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教育の無償化・文学部不要論

2018-06-26 22:29:44 | Area Studies

憲法26条で義務教育は無償と書かれている。憲法改正の議論とも関連している。

批判としては、子供を産まない家庭では見返りがなく税金の払い損になるという言い方がある。これに対しては子供を産まない世帯は、子供を育てる費用を負担せずタダノリしているといういう批判がある。

幼児教育の無償化について、無償化が先行することで幼児教育利用世帯が広がり、受け皿である保育施設不足が深刻化するという批判もある。結論として消費税引き上げを条件として

2019年10月から 認可外保育施設 幼稚園の預かり教育 全世帯で3~5歳児の無償化

         住民税非課税世帯の0~2歳児保育料の原則無料化

幼児教育 保育の充実 少子化対策 男女共同参画などの関係を説く。

大学教育の無償化については、すでに私大のうち39%が定員割れ。大学教育無償化はこうした私大の延命措置になるという批判がある。 

他方で所得の低い階層ほど大学進学率が低い→格差の固定化になる。だから無償化をすすめるべきとの反論もある。 

結論としては2020年4月から低所得者を対象に大学の無償化へ

 1)住民税非課税世帯(年収270万未満)については国立大学については授業料と入学金を免除。国立大学の授業料+私全私大の平均授業料と国立大学授業料との差額の2分の1 入学金については全私大の平均額を支援する。

 2)年収270万から300万未満で1)の3分の2の額

 3)年収300万から380万で1)の3分の1の額をそれぞれ支援する

         財源の自助努力促す(寄付金、資産運用など) 無償にする代わりの卒業後 所得が一定の水準を超えた国にお金を返す

         定員割れの大学(過少規模大学は経営が厳しい⇒小規模大学の統廃合すすめるべき 例 入学定員で3000人以下の大学は統廃合) 大学の教育の質が低い(例 教員数に比して学生数が多い 論文数が少ない)大学への補助を減らす 

         交換留学生制度 地方の大学と単位交換制度を設けた大学、社会人の学び直しの環境(リカレント教育) オンライン講座を提供している大学を整備した大学を支援する 試算では3兆1000億円 財源として「教育国債」発行というアイデア→ 赤字国債だという批判

教育国債 自民党教育再生本部が提言 教育無償化に使途を限定(公共事業に使途を限定する建設国債と類似・・・財政法4条)・・・将来世代の負担になるとの批判あり

大学教育 無償化と文系大学不要論や実務教育強化論との関係を整理する必要がある

 池田信夫 企業が大学教育に期待していないことを例に挙げて実務教育への転換を説いている。 2015年6月(Newsweek 日本語版)

 伊皿子坂社会経済研究所 文学部不要論について 内田樹氏の議論を借りて 教育を商品と考えるがために文学部不要論が出てくる。教育は本来 共同体の知恵を伝承するもので無償であるべきとしている。2015年6月。

 安田教育研究所 安田理氏 2015/06/14  大学とはそもそも純粋学問をやるところ 人文学的素養は批判的思考力の基礎になる いろいろな変化に対応するベーシックな力を育てるべき。

 堀江貴文氏の文学部不要論 2016年4月 

 OECD諸国の高等教育無償化の状況 ヨーロッパ諸国では無償化している国が多数派であることを確認できる

20170726⇒20180626更新


孫冶方(孙冶方 スン・イエファン 1908-1983) 百度百科和維基 五不怕

2018-06-25 11:44:17 | Area Studies

中国経済学の父 孫冶方(スン・イエファン 1908-1983) 成城大学経済研究217号 July 2017 101-125
(誤植訂正 p.113 下から11行目 178-217, esp.154, 199  →  178-217,esp.182-190)
(誤植訂正 p.116 上から2行目 到社会主義的到社会主義 → 到社会主義的民主)

百度百科
孙冶方(スン・イエファン 1908-1983は元の名前を薛咢果(シュエ・エーグオ)。偽名(化名)として宋亮、孙宝山、叶非木,勉之など。無錫の玉祁镇(ユーチーチェン)の人。模範共産党員であり著名な経済学者である。長い生涯を通じたプロレタリア(無産階級)革命家。孙冶方経済科学賞は1985年に開始され、毎年選考されている。第一号が授けられてから、今まで中国経済学会の最高の栄誉とされている。(別訳)孙冶方(1908-1983) 元の名前は薛咢果。偽名(化名)として孙宝山,叶非木,勉之など。無錫玉祁镇の人。模範共産党員、著名な経済学者。生涯を通しての(老一辈)無産階級革命家。孙冶方経済科学賞は1985年に開始され、2年ごとに選定される。始められてから今日まで中国経済学会の最高賞(最高の栄誉)である。
戸籍紹介
孙冶方(1908-1983)元の名前は薛咢果。また、宋亮、一洲、宝山、勉之などと名乗った。江蘇省無錫市玉祁镇の人。経済学者。
個人の経歴(个人经历
 1921年 高等小学校入学
 1923年 無錫竢实(チースー)学堂で中国社会主義青年団に入る
 1924年 年末に中共党員となる 無錫の党支部第一書記に任命され、同時に中国国民党に入る
 1925年 学生運動と労働者運動に従事する。同年11月党組織に派遣されてソ連モスクワ中山大学で学ぶ
 1927年 夏卒業後、モスクワ東方労働者共産主義大学で政治経済学の講義と通訳(翻訳)を依頼される
 1928年 モスクワ中山大学に戻り続けて通訳(翻訳)を頼まれる
 1930年9月帰国。上海人力車夫ストライキ委員会主席、未雇用および再雇用(末几又改任)人力車夫総工会準備(筹备)委員会主席に任ぜられる。同年末沪东区労働者(工人)連合会(联合会)準備委員会主席を担当。上海で労働者運動と左翼文化運動に従事。中国農村経済研究会に積極的に参加組織。また「中国農村」雑誌を編集。孙冶方の筆名で、マルクス主義の観点のある中国農村経済論文を発表し、理論戦線においてトロッキー派および王明の左傾の誤りに対して闘争を進めた。 九一八事変後 在史沫特莱主编(Agnes Smedley編集の)「中国論談報」で論説(撰稿人)を担当した。
 1933年に陈翰笙らと中国農村経済研究会を発起設立した。
 1935年に新知書店と中国経済資料室を開き、『中国農村』を月刊で発行し、月刊編集を担当し、英文の『中国論談』連絡員を任じた。抗日戦争爆発後、 1937年9月中共江蘇省(江苏)委員会の文化工作委員会書記を務めた。その後、マルクス主義理論研究と経済部門の指導工作に長く従事した。
 1941年6月 苏北根拠地へ行った。華中局宣伝部にあって宣伝教育科科長となった。華中局党校で教学を担当し、併せて教育科科長を兼任した。1941年華中の党校工作期間において、理論と実際の関係を強めることを提唱、幹部のマルクス主義理論教育を強化した。
 その後 中共淮南津浦(ホアイナンチンプ)路西地委宣伝部部長。苏皖(スーワン) 地区貨物管理局総局副局長を担当。山東での工作時には華東財办秘書長を担当した。
 1949年に軍に従って上海に至り、上海市軍管会工業処処長となった。
 新中国建設後、華東軍政委員会工業部副部長、上海財政経済学院(現上海財経大学)院長、国家統計局副局長、中国科学院経済研究所長を歴任した。
 1977年のあと、中国社会科学院経済研究所顧問、名誉所長、中国社会科学院顧問、国務院経済研究所研究センター顧問、中国社会科学院経済研究所名誉所長などの職についた。
   1982年9月 彼は病の中 中共第十二回全国代表大会に出席 中共中央顧問委員会委員に選ばれた。
 同年12月16日 孙冶方を顕彰し学ぶために、中共社会科学院機関党委は決定により、彼に模範共産党員の称号を授与した。
 1983年2月22日 孙冶方は北京で亡くなった。享年75歳。遺灰は故郷の太湖に運ばれ散骨された。
革命の道(革命之路)
  孙冶方の一生はしばしば苦難を経験する(磨难)というものであり、青壮年時には命の危険を冒して党の地下活動(工作)に従事し、逮捕投獄されたことがある。抗日救国(運動)中は、禁句を広めた罪(口诛笔伐)に問われたが、不白之冤(怨とあるのは誤植か 冤枉は不公平な待遇 罪でないことで有罪とされること 不白之冤とは つまり罪でないことを有罪とされそれを論じることができないこと)を強い意志で受け入れた。老年時期に入ってもまた無情な打撃をこうむった。彼の栄えある一生は党の下部から中央までが深く受け止め重視するところ、学術界が称賛し、広大な群衆が敬愛(爱戴)するところ。以下の叙述は、孙冶方が革命に赴く途中の2つの挿話である。(以下中略)
著作と理論(著作理论)
著作 
 『国民経済建設と国家資本主義について』『資産階級法権について』『我が国の経済管理体制改革についての幾つかの意見について』『社会主義経済論』『社会主義経済の若干の理論問題について』『社会主義の若干の理論問題』『孙冶方選集』『中国社会性質の若干の理論問題』。
  孙冶方は経済理論に造詣が深かっただけでなく、肝が据わり識見が備わり(有胆识)独創性があった。多くの経済学者が次のように考えていた。社会主義社会では資本主義商品経済が消滅するとともに価値規律はその作用を失うと。しかし孙冶方はつぎのように考えた。価値規律は社会主義の時期においても依然発生作用している。共産主義に至ると、ただ社会化拡大生産において、生産資料と消費資料の両部門間で生産と分配が進行するところで、商品流通は発生するし、価値規律は作用を始める。これらはのちに正しい思想だと事実により証明されたものだが、20世紀の50年代においては孙冶方の修正主義罪状となった。この正直に直言知った学者は、自身の学術観点を守り堅持したゆえに、20世紀の60年代初期に迫害を受け、「プロレタリア文化大革命」の間、拘束(镣铐)のうえで7年の長さにわたり収監された。 孙冶方同志は我が国の経済体制改革について、多くの独創的見解を提出した。彼は20世紀の50年代末から60年代初めの幾つかの文章、報告の中で説いている。経済管理体制の研究では、国家政体の問題に属する、中央と地方の関係をいつも強調することはできない。経済学の観点からみれば、いわゆる管理体制とは、まずもって国民経済の細胞である企業の管理体制の問題であり、その核心は企業の権力と責任問題である。彼は主張する、企業の生産積極性を促すためには、固定資産の償却と設備の更新の権限(权责)について、大企業の権限を拡大しなければならない。また(権限は)下層(基层)企業に与えられねばならない。同時に商品はもともと共同制作関係についての(権限を拡大しなければならず)、供給消費の関係の範囲で供給生産のバランスについては、企業内の処理にゆだねるべきである。
学術観点(学术观点)
 孙冶方は社会主義企業の分権モデルを提出した。拡大再生産の権力を国家に帰し、単純(簡単)再生産の権力を企業に帰した。社会主義経済において価値と価格は一致すると抽象的に主張した。社会必要労働量を統計から求めるプロセスで、実際の統計が(価値から)脱離する傾向がある。(そこで)長官経済や命令経済に反対し、精密な技術を用いさらに正確な計算を用いた計画経済を主張した。製品(産品)経済は認めたが、商品経済は認めなかった。価値規律は強調したが、価値規律を製品経済の上に建てたのであって、商品経済の基礎上ではなかった。自由市場を通じる、競争が価格を決定するということには反対であった。価格は需給により決定されるのではなく、生産価格に決定によるものだとし、生産価格は計算により把握できると考えた。企業が商品生産者であることは認めず、人々の経済利益が異なることも認めなかった。利潤が企業経営の良否を判断する総合指標とする市場メカニズムを、根本的には排斥した。(他方で)利潤は企業経営の良否を判断する総合指標であるとの主張を堅持し、牢に入れられても意見を変えなかった。
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维基
孙冶方(スン・イエファン 1908年10月24日-1983年2月22日)は元の名前は薛咢果(シュエ・エーグオ)。またの名(化名)を孙勉之、宋亮、筆名として孙冶方。中国大陸マルクス主義経済学者で、かつての中国国家統計局副局長。無錫礼社(リーシェ)镇生れの経済学者薛暮桥は叔伯(同じお祖父さんの)兄弟である(別訳・・孙冶方 1908年10月24日―1983年2月22日 元の名前は薛咢果。又の名を孙勉之、宋亮。筆名が孙冶方。中国大陸のマルクス主義経済学者で元中国国家統計局副局長。無錫礼社鎮生まれの経済学者薛暮桥は彼の叔伯兄弟である)。孙冶方は無錫の著名な家族の出身であり、薛家は荣家と同様に有名であり、その兄の薛明剑は著名な民族資本家である。孙の父はかつて無錫荣氏の家族企業の仕事をしていた。
経歴(生平)
×光诸34年9月30日 孙冶方は江蘇省無錫北郊礼社鎮で生まれた(当時礼社は鎮級建制であり、またの名を礼舎鎮といった。建国後玉祁镇に后属した)。14歳で無錫县立(県立)第一高等小学の入試に合格して入学するが、共産党員の教師張志和(張効良)の影響で、共産主義思想を受ける。1924年15歳で中国共産党に加わる。1920年代に無錫公益工商学校(専科中学)に学ぶ。無錫の共青団の最初の責任者、そして共産党党支部の最初の書記になる。1925年に中学を卒業せず、中国共産党に選抜派遣されて、ソ連モスクワ中山大学で学ぶ。卒業後学校に残りモスクワ東方労働者大学で政治経済学の講義通訳(翻訳)を担う。同学には鄧小平や叶剑英らがいた。党内の王明セクト主義と、粛清(肃反)拡大化の誤りにより、孙冶方は「最後警告処分」を受け、1930年9月中国に強制帰国(遣送)される。
1930年に中国に戻されたあと「中国農村経済研究会」に関与組織する。1930年代には薛暮桥と『中国農村』雑誌を共同で運営した(合办)。その間に西欧の現代経済理論の著作を大量に読むとともに、陈翰笙博士の指導の下に経済研究と調査の方法をつかんだ。
1937年上海は日本軍に占領され、租界の孤島で江蘇省文委書記をつとめ、文芸界の抗日活動に指導かつ従事した。
1950年代から1980年代までに 上海軍管会重工業処処長、上海財経学院(現在の上海財経大学)院長、中国国家統計局副局長、中国科学院経済研究所所長、全国五届政協委員、中国共産党十二大代表、中央顧問委員会委員、国務院学位委員会評議組成員を歴任した。
1964年雑誌『紅旗』の楊堅白、張卓元らの「生産価格論」の一文が”張(聞天)孙反党連盟”を作ったとされ(攻撃され)、一切の職務を取り消された(撤销)。
 文革期間長期間理由もなく(曾蒙冤入)秦城監獄に7年閉じ込められ、獄中で「社会主義経済学」の85編の構想を考え抜いた(腹稿)ものの、亡くなる前 助手たちの助力はあったが同書を完成するに至らなかった。
1979年の計委経済研究所と社会科学院経済研究所は経済学会無錫会議を挙行して解放思想「批判を恐れず、職務取り消しを恐れず、党籍解除を恐れず、離婚を恐れず、死(杀头:殺されること 抹殺)を恐れない」を提起した。
1980年代亡くなる前に中国社会科学院顧問、経済研究所名誉所長に就任した。
1983年に亡くなり、無錫太湖で葬儀が行われた。
学術上の達成(学术成就)
スターリンの『ソ連社会主義諸問題』に対して系統だって疑問を提出した中国経済界最初の人物。伝統的な計画経済体制の欠陥(弊端)を深く分析かつ解剖し、ソ連経済体制を批判し、中国文革後の物価管理制度を主張しスタートさせた(主持建立了)。
1983年に北京で亡くなった。亡くなる前には、商品経済実行の必然性を論述し、中国大陸の当時の経済体制の状況に対しては、財税、金融、価格、外国貿易と国有企業の体制改革方案(方策)を提出、併せて社会主義市場経済体制の実行を主張した。
学術上の観点(学术风格和观点)
拡大再生産の権利は国家に帰属し、単純(簡単)再生産の権力は企業に帰属するという、社会主義企業の”分権モデル”を提案した。
抽象法において、社会主義経済において価値と価格は一致すると認識すると、(しかし)社会必要労働量の統計過程では、実際の統計数値は脱離する傾向があると主張した。
長官経済、命令経済に反対し、技術的にさらに精密で計算がさらに正確な計画経済を主張した。
製品(产品)経済を承認したが、商品経済は承認しない。
価値規律を強調する。しかし価値規律は製品経済の上に建てられるのであって、商品経済の基礎上ではにない。
自由市場そして競争を通じて価格を決定することに賛成しなかった。
価格は需給が決定するのではなく生産価格が決定すると考えた。そして生産価格は計算を通して把握できると考えた。
企業が商品生産者であることを認めなかった。人々の経済利益の差異を認めなかった。根本的には市場メカニズムを排斥した。
利潤が企業経営の良否を判断(考核)する総合指標である(という考え)を堅持し、牢に入ってもこの観点を放棄しなかった。 
動画 価値規律第一 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
孙冶方(スン・イエファン) 1908-1983  経済学者 国家統計局副局長 中国科学院経済研究所長 国務院研究センター(中心)顧問
1955年 47歳の孙冶方は中国社会科学院経済研究所に入り、彼の経済領域の専門研究(专业研究)を開始した。現実の経済問題についての熱心な討論と、真剣な観察のあと、彼は組織内の若い学者を選んで「社会主義経済論」を書かせることを決定した。これは「社会主義の政治経済学」とも言えよう。この仕事に彼の人生の精力が注がれた。その間、新中国の三反五反の政治闘争、人民公社、大躍進の経済被害があり、文化大革命という前例のない大破壊があり、孙冶方自身が7年牢獄につながれた。一生をかけたが孙冶方は彼の「社会主義経済論」を完成することはできなかった。
1957年 反右運動が開始され、中国科学院経済研究所は政治闘争の渦に深く巻き込まれた。研究所所長の狄超白(ディ・チャオパイ)、経済研究常務編集委員の林里夫(リン・リーフー)ら老党員老指導者が極右分子として打倒された。このような背景で党中央は、文戦線工作を強化するため指導幹部を移動配置した。47歳の孙冶方は中央統計局副局長の職を離れて、狄超白に代わって中国科学院経済研究所長を担当することになった。
張卓元(チャン・チュオーユアン)「当時研究所はとても乱れた状況でそこに孙冶方はやってきた。来てからというもの彼はすぐにつぎのようにした。運動にはかかわらない。運動は別の人に任せる。彼は来るや否や業務に自ら取り組んだ(主抓)。」
赵人伟(チャオ・レンウェイ)「当時彼は会うなり言ったものだ、あれあれ今日は夜まで運動があったな。経済(研究)所がみんな研究しなければ、どうして経済(研究)所と呼べるだろう。そこで彼は会うなり、研究員一人ずつがするべき仕事をできるようにする方法を考えねばならないと話したものだ。」(以下略)
改革年代の孫冶方と薛暮橋(新华网2005/05/17, 新望:人民网005/08/12)
孙冶方と薛暮桥は第一世代の経済学者のふたご座であり、二人兄弟である。二人の人生の軌跡はともに普通ではなかった。一人は先覚者であり苦難を受けた。一人はのちに目覚め、老人になってから変化を求めた。この二人の兄弟が歩んだその道は、第一世代経済学者の中で際立って特徴的なもの(颇具代表性)である。
孙冶方の元の名前は薛咢果。孙冶方は彼の筆名である。無錫北郊の薛家は一大家族で、孙冶方は1908年に玉祁(ユーチー)鎮で生まれた。薛暮桥は少し南の礼社(リーシェ)鎮で生まれ、孙冶方より4つ年上。二人は叔伯兄弟である。
江南は状元(科挙試験をトップで合格する人)、文人(読書人)の出身地で、新中国では多数の経済学者が輩出した。この二人の兄弟のほか、马寅初,费考通,于光远,顾准,刘国光,高尚全,吴敬琏,厉以宁,茅于轼,董捕礽,陆学艺,×錫文など。加えて長期にわたり党の経済工作を指導し、市場メカニズム導入を主張した陈云同志も江南人である。原因は何か?吴敬琏(ウーチンリエン)は、薛先生を批評して次のように述べる。「(千九百)二三十年代の我が国江浙一帯の市場経済の発展は、直接の経験(切身体験)だった。」これは本当の話だ。たとえば费考通の名作「江村経済」、薛暮桥の最初の経済論文「江南農村衰退の縮図」。これらはみな、自身が生活した故郷で調査を行って書かれたものだ。(以下略)

