環境研究家に怒られるかも知れませんが、
彼らは「日本の環境」が心配だったのではなく、
「環境の仕事」を失いたくなかっただけではないかとも思います。
それは原子力科学者もそうで、
彼らも「原子力」に興味があったのではなく、
「原子力の仕事」を失いたくないので毎日、頑張っていたのではないか?と疑いたくなります。
事故が起こったことは大変、不幸なことでしたが、
悲惨な墜落事故を乗り越えて現代の安全な航空機があるように、
科学的に見れば原子力利用のための大きな進歩をもたらす原因にもなるわけで、
多くの課題が提供されてもいるのです。
自分が言っていること、自分が書きたいことは、自分の魂の叫びなのか、
それとも単にお金が欲しいからいっているのか?・・・
これについて20世紀の初頭、マックス・ウェーバーという社会学者は冷たく言い放っています。
「学問が生活の糧を得るためだけの職業としての学問になって久しい」
**********
未来のこと、ほんとうにおきること、など誰にもわからない。
人智が及ぶ森羅万象などほんの表層に過ぎぬ。
すべては「実験」。
「迷わず行けよ。行けばわかるさ」。
それにしても。
使わなければ死滅する必要不可欠な技術でもないのに、
幼きもの弱きもの貧しきもの知らぬものたちほど被害が大きくなる不条理。
あまりに大き過ぎる犠牲。
この期に及んで原子力利用…
愚か過ぎる。