が見える。階段を上がり不老門(中門)を抜けると右手に大師堂、左手に多宝塔(昭和13年1938年に石山寺の多宝塔を模して建築)。
 なお桃山期の月光殿。元禄期の薬師堂がある。本堂とともに重要文化財である月光殿は、滋賀県大津市の園城寺の客殿を1928年に移築したもので桃山時代の書院建築の代表例として知られる。
 護国寺内墓地には、安田善次郎、大隈重信、山形有朋、三条実美らの墓もある。
   また護国寺惣門は5万石の大名屋敷の格式によるもの。交通 地下鉄護国寺出口を出てすぐ。東京都文京区大塚。 GOKOKUJI (English) 
 ところで歌人窪田空穂(1877-1967)は、護国寺についていくつか短歌を詠んでいる。目白台に住み、早稲田大学で長く教壇に立った空穂にとって、護国寺は通勤の途中に通る場所だったのだろう。
 巷(ちまた)にと出て行く自分を、妻は子を連れて送って来、暫くを護国寺の側の草原に遊んだ。
 この道を行きつつ見えるや谷超えて蒼くけぶる護国寺の屋根
 護国寺の山門の朱(あか)の丸柱 強きものこそ美しくあれ
 護国寺の松の木下ゆ秋日照る 音羽通りの真直ぐにみゆる
 護国寺大仏と筑波山中禅寺廃寺の顛末 明治に入ってからの廃仏毀釈の混乱の中で、筑波山中禅寺は廃寺され、筑波神社に改変された。この中禅寺の一部のものが、護国寺に伝えられた。護国寺大仏、そして銅造金剛力士像、銅造多宝塔などがそれである。護国寺大仏は、したがって明治に入ってから、筑波山中禅寺から引き取られたもので、江戸時代からここに鎮座していたものではない。また調べた限りでは、鋳造時期については不明確。なお、筑波山のものが護国寺に移されたのは、もともと筑波山の江戸別院にあたる護持院が、護国寺内におかれていた縁による。なお明治以降に護持院そのものは廃止されている。また大仏などの移動は、霞ケ浦からの水運によったものだとのこと。以下を見よ。消えた筑波山の「お宝」を巡って(かるだもん)
 護国寺の残念である点。残念に思えるのは本堂までのアプローチ。仁王門から階段まで広い空間が舗装され緑がないこと(かつて観光バスが押し寄せた時代はこれでよかったのかも)。さらにそのあと階段を上がったあと、本堂までも砂利が敷かれて緑が少ないことだ。大量の車の駐車や、車を使った参拝を想定しているようだが、田舎の寺院ならともかく、交通機関が発達した東京にあって車で参詣に来るような人を相手にするのは無駄で愚かなことだ。こうした駐車スペースをすべて廃止して緑化し、周辺に乏しい参詣人を接待する施設を整備すれば護国寺は素晴らしい空間になるだろう。