五不怕について 毛沢東 劉少奇 孫冶方

 1957年6月13日晩 毛沢東が、吴冷西が人民日報社そして新華社で仕事をすることになったことに関して、吴冷西に対して述べた長い話のなかに次の一節がある。(典拠 吴冷西《毛泽东谈文史》)中国共产党新闻http://cpc.people.com.cn)

 当时主席还严肃地告诫我说,你到人民日报工作,要有充分的思想准备,要准备遇到最坏情况,要有“五不怕”的精神准备。这“五不怕”就是:一不怕撒职,二不怕开除党籍,三不怕老婆离婚,四不怕坐牢,五不怕杀头。有了五不怕的准备,就敢于实事求是,敢于坚持真理了。一个共产党员要经得起受倒错误的处分,可能这样对自己反而有益处。

 1962年1月27日 いわゆる7000人大会(大躍進政策の誤りを公式に認めた大会)において、ここで劉少奇は、原稿にない演説を行ったがその内容は重要である。(典拠 刘明钢《七千人大会上:实事求是要有》中国共产党新闻http://cpc.people.com.cn

 劉少奇はつぎのように話している。1957年以来、とくに1959年の反右傾以来の行き過ぎた右派闘争のために、党内生活に不正常な情況が出現し、党内で人は三看不讲(三観不講 風向き、指導者の眼色、指導者の意図を見て、本当の気持ちを話さない)となった。こうした状況のもとで、一部の指導組織と指導者の誤りにより、本当のことを話した人が賞賛されないだけでなく不当な批判を受け、事実でないことを話した人が、しかるべき処分を受けないばかりか、賞賛を受けている。我々は、このような情況を徹底して変えるように多いに努めなければならない。この文脈において、劉少奇はつぎのように五不怕を提起した。

 刘少奇强调:要实事求是还要勇气,要有什么勇气呢?要有“五不怕”:不怕撒职,不怕开除党籍,不怕老婆离婚,不怕坐牢,不怕杀头。(中略)刘少奇接着说:“有了这五不怕,还有什么可怕的事情呢?”

 1979年4月16日 社会主義経済中価値規律問題討論会が江蘇省無錫で開催された。(典拠 吴晓波《冶方之痛》经济观察网2009-12-18 http://www.eeo.com.cn)。

 在开幕式上,为了鼓励大家畅所欲言,时任国家计委经济所所长的雪暮桥讲了“三不主义”:不抓辫子,不打棍子,不戴帽子,坐在一旁的孙冶方当即接下话头,提出还要“我不怕”:不怕批斗,不怕罢官,不怕坐牢,不怕杀头,不怕老婆离婚。接着他又说,不但要“五不怕”,最要紧的还有,要被批判者以说话的机会。话音一落,全场掌声雷动。

なお孫冶方の五不怕について 冒頭の2つは別の表現もある

不怕批斗,不怕罢官,→ 不怕受批评,不怕撒职 両者ともに意味は同じである。


適正株価評価 valuation について

2018-06-13 14:25:22 | Financial Management

株価の適正価値fair valueをいかに導くか

 企業価値は、有利子負債の時価総額と自己資本の時価総額の合計である。株価は単純化していえば時価総額÷株数。ここで求めたいのは適正な値である。
 コンサル業でも証券引受業でも新たな顧客を獲得することの重要度が増した。売り込みのためのプレゼン資料の構成はみな同じで、全体説明、戦略的考察(証券引受の場合は資本市場の近況)、評価、提言である。評価が「全体の要で顧客が本当に注意を払うのはこの部分だけだ。ここでは投資銀行側が顧客に高めギリギリのストライクをプレゼントする。見た答えが気に入らないと、バンカーたちは裏口から路地に放り出されることもある」(『投資銀行残酷物語』訳p.128)
(投資銀行の中心的役割は、証券市場で重要な価格関連情報の創造と小分けして売るところにある。そうした価格関連情報は、経済的な革新への資源の配分や、革新に携わる企業や人々の誘引になると説明されている。See, Alan D.Morrision and William J.Wilhelm, Investment Banking :Institutions, Politics, and Law, Oxford University Press, 2007, pp.3-5,21,69.) 

 算定の方法は客観的妥当性が問題にされるので、恣意性を排除して手順やプロセスを大事にする必要がある。また複数の方法で算定して比較すること、経営者などのインタビューを定性判断に織り込むこともしばしば行われる。
 一つは会計の帳簿から迫る方法である(コストアプローチあるいはbook value based or asset based)。帳簿価値をベースにするもの。代表的なものに1株あたり純資産価値を算定する方法がある。ネットアセットアプローチとも呼ばれる。純資産というのは総資産から負債を控除した残差である。これは理屈としては解散価値liquidation valueと一致し株価の底値の大きさでもある。
 この帳簿価値が取得価値で評価されているとして、この方法を取得コストアプローチと呼んだり、あるいは帳簿価値が時価で評価されていることに注目して、この方法を時価コストアプローチと呼ぶこともある。
 ただしこの方法は、継続価値の算定では大きな比重を占める無形資産intangible asset(人材の知識・技量、企業の社会的評価)の評価を全く含んでいないため、事業の継続を前提にした継続価値の算定方法としては、そもそも適切でないとされる。保田隆明さんは資産を持たない経営を志向する欧米企業からは、純資産法による企業評価は奇異に見える。ただし銀行など資産を積み上げることで収益を稼ぐ業界の評価には使えると指摘している。保田隆明『企業ファイナンス入門講座』ダイヤモンド社, 2008年, pp.189-191.

事業の継続を前提とする継続価値の算定の方法は大きくは2つ。株価倍率法とDCF法discounted cash flow methodの2つである。
 株価倍率法(マルチプル法 類似株価比準法:類似会社比較法comparable multiple valuation or price-to-earnings ratio method)はマーケット(市場価値 市場株価)アプローチあるいはearnings basedとも呼ばれる。これは株式が公開(上場)されている類似会社である他社の株価から、非公開会社の株価を推定しようというもの。使用される他社の株価には、過去3ヶ月あるいは過去6ヶ月の株価(終値)の平均を用いる。この他社の株価を参考に、株価を公開していない企業の株価を、財務比率あるいは株価指標(PER PBR EV/EVITDA倍率など)など比較可能な数値から株価倍率を算定しこれを乗ずることで、当該企業の妥当な理論株価を推定する。

企業Aの1株当り利益

業界平均のPER

企業Aの適正株価

20円

40倍

800円

他社比較分析の「欠点は、ほとんどの場合、乗ずる[値が]・・・大きい企業群が必要になって」「ターゲット企業とはかなり異なった性格の企業を選びださなければならないとうことだ」「他社比較分析部では、どれほど根拠が脆弱であろうと、数字を引き上げてくれるような企業を比較の対象に加えられないか知恵をしぼる」(『投資銀行残酷物語』訳p.141)
この手法について、株式市場の合理性の仮定を過信し過ぎという批判もある。
 DCF法discounted cash flow methodあるいはインカム(本質価値)アプローチあるいはcash flow based。将来のキャッシュフロー(CF)を資本コストなど将来のリスクを含んだ割引率で割り戻して現在企業価値を推定、そこから理論株価を導くというもの。この手法が近年多用されるが、将来のCFや割引率の仮定に結果が大きく左右されるという弱点をもっている(割引率discount rate選択の決定はしばしば恣意的な判断に頼っており、将来のCFの推定に至っては、単なる見込みに過ぎないなどの批判も知られる)。将来CFの上限と下限の幅は相当に大きくなることが多い。また割引率には後述する加重平均資本コストを使うことが多い。
 割引率には加重平均資本コストWACCを使うことが多い。WACCの導出において株主資本コストの導出には多くの問題がある。先ず測定期間。どの程度の期間とするか、意見の一致がない。またサイズリスクプレミアム(対象企業が小さい場合にリスクを高く見込むこと)やコントロールプレミアム(支配権の移動がある場合にリスクを高く見込むこと)といった追加リスクプレミアムがある。現在サイズリスクは定量化されているが、推計方法が確立しておらず、そのほかの追加リスクプレミアムについては、推計の方法が確定していない。そうしたところから評価者が根拠にない加算を行うケースがあるとされる。明石正道「DCF法割引率算定の考え方と実務ポイント」『経理情報』No.1263, 2010年11月1日, pp.52-55.

参考 株主(自己)資本コストの算出方法
 加重平均コストを算出するときもっとも問題なのは株主資本コスト(自己資本コスト)の 大きさである。そこで算出に用いられる計算式には以下の3つがあるがその解説は改めて別稿で述べる。 
 1)古典的方法
 =pure-time preference + inflation premium + risk premium
 2)成長率モデル
 = d/p + k
 3)capital asset pricing model
  Ri = Rf + βm×(Rm-Rf) 

  またDCF法では、統合にともなって生ずる利益(連携による相乗synergy効果やコスト削減効果)と損失(不採算部門の閉鎖などに伴う経費)が、将来CFに正確に反映されているかも議論が多い点(恣意性が入りやすい点)である。それでもDCF法は「ほとんど活動実績のない企業に対して特に有効だ。」

3つの評価アプローチの比較

項目

インカム

マーケット

ネットアセット

客観性

問題あり

優れる

優れる

市場株価の反映

反映する面あり

優れる

問題あり

将来の変化

優れる

反映する面あり

問題あり

資料:公認会計士協会「企業価値ガイドライン」2007/07 図表Ⅳ-3を書き換え

 これらの方法を組み合せることが一般に推奨される。
DCF法による評価結果は、買収当事者限りで算定した評価額・・・独りよがりになっている可能性を否定できない・・・そこで登場するのがPERや別解 投資サイトでよく見られる理論株価は以下のような式あるいはその変形で計算されているとみられる。理論株価の算定式(https://dmjtmj-stock.com/entry/2016/11/19/002341) EBITDA倍率、いわゆるマルチプル(倍率)による検証です。・・・DCF法による企業価値算出結果が相場感のあるものなのか、または相場感から大きくはずれるものなのか、ということがチェックできるわけです。保田隆明『企業ファイナンス入門講座』2008, pp.169-170 保田さんは、純資産方式やマルチプルは、ある一時点のスナップショットで企業を評価する「静態的評価方法」であるのに、DCF法は現在から将来にわたる一連の流れで企業を評価する「動態的評価方法」であるとしています。前掲書, pp.189, 191.
創業したばかりのベンチャー企業の価値は、過去の財務的実績でみるものではなく、未来の可能性でみるべきであり(静態的評価は使えない)、類似の企業はないはずであり(マルチプル法は適当でない)、未来の可能性で見るべきだと磯崎さんは述べます。磯崎哲也『起業のファイナンス』日本実業出版社, 2010年, pp.162-167.しかし未来予測にも困難があります。
 問題は、同じような思考方法にある。
同じ事業計画書を見せて正当な株価をはじき出して欲しいと依頼した場合、どのファンドもまったく同じように計算し、まったく同じような答えを出してくる。・・・なぜ同じような数字しかでてこないかというと「同じような考え方」しかしないからだ。・・・確実な予想キャッシュフローをつくることに貢献するのは・・・確実に自分たちでできるコスト・カットだけ。それしか見ない。・・・それを事業改革などと称して、あたかも改革が行われているかの幻想を周囲に振りまく。・・・それがウオール街流の共通したやり方であり、そのやり方を世界中に広げているのである。神谷秀樹「強欲資本主義 ウオール街の自爆」2008, pp.48-49.
欧米流の会社は株式のもの、株主重視という考え方が広がっている。・・・「株主価値」の最大化を目指すことが優れた経営の目標であり、ファンドマネージャーの関心もここにある。・・・それは歪んだ発想である。・・・自分たちの儲けを最大化するために「トップライン」と「ボトムライン」の間にあるすべての支払い義務をいかに圧縮するかに熱心に取り組む。・・・他人に支払う経費は徹底して圧縮しながら、自分たちの懐にだけはたっぷりと現金をしまいこむ。神谷秀樹 前掲書 pp.127-128.
 アランAケネディの株主資本主義の誤算は、株主価値重視のもとで経営者が実際に気にするのは、より単純に株価と時価総額で、理論的な意味でのキャシュフローをベースにした株主価値ではないとしています(株価について、把握や監視がしやすい 容易に測定できる わかりやすいといった言葉が並びます)。そして目先の株価を改善するために、経営者が長期的な観点を無視して研究開発費削減や人員削減に走っていることを批判しています。Allan A.Kennedy, The End of Shareholder Value, 2000.酒井泰介訳『株主資本主義の誤算』ダイヤモンド社, 2002年4月, pp.100-103, 234-235.

 

 

 

統合によるシナジー効果
 なお企業買収の場合は、統合したことによるシナジー(統合)効果を考える必要がある。

分類

内容

売り上げの増加

クロスセリング(抱き合わせ) 販売チャネルの増加 ブランド効果

コスト削減

営業拠点・生産拠点の統廃合 価格交渉力(販売・購入)の増加 重複間接部門の削減 重複物流コストの削減

研究開発力の拡大

研究開発投資力拡大 新たな技術・ノウハウの複合効果

財務面の改善

資金調達コストの低下 資金調達余力の拡大

資料:公認会計士協会「企業価値ガイドライン」2007/07 図表Ⅳ-23を書き換え

 なお調達余力の拡大 DCF法の簡便化された形が収益還元法capitalization method。これは毎期のCFの大きさを期待収益率で割って妥当な元本の大きさを算出するものである。

TOBにおけるプレミアム
 欧米のTOBをみるとTOBの提示価格(すでに考えてきたような手法で算定される)は、一般には直前の市場価格より2割から3割上乗せ幅(プレミアム)があるのが普通。2006-2007年の日本のTOBにおけるプレミアムも2-3割の水準になってきており、2割弱だった2005年に比べてプレミアムが欧米並みの水準になってきたと評価される。
 このようなプレミアムには、買い手が想定する理論価格が市場価格よりも高いことのほか、株主の応募を誘う目的をも反映している。そのため買収側が競合する場合には、買収価値が競りあがることがある。このプレミアムには、企業のブランド価値評価で問題になるような、企業価値を高めるようなその企業のカルチャー、企業内統治のありかたなどバランスシート外の要因が、反映していると思われる。逆に買収先企業の資産に含み損があることが資産査定で発見されるケースでは、適正価値が市場価格より下に算定される場合もある。

企業価値・株価について
 上村達男氏は、次のような異論をのべている。まず企業価値は、企業が有するミッション、使命が実現することだ。それこそが企業経営者の目的だと。また株価が企業価値を反映するという議論に対しては、株式の大半が安定保有されている市場構造で成立する株価を競争的な株価と偽装するものだ、また株価が上がっていってその最後の株価が全体の株価というのも擬制に過ぎないとしている。(上村達男・金子昭『株式会社はどこへ行くか』2007, 96-102.)

国税庁方式
 なお非上場株式の評価方法については、国税庁が定めている3つの方式がある。それは1)類似業種比準方式、2)純資産方式、3)配当還元方式の3つである。
1)はマルチプル法、2)はコストアプローチのb)と同じ考え方である。3)では配当利回り10%、すなわち株価は配当の10倍という数値が置かれている。
 上場株式の配当利回りは現在は1%台であるから、これらの数値の中では3)が低い数値になる。
 また1) 類似業種比準方式では、配当金、利益、純資産について類似業種上場会社の数値(以下の数式の太字)と参照(比準)するが、この比準した数値を利益についてだけ3倍し全体を5で割っている。かつては単純に合算して3で割っていた。これは利益数値を重視するようになったからであろう。出た数値にさらに0.5から0.7の斟酌率をかけ合わせるのは、非上場株は流通が困難であるだけに上場株式にくらべて流動性が落ちる分、評価を下げるべきだからだ。

       p=P×[{(d/D)+(e/E)×3+(a/A)}/5]×斟酌率 

投資の採択・棄却の判断基準
 以上企業価値評価の手法に対して、事業投資の開始や重点化などの採択・棄却の判断において用いられる方法を復習する。
 回収期間法payback period method。投資額investment(ある事業投資に必要な経費をここでは投資価値と呼ぶ)の回収期間を問題にする。期間が短いものがよい。

 投資判断基準     利回り差 =投資利回りー長期金利 
            リスクプレミアムの上乗せ必要 
 マンション投資における価格回収率=物件価格÷年間賃貸料 16倍以下
 マンション投資における表面利回り=年間賃貸料÷物件価格 
            実質利回り≒表面利回りー1.5% 
 東京都心部の大型オフィスビルの利回りは3.5%
*このように一般似事業投資で用いられる投資判断基準は、不動産価値の判定でもしばしば援用されている。たとえば
1)コストアプローチ(cost approach) その物件を今建てる費用から物理的・機能的な減価分と今後の改修費用を減額、底地の不動産価値を加算して求める。これはコストアプローチだが、解散価値でなく、再取得価値を求めている。つまりコストアプローチのなかに、解散価値を求める手法と、再取得価値を求める手法とがある。
 2)比較可能売却価格アプローチ(comparable sales approach)近隣での最近の売却事例と比較する 物件内容を当該物件に合わせて事例価格を修正したうえで示唆される当該物件価格を推定する。
3)インカムアプローチ(income approach) その物件から得られる年間純所得を求める。純所得は賃料の年合計から税金や管理費用、修繕費用など物件を賃貸物件として維持するのに必要な諸費用を減額して求める。そしてこれを期待利回り(cap.rate)で割ることで評価額を求める(income capitalization)。期待利回りは他の投資家が該当地域で同種の物件から得ている利回りの平均値が適当とされる。
  Gary W.Eldred, Investing in Real Estate, 6th ed., Wiley:2009, pp.47-76. 

  会計的利益率法accounting return on investment or accounting profit rate method。想定する投資利益率などを問題にするもの。
  インカム法以外の手法は、インカム法に比べて簡明で、実際に使われているものの、貨幣の時間価値を問題にしていない(異時点の貨幣価値を等価としている)点で科学的な手法ではないとして批判される。そこで登場するのがDCF法とよく似た正味現在価値法net present value method:NPV。割引率を用いて、将来時点CFの大きさを現在時点の大きさにそろえて、算出される将来CFから推定される投資価値(理論価値)がどれだけ、市場で現実に提示されている投資価値を上回っているかを問題にするもの。
NPV = 将来収益の現在価値合計 - 投資額 
  あるいは内部収益率法IRR internal rate of return method。理論価値と提示されている投資額とをバランスさせる割引率である内部収益率を求めて、それと期待収益率とを比較することで事業価値の採択棄却を問題にするもの。

方法

採択approve

棄却reject

無差別

NPV

>0

<0

=0

IRR

>k

<k

=k

kは投資家のhurdle rate
(Source : R. Advani, The Wall Street MBA, McGrawhill:2006, p.144.

