六ヶ迫鉱泉
2006-03-08 | 旅
その夜、僕の祖父に先祖の話を聞いた。
江戸時代は稲葉家に遣えていた武家の家系で、殿に出す食事の安全管理をやっていたり港の管理をしていたらしい。
臼杵市の歴史書にもその名前を確認できた。
江戸から明治へ大きく時代が写り変わったときに活躍したのが、僕の祖父の祖父である広海さんである。
広海さんは六ヶ迫(ろっかさこ)鉱泉という冷たい温泉みたいなものを手に入れて、そこで営業を始めた。
当時、大分県の温泉は別府温泉くらいしかなく、湯布院もまだない時代のことである。
(僕も前に飲んだことがある。
鉄棒した後の手のにおいがする水なのだ。
鉄分が多量に含まれており、貧血なんかに効きそうだ。)
この鉱泉は病気や怪我によく効くという噂が広まり、ほったて小屋を作って、遠くから訪ねて来る人のために貸しむしろや食事を出して儲けを出していた。
次第に人が集まりだすと、療養旅館を作り、病人、怪我人を宿泊させて、治療に専念させた。
日露戦争後、特需により旅館を3階建てに改築して、さらに客が集まり、特に山口や和歌山にお得意さんが多かった。
地元に鉄道が敷かれ、駅ができると、今度は源泉から駅前まで4キロのパイプを引いて駅前に旅館を作った。
このころが最も繁盛していた時代である。
しかし、敗戦とともに再び時代は移り変わる。
不景気でなかなか客が集まらなくなってきた。
昭和20年頃パイプが老朽化し、改築の選択を迫られたが、採算が合わないということで諦める。
さらに昭和37年、旅館が火災で焼失し、旅館の歴史の幕を閉じた。
さて、広海さんには4人の息子がいたのだが、どうやらその4兄弟の子孫しか、末裔がいないようだ。
長男の信海さんの末裔が僕ということだが、他がどうなっているかはよく分からないらしい。
ただ、どの筋も医者や教師など、学問に精を出している人が多いようだ。
まだまだ聞きたいことがあったのだが、遅くまで祖父を付き合わせるわけにもいかず、就寝することにした。
江戸時代は稲葉家に遣えていた武家の家系で、殿に出す食事の安全管理をやっていたり港の管理をしていたらしい。
臼杵市の歴史書にもその名前を確認できた。
江戸から明治へ大きく時代が写り変わったときに活躍したのが、僕の祖父の祖父である広海さんである。
広海さんは六ヶ迫(ろっかさこ)鉱泉という冷たい温泉みたいなものを手に入れて、そこで営業を始めた。
当時、大分県の温泉は別府温泉くらいしかなく、湯布院もまだない時代のことである。
(僕も前に飲んだことがある。
鉄棒した後の手のにおいがする水なのだ。
鉄分が多量に含まれており、貧血なんかに効きそうだ。)
この鉱泉は病気や怪我によく効くという噂が広まり、ほったて小屋を作って、遠くから訪ねて来る人のために貸しむしろや食事を出して儲けを出していた。
次第に人が集まりだすと、療養旅館を作り、病人、怪我人を宿泊させて、治療に専念させた。
日露戦争後、特需により旅館を3階建てに改築して、さらに客が集まり、特に山口や和歌山にお得意さんが多かった。
地元に鉄道が敷かれ、駅ができると、今度は源泉から駅前まで4キロのパイプを引いて駅前に旅館を作った。
このころが最も繁盛していた時代である。
しかし、敗戦とともに再び時代は移り変わる。
不景気でなかなか客が集まらなくなってきた。
昭和20年頃パイプが老朽化し、改築の選択を迫られたが、採算が合わないということで諦める。
さらに昭和37年、旅館が火災で焼失し、旅館の歴史の幕を閉じた。
さて、広海さんには4人の息子がいたのだが、どうやらその4兄弟の子孫しか、末裔がいないようだ。
長男の信海さんの末裔が僕ということだが、他がどうなっているかはよく分からないらしい。
ただ、どの筋も医者や教師など、学問に精を出している人が多いようだ。
まだまだ聞きたいことがあったのだが、遅くまで祖父を付き合わせるわけにもいかず、就寝することにした。