増上寺 (1598) Zojoji

2020-08-03 17:11:54 | Memorable Places

   聖聡上人により明徳4年1393年に現在の麹町から平河町にかけて開かれた浄土宗鎮西派の大本山。浄土宗の中では、西の知恩院に対して東の大本山の位置。慶長3年1598年に江戸城拡張のため現在地に移された。徳川家康の崇拝帰依を受け、家康の葬儀の祭礼はここで行われた。三河以来、徳川氏が浄土宗であることによる。以後、寛永寺とともに徳川将軍の菩提寺の役割を演じる。幕府から受けた寺領は1万540石と寺領として破格の大きさであった。
 江戸時代にも火災にあっているが、明治に入ってすぐの明治6年1873年に増上寺に、僧侶に神道を教える施設、大教院が置かれると、教院を仏寺におくことは神仏混淆で不浄とみた高知県士族二人が、同年12月31日大殿に放火し、大殿が全焼している。この二人は、別の新潟県士族とともに翌年1月8日には浅草観音堂に放火しようとするも未遂に終わっている。高知県士族の教養の無さには呆れるしかない。
 増上寺をこよなく愛した文人に明治の文豪、尾崎紅葉(本名 徳太郎 慶応年1868-明治36年1903年)がいる。増上寺門前の大門の生まれである尾崎は、当時、増上寺内にあった紅葉山からペンネーム紅葉をとったほか、短編「男心は増上寺」も書いている。
 大殿は大正11年1922年伊藤忠太の設計、清水建設施工で再建されるが昭和20年1945年の空襲で再び焼失。時を経て昭和49年1974年大岡實の設計、清水建設・大林組JV施工で再建されたのが現在の大殿である(2009年にリニューアルされている)。三解脱門を抜けて階段をあがり、大殿で椅子に座って本尊を拝んでいると、この形は海外の人にも伝わると実感した(椅子席で時間を気にせず本尊と向き合えるのは大変ありがたい)。
 堂塔の多くを明治42年1909年の火災と昭和20年1945年の戦災で焼失したが、三解脱門(元和8年1622年再建 間口10間余り約19m 奥行5間約9m 高さ7丈約21m 重要文化財)のほか大梵鐘(延宝元年1673年鋳造 高さ1丈約3m 重さ4000貫約15t)を残すほか、実は多くの文化財をなお保有している。その意味で、平成27年2015年4月に宝物展示室がオープンしたことは文化財公開の意味で大変喜ばしい。
 江戸時代には鐘の音で知られ、「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」と称された。
 夏目漱石(慶應3年1867年-大正5年1916年)の明治29年1896年の俳句に以下がある。
   凩(こがらし)に早鐘つくや増上寺
 増上寺を語るとき、将軍の霊廟の問題を無視できない。今残るものからもその壮麗さが伺える。三解脱門のすぐ左手に二代将軍秀忠の霊廟である台徳院霊廟の惣門(1632)が見える(重要文化財)。このほか三解脱門右手を東京プリンス入り口を超えて進むと七代将軍家継の霊廟、有章院霊廟ニ天門(1717)が残る。これら残るものの壮麗さを見るにつけ、霊廟建築のほとんどを二次大戦の空襲のよる火災で焼失したことは残念である(増上寺の左手に秀忠ー台徳院の霊廟があったが、現在は惣門が残るのみ。また増上寺右側には歴代将軍の霊廟があったが、そこが東京プリンスホテルとなり、わずかに七代将軍家継の霊廟である有章院霊廟ニ天門が残されている)。
 永井荷風(明治12年1879年-昭和34年1959年)は随筆「霊廟」(明治43年1910年6月)で荷風自身、いわば大人になってからふとしたきっかけで、芝の霊廟建築が、美術的に傑作であることの気づいたことを吐露している。そのほとんどが空襲による火災で失われたことは痛ましい。
 「自分は三門前と呼ぶ車掌の声と共に電車を降りた。そして」「幾年間全く忘れ果ててしまった霊廟の屋根と門とに心付いたのである。」「翌日自分は昨夜降りた三門前で再び電車を乗りすて、先ず順次に一番端れなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮に隣する二代将軍の霊廟に参拝したのである。」「この建築全体の法式はつまり人間の有する敬虔崇拝の感情を出来得べき限りの最高度まで興奮させようと企てたものでしかも立派にその目的に成功した大なる美術的傑作品である。」
 さらに「巴里の有名なる建築物に対した時の心持に思い比べて、芝の霊廟はそれに優るとも決して劣らぬ感激を与えてくれた」としている。




大宮経由 花咲の湯

2014-06-20 18:45:30 | Memorable Places

大宮駅より埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)原市(はらいち)駅下車 徒歩5分
(JR池袋-JR大宮388円 大宮-原市278円 池袋-原市 片道666円)   
原市までは都心からぎりぎり1時間圏。東京の温泉に採用で問題ないところ。
花咲の湯
紹介 旅恋どっとこむ より
温泉としてはもちろん源泉かけ流し(加水・加温なし)がある。しかも
この浴槽がかなり大きいこともうれしい。人気の炭酸泉 もある。
周囲の環境もあり施設は屋外に多くの風呂を配置。窓も高くとり大変解放感がある。
2009年2月の開業で施設としては新しいためか
全体にここまでの温浴施設の経験が学習されており好感度の高い施設に仕上っている。
たとえば硬貨を不要とした靴箱などのシステム。あるいは利用に時間制限がないこと。
特筆するべきは、ぬるめの温度設定で長時間の滞在が可能。
解放感のある広めの洋風レストランなど。
温浴施設が課題として残していたところを次々クリアしている。
利用料金は平日 タオル持参で850円
この施設の経営は、ホシマタグループという地元企業の株式会社レストラン開発。
上尾市の地元企業の試みであるようだ。温浴施設はこのような地元企業による
地域密着型経営に適しているように思える。