 NPVやIRRは回収期間法などに比べれば進化した手法であるものの、なお株主からみたコストを明示的に取り込んでいないとの批判がある。
事業部門間や事業会社間の株主から見た比較にはEVA
   
株主からみた資本コスト(期待収益率)の大きさを明示的に取り込んで、加重平均資本コストを上回って生み出される経済的付加価値の多寡を問題にする手法が、経済的付加価値EVA : economic value addedを計測という方法である。
 EVA = 税引き後営業利益 - 使用総資本×資本コスト

Written by Hiroshi Fukumitsu. You may not copy, reproduce or post without obtaining the prior consent of the author.
Originally appeared in Sept.1, 2008.
Corrected and reposted in June 13, 2018 

別解 投資サイトでよく見られる理論株価は以下のような式あるいはその変形で計算されているとみられる。理論株価の算定式(https://dmjtmj-stock.com/entry/2016/11/19/002341

実際の株価は理論株価を下回ったり上回ったりしている。

 =BPS+EPS×10

  =BPS+EPS×30

       EPS:1株当たり純利益 BPS:1株当たり純資産

  この10という数値は適正なPERの数値からきている。PERの議論をしたときに紹介したように、業種により適正とされるPERには違いがある。またこの式は株価がBPSを下回る(PBRの1割れ)状況で果たしてどれだけの妥当性があるだろうか?

 =BPS+今期予想EPS+来期予想EPSの現在価値+その後の予想EPSの現在価値合計


鄧子恢(邓子恢 Deng Zihui 1896-1972) 維基百科ほか

2018-06-11 21:18:41 | Area Studies

農業政策で主張を堅持 鄧子恢(トン・ツーホイ 1896-1972) 成城大学経済研究218号 Dec.2017 451-491 

维基

维基
邓子恢(トン・ツーホイ) 中華人民共和国国務院副総理 任期1954年9月28日―1965年1月4日 総理 周恩来: 中国中央農村工作部部長 任期:1952年11月12日―1962年1月19日 中央委員会主席 毛沢東
個人資料 1896年8月17日生れ 大清福建省龙岩县 1972年12月10日(76歳)逝去。国籍 中華人民共和国。政党 中国共産党。親族 邓淮生(トン・ホアイシェン)(息子)、邓小燕(トン・シアオヤン)(娘) 妻 阵兰(チェン・ラン) 最終学歴(母校):1917-1918年 日本東亜補習学校 宗教信仰:社会主義共産主義 軍歴 忠誠(效忠):中国共産党 服役:中国工農赤軍(红军)、国民革命軍陸軍新編第四軍、中国人民解放軍 服役期間:1928年―1952年 参戦:第一次国共内戦、抗日戦争、第二次国共内戦
邓子恢(トン・ツーホイ) 1896年8月17日―1972年12月10日 名は紹箕(チャオチー) 字は子恢 子恢が通り名になっている(以字行) 福建龙岩东肖区厝村人。中国共産党と中華人民共和国の主要指導者の一人。農業政策の専門家。邓子恢は若くして日本に留学。その後闽西(福建西部)に革命活動を組織。红十二军政治委員、中華ソビエト(苏维埃 スウェイアイ)共和国中央執行委員会委員兼財政部部長。赤軍(红军)が長征に向かってからは、命令に従いソビエト区を堅持しゲリラ戦を行う(游击战争)。抗戦期間においては、新四軍政治部副主任、江北式部政治部主任。皖南事変後、新四軍政治部主任、第4師政治委員。第二次国共内戦時期、華中軍区政治委員、中共中央華中局第三書記兼第四野戦軍第二政治委員。中華人民共和国成立後、中南軍政委員会代主席、中華人民共和国国務院副総理、主管農業。「分田至戸」責任制を提唱、毛沢東の農業合作化(集団化)運動に反対し、批判を受ける。文革期に迫害を受け、病により亡くなる。
初期の革命および赤軍の時期
 貧農の出身で兄弟姉妹は8人。上から2番目である。邓子恢は幼年時桐冈(トンカン)小学で学んだ。13歳で母を亡くした。17歳で龙岩(ロンヤン)中学堂(現在の福建省龙岩第一中学)丙班に入った。1916年末に優秀な成績で卒業。1917年龙岩县の公費日本留学資格を得て、3月に日本にわたり東亜補習学校で1年余り学んだ。(しかし)肺病のため帰国をよぎなくされた。1918年5月龙岩に戻り、母校の桐冈小学で教師となった。(けれども)農村の給与水準があまりに低くて、一家の生活を維持できなかったので1918年末江西省崇义县(チョンイシエン)杰坝圩堂(チエパーウェイタン)に兄が開いた慶昌和雑貨店の店員になった。1919年五四新文化運動の影響を受けた。1923年邓子恢は崇义から龙岩に(再び)戻り、「岩声」を創刊し、マルクスレーニン主義を伝え、社会の不正(暗)を告発した。1925年中国国民党に入った。1926年、陈赞雍(チェン・ツアンヨン)の紹介で中国共産党に入った。間もなく、陈赞雍と邓子恢は党員を10数名まで発展させて中共崇义县支部を成立させた。1927年第一次国共合作が崩壊したあと、邓子恢は国民党に追われるようになった。

 1928年4月邓子恢は上杭县宣伝部長となり、同县北四区の蛟洋農民運動の責任を負った。1928年7月 永定渓南に正式に中西闽西特委が成立、邓子恢は特別委員会宣伝部長となった。同時に闽西暴動委員会が成立し、邓子恢は副総指揮に任じられた。この時闽西各県の武装合編は紅七軍第十九団を編成し、3つの团を従えた。邓子恢は五十七団の党代表を兼任した。1929年3月、中共闽西特別委員会書記であったとき、毛沢東と朱徳は紅四軍を率いて福建に入っていた。邓子恢は朱徳と毛沢東の紅軍がすでに西に進んで赣南に入っていることをしり、闽西地区の敵情変化情況を書面で報告し、紅四軍の前委(前卫の誤植か?)に深夜人を派遣して、紅四軍に再度闽西に入ることを求めた。毛沢東と朱徳は当時の敵情をもとに、紅軍を闽に入れてソビエト区を作ることを決定。同年5月から6月、邓子恢は工農暴動を組織し、朱毛の部隊が闽西に侵入したのと力を合わせて、国民革命軍福建省防軍第一混成旅陳国輝部2000余人をせん滅した。5月23日夜遅く、邓子恢は龙岩で毛沢東、朱徳、陳毅と初めて面会した。6月4日、龙岩县革命委員会が成立し、邓子恢が主席に推された。2ケ月経たないうちに、龙岩  永定  上抗の3県の大部分の土地が完全に分配された。
 1930年3月18日 闽西第一次工農代表大会が邓子恢の主催のもと開催された。選挙により闽西ソビエト政府が成立し、邓子恢が主席に選ばれた。同年5月 闽西地方の紅軍と各県の赤衛隊あわせて3000人あまりは、正式に中国工農軍第12軍を編成。邓子恢はその政治委員を兼任した。闽西ソビエト区は縦横300里、人口100万近くに発展し、党組織は8つの县委員会、53の区委員会、546の支部、万前後の党員数までに発展した。1930年9月 邓子恢は福建省委巡視員とされて、莆田 福安 谭州等で土地改革と遊撃隊の建設を指導した。1931年11月 中華ソビエト共和国政権成立後 邓子恢は臨時中央政府執行委員となった。1931年12月 中共厦門中心市巡視委員となり、漳浦(チャンプー) 龙溪 (ロンシー)   云霄(ユンシアオ) 平和などの県で土地革命と遊撃隊を指導して、紅軍独立第三団の発展に努めた。また闽南遊撃根拠地を建設した。

 1932年7月初 邓子恢は紅軍東路軍に従い龙岩に戻った。間もなく瑞金にゆき、中華ソビエト共和国臨時中央政府財政部長の職についた。紅軍が第四次第五次の包囲(围剿)のなか補給の責任者となった。紅軍主力の戦略が変化するなか留守役の中共中央分局委員を務め、邓子恢は闽西に戻ってゲリラ(遊撃)戦争を指導し、张鼎丞(チャン・ディンチェン)谭震林(タン・ツェンリン)等とともに継続して遊撃戦争を指揮した。
抗日戦争時期
 1937年赣闽(ガンミン)での中共遊撃部隊と国軍との談判をすすめて、成功した(和平交渉を成立させた)。1938年3月1日 邓子恢と張鼎丞 谭震林は率いている闽西南紅軍を新四軍二支隊に改編した。合わせて新四軍政治部副主任兼民運部長を兼任し、部隊は北上した。1939年邓と新四軍軍長叶挺哈,高敬亭問題を処理した。このあと新四軍は大別山を離れて、部隊は江北地区に進出した。1939年5月5日、邓子恢は新四軍江北指揮部政治部主任に任命された。1939年7月1日、新四軍第四支隊は第四、第五支隊に」編成江変えされ、邓子恢は第五支隊を指揮した。1939年12月初、邓子恢は中原局委員に補充された。1940年3月、邓子恢は自ら半塔集保卫战を指揮した。
 1941年に皖南事变(1941年1月4日から14日 移動中の新四軍が国民党軍に囲まれて2000人以上が虐殺された事件。新四軍は共産党の中国南部の拠点を維持拡大のための軍隊。新四軍は国民党軍と軍事衝突をくりかえした末に1941年10月黄橋戦役で多大な損害を国民革命軍に与えた。そこで蒋介石は1940年内に新四軍の北上の完了を要求した。そして毛沢東もそれに同意した。ところが新四軍の移動開始は遅れて、期限に反して1月に入って戦闘態勢で移動を開始。包囲攻撃を受けた。新四軍軍部が毛沢東の指示に反し移動を遅らせた可能性は高い。新四軍は国民軍の攻撃停止の依頼を毛沢東に求めるが、毛沢東は動かず、新四軍の被害が拡大する経緯をたどった。この事件に対して、国民党を支援していた米英は国共合作を支持して国民党を非難、またこの事変にかかわらず国共合作は維持された。背景には国共合作後も各地のソビエト区を拡大しようとする八路軍・新四軍と国民革命軍との間で戦闘が続いていたことがある。1940年10月4日から7日に生じた黄橋戦役では、新四軍が国民革命軍に対して5000人規模の死傷を与えた。もともと黄橋は国民軍の拠点。これを新四軍が7月に奪ったため、10月に国民軍が取り戻そうとしたができなかったというのが黄橋戦役。この「摩擦」を受けて蒋介石は10月19日に中共中央、八路軍、新四軍に対して年内の北上を要求した。これに対して11月19日に中共中央は北上を返答した。しかし北上が実行されないため12月3日に蒋介石は再度年内北上を求めている。新四軍の北上の判断は明らかに遅れ、1月4日になりようやく戦闘態勢のまま北上を開始、国民軍と衝突した)が発生し、新四軍軍部が殲滅(被歼)されたあと再編され、邓子恢は政治部主任になった。当時の淮南(フアイナン)の情勢はとても緊張しており、邓子恢は軍部の職にすぐに赴いておらず、新四軍第二師団の改編を指導していた。1941年5月華中局が成立し、劉少奇が書記となり、陳毅、張雲逸、邓子恢などが委員になった。間もなく邓子恢は華中局代表の名目(名義)で新四軍軍部巡視団を率いて、皖东北地区彭雪枫(ポンシュエフェン)部に検査と支援工作に赴き、部隊の気持ち(情绪)を落ち着かせた。8月11日 邓子恢は新四軍第四師団の政治委員を兼任した。8月23日華中局は淮北軍政党委員会の成立を決定、邓子恢をその書記とした。

1942年11月25日 淮北地区は党政軍の一元化指導を実現(実行)し、淮北軍政党委員会を廃止(撤销)、邓子恢は淮北区党委員会書記に任命され、同時に淮北軍区政治委員を兼任した。1944年7月25日、豫湘桂会战(1944年4月から12月にかけての日本軍と国民党軍の大規模な会戦を指す。太平洋戦争の末期であるが、日本軍は勝利している その最中に新四軍は根拠地造りに励んでいたということであろう)において、河南を失う(河南沦陷)背景のもと、新四軍四師団は豫皖ソビエト辺区の回復のため西に向かい、河南抗戦局面を発展させた。彭雪枫は四師団の主力五個師団を率いて西に進む任務を行った。邓子恢らは2つの師団と地方武装を率いて、淮北路东根拠地を堅持し、主力が西に進むことを支援した。1945年に中国共産党第七届中央委員に当選した。
第二次国共内戦時期
 中日戦争終結後、中共部隊は戦略調整され、新四軍の主力は山東に入った。邓子恢は中央の電令に従い、1945年10月淮北路西前线から淮阴に移動し、併せて11月に華中分局成立を正式に宣言した。邓子恢を書記、谭震林を副書記とした。華中に残された新四軍は華中軍区に統合(合拼)され,张鼎丞は司令員、邓子恢は政治委員を兼任した。1946年4月、其与曾山から延安に向かい毛沢東ほか中共の指導者と会見し、江北を守る新四軍の戦略を議論した。翌月、邓子恢は淮安に戻り、土地改革を組織した。全面内戦爆発後,涟水戦役に参与組織し12月には、宿北戦役を参与組織し、そのあと山東作戦に転入した。
 1946年末 華中分局と山東分局は合併して華東局となった。邓子恢は華中局副書記に任命され、土地改革再調査(复查)工作を担当した。併せて組織建設後の華東野戦軍(すなわちのちの第三野戦軍)の後方支援供給の責を負った。1947年7月下旬 張雲逸らとともに渤海地区に移動し、華東局工作委員会を組成、邓子恢が責任者となった。1948年 華東野戦軍と中原野戦軍(すなわち第二野戦軍)は河南共同(配合)作戦にあり、6月に邓子恢は、中共中央中原局第三書記を担当し、中原軍区の副政治委員を兼任。中原局日常工作を主管(主持)し、併せて淮海戦役の事前事後工作を担当した。
 1949年3月 中原臨時人民政府が開設成立し、邓子恢が主席を担当した。1949年6月初めに新たに組織された華中局の第三書記兼第四野戦軍と華中軍区との政治委員を兼任し土地改革と経済建設を組織した。6月中旬、邓子恢は新たに組織された華中局の機関を開封から漢口に移した。9月北京で招集された中国人民政治協商会議において、中央人民政府委員に当選し、10月にはまた中央人民政府人民革命軍事委員会委員に任命された。
中華人民共和国初期
 1949年12月廣西開放後にあたり、華中局と華中軍区は中南局と中南軍区に改称された。林彪は中南局第一職兼中南軍区司令員、罗荣桓(ルオ・ロンホアン)は第二書記兼軍区第一政治委員、邓子恢は第三書記兼軍区第二政治委員で、中南大区の全面工作を担当した。1950年2月に中南軍政委員会副主席、主席代理兼中南財経委員会主任となり、全区の財経工作を担当し、中南地区の土地改革を組織した。1953年1月5日、ただちに第一次5年計画を実施するために、中央は地方権利の削減が必要となり、高岗,饶潄石(ラオ・シュース)、邓子恢,邓小平,习仲勋(シー・チョンシュン)ら地方軍政第一要員(5つの地方局書記)は北京に集められた。歴史に名高い「五馬進京」とはこのこと。その中で邓子恢はそのなかで北京に用意された(筹建)中共中央農村工作部と出任部長となった。合わせて全国防汛総指揮を任された、1954年9月邓子恢は中華人民共和国国務院副総理となり、農業、林業、水利、気象、供給と信用合作などの部門を主管した。
   (なお 1954年に高岗 饶潄石事件が起きている。)

1955年4月毛沢東はもともとの65万の農村合作社の基礎上で、倍増して130万にすると。邓子恢は原計画は動かさないと主張した。すなわち65万社の基礎上で半分増やして100万まで発展させると。このため毛沢東は数回にわたって邓子恢とこの問題について協議した。邓子恢は意見を変えず、毛沢東は中央で会議を開き解決することを提案した。その後開かれた、省、市、自治区の党委員会書記会議において、毛沢東は「農業合作化問題について」の報告を行い、小脚女人は東に揺れ西に揺れて道を歩くように「右傾」の誤りを犯している、と批判した。1955年10月中共中央が招集した拡大七届六中全会で、邓子恢が提出した「農業合作化の発展速度は不適切に早すぎ、不可能なほど急ぐことを求めている」との意見は、「右傾機会主義」と断定されて、批判を受けた。1956年上半年に全国で農業合作化が実現した。1956年4月邓子恢jは全国農村工作部長会議を主催して次の提案をした。「新たな生産関係を安定させ、合作社を強固にする。合作社の要諦(关键)を強固にするには、農業生産を高め,90%以上の社員の収入増加を保証することである。政策の不十分なところを補い(进行政策补课),良い合作社幹部を選ぶこと。1956年8月には再び全国農村第二次農村工作部長会議を主催し、中央に代わって「農業生産の合作を強化するための指導と組織建設に関する指示」を起草した。
 1961年農村に下っての調査のあと、邓子恢はなお保留土地責任制を主張し、包産到戸を進め、毛沢東の行き過ぎた合作化政策に抵抗した。1962年9月中共八届十中全会で、邓子恢が提出した「包产到户」を指示する主張は、「修正主義綱領」だとされて激しい(严厉)批判を受け、邓子恢が指導する中共中央農村工作部は職務を取り消された。1965年1月に召集された第三届全国人民代表大会第一次会議は、国務院副総理の職務を免じ、改めて第四届全国政協副主席、計画委員会財経工作担当に任じた。
 文化大革命で邓子恢は迫害にあった。1969年10月廣西に追放(疏散)された。1970年6月北京で入院治療となった。1972年12月10日北京医院で世を去った。12月14日中共中央は追悼会を開いた。紀登奎が主催し、叶剑英が弔辞を述べた。
 1981年3月9日 中共中央の办公厅は邓子恢同志の名誉回復の通知を出し、その中でつぎのように指摘した。「彼は農業集団化(集体化)運動において、いくつの重要な問題について意見を提出した。その多くは正確であった。かつて行なわれた党内での彼と中央農村工作部に対する批判、処理は誤っており、名誉回復(平反)がされるべきである。力で押し付けられたすべての不実の言葉は、逆転され名誉が回復されねばならない。」同年6月27日の中共十一届六中全会において可決された「建国以来党の若干の歴史問題の決議」の中で中国農業に重大な意義のあるその農業責任制の観点は称賛されている。(以下翻訳作業中)

