脚下照顧

いつかあの空の彼方へ

「狂気」と「まともさ」のはざまで

2012年01月03日 | Weblog


既に出始めている身体症状の話も聞いて、
そうしたことも踏まえて考えると、
判断のつく人はすでに行動に移しているだろうと考える。

情報の多い階層の人たちの中で、合理的判断を優先することができる人には、
結論はとっくに出ていて、
結論どおりに行動する一部の人と、その結論を敢えて無視して行動をとらない人、
二極に分かれている。
もちろん、認識を持つにもいたらない大半の人々という存在も知っています。
 身近な人を避難させられず苦しい思いをさせられている人がいることも知っています。
自分自身の生命や子や親兄弟の健康よりも、
ほかの人との関係性にとらわれたり、
寄らば大樹、お上に付き従う日本人の習性を変えることが難しいことは理解できる。

だが、意味がないだけでなく、
一瞬にして永遠に故郷を失うとてつもない破局を目の当たりにし、
被害は現在進行形で、今此の時も深刻化していることが科学的客観的に明らかであるにも拘らず、
これまでの習性にこだわる人々が圧倒的多数を占め、
疑いつつも収束宣言を受け入れ盲従諦観して「変わらない有様」は、
マインドコントロールや洗脳から逃れることができずにサリンをまき散らしたオウムを見るようで、
まるで「一億総カルト」状態のように視える。

ひとつ類推しているのは、
「結論を無視している人」「行動をとらない人」は、
自分自身の人生に、その人そのものが喜びを本質的に見出しておらず、
自分がとりこまれている関係性の中に生きることにしか、自分の可能性を感じられないからなのだろう。
そうした柵はあくまで相対的なものであって、
それが自分というものを存在させる根幹ではない。

家族や親友のように人生を支えてきてくれた心の拠り所になるほど大切な一人や二人を慮るあまり身動きが取れないと諦める人もいることはわかるが、
子供をその犠牲にしてはずがない。
まして仕事や職場の人間関係を優先して、
自分という存在そのものの大切さを省みない選択をしているなどということは本末転倒。
自分自身の生き様よりも、周りの目を気にすることに支配されて本質を喪失している。

自分自身の本質に関わるのは、
かけがいのない家族や親友、心を通わすことができる本当に大切なごく限定された人たちだけだ。

危険を認識しているのに、事実をを認めることができず、
慣れた環境にしがみつくしかない感覚に囚われている人間は、
何もわかっていない人よりも、ある意味、もっと面倒な状態だ。

311まで「絶対安全神話」を信じ込まされていたとしても、
「騙されていたものの罪」を自覚し、
「戦争と同じ状態」になっているのだから意識を明確に変えられるはずだ、
大人は子供を守ることが当然であると思うまともさがあるなら。
浅ましい欲と無知のために子供の未来が奪われていいはずがないと思うなら。

原発が爆発し、SPEEDIが隠蔽されたことをはじめ司法メディアもグルになって政府が国家的な犯罪を犯し続け、九ヶ月が経過した。
戦中戦後と同じようなループに嵌り、すでにまた再び狂いの歩みを始めている日本社会の有様は正気ではない。

 自分だけでなく我が子を健康被害に晒し、すべての子供の未来も損ない、
福島をはじめ東日本にいる多くの子どもたちに危険な空気を吸わせ食べてはいけない汚れたものを食べさせて強制的に被曝させながら高濃度汚染地域に置き去りにしていることを知りながら、
見て見ぬ振りをして無関心のまま311以前の価値観も生活習慣も変えずに守っている理由は。

明らかな狂気が蔓延する中で、
盲従諦観座視甘受は、
子供の未来が奪われていても見て見ぬ振りをする無意識であれ未必であれの凶悪で残忍な罪を犯している共犯者。
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http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/731277963dcf0b5d757ec4e3227ca9d5
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