東京の温泉の開業年月 掘削深度 源泉温度の比較
JR中央線八王子駅前八王子温泉やすらぎの湯(開業2001年7月 掘削1500M 源泉温度39°)
JR宇都宮線東鷲宮百観音温泉美人の湯(正式開業2002年2月 掘削1500M 源泉温度57°)
JR前橋駅前天然温泉ゆーゆ(開業2002年5月 掘削1500M 源泉温度56°)
京王井の頭線高井戸駅前美しの湯(開業2003年5月 掘削1600M 源泉温度37°)
JR南武線矢向(やこう)志楽(しらく)の湯(開業2005年4月 掘削1300M 源泉温度39°)
東武伊勢崎線羽生(はにゅう)駅前羽生温泉華のゆ(温泉開業2005年5月 掘削1500M 源泉温度44°)
JR山手線巣鴨東京染井温泉SAKURA(開業2005年7月 掘削1800M 源泉温度48°)
都営三田線志村坂上さやの湯処(ゆどころ)(開業2005年12月 掘削1500M 源泉温度41°)
西武新宿線花小金井おふろの王様 花小金井店(開業2006年11月 掘削1500M 源泉温度40°)
JR南武線南多摩季乃彩(ときのいろどり)(開業2007年11月 掘削1700M 源泉温度41°)
JR青梅線河辺(かべ)駅前河辺温泉梅の湯(開業2007年12月 掘削1300M 源泉温度28°)
ニューシャトル原市天然温泉 花咲の湯(開業2009年2月 掘削1500M 源泉温度39°) 

東京の温泉
温泉事業の成功率について
東京案内

2011-04-06 投稿
2014-06-20 更新


高井戸美しの湯 

2014-06-16 13:00:07 | Memorable Places
高井戸美しの湯
年中無休で営業時間も9:30-23:30と長い。井の頭線高井戸駅から近く料金も安い(平日タオル持参なら900円)。この料金でこの露天風呂の解放感は秀逸ではないか。かかり湯に源泉が用意してあるのがうれしい。駅から近い(徒歩2分)のと営業時間が比較的長いので平日に気が向いたときに立ち寄れる便利さもある。水質検査2002年7月10日実施。ナトリウム塩化物強塩温泉 高張性アルカリ性温泉 37.6℃ pH7.6 240L/min 動力揚湯。2003年5月28日開業。運営はナフスポーツという会社。ここがプール施設と合わせて運営している。この高井戸の施設だけを運営している地元の会社のようだ。
地下に軽食コーナーにさらにリラクゼーションコーナーを併設。なお回転寿司スタイルではあるが美登利寿司がスーパーオオゼキ入口にある。美登利寿司の高井戸店

近くでは 高井戸の清掃工場(ゴミ焼却場)の建て替え工事が進行中(工事期間 2012年9月から2017年9月)この工事は極めて大規模なもの。焼却場には温水施設(高井戸温水プール 1時間250円)が隣接されている(建て替え工事期間は別の熱源で温水プールを維持するようだ)。こうした施設の存在は、民営のナフスポーツの使節運営にも影響を与えているのではないだろうか(ナフスポーツの施設では平日のプール利用は会員制度利用者に限定。土日休日は温浴施設利用者もプール利用可としている)。 

2014-06-16更新
TOKYO HOTSPRINGS FlOWER CALENDAR TOURIST SPOTS

一里塚から「さやの湯処」

2013-11-01 08:12:36 | Memorable Places
前野原温泉さやの湯処 
 水質検査2004年11月22日実施。ナトリウム塩化物強塩温泉。高張性弱アルカリ性温泉。41℃。pH7.6 270L/min. 動力揚湯。2005年12月20日開業。都区内の施設としては珍しいが露天風呂は源泉かけながし。和庭園を望んで食事できる空間「柿天舎」がある。営業時間は10:00-25:00。ここの露天風呂の解放感はなかなかのものだ。以下は「さやの湯処」のコストパーフォーマンスの良さを書いている。平日タオル持参なら800円。
さやの湯処について
 経営母体は株式会社特殊金属エクセル。「さやの湯処」は特殊金属エクセルの関連会社。伝聞ではこの金属会社の本社と元社長宅があったところの再開発とのこと。なおエクセルという会社は中国、台湾にも製造拠点があり、業容を拡大中だ。