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 邓子恢(プロレタリア階級革命家 政治家) 邓子恢は名を紹箕とも言う。福建龙岩新罗の人。偉大な共産主義戦士であり、傑出したプロレタリア階級革命家、政治家であり、農村労働者の卓越した指導者であり、闽西革命根拠地そしてソビエト区の主要な創建者でありかつ卓越した指導者の一人。抗日戦争と解放戦争の経験者。解放後、中共中央農村工作部部長、国務院副総理、全国政協副主席などを務める。邓子恢同志は我が国社会主義農業の発展経路の探索に一生をささげた。党内の農業、農業工作の専門家とされる。
中国語名:邓子恢。別名:邓紹箕。国籍:中国。民族:漢。出生地:福建龙岩。出生:1896年(丙申)8月16日。逝世:1972年(壬子)12月10日。職業:政治家、軍事家。
若い時の履歴
 1896年8月17日邓子恢は福建省龙岩(ロンヤン)县(現在の新罗区)东肖邓曆村に生まれた。兄弟姉妹は8人で、上から2番目だった。邓子恢は幼年時 桐冈(トンカン)小学で学んだ。13歳のとき母が病気で亡くなった。17歳で龙岩中学堂(現在の福建省龙岩第一中学)丙班に入った。辛亥革命の影響を受け、孙中山の救国思想を受け入れた。1915年秋に中華革命党(中国国民党の前身)に入党し、救国救民の真理を探究し始めた。1916年末優秀な成績で卒業した。1917年3月 公費日本留学の試験に合格し、東京の東亜補習学校に1年余り留学したが、貧しさと病のため帰国した。
 1918年5月龙岩に戻る。母校の桐冈小学の教師となる。乡村の給与があまりに低く、一家の生活を支えることができなかったので、1918年末江西省崇义县(チョンイシエン)杰坝圩堂(チエパーウェイタン)に兄が開いた慶昌和雑貨店の店員になった。五四運動のあと、次第にマルクス主義を受け入れる。1921年春 進歩青年と龙岩白土桐冈書院を組織。奇山書社で月刊「岩声」を創刊、マルクス主義革命理論の普及に努める。
 1926年北伐軍は韵南に直進し、崇义县を解放した。杰坝圩では国民党(左派)区党部ができて、邓子恢は常務委員になった。同年12月、大革命の嵐のなか、陈赞雍(チェン・ツアンヨン)の紹介で崇义县は中国共産党に入った。間もなく陈赞雍と邓子恢は党員を10数名に拡大し中共崇义支部を成立させた。1927年第一次国共合作が壊れると、邓子恢は国民党から追われる(被通缉)ようになった。
土地革命戦争時期
 1927年冬、中共龙岩县委宣伝部長になる。1928年3月4日、党の八七会議精神と福建臨時省委員会の決議により、龙岩后田暴動を参加指導し、闽西第一派(支)農民遊撃隊を創設し、闽西ソビエト地区の闘争を開始する。
 1928年4月、中共上杭县宣伝部長となり、同县北四区の蛟洋農民運動の責任を負った。蛟洋一帯に深く入り、現地の指導者を助けて、蛟洋農民暴動を引き起こした。6月永定暴動のあと,暴動の隊伍を町からは撤収させて、農村で土地革命を展開することを提案した。
 1929年3月に中共闽西特別委員会書記に任命され、地方武装を指導し、毛沢東と協力して(配合)、朱徳が率いる紅四軍の入闽を戦った(作战)。邓子恢は朱(徳)に毛紅軍がすでに西に進み×× すでに闽西地区の敵情は変化し文書報告は紅四軍の毛沢東と朱徳のところに送られ、紅四軍に再度入闽を求めていた。毛沢東と朱徳は当時の敵情により紅軍を入闽させスビエト区を創立する(开辟)決定をしている。5月から6月、邓子恢は工農暴動を組織し、朱毛の部隊が闽西に入るのを助け、国民革命軍福建省防衛軍混成陈国輝部2000余人をせん滅した。5月23日夕方(傍晚)邓子恢は龙岩で毛沢東、朱徳、陳毅と初めて会った。同年6月紅四軍が龙岩城を初めて攻めたあと(攻打)、龙岩县の革命委員会主席に任命された。2ケ月経たないうちに、龙岩,永定,上杭3县の大部分の土地分配は完成した。7月、毛沢東の指導の下に、(邓子恢は)「闽西中共第一次代表大会を開催し、闽西土地革命と工農武装割拠の総路線を決定(确定)し、中共闽西特別委員会書記に当選した。
 1930年3月18日、(邓子恢は)闽西第一次工農兵代表大会を開催し、闽西ソビエト政府を設立させ、主席に当選し、闽西人民を指導し、闽西革命根拠地を力強く(巩固)発展させた。その間、董成荣そのほかの戦友とともに革命を行った。同年5月、闽西地方の紅軍と各県の赤衛隊合わせて3000人あまりは正式に中国工農軍第12軍を編成し、邓子恢はその政治委員を兼任することになった。闽西ソビエト区は縦横300里(150km),人口100万近くに発展。党組織は8つの県委員会、53の区委員会、546の支部、万前後の党員を抱えるまでに発展した。最盛期には6つの県、60余りの区、597の郷(乡)ノソビエト政府を建設した。
 1930年7月8日 李立三の「左」傾盲動主義の誤りに抵抗したため、特別委員会書記、ソビエト政府主席などの職務を免じられて、闽西の職務を外されたが、中共福建省委員会農村巡視員の名目で、闽中,闽东,闽南等に出向いて白区(国民党地区)工作を発展させた。1931年11月、中華ソビエト共和国臨時中央政府財政部長に選ばれ、代理土地部長も兼任した。1931年12月 中共厦門中心市委員会巡視員となり、漳浦 龙溪 云霄 平和などの県の土地革命と遊撃隊を指導し、紅軍独立第三団に発展させた。また闽南遊撃根拠地を創建した。
 1932年7月初めに邓子恢は紅軍東路軍とともに龙岩に戻ってきた。ほどなく瑞金に行き、中華ソビエト共和国臨時中央政府財政部長の職に就任する。紅軍に対して第四第五の包囲(围剿)のなか補給(供給)の責任を負った(担保)。1933年には国民経済部長を兼任した。自ら一連の中央ソビエト区の財政税収の政策と法令を制定公布し、中央ソビエト区の財政の統一について、土地革命の勝利成果を強固にして重要な貢献をした。かつて左傾教条主義者の誤った批判を受けて中央財政部副部長に降格されたが、徴発局の仕事は残された。中央主力の紅軍が長征に向かったあと、邓子恢は中央ソビエト区に残り遊撃戦争を堅持した。また中共中央分局委員を任じた。
1935年4月 闽西に戻り闽西南軍政委員会を組織した。前後して宣伝部長、財政兼民運部長、副主席兼財政部長に任命された。張鼎丞 谭震林 方方とともに、群衆を指導して遊撃戦争を発展させ、革命力量を保存発展させた。
抗日戦争時期
抗日戦争が爆発する前後、中共中央の方針に従い、苦しく複雑な闘争を経て、闽西の国民党当局と和談協議を達成し、闽西南第二次国共合作を実現した。1938年3月1日 邓子恢と張鼎丞 谭震林は率いている闽西南紅軍を新四軍二支隊に改編した。合わせて新四軍政治部副主任兼民運部長を兼任し、部隊は北上した。1939年邓と新四軍軍長叶挺哈,高敬亭問題を処理した。このあと新四軍は大別山を離れて、部隊は江北地区に進出した。1939年5月5日、邓子恢は新四軍江北指揮部政治部主任に任命された。1939年7月1日、新四軍第四支隊は第四、第五支隊に」編成江変えされ、邓子恢は第五支隊を指揮した。1939年12月初、邓子恢は中原局委員に補充された。1940年3月、邓子恢は自ら半塔集保卫战を指揮した。

1941年に皖南事变が発生し、新四軍軍部が殲滅(被歼)されたあと再編され、邓子恢は政治部主任になった。(以下中略)

中華人民共和国成立後

1949年12月 中南軍政委員会(のちの中南行政委員会)第一副主席となり、中南局工作を担当する。中南地区人民が国民経済の回復をna'do'to'to'mo'ni'to'to'mo'ni優れて完成させることを指導し、人民政権の××を建立し強固にした。かれのこの一時期の光輝ある業績、とくに農村土地改革と群衆工作訪問の独創性は、党中央から充分肯定された。

1952年10月中共農村工作部部長に任命された。1954年9月国務院総理に任命され、農業、林業、水利、気象、商業(供销)と信用合作などの部門を主管した。50年代の農業合作運動においては、現実に立脚して(实事求是)「小農経済の現状から出発する」、すなわち中国の農村の貧しく遅れた現状から出発し、党中央が確定した、自由意志により相互の利益による、ゆっくり前進発展する方針を一貫して実行するとした。その後の人民公社化運動での左偏向に際しては、一連の経営体制調整の意見を提出、包産到戸を含む様々な生産責任制を主張した。

1955年4月毛沢東はもとの農村合作社65万の基礎の上に倍増させ130万とすることを主張した。邓子恢はもとの計画を動かさないこと、すなわち現在の65万の基礎を半倍して100万に発展させることを主張した。そこで毛沢東は邓子恢と数回にわたり話し合ったが、邓子恢は意見を変えなかった。毛沢東は中央が会議を招集して解決することを提案した。その後開かれた省、市、自治区の党委員会書記会議で毛沢東は「農業合作化問題について」報告を行い、小脚女人のようなものが東に揺れ西に揺れて道を歩き、右傾の誤りを犯したと指摘した。1955年10月、中共が招集した拡大された七届六中全会で、邓子恢が提出した「農業合作化の発展速度は不適切に早すぎできないほど過度に急ぐことを求めている」との意見は、右傾機会主義だとされて批判を受けた。

1956年4月2日 邓子恢は全国農村工作部長会議の講演で以下のように述べた現在の合作社の基本要諦を整頓強化するべきで、なかでも大事なのは以下の3点である。第一は生産を改善(搞好),増産増収を保証し、社員生活を改善することである。これは合作社の物質基礎を固めるものである。主要には以下の3点「この一条はまだ達成されていなければ、すべてが終わったと同じだ。仕事をしつつ、仕事を勤俭(勤労倹約して)」行なうには、群衆の潜在力量を発揮させ、労働は定額で包工包産でよくさせる必要がある。二、政策上补课を要するときは合作社の幹部の素質を引き上げる。社内民主主義、選挙制度を確立する必要がある。社員と幹部の間、社員同志の間、社員と幹部の間の批判と自己批判(自我批评)制度の確立。

1961年農村に入っての調査のあと、邓子恢は保留土地責任制の主張を堅持し、請負責任制(包产到户)を進め、毛沢東の過度の農業合作化に抵抗するところがあった(有所抵制)。1962年9月,中共八届十全会において、邓子恢が提出した包产到户を支持する主張は「修正主義綱領」とされて、激しい批判を受け、邓子恢指導の中共中央農村工作部は職務を取り消された(撤销了)。

1965年1月全国政協副主席に選ばれ、計画委員会財経工作を担当した。このほか中国共産党第七、八、九届中央委員に選ばれた。文化大革命の間、林彪、江青反革命集団の激しい迫害を受けたが、逆境にあって消沈することなく、困境にあっても思考を進め(思备进) 、常に大局を見て原則を堅持し、彼らとの闘争を進めた。

1972年12月10日 政治上の長期にわたる迫害と不平等な扱い(歧视)のため(由于)、病により北京で世を去った。

1981年3月9日 中共中央办公厅は邓子恢同志の名誉回復(平反)の通知を出した。その中でつぎのように指摘した。「彼は農業集団化(集体化)運動において、いくつの重要な問題について意見を提出した。その多くは正確であった。かつて行なわれた党内での彼と中央農村工作部に対する批判、処理は誤っており、名誉回復(平反)がされるべきである。力で押し付けられたすべての不実の言葉は、逆転され名誉が回復されねばならない。」(以下翻訳中)

動画 農民統帥 

邓子恢(1896-1972) 元中共中央農村工作部部長 国務院副総理 全国政協副主席

1952年8月4日 毛沢東が国家組織(機構)を増やすので地方の各中央局書記は中央に移って仕事をするように文書指示(批示)をだした。 五頭の馬が進むとき一頭が最前列に立つ(五马进京一马当先)と言われるが、邓子恢はその中で政治的スターの一人だった。四億近い農民の利益にかかわる農民工作を行う中央農村工作部部長に毛沢東自身によって指名された。

邓准生「毛主席は父を探し出して「子恢同志には中央で農民の統帥として働いてもらうために移動させた」と話しかけた。「農村工作をうまく進めるために」。父は答えて「とても自分は務まらない、それに統帥は主席です、我々は助手を務めます(以下翻訳作業中)

2016-09-10 upload (2018-06-11更新)

現代中国研究

 


陳雲 (陈云 Chen Yun 1905-1995) 百度百科ほか

2018-06-10 20:15:33 | Area Studies

鳥籠理論そして陳雲(チェン・ユン 1905-1995)について 成城大学経済研究214号 Dec.2016   37-72

百度百科 陈云(チェン・ユン 1905年6月13日ー1995年4月10日) 偉大な無産階級革命家、政治家。傑出した(杰出)マルクス主義者。中国社会主義経済建設を創始した人であり指導者(奠基人)の一人。党と国家の長い経験と考察を経た卓越した指導者。毛沢東同志の核心的党の中央指導体制第一世代であり、鄧小平同志の核心的党の第二世代中央指導集団の重要メムバー。
 陈云同志は1930年代初めから党中央の指導工作を担当し、我々の党が人民をして革命、建設、改革の各歴史時期のおよそあらゆる重大事件を経験し、党中央にあって、さまざまな歴史時期の一連の重大な政策の決定と実施に参加し、何度も党と人民の事業発展の肝心なときに、党と国家の政策が十分重要な作用を発揮させた。陈云同志は中国人民解放事業の発展と成功のため、我が国社会主義制度の建設と確立のため、改革開放と社会主義現代化事業の開発と発展のため、全力で貢献し不朽の功績を打ち建てた。国内外で尊敬と威信は高く、全党全軍全国各民族人民の尊敬と愛を深く受けている。
 注1:叶永烈は、陳雲について書かれたものが少ないのは、彼が自分を宣伝することを好まず、陳雲を扱った画集、テレビ劇などを生前断っていたことが背景にあると指摘する。鄧小平に対しても常に自分は鄧小平の下にあることを強調した。陳雲は工員(労働者)出身であり、それゆえに中共領導層の出身が問題になったときも、あるいは文革のときも比較的平穏に暮らすことができた。彼の座右銘は「不唯上,不唯书,只唯实。交换,比较,反复。」。不唯上は権威を絶対としない意味、不唯书は書物を絶対とない意味、只唯实は現実あるいは本当の真理だけに基づくという意味だろう。そのあとの3語は真理あるいは現実に至る方法で、意見の交換、比較、検証の繰り返しを指す。 叶永烈,他影响了中国 陈云全传,四川人民出版社 华夏出版社 联合出版,2013,序。p.92参照

 家族関係 陈伟力(長女)陈伟华(次女)陈元(長男) 陈伟兰(三女) 陈方(次男) 孫:陈晓丹(陈元の子)陈小欣(同左)
陈云 国籍:中華人民共和国 民族:漢族 出生地:上海 出生日:1905年 逝去(逝世)日:1995年4月10日 職業:革命家、政治家 信仰:共産主義

