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小野塚喜平次と社会問題

2010-02-06 | Weblog
小野塚喜平次は若い頃から社会問題・社会政策に対する関心を持っていました。彼が長岡郷友会雑誌第5号(明治26年4月刊)に寄稿した「識者何ゾ速ニ社會問題研究会ヲ組織セザル」(以下「識者」)にその一端を窺うことができます。

長岡郷友会雑誌は、小野塚自身が編輯人を務めていた雑誌で、明治25年から30年まで刊行されました。明治25年といえば、彼が一高を卒業し、東京帝国大学法科大学政治学科に入学した年、30年は独仏の在外研究に出立した年です。

「識者」は、冒頭このような文章で始まります。

「左ノ短編ハ本年二月上旬予ガ日本國民兩新聞社ニ寄セテ没書ノ栄ヲ辱フセシモノナリ聲聞ナク文筆ナキ予又タ何ヲカ言ハン只タ余ハ日本ノ社會殊ニ其先導者ヲ以テ自ラ任ズル新聞社會ガ社會問題ニ對シテ今日ノ如ク冷淡ニ済シ得ルノ日ノ意外ニ速ニ過キ去ラン┐ヲ恐ルルモノナリ今本誌ノ餘白ヲ借リ郷友諸君ノ一覽ニ供ス」

ここで「日本」は陸羯南が主筆として活躍した新聞「日本」、「國民」は徳富蘇峰が1890年に創刊した「國民新聞」ではないかと思われます。どちらも当時の著名ジャーナリストを擁する硬派で有力な新聞です。これらの有力な新聞社が社会問題に対して冷淡であるという指摘には興味深いものがあります(単にボツにされたからなのかもしれませんが)。

続けて小野塚は、現下の社会のニ大問題として「各國競フテ勢力ノ擴張ヲ勉ムルヨリ生スル國際間ノ衝突」と「産業ノ發達分配ノ不平均ヨリ來ル貧富ノ軋轢」であると指摘します。そして、前者については東邦協会を組織し、東南洋を調査させたりしているのに対し、後者については研究会も組織されていない状況にあると嘆いています。

「...宜ク速ニ朝野ヲ分タズ黨派宗教ノ如何ヲ論セス學者ト實務家トノ区別ヲ問ハズ苟モ憂國愛民ノ士ハ相團結シテ社會問題研究會ヲ組織シ慈仁ナル心情ト冷静ナル頭脳トヲ以テ精細ニ勞働者ノ實状ヲ探リ之ニ對スル各種ノ方針ヲ學術的ニ講究シテ公平ナル判定ヲ下スベキナリ...」

小野塚は学者や実務家で構成される社会問題の研究会を組織すべきだと主張しています。実際、小野塚が高野岩三郎や矢作栄蔵らと社会政策学会の前身である「ドイツ工業条例研究会」を結成したのが1896年(明治29年)、社会政策学会(小野塚も設立時の会員の一人です)が発足したのが1897年(明治30年)ですから、この問題提起はかなり早い段階のものだと言えるでしょう。

面白いのは「慈仁ナル心情ト冷静ナル頭脳」という表現です。これはアルフレッド・マーシャルの"cool head and warm heart"の和訳のように見えます。この有名なフレーズはマーシャルが1885年、ケンブリッジ大学経済学教授の就任講演で述べたものですが、明治26年(1893年)当時、小野塚はすでにマーシャルを知っていたのでしょうか?小野塚は学生時代、J.S.ミルやスペンサーを読んで感化を受けたとされます。当時はアダム・スミス、J.S.ミルなどがよく読まれていたようですが、マーシャルについてはどうか。福田徳三がマーシャルに沿った講義を行っていたのが1900年代初頭くらいからだ言われているので、明治26年の段階で政治学徒の小野塚がマーシャルを知っていたとしたら、ちょっと面白いですね。

当時の世相についてもう少々付け加えると、金井延が帰朝し東大で社会政策の講義を行ったのが1890年頃、國民新聞記者の松原岩五郎が「最暗黒の東京」を刊行したのが1893年、横山源之助の「日本之下層社会」が刊行されたのが1899年です。明治初頭は明六雑誌や田口卯吉などに代表されるように、英米流自由主義経済学の影響が顕著で、実際、松方正義が大蔵大臣の頃には通貨の兌換性回復によるインフレの収束や、官営工場の民間払下げ等、自由主義経済学に親和的な政策がとられました(「殖産工業」路線からの転換の時代でもあります)。しかし、明治も半ばになると、徐々に社会政策のような改良主義的な考え方が広まっていきました。小野塚の学生時代は、そのような雰囲気の只中にあった訳です。

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