なお志村坂上で下車A2出口より一里塚を経て「さやの湯処」まで約10分の徒歩コース。コース途中には湧水をたたえた見次公園があり、興趣に富む。
志村一里塚
凸版印刷板橋工場
板橋区立見次(みつぎ)公園

東京案内 東京の温泉 東京花暦

染井温泉SAKURA と とげぬき地蔵

2013-11-01 08:08:49 | Memorable Places
東京染井温泉SAKURA
染井温泉は営業時間が10:00-23:00。料金は大人が1260円だ。施設規模はあまり大きくはなく中途半端にも思えるがこの点は評価が分かれよう。この温泉は温度、湧出量ともに都内では屈指の水準・規模である(ナトリウム塩化物強塩泉 高張性ー弱アルカリ性ー高温泉 48℃ 450L/min 動力揚湯)が、理由はよくわからないが(源泉の温度が高すぎるのだろうか)、「かけながし」の施設をつくるなど豊富な湯量を生かしていないのは残念。2005年6月末の開業。経営は隣接してプールを経営する東京スイミングセンター。駒込の駅から散歩といった距離だが、このプールに行くバスが巣鴨から往復しており それも利用できる。

とげぬき地蔵
とげぬき地蔵とは、地蔵尊を信仰する女性が重い病気で床に伏せっていたところに出現した木片状の地蔵尊であり、これを印肉にしめしてご尊影を川に浮かべたところその病気は快癒したとされる(1715)。また誤って針を飲み込んだ女性にご尊影を写した紙を与えたところ、腹中のものを吐き出した中に針がご尊影を貫いにたものが出てきた(1715)などと、高岩寺に残る霊験記(1728)は伝えている。高岩寺は曹洞宗の寺で1596年に江戸湯島に開かれた。1660年頃に下谷屏風坂に移り、1720年頃から、とげぬき地蔵尊を祀って有名になった。現在の巣鴨の地に移ったのは1890年からである。交通 巣鴨駅より徒歩5分。東京都豊島区巣鴨。

とげぬき地蔵尊
地蔵尊にきたらカレーうどん
古奈屋巣鴨本店

東京の温泉
東京の名所・史跡(このシリーズの目次)

川崎・武蔵小杉・登戸経由南武線矢向 志楽の湯

2013-11-01 07:58:45 | Memorable Places
JR南武線で矢向(やこう)で下車。線路を渡って左折して線路に沿って直進(武蔵小杉、登戸方面)。
突き当たりを右折。しばらく歩くと集合住宅(マンション)の切れ目で左側に
施設に入る大きな空間がまず目に入る。
縄文天然温泉 志楽(しらく)の湯
ぽかなびjp
施設内には健康ランドにあるようなジェットバスはない。そういったものを期待する人に
この施設は向いていない。主張がはっきりしている施設だといえる。
基本的には大きな露天風呂と蔵石風呂という2つの温泉。それに味噌樽風呂。
ゆとりのある空間に計算された植栽。この施設は
川崎のそばであることを忘れてしまうような自然が感じられ大変すばらしい。
施設内でもBGMなど余計な音や人の会話がどこからも聞こえないので大変落ち着く。
なお料金は平日、タオル持参で850円。

こういってはなんだが作りが全体に結構知的だ。風呂作りは黒川温泉(九州、熊本県北部)の後藤哲也さんとのこと。確かに
志楽の湯の露天風呂は、後藤さんの新明館の岩戸風呂と似ている。
肝心のお湯はかけ流しそのものではないようだが、かけ流しにかなり近いもの(循環式 加水なし 加温調整)で
濃厚で新鮮な源泉も使われているようで高得点だ。