人物生平
早年革命

 陈云は偉大なマルクス主義者で、無産階級革命家で、政治家。中国共産党と中華人民共和国の主要指導者の一人。中国社会主義経済の建設開創者にして基礎をなした人(奠基人)の一人。江蘇青浦(現在は上海に属する)人。1905年6月13日貧しい(貧苦)農民家庭に生まれる。二歳のとき父(陈梅堂)、4歳の時に母(廖顺妹),をなくす。裁縫を生業とする叔父(廖文光)により養われた。1919年高等小学科卒業後、貧しさ故に進学できず、上海商務印書館で学徒となり、のちに店員になった。1925年に五卅運動に参加。同年8月商務印書館発行所ストライキ委員会(のちの職工会)委員長となる。商務印書館大ストライキに参加、勝利を勝ち取った。すぐに中国共産党に参加、労工組織者として共産党の活動に従事し始めた。中共青浦县委員会書記、淞浦特別委員会組織部長、中共江蘇省委員会沪宁巡視員、江蘇省委員会常任委員兼委員会書記、中共上海闸北,法南区委員会書記かつ江蘇省委員会組織部部長、省委員会書記などの職を歴任した。
 注2:(幼くして両親を亡くした陳雲とその姉を養ったのは母方の祖母:外祖母であるが、この祖母も間もなくなくなり、陳雲は母方の叔父:舅父夫婦に養われることになる。その生活は苦しく小さな飲み屋を始めた。7歳のときに陳雲は小学校に入学したものの学校をあきらめざるを得なくなった。このとき飲み屋の客の顔安国民小学校長の杜衡伯は聡明な陳雲の学業が失われたことを惜しみ、無料での入学を認めた。陳雲はこの支援を忘れたことはなかった。1919年に陳雲はこの小学校を14歳で卒業したが、中学校にすすむことは金銭的にできず、小学校の時の教師張行恭の弟が務める上海商務印書館の見習い(学徒)の仕事を紹介され、上海に出ることになった。ここに共産党の党員が何人かいたことから、印書館は中国共産党の重要な基地になる。そして陳雲は1925年上半期に入党。6月下旬には印書館工会(労働組合)の設立の中心メムバーの一人になる。8月には工会はストライキを行い、成功裏にストが収束させる。しかし9月末に陳雲は上海を離れて故郷に戻らざるを得なくなる。四一二政変のあと、共産党員が虐殺されることがあったこともあり名前がでていた陳雲は逮捕されるおそれがあった。共産党の指示で農村に入り、農民運動を組織することになった。1928年1月には農民革命軍が組織され、米を奪って分配するなどの行為を行った。地主たちも武装して自衛団を作りさらに省政府に報告。省政府から国民革命軍に救援を求めた。そうした状況下で農民革命軍の正副指揮官がつかまり、26日に銃殺された。陳雲も危険になり、28年9月に遂に故郷の地を離れたとされる。・・・叶永烈,他影响了中国, 第1章)
 1930年と1931年、前後して中共六期第三次中央委員会全体会議、四次中央委員会全体会議で中央候補委員、中央委員に当選した。1931年5月に中共中央機関安全的中央特科書記に任ぜられ、9月には臨時中央領導メムバーとなった。1932年に臨時中央常任委員、全国総工会党団書記になった。1933年に中央革命根拠地に入った。1934年中共6期第六次中央委員会全体会議で中央政治局委員、常任委員に当選し、白区工作部部長を兼任した。のちに長征に参加、全軍後衛任務の赤5軍団において中央代表となった。のちに軍事委員会纵队政治委員。1935年1月貴州で開かれた中共中央政治局会議(遵義会議)で毛沢東の正しい主張を支持した。
 注3:まだ25歳であった陳雲が1930年の中共六届三中会で候補中央委員に当選した背景にはコミンテルン(共産国際)の意向が働いている。当初コミンテルンは知識分子が外国語を理解し、マルクス主義の原書を読めることから、陳独秀のような知識分子を中国共産党の指導者として期待したが、陳独秀は右傾機会主義の過ちを犯し:陳独秀はコミンテルンの指示もあって国共合作を進め孫文が亡くなったあとも汪兆銘と組んで国共合作の延命をはかったとされる、続く知識分子の瞿秋白は左傾機会主義の誤りを犯したとされる:彼が最高指導者であったときに、起こされた武装蜂起が失敗したことを指している。こうした経験から、1928年6月モスクワで行われた中共六回大会は総書記に労働者出身の向忠発を当選させた。このように指導部の出身階層を問題にする雰囲気のなかで、陳雲は中央指導部にはいったとされる。そして翌年1931年には六届四中全会で中央委員に選出される。しかしこの1931年に重大な事件がおきる。六届四中全会で中央政治局候補委員に昇格した顾顺章が逮捕された(4月25日)。彼は労働者出身で組織と幹部の安全を保つための共産党内の組織の責任者で、党内の機密を良く知っていた。問題はその顾顺章がたちまち寝返った(叛变)ことであった。一部の幹部は直ちに上海を離れるが、結局6月22日 武漢で総書記の向忠発が逮捕される。この労働者上がりの総書記は、信じられないことだが すぐに寝返り多くの秘密を事細かくしゃべり新たな逮捕者につながるのである。多くの秘密を漏洩した向忠発は逮捕3日後の24日に処刑されたとされている。総書記のポストをねらっていた王明は1931年10月にモスクワに逃げたとされる 上海に残った幹部として陳雲と康生がおり このときから康生は防衛工作の責任者 陳雲は総務を担当し1932年3月には27歳で中共臨時中央常任委員になっている・・・・・叶永烈,他影响了中国, 第2章)
 注4:このあと1932年10月に上海共青団の中央期間が国民党特務機関の捜索を受けた。そして逮捕された共青団書記の袁炳辉がやはり寝返った。コミンテルンの了解を得て中共臨時中央の博古、張聞天、陳雲の3人は江西に向かうことになった(1933年1月)。江西に入った陳雲は。瑞金にゆき、全国総工会の事務を劉少奇とともにとった。また1934年1月に瑞金で行われた中共六届五中全会では中央政治局委員に当選した。34年10月10日中央紅軍は西征を開始した。これはのちに長征にかわった。第五軍団における中央代表として第五軍団とともに江西を出発し長征にむかった。・・・・・・叶永烈,他影响了中国, 第3章)
 注5:さらに上海に再び向かい、そしてモスクワに至るのは遵義会議:1935年1月の内容を共産国際に報告することを毛沢東に頼まれたことによるのだがこれは危険でかつ重要な任務だった。まずソビエト区は敵に包囲され、言葉の違う四川を通る必要があった。そこで途中までは紅軍が護衛につき、その後は案内人となった地下党員の席懋昭とともに成都から重慶経由で上海に向かった。上海についたのは1935年6月末。上海では1936年11月に七君子事件の当事者の一人になる、浙江実業銀行副総経理の章乃器と連絡をとっている。かれは1957年の反右派闘争で右派分子として重点批判対象にされてしまうが、実は共産党との関係は密接で地下組織を支援していた。また孫文夫人の宋慶齢に密会して、ソ連への脱出の手助けを求めたとのこと。こうして陳雲は上海から貨客船でウラジオストックにむかい、あとはシベリア鉄道でモスクワに入ったとされる。上海をたったのは8月5日、モスクワには8月20日についている。そしてモスクワの共産国際執行委員会書記処会議:10月15日で遵義会議についての報告を行っている。もちろん内容は誰かがロシア語に翻訳したわけだが、そうだとしても中共中央と共産国際との連絡関係を回復し、毛沢東の主導権確立を認めさせた意味は大きい。このモスクワにいたとき、陳雲はレーニン学校と呼ばれる幹部学校で学ぶことができた。10月から学習をはじめ3月からは先生役を務めたというのは早すぎるとは思うが、彼が学生生活を楽しんだことは間違いないだろう。1936年12月にモスクワを立って帰国に向かうが西安事件の影響でアラムトにとどまらざるを得なくなる。1937年4月からは中共中央の新疆代表として新疆迪化に赴任している。その後1937年12月 迪化を経由したモスクワ発の飛行機に同乗し、王明、康生とともに延安に降り立ち帰国している。・・・叶永烈,他影响了中国, 第4章)なおソ連にいたときソ連の経済モデルを研究した。p.72 また英語を勉強して大意をつかめるまでになった。p.69
 注6:延安での生活で注目されるのは比較的落ち着いていたこの時期に陳雲は大量の読書を行い著述をおこなったということ、p.88以下 そして奥さんになる于若木と知り合い、1938年3月に結婚した。彼女のお父さんの于丹绂は中国から初めて日本に送られた留学生の一人。早稲田大学に留学して日本語に堪能。帰国後山東第一師範の校長を務めた。家族には学者になったものが多い。彼女はその3女である。・・・叶永烈,他影响了中国, 第5章)
抗日戦争
 (遵義)会議のあとで「遵義政治局拡大会議伝達提綱」を書いている(撰写)。同年6月四川省天全县灵关殿から秘密裏に長征の隊列を抜けて、成都、重慶を経て単身上海に至り、共産党秘密工作の回復に従事した。そのあとまた上海からモスクワに至り、共産国際執行委員会書記処で、中国工農赤軍(紅軍)の長征と遵義会議の状況について報告した。もっとも早期の赤軍の長征の宣伝である「西行隋軍見聞録」を書いた。中共駐共産国際代表団に参加した。1937年4月に新疆迪化(現在の乌鲁木齐)に戻り、中共中央の新疆代表に任命された。5月に新疆と甘粛の境目にある星星峡地区に赴き、赤軍西路軍の生き残り400人余りを接遇して迪化に入るのを支援した。11月に延安に戻ったあとは、中共中央組織部部長に任命され、党の建設と党の幹部工作に重要な貢献があった。延安の整風期間においては、マルクス主義哲学を学び、中国革命の経験教訓を総括し、領導する者は工作の指導において、上を絶対とせず、書を絶対とせず、ただ「実」を絶対とする科学的態度を取らなければならない、それを自身の行動の準則としなければならないとした。1944年3月には西北財経事務所(办事处)の副主任、政治部の主任に任命され、中共中央の陕甘宁边区の財政経済工作を主管した。経済を発展させ、供給を保障する方針を実現させた。1945年6月には七届一中全会で中央政治局委員に継続当選し、8月には中央書記処の候補書記に任ぜられた。
解放戦争
 抗日戦争勝利後、重要な戦略的意義のある東北解放戦争を参加領導した。北満と南満を転戦し、中共中央北満分局書記兼北満軍区政治委員、中共中央東北局副書記兼東北民主連合軍副政治委員、中共中央南満分局書記兼遼東軍区政治委員、東北軍区副政治委員、東北財政経済委員会主任、沈陽特別市軍事官制委員会主任などの職を歴任し、東北全体の全域の解放と東北経済の回復に突出した貢献を行った。1948年8月ハルビンで行われた第六次全国労働大会で「当面の中国職工運動の総任務」と題した報告を行い、10月には中華総工会主席に当選した。
新中国初期
 中華人民共和国成立後、中央人民政府委員、政務院副総理兼財政経済委員会主任に任命され、全国の財政経済工作を担当(主持)した。1950年10月中共中央書記処書記に任命された。全国財政経済の統一、金融物価の安定、国民党政権下の10年以上の長きにわたった悪性通貨膨張の収束、工商業の調整、国民経済の回復、抗米援朝戦争勝利の保障、糧食・綿花など主要農産品の統一購入統一消費(统购统销・・・購入・消費の政府統制)など重要な決定とその活動のなかで、生産資料の私有制に対して順序立てて進められたのは(再有步骤地开展)、私営工商業の社会主義改造であり、国民経済第一次五カ年計画の制定と実施において、中国社会主義工業化の基礎の开创性を固める工作中、彼は実際の状況から出発。一連の慎み深く(慎重で)現実的な方針と政策を提出実施して、多くの人が卓越した貢献をしたと考えることを行った。(他方で)彼は1953年に生じた陰謀・党の分裂活動では断固として、高岗と饶潄石raoshushiに反対した。1954年に国務院副総理に任命された。前後して商業部部長、国家基本建設委員会主任を兼任した。1956年9月、中共八大で「社会主義改造基本改造以後の新たな問題」という発言をおこなった(という意見を提出した。)。当時の中国の社会経済の実際状況にもとづき、ソ連経済モデルを突破する新たな経済体制構想を提出した。すなわち、国家経営と集団経営を工商業の主体とし、一定数量の個人経営を補充とする。生産領域では、計画生産が工農業生産の主体とし市場の変化に応じて進行する自由生産を補充とする。流通領域では、国家が市場を掌握することを主体とし自由市場を補充とする。中共の八届一中全会において、中央政治局常務委員と中央委員会副主席に当選した。
 1957年1月に中共中央経済工作5人小組組長を担当した。中国の社会主義建設に対して、彼は一貫して実事求是の原則を堅持。現実条件を顧慮せず急いでことをなそうとする誤った傾向に反対した。建設規模を国力に見合った一定のものとすること、人民生活の基礎を整えたうえで建設規模を拡大するすることを主張した。国民経済計画は、総合平衡(全体としてのバランス)を保たねばならないと主張し、均衡のとれた発展を実行するとした。50年代末から60年代初めの、国民経済が極めて困難に遭遇したとき、彼は過大な鋼鉄生産指標がもたらした経済全体の調整について毛沢東から委託を受けて、劉少奇、周恩来、鄧小平とともに、都市の2000万人を農村に送る(下乡)果断な措置により、また一部の商品価格の引き上げや、貨幣の回収(回笼)などの一連の正しい措置により、国民経済を回復させた。農業の発展中に遭遇した困難の解決のため、彼は上海青浦などを調査して、農村での請負制(包产到户)政策をまとめ、中国農業改革の先駆思想となった(先駆けとなった)。彼のこの主張やそのほかの実際的経済の主張は、「右傾」ととられることになり、毛沢東の冷遇を受けることになった。
 注7:1952年に革命戦争年代に養った喫煙の習慣を絶った。1959年心臓病:冠心病を患った。回復はしたが完治はしなかった。・・・诸天寅, p.202)
 注8:1959年7月2日から8月16日陳雲は心臓病のため休んでいた。1959年6月から1960年9月まで。南方で休養していたとも、各地の実情を調査していたともされる。他方 鄧小平は転倒による骨折で同様にこの会議に出なかった・・・叶 p.201-202
 注9:1957年に反右派闘争で批判を受けた包産到戸 安徽省での農業建て直し策として1960年に復活してくる しかし1962年の7000人大会で安徽省の曹希経は批判を受け第一書記の職務を免ぜられるしかし 実際には各地で包産到戸が試みられ 農村工作部長の邓子恢は指示を表明していた。毛沢東の指示でこの問題を調査していたら田家英は調査の上 農業生産に効果があることを毛沢東に報告している。このとき鄧小平も明確に賛成。毛沢東に面談した陳雲も賛成を明らかにする。しかし毛沢東は、包産到戸を社会主義にするものだとして認めず、1962年9月の邓子恢の職務停止にむかう。・・・・・叶 220-223,228;诸,134-137
文革期間
 文化大革命の間、彼は党内の中央委員の名義(肩書)を保ったまま、江西省南昌市のある化工石油機械工場の実情調査(蹲点)に下放された。1972年4月に北京に戻り、周恩来の意見により国務院の業務工作に参加し、国際経済の形勢と対外貿易発展問題とを研究した。彼は現代資本主義をよく研究して成果を提出し、世界市場で中国が占めるべき地位があるとした。1975年には第五届全国人代常任委員会副委員長に選出された。1976年に「4人組」を粉砕する決定に参加するなかで、叶剑英に対して「この闘争は避けることはできない」と述べた。
 注10:3年近い間、工場で労働したり農村に参観するほか、そのほかすべての時間を彼は読書にあてた。再び資本論をよみ、レーニンが10月革命後に書いた新経済政策と党内民主生活方面の著作をあわせて、我が国の経済体制と党の民主集中制問題を深く考えた。・・・诸天寅, p.213)
 注11:1969年10月林彪は命令を出し老革命家劉少奇、陳雲、鄧小平、李先念、叶剣英、王震たちの離京を命じた。陳雲に対する扱いは中央委員の名義を失わななかった点で違っているほか、周総理自身が暖気の手配、接触する人の数を減らすなどの配慮をしたことも知られている。実情調査とは朝八時からの労働とその後の政治学習に参加すること。1970年にはしかし状況は変化、8月23日の廬山で行われた九届二中全会に中央は参加を求めた。ただ陳は心臓病のため全体会議などに参加できたにとどまった。さらに1971年9月13日に林彪の事件がおき、周恩来は一部老幹部の起用をはじめる。中央の批准を得て4月22日北京に戻るための陳雲の出立が決まる。4月24日に陳雲はほぼ3年ぶりに北京に戻った。なおこの2年あまりの間に、魯迅、毛沢東、マルクスエンゲルス、資本論、レーニン、スターリンなどを読んだ。資本論については延安で一度、そしてこの江西で今一度読んだとしている。そして周恩来は国務院で外貿工作で陳雲の助力をえることにする。・・・诸天寅, p.138-143)
改革開放後
 4人組を粉砕したあとの、1977年3月の中央工作会議で、彼は鄧小平を党中央の領導工作に再び参加させるべきだと発言した。1978年の中央工作会議で彼は率先して冤罪虚偽案件(冤假错案yuan1jia3cuo3an)の名誉回復に言及した。彼は続いて開かれた十一届三中全会で、中央委員会副主席と中央政治局常任委員に当選し、中央規律検査委員会第一書記を兼ねることになった。中共十一届三中全会のあとは、彼は鄧小平を核心とする第二代中央領導グループ(集体)の重要な構成員となり、党と国家の主要決定を行う人(主要决策jue2ce4ren)の一人となり、中央領導グループのその他の同志とともに、思想路線、政治路線そして組織路線の拔乱反正(乱れを正すこと)の推進(进行)で全党を牽引(带领dai4ling3)、経済建設では中心として、4つの基本原則の堅持、改革開放の基本路線の堅持して制定執行にあたり、中華人民共和国建国以来の多数の歴史遺留問題と、現実生活上に現れた新たな問題を正しく解決し、中国独特の(特色的)社会主義事業を成功裏に創建するうえで重大な貢献を行った。彼は鄧小平が提出した実事求是で毛沢東の歴史地位を確立することを全面支持(全力支持)し、毛沢東思想の主張を堅持発展させた。中国の改革開放と社会主義の現代化建設に対して、彼は一連の根本的な意義のある(具有深刻意义的)思想と重大な政策を提案した。たとえば国民経済の均衡が深く損なわれて全面調整を行うにあたって、社会主義の時期には二つの種類の経済、すなわち計画経済と市場調節が必ず必要だとした。また改革の歩みはゆっくり(稳)であるべきで、石を探して河を渡るよう(摸着石头过河)でなければならないとした。試したら常にその経験を総括する。農業なくして安らかではない、食料がないと国が乱れると強調した。経済状況の不安定さ(不稳定)は政治状況の不安定さを引き起こすことを指摘した。政権党の党風(仕事をするうえでの態度)問題は、党の生死を分ける(重要)問題であり、徳才を兼ね備えた中青年の幹部を大量に選抜育成することは急務とした、などなど。彼はまた「一国二制度」構想により、香港とマカオに主権の回復をすること、また海峡両岸の和平統一を実現することに、大量の心血を注いだ。
 注12:1979年に直腸癌を患い切除手術を受けた。手術は成功した。・・・诸天寅, p.202)
 中共十三大以後、彼は中央領導工作を退き、中央顧問委員会主任となった。鄧小平を中核とする第二代中央領導グループから江沢民を中核とする第三代中央領導グループへの順調な移行において、党と国家が確固とした(稳定的)重大決定を進めることを保証するうえで、彼は十分重要な作用を発揮した。中共十四大以降、彼は仕事を離れた(过着离休生活)。1995年4月10日病により北京で亡くなった。主要著作は≪陈云文选≫3巻に収められている。

为共产主义事业奋头到底的一生-我所了解的晚年陈云・・・・・朱佳木 论陈云  中央文献出版社  2010年
陈云同志の境遇(身世)は大変苦しいもので、幼年時に父母を相次いでなくし、母方の叔父(舅舅)と叔母により育てられた。高級小学校(高小)を卒業後、14歳にして、家庭の負担を増やさないために、続けて学ぶ思いを断念して、上海の商務印書館文具売り場(文具仪器柜台)の見習い店員(学徒的工作)となった。1925年見習い期間が終わり(20歳)、虹口書店の店員になった。月給5元であった。まさにその年、上海で内外を震撼させた五卅惨案(ウーサ ツアンアン)が生じた。
(舅舅は陈云を養子として迎え、廖陈云と改名した。陈云は最初、私塾で教育を受けそのあと1914年から小学校で学んだ。しかし1916年夏 叔母が出産後、病にかかってから一家は困窮に陥り、陈云も叔父の小酒店の下手伝いを迫られるようになる。しかし店の客でもあった小学校長の配慮で、陈云は学費免除で高級小学の過程を終える。その後、商業学校に進学したが経済的理由で1ケ月余りで退学せざるを得なかった。商務印書館には小学校のときの先生の弟が働いていて、その紹介で1919年6月に働き始めた。最初は排字:植字部門で学徒工となったとあるが、その意味は時間があれば夜学に通えたということのようだ。陈云与马寅初 p.22-23)
(五卅惨案 1925年5月30日 上海で2000人ほどの学生が、5月14日に日本資本の紡績工場でストライキが鎮圧され、死傷者が出たことに抗議しようと集まった。これに対して英国の保留地警備官:巡捕が100人余りを逮捕した。午後になり万を超える群衆が、逮捕されたものの釈放を求めて集まったのに対して、英国の巡捕は射撃や殴打で鎮圧、多数の死傷者、逮捕者がでた。背景には共産党の指導のもとに、労働争議が多発していたことがある。....百度百科による)
(吴佩孚ウーペイフ 1916年に袁世凱が死ぬと中国の政局は不安定化する。孫文が南方で自立化を目指すのを北の北洋軍閥の中には武力でこれを抑えようとするものもあった。こうした中で1919年五四運動が発生する。吴佩孚は北洋財閥の直隷派に属する司令官であるが、武力統一に反対し、五四運動を支持する立場を明確にした。そのあと1925年までは日本と結んだ奉天派と争う形であった。....日本語のwikipedeaによる)
陈云はのちに自伝で次のように述べている。「それまで私は吴佩孚に賛成であった。このあとは、外に対して強権に抵抗し、内に対して国賊を除くという国家主義派を信頼した。(しかしその後)三民主義を読んで孙中山(スン・チョンシャン 孫文のこと)の道理は蛮多(すごい)と思った。」(陈云年谱 上卷  20)そこで彼は国民党に入り、商務印書館発行所分会の発起人(首创人)の一人になった。8月中旬、商務印書館の労働運動の積極分子は中国共産党の指示のもと、ストライキの列に加わった。スト中に彼は推薦を受けて、発行所職工会委員長、発行所職工会、印刷所工会、総務所同人会の連合ストライキ執行委員会委員長となり、併せて商務印書館の中で早期に入党していた董亦湘(トン・イーシアン)、恽雨棠(ユン・ユータン)の紹介で中国共産党に加わった。のちに彼は自身の入党の動機について次のように書いている。「入党の動機は明らかにストライキ活動(运动)そして階級闘争の影響だった。このとき「マルクス主義簡解(浅说)」「資本制度簡解」さらに「共産主義ABC」まで読んでいたが、なお理解していなかった。これらの本を見るとその説明(道理)は三民主義より納得できるものだった(更好)。スト活動して2冊の本を読了後、すぐに党に加入した。ただ私は入党時の経緯考慮を自覚し、入党してから、自分はかつての自分ではないことを自覚し、これからは自分は一家を構え事業を行うのではなく(今后不是做成家立业的一套)、革命を行うのだと考えた。この人生観の改革は、以後私にとって大きな助けになった。」彼はつぎのようにも言っている。「あのとき社会の改造が必要で、ただそうすることでのみ人類を解放できると理解した。この思想は私にとても大きな影響を与えた」(陈云年谱 上卷  25)そのとき陈云は20歳だった。
早くも党の七次大会で毛沢東同志は次のように述べたことがある。「各共産党員が入党するとき、現在の新民主主義革命に奮闘する、そして将来の社会主義と共産主義のため奮闘する、という二つの明確な目標を心に抱いており、共産主義の敵による卑劣な敵視、侮蔑、あざけりと嘲笑を気にかけることはない」(毛沢東選集 3巻 1059)。陈云同志も延安時代につぎのように言ったことがある。「一人の自ら共産主義事業に献身する共産党員は、党のために各時期の具体的任務に奮闘するだけでなく、共産主義の実現に向けて革命的人生観を確定(確立)するべきである」(陈云文選 1巻 137)。歴史が証明するところでは、陈云同志は不断に党の各時期の具体的任務に奮闘しただけでなく、同時に心の中で共産主義の遠大な目標を気にかけていた共産党人である。もちろん白色テロの恐怖下で秘密活動を行うときも、根拠地において苦しい生活を過ごすときも、単独で特殊な使命を執行するときも、あるいは重要な指導職務にあるときも、順調なときも逆境にあるときも、彼は一途に着実に共産主義事業のため奮闘を続けた。彼は一方では、共産主義に急いで向かうという論法で、実際からかけ離れることに反対したが、他方ではただ目の前の利益にこだわって、動揺のあまり共産主義の理想的言辞(言行)を放棄することにも反対した。
私(朱佳木)が陈云同志のもとで仕事をするようになったあとで、あるとき彼はほかの同志が提出した「共産主義ははるか先でいつになるかわからない(遥遥无期)」という観点について、「この観点は正しくない。共産主義ははるか先だが期限はある=遥遥有期,社会主義は共産主義の第一段階である、というべきだ。」彼はまた当時海外の人が要求していた我々の党の改名問題について、私に言った。共産党という字は、その奮闘目標を示していると。改名はできる。延安時代に、共産党の改名を提案する人があり、毛主席は「どんな字が良いだろう?国民党がもっともよい。残念ながらほかの人がすでに使っている」といった。開国解放後、一部の人は出国して数日。帰国して中国は外国と異なる、社会主義は資本主義とは異なる、と主張する。この種の現象を陈云同志は十分重視した。1983年党の十二次第二回中央委員会全体会議の発言を準備するときに、彼の発言原稿の中に「資本主義は社会主義に置き換えられるべきもの」と書き加えることと、最後に「社会主義万歳、共産主義万歳」(陈云文選 3巻 332-333)と叫ぶこととを、特に私に言づけた。
なお一つのことが陈云同志が共産主義の大きな目標を常に忘れなかった心境をよく説明できる。1983年の党の十二次第三回中央委員会全体会議の前、中央日常工作を担当する同志が、小平同志が講話するので、そのときに陈云にも話してもらえるだろうか、といったときだ。陈云同志はまず私に発言稿の起草を求め、併せて政権党(執政党)の党風問題を強調せねばならないとした。当時、彼は簡易報告から、農村党員の一部の集団訓練において、糧食補助のほか、休工賃を出し, それでもなお一部に党員はカネをもらわなければ出席しない。という有様を読み取った。彼は言った。「これは党が政権を取る前は想像できないことだ。解放前、同様に農村において、戦争を支援し、弾薬を輸送し、負傷者を救護し、休工を補償することはなかったし、かつかかわったために傷を負い死ぬことも常にあった。これを比較すると、現在この種の休工を補償するのは理屈に合うだろうか?仕事を休むことを補償された共産党員はちょっと考えるべきだ。このようにすることは共産党員の基準(标准)に合っているか?共産党員の基準は共産主義の為、自己の命の犠牲も惜しまず生涯奮闘することではないか。私は集団訓練を見るに、参加するにはお金が必要だという人は、共産党員になることはできない(陈云文選 3巻 332)。
 このほかもう一つのことが、私が陈云同志から離れた後、起きた。あのとき、関連する改革解放の一連の相応の法規制度は一度には仕上がらず、加えて党内にはただ物質文明の建設に注意し精神文明や思想政治工作を軽視する現象が生じた。指導幹部の中には「ただ金を見る(一切向钱看)」理論を鼓吹し、一部の人たちは改革解放の機会にあらゆる空買い空売り、その反対売買、賄賂を行い賄賂を受け取り、税関を潜り抜けて売買し、人を巧みに騙し(弄虚作假),騙し脅して財物を集め(敲诈勒索),関税は逃れて、ニセ薬やニセ酒の製造販売、はなはだしきは卑猥な映像の放映販売に至り、婦女売春などあらゆる悪事が出現した。この種の状況に対して、陈云同志は中央規律委員会の第六次全体会議で文書講話を発表し、つぎのように指摘した。「対外開放、そして国外先進技術と経営管理経験を導入し(引进)、我が国の社会主義建設に役立てることは、完全に正しく堅持するべきである。しかし同時に、対外解放により、資本主義の腐った思想と作風の侵入を避けようがないことを見るべきである。これは我が国の社会主義事業にとり、直接の脅威(危害)である。(しかし)もしわれわれの各段階の党委員会、我々の党員とくに老幹部が、このことをはっきりと認識して、高度に警戒(警)に努めるなら、共産主義思想を核心とする教育を対抗して(有针对性地)進めるなら、資本主義思想の侵入は全く怖くない。われわれはマルクス主義、共産主義の真理を信じており、資本主義の腐った思想と作風の浸食に必ず勝利できる。」彼は呼びかける、「全党の社会的力量を動員組織して、徹底して悪を除く精神で、堅い決心の戦いを進めねばならない」「もちろん誰であれ党の規律、政治の規律に反したものは、必ず党の規律、政治の規律の処理に委ねられねばならない。法律に違反したものは、法の処理に委ねられねばならない。各段階の規律委員会はこの原則で進めるべきで、さもなければ失職である。」(陈云文選 3巻 355-356)
共産主義の信念としては、マルクス主義に由来する人類社会の発展法則(規律)の科学が示されている。そこで陈云同志は党員とくに党員幹部にいくつかのマルクス、レーニンの著作を読むことを一貫して重視、提唱した。1983年後半、中央は3年の整党(規律強化)の実施を決定し、ある関連部門が整党のための学習文献目録を試作した。彼は見てからいった。「この目録には、マルクス、レーニンの物が全くないが、「共産党宣言」「社会主義 空想から科学の発展へ」「マルクスの墓前での講話」「帝国主義は資本主義の最高段階である」などなど、さらに毛主席の「中国革命の戦略問題」「持久戦論」から何編かを選ぶべきだろう」。ある同志が、マルクス、レーニンの本は長すぎるといったところ、彼は言った。「要約で済ませてもいい、私の文章を何編か減らして一二編残せばいいことだ(当時書名目録に上には5編の陳雲同志の文章があった・・・筆者注)。これは謙虚ではない、われわれのものは皆すべてマルクス=レーニンに由来するのだ」。その後、中央は、整党完成後、組織党員幹部が学習するマルクス主義の若干の基本著作を選出決定した。
共産主義の理想信念が堅固であるかどうかは、帝国主義の本質の認識関係と同時だ。1980年代、一部の人たちは、新たな科学技術革命が、資本主義が自身を絶えず更新するメカニズムを保有するように、資本主義の本質を変化させ、レーニンの帝国主義論を過去のものにしたと考えた。この観点に陳雲は高度に関心をもった。1989年の政治風波のあと、彼は一人の中央との会話において鋭く指摘した、レーニンが論じた帝国主義の5つの特徴、他国を侵略し、互いに覇権を争う本質は、過去のものではない、これを過去のものとする観点は完全な誤りであり、極めて有害だ。 
动画   陈云的故事・・・・・
1978年の日暮れ時、73歳の陈云とその夫人の于若木(ウー・ルオムー)がちょうど杭州西子湖畔を散歩していたとき、小さな商店の前で一振りの美しい壇木算盤が陈云の目を捕らえた。
于若木(ウー・ルオムー)「杭州の三潭に至る月が湖面に映るところで、小さな店見つけました。店先の勘定場に一つの算盤があり、彼はそれを取って打ち始めたのです。みんなに実演してみせたのです。とても熟練していました。」
陈云の算盤の一幕は、その場にいた撮影記者によってスナップに納められた。
1981年1月中国仏教協会会長の赵朴初はこの写真を見て、深い感慨に打たれ次の詩を読んだ。「ただ事実を求め 珠を上げ下げ加減乗除反復比較したうえで軍略をめぐらし 最後の決戦に挑む 熟練のはかりごととと深い思慮は国がたよるところ」
この詩は「共産主義のために算盤をとった(红色拿柜)」陈云の真実を写し取っている。
1917年の夏のある日 12歳の陈云は地元の青浦县の乙种商業学校で勉強するように送り込まれた。家人は彼が将来商店の中で帳簿を付けをすることを願ったが、残念ながらわずか1ケ月のちに陈云は家庭の貧困のため退学せざるを得なかった。この短い学習で勉学熱心な陈云は一生使い続ける二つの技能、珠算と記帳という技能を獲得した。これは彼が少年の時受けた唯一の正規の商業教育だった。
  1944年3月中国共産党が指導する陜甘宁边xiaganningbian区で、早くから職業革命家の道を歩んできた陈云は、毛沢東の提案で中央政治局会議決定で、中共中央西北局委員と合わせて、西北財経事務所副主任、とするとの新たな任命を受け取り、陜甘宁と晋缓边区の財経工作を担当することになった。
阵云と社会主義の新時期経済 『党的文献』1995年2期 1995年3月 pp.54-64
阵云は我が党我が経済工作の傑出した指導者である。彼は党の社会主義建設の歴史進程において、卓越した組織才能と、非凡な思想知恵を表し、全党の賞賛を受けた。社会主義建設の新時期に入ると、阵云はその豊富な経済工作を指導した経験をもって、文革中遭遇した国民経済の厳重な破壊の回復に努めた。中国の特色のある社会主義建設道路を探索し、改革開放事業の発展を推進し、重要な貢献を行った。
1.国民経済調整の首唱者かつ領導者
10年動乱による経済の破壊は厳重を究めた。1976年に文革が終わった時、中国経済はすでに危难にあった。国民経済のバランスはひどくこわされ、システムは僵化(バランスを失い)、企業管理は混乱し、経済効率はひどいありさまだった。 (作成途中での公開・いずれも研究のための試訳である)
维基
陈云(チェン・ユン) 1905年6月13日―1995年4月10日 廖陈云(リアオ・チェンユン)と名乗ったことがある。江蘇省青浦县(チンプーシエン 現在の上海市青浦县)人。政治家にして経済管理家。陈云は中国共産党と中華人民共和国の第一世代そして第二世代の中央指導集団の重要な構成員であり、改革開放以後継続して党の重要職務を担った。
陈云は早くから上海の労働者運動を指導し、その後、中国工農紅軍に参加した。長征にも加わった。中共中央新疆代表、中共中央組織部部長、中共中央政治局委員等の職を務め、その後、東北に行き、東北局副書記に任じられ、東北財政経済委員会主任、中華全国総工会主席、中央人民政府委員を務め、「銀元の戦い」(人民元の価値を守る戦い)を指導した。
中華人民共和国成立後、陈云は中央人民政府政務院副総理兼政務院財政経済委員会主任を任じられた。全国経済回復工作を担当し中国の第一五カ年計画を制定。1956年中国共産党第八次大会で中共中央政治局常任委員に選出。中共中央副主席。その地位は毛劉周朱の四人に次ぐものであった。文化大革命中迫害を受ける。その後原職を回復。中共中央規律検査委員会第一書記となる。1987年鄧小平に代わり中共中央顧問委員会主任に選出、当時政権にあった八大長老の一人。

中略
中華人民共和国成立初期
1949年10月1日、陳雲は中華人民共和国開国大典に出席した。10月19日、中央人民政府委員会第三次会議で政務院副総理兼財政経済委員会主任、重工業部部長に任命された。11月政務院財政委員会を主催して(主持)、市場物価の安定、朝鮮戦争への支援、重大都市への供給などを討議した(研究)。1950年2月、全国財政会議を主催して、財政経済困難を克服する政策と措置を討議した。翌月政務院は「統一財政経済工作に関する決定について」を可決した。四月五月に至る間に、中国大陸財政経済工作は統一され、財政収支はバランスに近くなり、金融物価は安定に向かった。5月8日から26日の間、陳雲は(作業中)
改革開放時期
文化大革命後、華国鋒と鄧小平の矛盾が現れ始めた。陈云は1977年3月の中央工作会議で鄧小平の立場を支持(拥护)し、華国鋒の两个凡是 理論に反対した。1978年11月11日陈云は中央工作会議で発言し、四人組が起こした問題を中央が考慮決定することを求め、具体的に、六十一人叛徒集団事件、彭徳懐事件への対応と、四五天安門事件の名誉回復(平反)を求め、併せて文化大革命中の康生の犯罪についての調査を求めた。陈云の発言は大きな影響を与え、多くの出席者が意見を提出、会議は大きく進展した。
1978年12月彼は中共十一次第三次中全会に出席し、再び中共中央政治局常務委員、中共中央副主席に選ばれた。合わせて中央規委第一書記に選ばれ、中央規律検査委員会、公安、検察、民政など中央政法部門を所管した。彼は中規委の基本任務は、党規党法を守り(维护)、党風を正す(整頓)ことだと指摘している。このあと彼は積極的に文化大革命期の冤罪でっち上げ(冤假错案)の審理に取り組み、迫害された人の追悼、名誉回復に従事した。1979年2月の中越国境衝突(事件)について小平は、陈云の分析の助けを求め、陈云の支持のもと、中越戦争を開始した。戦争が1ケ月で収束したところで、同月、中規委と中央組織部は劉少奇の件について再審査を進め、名誉回復の決定をした。
このほか彼は中国の経済の進路に関心を集中した。1979年3月に計画経済と市場調節の関係について撰文(著述)を提出しはじめた。資源の分配比例は国民経済の発展速度に影響することを強調した。1979年3月14日、彼は国務院財政経済委員会主任を担当した。合わせて5月に宝山鋼鉄の調査建設にあたり、また国有企業の改革発展に注意を集中(聚焦)しはじめた。7月1日、陈云,薄一波,桃依林は国務院副総理に任命され、全国人大常務委員会副委員長は再任されなかった。同年10月、検査で結腸癌がわかり、10月24日結腸癌切除手術を受けた。同年末、林彪,江青反革命集団案10名の主犯の量刑をめぐる討論で、「党内闘争を死刑(杀戒)で終えてはならない」と断固として主張し、江青、张春桥らの死刑に反対した。
1980年6月後,体の状況が次第に回復すると、仕事に復帰し、中共中央政治局を用いて集団指導体制の形成を積極的に促し、計画生育政策を実行し、若年幹部層(梯队)の組織育成に取り組んだ。8月30日に国務院副総理を外れた。1981年、彼は中共中央規律検査委員会を主催し(中略 未完成)
 思想
一人っ子(一胎化)
陈云は一人っ子政策を固く支持した。彼は1979年6月1日の談話の中で法令をつくるなら「明確に一人と定めるべきだと」。「(李)先念同志が私に言った。もっともよいのは一人(でも)多いのは二人。私は再び強く、ただ一人と規定するべきだといいいたい。後世を絶ったと人に非難される心の準備は整った。そうでなければ将来はない。」
以下略未完

現代中国研究  2016-08-12(2018-06-10更新)


product life cycle and funding strategy

2018-06-06 15:10:29 | Economics

1) life stages and funding policy
funding strategy: maturiylaunch, growth
 Boston matrixを使ってcash cowの時期のcashを次期の投資に役立てるという説明はよくみるのですが、この説明はproduct life cycleを企業のlife stageに応用してより一般的な議論にしています。基本的な考え方は、新投資をあまり必要としない成熟段階にある事業から、初期段階あるいは途上のための投資資金を賄うということかと思います。このようなお金の動きを社会全体で考えますと、それを仲介するのが金融機関の役割ということにもなるのでしょう。問題を国単位で考えると成熟した先進国から途上国への資本輸出も視野に入ることでしょう。このようにlife stageとの比較は考え方の枠組み(図式)として使えるのではと思います。
product life cycle(plc) and cash flow

stages

launch(introduction)

growth

maturity

decline

cash in

low

high

high

low

cash out

high

high

low

low

bus.risk

high

high

medium

low

f.source

eq.

eq.

comp.

debt

dividend

nil

nil

high

full

plc S curve----------launch---------------growth----------maturity

sales----------------positive a little-------increase---------steady

profit---------------negative-------------turn profitable----steady

cash flows-----------negative-------------still negative-----increase

企業のlife stageについては、各時期の経営戦略に注目して、創造期、成長期、優位性確立期、効率性追求期というわけ方(BCGダイアモンド)もあります。また製品のライフサイクルについては、市場によってサイクルの長さが市場によって違うことや、消費者の好みの変化、技術・価格・市場の変化による市場再活性化の可能性があること、などに注意が必要とされています。さらに、成長性が高い事業ほど多くの資金が必要との前提があり、この図式は成長性と資金の関係が違う場合には適用しにくいとされています。将来の予測は困難だということや、経営陣の決定が結果に影響を与えること、図式が決定要因を単純化しすぎているとも批判されます

 Boston Matrix and funding policy funding strategy: cash cow→problem children, stars
Boston matrix also called as growth-share matrix or cash-flow matrix

 

market growth rate\relative market share rate

high

low

high

stars

problem children

low

cash cows

dogs

Source:Ruth Bender and Keith Ward, Corporate Financial Strategy, Second ed., Butterworth, 2002, Chapter 3 and Chapter 4.
    Neil Harris, Business Economics: Theory and Application, ButterworthHeinemain, 2001, pp.123-135.  
相場宏二『MBA経営戦略』ダイヤモンド社, 1999年, pp.45-46, 52, 55, 133-134.
David Mercer, New Marketing Practice, Penguin Books, 1997, pp.249-250.
参考  Ansoff's Portfolio Strategy

Mission\Product

Present

New

Present

Market penetration

Product development

New

Market development

Diversification

Source:H.Igor Ansoff, Corporate Strategy, Revised Edition, Penguin Books, 1988, p.109(Figure 6.1 Growth Vector Components)
originally posted Aug.21, 2009
reposted June 6, 2018


馬寅初 (马寅初 Ma Yinchu 1882-1982) 維基

2018-06-06 12:53:15 | Area Studies

中国の経済学者 馬寅初(マー・インチュ 1882-1982)について 成城大学社会イノベーション研究 12(1) Feb.2017 273-298 
(誤植訂正 p.285 14行目 財政経済委員会主任は薄一波であった → 財政経済委員会主任も陳雲であった)

维基) Wikipedea(汉语版)より
马寅初(マー・インチュ) 1882年6月24日-1982年5月10日 名元善、字寅初(受けた名は元善ユアンシャンであるが、寅初と名乗った)。浙江省赵兴府嵊州县(チャオシンフ シェンチョウシエン)の人。中華民国と中華人民共和国の経済学者、教育家、人口学者。马寅初の出身は士族大商人で、曾祖父の父親(高祖)と曾祖父(曾祖)は紹興酒業の大物(巨头)で富商。ともに太学生(明朝時代の最高学府)を経ており、曾祖父の官位は从九品であった。祖父の兄弟は20人、父の兄弟は15人を数え、その多くは醸造業(酿酒)から科挙に転じた。