ここには2001年1月まで半導体の工場があった。その後、2002年5月に温泉掘削(1300m)に成功。
2005年4月に開業している。

なおこの施設の経営は「志楽ダイナミックス」という会社。グループ・ダイナミックス研究所という自己啓発を行っている組織が根元のようだ。
おしなべて平均化しつつある温浴施設の中で、しっかりとした主張(特徴)のある施設を作り上げている点で
この経営は評価していいのではないか。

南武線には川崎、武蔵小杉、登戸などから乗車できる。

東京の温泉
温泉事業の成功率について
東京案内

original in April 8, 2011 re-posted in Nov.1, 2013


東鷲宮(ひがしわしのみや) 百観音温泉

2013-11-01 07:52:33 | Memorable Places

百観音温泉 宇都宮線東鷲宮(ひがしわしのみや)駅下車徒歩3分
百観音温泉 wiki
    かけ流しで加温もせずという大変良質な温泉。源泉温度が57度と高く、湧出量も毎分1000ℓと桁違いに豊富。
    利用料金はタオル持参で平日700円と安く良心的。1998年に1500mまで掘削 動力に頼らない自噴泉。
    1999年7月仮施設で営業開始 2002年2月現施設での営業開始 2005年に露天風呂を増築。
    JR東鷲宮(ひがしわしのみや)駅までは上野から宇都宮線直通で820円。あるいは池袋から大宮経由で740円(現在は湘南新宿
    ラインの直通がある)。
    住所は埼玉県久喜市西大輪ではあるが、東京都心から1時間以内直通。ということで「東京の温泉」に採用。
その東京の温泉の中でも泉質、湧出量など筆頭格。アクセスもほぼ駅前と見なせるもので大変良い。


東京の温泉
温泉事業の成功率について
東京案内

original in Feb.27, 2012. reposted in Nov.1, 2013


前橋駅前天然温泉ゆーゆ

2013-11-01 07:39:32 | Memorable Places

ここは東京日帰り温泉に加えていいものか。まず東京都心から片道1時間半はかかるし
当然交通費もそれなりに必要だ(上野前橋間は特急を上野高橋で使う前提で1時間20分弱。片道4090円。)。
 ただ確かに駅前温泉で駅からのアクセスは至便。前橋駅を降りて北口から、きもちのいい「けやき並木」を歩いて2分。
それに大浴場も露天ぶろも源泉かけ流しというのは捨てがたい。
 毎週通うのはともかく折々に訪ねる施設としてなら東京日帰り温泉に加えてもよい施設かと思う。
 料金はタオル持参で破格の600円。この料金で土日も営業というのは地元密着の営業方針の反映でもあろう。
 施設の開業は2002年5月。経営(親会社)はヤマニ熱工業という地元企業。この建物の設備を請け負った縁で2005年に経営を
引き継ぎ、2007年12月にサウナや岩盤浴の施設を増築したとのこと。温泉はこの地下1500M下から。55.5度 455L/M。
 前橋駅前天然温泉ゆーゆ
 ゆーゆのすぐそばには2009年4月に開業したばかりのコンフォートホテルがある。南口に東横イン前橋が見える。
 前橋駅北口は出て左側にあるイトーヨカドーが2010年8月に閉鎖されたばかり。高崎に比べて前橋へのアクセスは悪いが
その割には、ゆーゆは頑張っているのではないか。
東京の温泉 東京案内

original in March 2, 2011. reposted in Nov.1, 2013


深大寺迦如来倚像(白鴎期)

2013-10-24 16:16:30 | Memorable Places

帰化僧、満功上人により733年開創。東京都内では浅草寺(せんそうじ)についで創建の古い寺。創建当初は法相宗でのちに天台宗。平安時代に入り、武蔵野国国司蔵宗の乱に際して叡山の高僧恵亮がここに道場を開き降伏を折伏した功により深大寺を賜ってより天台宗。以後、密教道場の場となる。明治時代に入り天平時代(平城京、藤原京の時期を指す)より前の本尊と思われる白鳳仏が発見された。この仏像は現在は寺の中で公開。銅造釈迦如来倚像(重要文化財であったが2016年に国宝に指定替え。鋳造は733年より前で東日本で寺院所有の国宝仏として最古。)。残存する古い建築物には山門(1695年建立)のほかは江戸末期の常香楼(1833)。大師堂(1865)など。他には鎌倉前期の阿弥陀如来像、鎌倉末期の慈恵(元三)大師像。梵鐘には1376年にあたる刻印。それだけに明治に入ってからの白鳳仏の発見の意義は大きい(この仏像は1909年10月9日 大師堂の壇下から偶然発見されたが、江戸期前の古文書には伝来を示す記載がなく謎が多い。そもそも仏像の制作年代が寺の開創前にさかのぼることになる。しかし仏像の発見でこの地の開創が古いことは証明された)。深大寺の名称に鬱蒼とした林の奥の本山を思い、在地の調布にこの地が古い布の産地であることを見る。江戸期には新宿から高井戸に続く布田五宿と呼ばれる宿場町。交通 京王線調布・つつじが丘よりバスで10分。東京都調布市深大寺本町。