米国留学と北京大学での教職

17歳(1898年)のとき、马寅初は嵊州县(シェンチョウシエン)の学校を卒業して、上海の教会学校である中西書院で学んだ。1904年に卒業後、天津に行き北洋大学堂(今日の天津大学の前身)で冶金学を特待生として学んだ。北洋大学堂在学中の1907年に北洋大学から米国留学に派遣された。当時の中国国内の冶金技術水準がはなはだ低く、冶金学を学んでも将来役に立つことは少ないことから、エール大学で経済学を専攻した。1910年に学士号を取得後、コロンビア大学大学院に入学した。1914年に経済学と哲学の2つの博士号を取得した。卒業論文〔学位論文?〕「ニューヨーク市の財政」は学術的に評価が高く、コロンビア大学の本科1年次の学生教材に採用された。

(そもそも冶金学を学んだのは、工業が国を救うという思いがあり、石炭を採掘、鋼鉄をつくることで国家の富強を図れると考えたとされる。なお1911年辛亥革命が起きたのはコロンビア大学に移った直後で、官費留学生であったほかの留学生の中には帰国あるいは転身したものもあったが、马寅初は学業を途中であきらめることを潔しとしなかった。アルバイトをして生活を維持して、研究に励んだ。また研究テーマとして、指導教授の知識が乏しい中国問題ではなくニューヨーク市の財政という留学生に不利なテーマを選択したところにも、彼の志の高さが表れている。寅初的故事 pp.13-16)

(马寅初は国費留学であったがもともとエール大学の費用を賄うだけのものだったので、コロンビアでの学費は当初の予定を超過するものだった。天津税関総領事の梁敦彦がその税収から支出することになっていた。马寅初は天津税関に再申請をしたものの、その給付は細く減り気味だった。梁敦彦が天津税関を離れると、马寅初は学費を絶たれ、アルバイトに追われることになった。同前 pp.14-15)

帰国後の1915年9月、北京大学校長蔡元培(ツアイ・ユアンペイ)の招請に応じて、马寅初は北京大学経済学教授に就任した。1917年には、北京大学経済研究所主任となった。当時、马寅初は、ロシアの10月革命支持を公開し、(1920年に陳独秀と中国共産党を創設する)李大釗(リ・ダーチャオ 1917年北京大学教授に就任)と友人になった。1918年10月、大学評議員になった。1919年北京大学教務長に選出された。1919年の五四運動では、马寅初は学生を同情かつ支持し、当局が学生を逮捕すると、交渉して学生を釈放させた。1920年、马寅初は上海方面に活動に転じて、東南大学商学院(今日の上海財経大学)を設立した。1921年北京に戻り、北京大学経済学会会長に選出された。1923年に、马寅初を社長とする中国経済学社が創立され、雑誌「経済学専刊」の刊行を始めた。

(马寅初が二人の奥さんと仲良く暮らしたのは有名なお話しである。一人目の奥さんとは1900年の冬に帰郷したときに結婚。1年後に男の子が生まれるが夭折してしまう。その後1904年そして1908年と女の子が生まれた。しかし1907年から10年近く、彼はアメリカに単身留学してしまう。そして留学から戻った36歳のところで、男の子が必要というので父母の勧めで22歳年下の二人目の奥さんをもらう。その結果、彼は二人の息子、五人の女の子に恵まれている。寅初的故事 pp.31-32)

(1919年に教務長であった马寅初は、学生の愛国運動を硬く支持した。(そして)当局が学生の愛国運動を鎮圧したことにこの上なく憤慨した。彼はほかの教授とともに教育部に請願にゆき、もし学生が解放されず、蔡元培校長が学校に帰らなければ、马寅初が引き連れる北京大教員は「総辞職する」と迫った。寅初的故事 p.37邓加荣 p.26)

国民政府時代の活動

1927年3月、北京政府の張作霖(チャン・ツオリン)は北京大学を封鎖。蔡元培は国民政府に身を投じて(投奔)杭州に至り、浙江臨時政治会議委員兼代理主席に任ぜられた。蔡元培は北京大学教授の马寅初、蒋梦麟(チアン・メンリン 蒋介石の命を受けて1930-45の間、北京大学校長を務めた)などを浙江省建設に招聘した。马寅初は麻薬禁止(禁煙)委員会委員となりアヘン取締活動に従事し合わせて農民銀行の創設を準備した。間もなく張静江(チャン・チンチアン 江南の大富豪で孙中山そして蒋介石を経済的に支援した 反共という点で蒋介石と近い)が浙江省政府委員に任ぜられると、蔡元培、马寅初など北京大学教授は浙江省政府から締め出された。马寅初は、杭州財務学校で教えたほか、上海浙江興業銀行の検査役(总稽核)を務めた。

(参考 1927年3月24日 北伐軍が南京に入城したとき、各国の公使館などが暴徒に襲われる事件が発生した。日本の公使館でも多数の婦女子が凌辱を受けるなどの被害を受けた。この南京事件に対して日本をはじめとする列強7ケ国は激しく抗議した。事件に関してはソ連の関与が疑われていた。これを受けて4月6日 北京で張作霖がソ連大使館の捜索を実施し、ソ連の指示を裏付ける文書が発見されたとして公表した。他方、ソ連は大使館捜索を不当として中国との国交を4月9日断絶する。4月12日 上海で蒋介石は反共クーデターを起こして(4.12事件)、共産主義者弾圧に乗り出す。4月28日 張作霖は捕らえていた李大をソ連に内通していたとして絞首刑に処している・・・日本語のwikipedeaの南京事件などの記載による)

1928年10月 马寅初は立法院立法委員となり、翌1929年に立法院経済委員会委員長と財政委員会委員長にそれぞれ選出される(当選)。また南京国立中央大学、金陵大学、上海国立交通大学の経済学教授を兼任する。1931年九一八事変(張作霖が爆殺された満洲事変のこと 爆殺は関東軍による陰謀説が有力)勃発後、马寅初は「長期抵抗の準備」と題した一文を発表して、蒋介石(チアン・チエスー)の不抵抗政策、安内攘外(アンネイランワイ)(蒋中正つまり蒋介石が、九一八事変前の7月23日に示した方針で、国家の統一をまず行ったあと、国家主権を犯す外国を排斥するとした)政策を批判した。1934年の物価の大混乱と対外金融政策の不当について、马寅初は立法院会議で財務部長、孔祥熙(コン・シアンシー)を激しく非難した。

国民政府批判

1939年に抗日戦争が勃発したあと、马寅初は重慶大学の教授と商学院院長を任ぜられた。彼は抗日のため様々な評論を発表した。同時に彼は四大家族(蒋中正、宋嘉澍、孔祥熙、陈其美のそれぞれの家族のこと)を筆頭とする腐敗高官に対する憤怒を抑えることができず、高官に対する〔臨時財産税〕徴収を提案するとともに、高官の腐敗を公開し批判した。このため中国国民党への猛烈な批判(谴责)が生じたので、当局は1941年12月马寅初を逮捕し、貴州息峰集中営そして江西上饶集中営に拘禁した。しかしこのことが明らかになると、中国国民党は世論にさらに激しく攻撃されたので、1942年8月当局は马寅初を釈放せざるを得なくなった。このあと马寅初は当局の監視下に重慶の歌乐山に軟禁された。言論活動を制限を受けたが、その間に「経済学概論」「通貨新論」などの専門書を刊行した。1944年12月国民参政会の宣言が発表され、马寅初は再び言論の自由を獲得した。このあと、反蒋介石、反国民党の傾向は日増しに強烈になった。1946年7月、中華職業教育社の黄炎培(ホアン・ヤンペイ)の招きに応じて中華工商専科学校の経済学教授に就任した。1948年末、马寅初は中国国民党の弾圧を逃れて、中国共産党の庇護のもと華北解放区に移った。 

(马寅初は、1940年12月6日早朝 重慶大学の宿舎から国民党官憲により連れ出される。2日後の8日午後 事務手続きのため马寅初は官憲とともに大学に戻ってくる。このとき重慶大学の学生と別れの記念にとった記念写真が残っている。実際には集中営とよばれる牢に放り込んだのだが、12月13日、国民党は戦争地区の経済状況視察に马寅初が派遣されたと「嘘」を発表する。その後、再三の禁止令の中、1941年3月22日 马寅初の生誕60年を祝う会が学生主催で重慶大学で実施されている。また同様に重慶大学の学生たちの手で「寅初亭」と呼ばれる庵が、建築された。いずれも马寅初が学生に慕われていたことと、彼が抵抗のシンボルになっていたことをよく示している。寅初的故事pp.99-108)

新人口論

1949年8月马寅初は浙江大学校長に任命された。9月に中国人民政治協商会議第一次全体会議に出席。中国人民政府委員、財政経済委員会副主任、華東軍政委員会副主席に任命された。1951年5月に北京大学校長を任命された。その後、第一期第二期の全国人民代表大会委員、第一期から第五期までの中国人民協商会議全国委員(うち二、四、五期では常務委員)を歴任した。中華人民共和国初期、马寅初は、物価安定、通貨膨張方面で貢献があった。

1935年12月にスターリンはソ連で毎年約300万の人口純増があることを「これは良い現象で我々はこれを歓迎する」と述べた。1953年ソ連国家政治書籍出版局は、ホホフの『現代マルサス学説は帝国主義であり、人類敵視の思想である』という書物を出版した。中華人民共和国初期、毛沢東は人口計画(计划生育)に反対を表明した。1952年に人民日報は「人口制限(限制生育)は中国を滅亡させる」という社説を発表した。(他方で)1952年12月政務院文教委員会は、衛生部の「人口抑制(限制节育)と人口流産の暫定的取り決め(暫行办法)」を批准した。1953年11月衛生部は「経口避妊薬と避妊用具の通関禁止」を通知した。1953年11月1日国家統計局は第一次人口調査結果公報を発表した。全国人口総数は6億を超え、人口成長率は1000分の20(2%)だとした。1954年12月27日劉少奇は中央第一次人口と計画生育座談会を主催し、講話のなかで「現在、党が人口抑制(节育)に賛成であることは認める(肯定)必要がある」とした。1955年3月1日中共中央は衛生部党組織の報告に対し「人口統制(控制人口)問題についての意見」を発出し、「節度ある扶養(节养生育)は広範な人民生活の重大な政策問題であり、我が党は人口抑制(节育)に賛成である」と述べた。1956年に毛沢東は自ら「全国農業発展綱要」を定め計画にしたがった扶養(計画地生育)を提唱した。同年(1956年)開催された中共八期大会は、関連する決議でこの観点(視点)を示し、「扶養(生育)方面では適切な統制を加える」との文字をまず国民経済発展計画5ケ年計画に入れることにした。1957年10月毛沢東は中共八期大会第三次中央委員会全体会議で逐次計画生育を実現すると(なお)述べている。

1955年马寅初は全国人代(全国人民代表者大会)第一期二次会議の浙江省グループ会議で計画生育実行の必要性を表明したが、賛成者が極めて少なかったので、時機ではないと考え、発言稿を自ら回収した。马寅初は1920年代から各種の報道の中で、中国の人口増加に対して憂慮を示してきた。1954年から1955年にかけて马寅初は浙江省で3度にわたり実地調査を行い、理論構築の準備を進めた。1957年2月最高国務会議において、马寅初は計画生育政策を提案し、多数の賛成を得た。同年(1957年)6月全国人代第一期四次会議で马寅初は新人口論についての書面発言を行い、正式に計画生育を提案した。7月5日には人民日報に「新人口論」が発表された。

批判に遭遇

1957年6月8日 人民日報はこれは何のためか(这是为什么)と題した社説を発表した。このあと中共指導部の整風運動は反右(右傾批判)に転じる。1957年11月11日光明日報(第二次大戦後 中国民主同盟により創刊された新聞で知識人相手の編集方針で知られた)社務委員会、民主党派の人々と马寅初ら無党派の人々とを招いて会議を開き、右派分子章伯钧(チャン・ポーチュン)を社長から、右派分子储安平(チュー・アンピン)を副社長・編集から、それぞれ解職し、社長に杨明轩、副社長・編集に陈此生を充てる人事を決定している(章伯钧と储安平とはいずれも民主的な発言で知られる。このときの右派闘争の犠牲者は全国で55万人とされる。改革開放後1981年まで行われた名誉回復=平反でなお右派であるとして中央で5人、地方で90余人が名誉回復から漏れたがこの二人はその中央の5人に含まれる。こうした人々のことを未获改正的右派:ウェイフオガイチョンダヨウパイとよぶ。章伯钧は中国民主同盟の創建人の一人。いずれも文化大革命で迫害を受け、章伯钧は胃がんのため病院で死去。储安平は安否不明だが殺害された可能性が高い。この光明日報の事件は中国で言論の自由が失われて行く明らかな兆候の一つといえる)。

(当時)马寅初とその人口論はまだ中央層の批判に会っていなかった。1957年から1959年の間に人民日報は马寅初の文章に言及あるいは批評した3編の記事を掲載した。1957年10月4日の人民日報は李晋(リー・チン)の署名で「右派が人口問題を利用して政治陰謀を進めることを許さない」と題する記事を、(また)1958年6月6日には权种(チュアン・チョン)の署名で「我が国の人口と就業問題」を、1959年4月15日には若水(ルオ・シュイ)の署名で「人口と人手」を発表した。これらの中で权种の「我が国の人口と就業問題」は马寅初の名前を挙げたが、ほかの2編は直接名前を挙げていない。また3編の批判の重点は马寅初ではなかった。

1958年に中華人民共和国は民主党派整風と高校「双反」運動を展開した。1958年1月に马寅初の「我が経済理論 哲学思想と政治立場」と題した一書が出版された。そのあと「計画経済」誌が马寅初の経済理論へのコメント(商権的文章)を発表、「経済研究」「教学と研究」が同様にコメントを発表した。1958年4月19日に、民主党派が共同で編集する「光明日報」が、全国の「双反」運動の形式を反映させる形で、また北京大学の壁新聞から自ら選んだ形で、韓佳辰の「あわててまとめたもの(团团转)は唯物弁証法ではない 马寅初著「私の経済理論、哲学思想と政治立場」を評す」と中国革命史教研室の周家本、強重华の「马寅初の「新人口論」を評す」とを掲載したことは、马寅初を公開の文章で批判する序幕であった。5月9日光明日報は马寅初の「私の「平衡論」中の团团转理論を再び論じる」を掲載、ここで马寅初は弁明を行っている。このあと「光明日報」は马寅初の文章を事細かく批判したものを掲載した。6月1日に「光明日報」は学術動態で「これは無産階級の思想かあるいは資産階級の思想か?学術界は马寅初の著作で議論を展開」と題した論稿を発表した。6月6日「人民日報」に発表された权仲の「我が国人口と就業問題」が马寅初の名前を挙げてから、「光明日報」は马寅初を批判する文章の掲載を加速させた。11月29日「光明日報」が「資産階級の学術思想を徹底批判する」との標題のもとで「北京大学経済系の马寅初の経済思想批判小組」の3編の批判文章を掲載。このあと「光明日報」はしばらく马寅初批判を停止する。1958年11月までに「光明日報」は37篇の马寅初を批判する文章を発表した。そのほかの中国新聞雑誌(新聞が2紙、学報・学術定期刊行物が10誌)で公開された马寅初を批判する文章は30篇で、合計は67篇であった。これらの批判は、马寅初の新人口論は、マルサスの人口論を源とし、社会主義の優越性に疑問をさしはさむもので、人民大衆を蔑視している、などなどの指摘を行っている。

1959年に马寅初はなお正常に各種の国事活動に参加した。3月12日、第二期全国人大代表に継続当選した。4月12日に、第三期全国政協委員に当選した。4月27日には第二期全国人大常委会委員に当選した。5月2日には、中ソ友好協会副会長として中ソ友好協会第三次全国代表会議に参加、併せて新一期理事に当選した。5月3日、马寅初は首都記念五四40周年記念活動に参加し、主席台の前に着席した。9月15日に马寅初は毛主席が招請した各民主党派団体代表者会議に参加した。9月28日、马寅初は中華人民共和国建国10周年慶祝大会において、毛沢東、劉少奇ら党と国家の指導者とともに主席台に着席した。

1959年末までに「新建設」「経済研究」「厦門大学学報」が各1篇の马寅初批判の文章を掲載したのみであった。1959年3月に马寅初は「北京大学学報」第1期に対して「光明日報」に4日にわたり連載した「「平衡論」中の团团转理論を再び論じる」の全文掲載を求めた。「新建設」の1959年11月号と「北京大学学報」第五期は马寅初が書いた「私の哲学思想と経済理論」を同時に発表した。このあと「光明日報」は1960年1月から、「新建設」は1959年12月号から連続して批判文章の発表を始めた。1959年12月19日、「新建設」雑誌は中共北京大学党委(陸平任党委第一書記)に書簡を送った。中には马寅初が「新建設」1960年1月号上に発表を求めた「重申我的請求」があり、「新建設」雑誌は中共北京大学党委員会この手紙を寄せて、審査(审看)を求めている。12月24日、北京大学人口問題研究会は学術講演会を挙行し、马寅初の人口論を批判した。1960年1月までに北京大学毛沢東経済思想学習研究会、北京大学毛沢東哲学思想学習会、北京大学人口問題研究会は、马寅初批判の高潮を盛り上げた。1960年1月11日、この3つの学習会は連合して「马寅初経済理論哲学思想と政治立場討論会」を開き、会議では一部の教員の発言のほか、大学の秘書である韩苹卿(ハン・ピンチン)が马寅初が巨額の株券を保有していることや、马寅初が土地改革に反対であったこと,さらに罗隆基(ルオ・ロンチー)や章伯钧(チャン・ポーチュン)、章乃器(チャン・ナイチー)ら右派分子への同情を暴露した。韩苹卿の暴露は、参加者を刺激し、马寅初は集団攻撃(围攻)を受けた。1月12日马寅初の血圧は190に上昇し、入院治療となった。1月13日に「北京大学校刊」は上記の3つの学習会による马寅初連合批判会議の模様を報道し、陸岱荪ら会議上の批判発言をも伝えた。この後北京大学で马寅初の消息が伝えられることはなかった。1960年「新建設」は1月号で马寅初の「重申我的請求」を発表、「200余りの諸氏が発表された意見は大同小異で、新たなものは大変少ないが、でも学ぼう」。1960年1月马寅初は北京大学校長の職務に辞表を出した。3月28日国務院は马寅初の北京大学校長辞職を認めることを決定した。

(马寅初事件(7) 在 梁中堂博客linagzhongtang.blog.163com 2011/12/05によると、この1月11日の会合は反論の機会を求めた马寅初の求めに応じて設定されたもので、马寅初も出席した200人ほどの集まりだった。韩苹卿は、马寅初が、商務印書館の株を68000元、上海闸北火力発電与自来水公司の株を20000余元保有し、家賃収入が160余元あったことを暴露。また馬家の土地は買ったものなのになぜ補償されないのかと、土地改革に不満を表明したこと、当時、毛沢東から名指しで批判を受けていた、罗隆基(ルオ・ロンチー)や章伯钧(チャン・ポーチュン)を民主党派の優秀な人材として擁護、章乃器(チャン・ナイチー)についても高名な経済学者だと述べ,定息(商工業者の資産に固定利率を支払う政策)を止めることに反対した章乃器の主張を正しいとしていたことを暴露した。马寅初は、これらの点で反論できなかった。) 

(このとき马寅初が残した言葉。「人口問題は中国にとり最大級の問題の一つもし統制しなければ、もし盲目の発展に任せるなら、将来我が国の国家と党に大きな困難を必ずもたらす。…私はすでにこれを研究してこれを解決する方法を見つけている。私には説明する責任があり、それ(わたしの人口理論)を徹底して堅持する。このことで私は孤立をおそれない、批判闘争を恐れない、この問題で私はただ国家と真理のことを考え、自分のことは考えない。冷水をかけられることも煮えたぎる油をかけられることを恐れない。職を失うことも牢に入れられることも、いわんや死ぬことも恐れない。・・・どのような状況になろうと私の人口理論を堅持する」)

(罗隆基1896-1965は米英に長い留学経験をもつ。帰国のあと主として天津にあって抗日の立場で論陣を張り、新中国では民主陣営から参画した。しかし1957年の反右派闘争で失脚する。1965年に病没している。)

(章伯钧1895-1969はドイツへの留学経験がある。新中国では交通部部長 1957年の右派闘争で失脚。すでに見たように光明日報社長を追われている。罗隆基と同じく1980年の見直しでもなお名誉を回復されず右派とされた人物の一人。)

(章乃器1897-1977は国民党出身の政治家で新中国で糧食部長1952-57を担った。しかし反右派闘争で失脚。文化大革命では残酷な取り扱いを受けた。1966年に紅衛兵により捕縛されたうえ、大けがを負わされ、夫人は殺害され、全財産を没収された。1977年に病院の地下室で亡くなっている。1980年に名誉を回復された。)

このあと马寅初の政治と生活待遇に変化は生じなかった。第二期全国人大常務委員などの職務を行った。1962年1月马寅初は、浙江嵊县視察を行った。肺炎を患い、このあとは健康を損ね二本足の行動は不便になった。1965年马寅初一筋の腿が瘫痪にかかった。1964年から1965年初め、2つの会が招集された。马寅初が全国人代常務委員、あらためて全国政経常務委員に改めて任ぜられた。8月7日に周恩来主催で帰国した李宗仁(リ・ツオンレン)を歓迎する茶話会が開かれ、马寅初は出席を要請された。同年孙中山生誕100年記念委員会が設けられ、劉少奇が主任となり、马寅初らが委員となった。

 李宗仁(1890-1969)は国民党の軍人。国民党の中で蒋介石と長年対立した。日本軍とよく対抗したことで知られる。1938年3月―4月 台児荘の戦いで日本軍に勝利したことは中国国民を鼓舞したとされる。第二次大戦後、蒋介石が国共内戦戦局不利の責任をとり下野すると一時、総統を務めた。和平交渉を進めたが、党内の合意を取るにいたらず、台湾にはゆかずにアメリカで形勢を見守った。1965年7月、妻の末期がんが判明し帰国。中国政府の歓迎を受けた。

(文化大革命中の马寅初の悲劇と知られるのは彼が、1960年以降、心血を注いで書き上げていた大著「農書」が家人によって焼却されたことだ。この家人は家族かと私は考えたが邓加荣は服務員だという。・・・文化大革命が始まった時、その紙巻はおおきな引出:柜一杯になり、百万字以上の農書となっていた。残念なことにこの農書の草稿は、文化大革命の期間に家の服務員:家中服务员により、半ば臆病から、半ば盲従精神に支配されて、马の手紙、メモなどすべての文物や送られた書画とともに、四旧とみなされ焼き払われた。邓加荣 p.304) 
 怒涛のように沸き上がった革命の潮流に最初に晒されたのは。「破四旧」(古い思想、文化、風俗、習慣の破壊)と紅衛兵と呼ばれるものだった。全国各地では、古き封建時代の象徴である伝統的建築物や仏像が破壊され、芸術的価値の高い書画や骨とう品なども燃やし尽くされた。王曙光 p.183 
文化大革命の間、马寅初は基本として攻撃(冲击 チョンチー)を受けなかった。1972年に直腸癌のため、周恩来首相の指示で天津市人民医院院長で反動学術権威である金显宅(チン・シエンチャイ)が率いる医療小組により90歳の马寅初は直腸がんの切除手術を受けた。手術後、马寅初の下半身はすべて麻痺(瘫痪(タンホアン))した。1976年周恩来がこの世を去ると、马寅初は病院を訪問して遺体に告別した。1977年5月1日、马寅初は中共中央主席、国務院総理、中央軍事委員会主席の華国鋒が出席した游园活動に参加した。これは文化大革命が終わったあと、最初の社会各界の主な人を集めた重大な活動だった。1978年初め、小平が三度政権に復帰し、第五期全国政治協商会議主席になると、马寅初は全国政治協商会議常任委員となり、同大会の執行主席の一人となった。

马寅初の人口理論への批判については、中国人口は増加を続けた。虚偽やウソで作られた案件(冤假错案)の名誉回復を主管する中央組織部長の胡耀邦は、马寅初の材料を審査閲覧したあとで「あのとき毛主席が马寅初のこの話を受け入れていれば、中国の今日の人口が10億を突破することはなかったのではないか。一人を誤って批判し、数億人が増加した。我々は再びこのような誤りをしてはならない。共産党はここに誓う「再び科学者と知識分子を苦しませることはない(再也不准整科学家和知识分子了!)」と述べた。

晩年

文化大革命後、1978年12月に召集された中共十一期第三次中央全体会議、このあと马寅初の新人口論は再評価を獲得する。1979年7月中旬の一日、中共中央統戦部副部長の李貴は北京東総布胡同32号の马寅初家を訪れ、次のように述べた。「今日党の委託を受けて馬先生に以下のように通知します。1958年以前そして1959年末以降のこの2回にわたるあなたへの批判は誤っていました。実践が証明していますが、あなたの生育を抑制する新人口論は正確でした。組織上、あなたに対して犯された誤りを徹底して正し、名誉を回復します。馬先生が晩年を元気かつ愉快にすごされることを希望し、さらに健康と長寿をお祈りします。」马寅初は答えて言った。「とても嬉しい」「20年余り前中国の人口は多いとはいえなかった、現在ではあまりに多すぎる。生産を迅速に発展させる必要がある!」この会見の模様は1979年7月25日に新華社が報道し、7月26日の「人民日報」に掲載された。1979円9月11日、中共中央は、中共北京大学党委員会の1979年7月23日付け「马寅初先生の平反に関する決定」に文書で回答した、「中央は北京大学党委員会の马寅初先生の平反に関する報告と決定に同意する」

(马寅初の名誉回復の経緯について邓加荣は以下のようにまとめる。1979年2月4日上海冶金研究所の相徳欽が中央に対し、马寅初が最も早く人口の抑制を主張した貢献を指摘し、马寅初の扱いに見直しを訴えてまもなく、この手紙が一人の中央指導者により宋任穷に回す指示がつけられた。宋任穷は当時 組織部長で幹部の名誉回復:平反の責任者。6月21日には陈云とさらに胡耀邦も相次いで马寅初の平反を指示した。7月16日の李貴の馬家訪問、直接の伝達はこれを受けたもの。9月11日の決定で覆されたのは、1958年と59年の2度にわたる马寅初に対する大規模な批判と、马寅初に北京大学からの辞職を迫ったことの2点で、これらは覆されねばならない(予以推倒)。邓加荣pp.314-315)

 1979年9月马寅初は北京大学名誉校長に任命された。1981年2月中国人口学会が設立され、马寅初は名誉会長に推挙された。

1982年5月10日马寅初は病気のため北京で亡くなった。享年101歳(満99歳)だった。

 2016-03-28 試訳(2018-06-06更新)

 马寅初 百度百科

 马寅初 参考文献

 現代中国研究


馬寅初 (马寅初 Ma yin chu1882-1982) 百度百科

2018-06-06 11:32:52 | Area Studies

参照 福光 寛「中国の経済学者 馬寅初(マー・インチュ 1882-1982)について」『成城大学社会イノベーション研究』12巻1号,2017年2月, 273-298

百度百科・・・・・・・・・・・・・翻訳途中まで

马寅初 1882年6月24日-1982年5月10日 名の字義は元善である。中国の現代経済学者、教育学者、人口学者。浙江嵊州人。元南京政府立法委員。新中国建国後、中央財経委員副主任、華東軍政委員会副主任、重慶大学商学院院長兼教授、南京大学教授、北京交通大学教授、北京大学校長、浙江大学校長などを歴任。1957年に発表した「新人口論」方面の学説により右派として攻撃されたが、党の11期第三次中央委員会全体会議(1978年12月18日-22日)のあと、名誉回復(平反)された。彼が生涯に著した著作は極めて多い。中国の経済、教育、人口等の方面で多大の貢献。現代中国人口学の第一人者。

中国語名:马寅初。国籍:中国。出生地:浙江省紹興省嵊县浦口鎮(現在の嵊州市浦口街道)。出生:1882年6月24日(壬午年)。逝世日期:1982年5月10日(壬戍年)。職業:教授。卒業校:天津北洋大学、米国コロンビア大学。功績:経済学の父(泰斗)、人口学の第一人者。

抗戦時期

1927年3月、北京政府の張作霖は北京大学を封鎖。蔡元培は国民政府に身を投じて(投奔)杭州に至り、浙江臨時政治会議委員兼代理主席に任ぜられた。蔡元培は北京大学教授の马寅初、蒋梦麟などを浙江省建設に招聘した。马寅初は麻薬禁止(禁煙)委員会委員となりアヘン取締活動に従事し合わせて農民銀行の創設を準備した。間もなく張静江が浙江省政府委員に任ぜられると、蔡元培、马寅初など北京大学教授は浙江省政府から締め出された。马寅初は、杭州財務学校で教えたほか、上海浙江興業銀行の検査役(总稽核)を務めた。

1928年10月 马寅初は立法院立法委員となり、翌1929年に立法院経済委員会委員長と財政委員会委員長にそれぞれ選出される(当選)。また南京国立中央大学、金陵大学、上海国立交通大学の経済学教授を兼任する。1931年九一八事変勃発後、马寅初は「長期抵抗の準備」と題した一文を発表して、蒋介石の不抵抗政策、安内攘外政策を批判した。1934年の物価の大混乱と対外金融政策の不当について、马寅初は立法院会議で財務部長、孔祥熙を激しく非難した。

抗戦勝利後(抗戦勝利前の誤植か)、马寅初は、北京大学、南京中央大学(現南京大学)、上海交通大学、重慶大学、浙江大学で教えた。また北京大学経済系主任、重慶大学商学院院長を務めた。一貫して四大家族の官僚資本主義に反対し、国民政府が民族利益を売っていることを非難(痛斥)した。(抗戦勝利後の1946年7月)李公朴、闻一多(らの民主人士)が雲南で国民党の特務機関により暗殺されたことが伝わると、憤激した马寅初は、遺書を書き、家族に別れのあいさつをして、青色の民族服をまとって、南京中央大学で講演を行い、大量の事実で国民党反動派の内乱の罪状(罪業)を暴露した。(かつて)马寅初は物価高騰を論じたとき、実名を挙げて(指名道姓),蒋介石を論難(枰击)した。広く発表される論稿で、蒋介石政権の戦時経済政策を攻撃し、孔(祥熙)と宋(嘉澍)の貪欲を批判し、国難で儲けた者の財産に課税して、抗日の経費を賄うとして臨時財産税の課税を求めた。一字一句耳に響く力のこもった演説は、四大家族にまっすぐ刃を向けたものだった。马寅初の厳正かつ物怖じしない行動は、蒋介石を困らせ、马寅初は息峰集中営に閉じ込められた。马寅初は罪を問われ、1940年12月6日逮捕。貴州息峰と江西上饶に前後して閉じ込められるが、社会の世論と中国共産党の支援のもと、1942年8月出獄したものの、歌乐山に軟禁、外界との接触を制限された。马寅初は、当時の国民政府統治区の反蒋愛国民運動を強力に進めたことで、旧中国時代の一人の英雄(英勇)、不屈の民主戦士となった。

旧中国にあって马寅初は誉れ高い経済学者であっただけでなく、一人の英雄、不屈の民主戦士であった。抗日戦争が勃発して以後、民族危機が迫る中、彼は身を挺して文章を書き、講演を行い、官僚資本主義と通貨膨張に反対し、民族利益を売ることや独裁政治に反対した。このような愛国行為により、马寅初は国民党反動派の迫害を受け、集中営に数年の長きにわたり閉じ込められたのちに遂に脱出した。

建設中国

1948年末马寅初は香港を経由して北京に赴き、新中国の創建(筹建チョウチエン)に参加した。

马寅初は中国共産党の真の友人(诤友 諫言してくれる友人)である。新中国が誕生したとき、马寅初は新中国の誕生を心から喜び(欢欣鼓舞ホアンシングーウー)、積極的に共和国の創建に身を投じた。1949年3月25日毛沢東主席,朱徳総司令ら中共中央が西柏坡迁xibaipoqianから北平(現北京)に迎える歓迎式典で、马寅初は会場の秩序を無視して周恩来が乗るジープにかけより、周恩来に大声で「あなたの指示で私は無事北平に来ております」と話しかけ、喜びを爆発させた(喜悦心情溢于言表)。

马寅初は中国共産党の古い友人である。彼自身つぎのように言ったことがある。1939年以来、共産党と一緒でなかったときは一時もない(无时无刻不与共产党在一起)。建国後は、彼は学者の専門知識で、(また)自らの意志で(以主人翁的态度)進言献策を行った。

1949年8月 浙江大学校長、9月に中央人民政府委員、10月に政務院財経委員会副主任、12月に華東軍政委員会副主席に任ぜられた。(また)1952年5月北京大学校長に任ぜられた。1954年9月 第一期全国人民代表大会常務委員会委員に選出された。

新人口論

1953年中国歴史上最初の全人口調査(人口普查)が実施された。1953年6月30日現在の中国総人口は6億193万8035人。推計では毎年1200万から1300万増えており増加率は2%であった。

この人口調査は有名な経済学者で北京大学校長の马寅初の注意を引いた。彼は人口調査の結果に疑問を呈した。この調査は抽出調査を採用し、出生率から死亡率を引いたものを増加率としていた。马寅初はこの調査法では全貌を知ることができないと考えた。彼の理解では上海のある場所の人口純増率は3.9%であった。簡単な算術公式を使わなくても、中国の人口増加率を2%と説明できないのではないか。

马寅初は3年以上の調査研究により、中国の人口増加率が毎年2.2%以上であること、一部では3%に達し、実際はもっと高いことを発見した。このまま増加(発展)が続くと50年後に中国の人口は26億に達する。人が多く土地が少ないということで、飯を食うことすらままならなくなることが恐れられる。そこで彼は自身の研究成果を「人口の統制と科学研究」という一文にまとめた。1955年第一期全人代二次会議が開かれ、马寅初は書き上げた文章を発言稿にして、ほかの浙江小組人代代表の意見を求めた。马寅初が描く当時の状況によると、少数の人を除くと、多くは意見を表明しないか、あるいは馬の見方に同意しないかであり、ある人は馬の説はマルサスの類だとし、別のある人は、マルサスとは異なるがマルサスの思想体系に属するとした。彼らのの意見を、馬は受け入れることはできなかったが、(意見は)すべて善意から出たと考え、自ら発言稿を回収し、再び大会で提出できる機会を待つことにした。

(1955年)9月周恩来は中共八次全国代表大会の報告の中で「婦女と児童の保護のため、将来世代のもっとよい教育のため、民族の健康と繁栄のため、我々は生育方面に適切な制限(节制)を加えることに賛成する」と指摘した。马寅初はこの報告を読んで大変喜んだ。彼は人口抑制(节育)問題が中共中央の議事日程に上がってきた、人口統制問題をオープンに議論できるようになったと考えた。

1957年2月、最高国務会議の第十一次拡大会議において、马寅初は再び「人口の統制」を取り上げ、自らの主張を発表した。「我々の社会主義は計画経済であるが、人口を計画のうちに入れる(列入)のでなければ、人口の統制はできない。計画生育を実行できなければ、計画経済とはならない。」马寅初の発言はすぐに毛沢東に賞賛された。彼(毛沢東)は言う。「人口は計画的に生産できるものだろうか。これは一種の思い付き(设想)だ。この馬老人の話はよくできていて、私は彼と同志であり、

 陈云与马寅初・・・・・・・・

変装した马寅初は危険を逃れ首都に向かった

全国解放戦争勝利がすでに定まる中、中国共産党は新中国建設の準備工作を開始した。1948年4月30日 中国共産党は、各民主党派、各人民団体、各社会指導者(贤达)に政治協商会議の迅速に開催して、人民代表大会の招集を討議実現し、民主連合政府を樹立することを呼びかけた。この呼びかけは各界の積極的な反応を得た。

このとき杭州に住んでいた马寅初は国民党の統治区を離れて、解放区に移ろうと準備していた。

1948年の秋雨が続く夕刻(傍晚),马寅初の古い友人の茶学専門家吴觉农(ウー・チアオノン)が杭州法院路の马寅初の家に彼を訪ねてきた。马寅初は彼を見るなりとても喜び、吴觉农が話すのをまたず、滔滔と彼の時局の見方を語った。彼は次のように考えた。中国人民の百年来の流血と奮闘がついに、解放戦争の勝利により、今実を結ぼうとしている。国民党政権はすでに雪崩を打って瓦解し、その寿命は長くない(行将就木)。繁栄し富強の新中国がまさに今世界の東方に出現しようとしている。同時に彼は、毛沢東と周恩来に対する深い尊敬と敬愛の気持ちを表明した。これを聞いた吴觉农は大変喜んで、新政協の設立準備に加わらないかと尋ねたところ、马寅初は「私にその資格はない(我不能无功受禄啊)」と答えた。これは軽口の中で出てきた発言だが、马寅初の謙遜と自らに厳しい姿勢を表している。確かに彼は三つの大山の重圧から民主革命を実現するに多大な貢献があったが、彼は中国革命に対して自身の貢献は大変少ないと認識していた。「私にその資格はない」というのはまさにその心の声であった。

大师 马寅初 上・・・・・・・・・・

东总布胡同32号。1952年北京の马寅初の家に一人の若いソ連の女性教師がやってきた。彼女は老人にロシア語を教えに来た。このとき马寅初はすでに71歳だった。赫赫(すこぶる)有名な北京大学校長であり、かつ中央政務院の財政経済委員会副主任であった。このロシア語教師は、陈云同志が马の要請に与えたものだった。

诸天寅「马はソ連建設の経験を研究するためには、ロシア語の原文で読まねばならないといった。翻訳は誰かの手を経たものになるし、時に不正確だと。そこで彼は彼の秘書を通じてこの希望を述べた。その後この希望はすぐに実現された。そのとき彼は財経委員会副主任で陈云同志は主任であり、陈云はそれはとても良いことだといった。」

のちに馬老(馬先生)は「私はロシア語をものすごい力(九牛二虎之力)をかけてようやく学ぶことができた。」と述べている。马寅初は仕事が大変忙しかったが、毎朝早くと夜遅くそれぞれ1時間半ロシア語を学ぶ時間をひねり出した。こうした2年間の努力のあと、马寅初は、『ソ連共産党史簡明教程』『政治経済学』『弁証唯物論』『ソ連社会主義経済問題』などをロシア語原書で読むことができた。

新中国成立前、南京国民政府の立法委員と経済顧問を長期間担っていた马寅初は、民国時期の中国経済学会の権威だった。その後、马寅初は国民党と断絶し、中国共産党と歩むことを選択した。

参考

马寅初 维基百百科全日译 

马寅初   参考文献

現代中国研究