JINDAIJI (English)

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称名寺庭園(1319-1320)

2013-10-24 16:16:07 | Memorable Places
北条一族の金沢実時(北条実時1223-1276)が金沢氏の念仏道場を創建したのが1258年。その後1267年に下野の薬師寺から妙性房審海という学僧を招いて真言律宗の寺とした。そこに日本で最初の私設文庫が置かれたのは1275年と推定されている。1319-1320年に庭園がつくられ、1323年には伽藍の完成をみた。この庭園は浄土庭園とされるもので、京都の法勝寺(1077),岩手平泉の毛越寺(1150)など平安期に多い。ほぼ最後の作例である。間もなく北条氏の滅亡(1333)はあったが、後醍醐天皇、足利氏いずれからも所領は安堵された。戦国から江戸にかけては衰微が続き、1602年に徳川家康が金沢文庫本を江戸城に移したことは打撃だった。その後、1930年に神奈川県立図書館として復興された。1955年からは博物館施設となっている。多数の仏像の多くは非公開だが、惣門(1771年)、仁王門(1818年)、金堂(1681年)、釈迦堂(1862年)など江戸の建築が残る。梵鐘の銘は1301年のもの。ここは鎌倉の東の要衝。金沢北条氏はこの地で鎌倉を守っていたのであろう。交通 京急先金沢文庫駅下車。柴町行きバスで5分称名寺下車。神奈川県横浜市金沢区金沢。

参考 称名寺の写真横浜市の名所にリンク
神奈川県立金沢文庫

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祐天寺(1718)

2013-10-24 16:15:27 | Memorable Places
祐天上人(1637-1718)の遺言を受けてその弟子の祐海上人が1718年に目黒善久院に開創した寺。祐天上人は増上寺に学んだあと、本所牛島に隠棲したが名声が広がりやがて将軍家の帰依を受け遂には増上寺36世貫主を勤めた(1711-1714)。その間、奈良、鎌倉のニ大仏の復興修理にあたった功績は有名。駒沢通りに面した表門を入ると八脚門の仁王門(1735年)が見える。その表は法橋石見作とされる仁王像。背面には運慶作と伝わる持国天と増長天。仁王門をくぐると左手に阿弥陀堂(1724年)。これは三間四面堂。仁王門同様に銅版葺きで中には阿弥陀如来像。右手には銅版葺きの鐘楼堂(1729年)に梵鐘(1728年)。祐天上人のお墓、百万遍供養塔などもある。交通 東急東横線祐天寺下車徒歩5分 東京都中目黒中目黒。



中禅寺立木観音(平安期)

2013-10-24 16:15:03 | Memorable Places

勝道上人(745-817)が日光に輪王寺を開いたとされるのは766年。その後、上人は786年に二荒山(男体山)2486mの登頂に成功する。その上人が立木に千手観音を手刻したのは784年とされる。像はこの伝説に沿って十分古様に私には見えるが、専門家は平安後期の造形の疑いを指摘している。なお日本における千手観音信仰は8世紀半ばには認められるので、仮に8世紀後半に彫刻があっても不思議ではない。また平安後期としても平安期以前の5Mを超える巨大彫刻であり、日光が平安期に信仰の対象であったことを裏付ける。1902年9月28日-29日の山津波で中禅寺湖に流され湖底に沈んだものの、3日後、奇跡的に湖上に浮かび上った霊験新たな逸話もよく知られる。交通 東武日光駅より中善寺温泉までバス45分。さらに徒歩20分。栃木県日光市。

日光立木観音 

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