Good Life, Good Economy

自己流経済学再入門、その他もろもろ

「中心が移動し続ける都市」について考えてみる

2011-10-21 | Weblog

『アーキテクチャとクラウド 情報による空間の変容』(millegraph)をぽつりぽつりと読んでいる。昨年出版されたムックだが、編集者の富井雄太郎氏のtweetによると、ここのところ売上好調のようだ(今話題の『設計の設計』やバンクシー・ブームが一役買っているとのこと)。

収録された対談・論稿はいずれも興味深いものだが、ここでは柄沢祐輔・掬矢吉水両氏の対談において言及されている「中心が移動し続ける都市」というインスタレーションに焦点を絞ってみる。

「中心が移動し続ける都市」とは、柄沢祐輔・松山剛士両氏が「可能世界空間論」という展覧会(2010年;ICC)において発表したコンピュータ・シミュレーションによるインスタレーションである。

何故このインスタレーションに惹かれたかというと、理由は単純で、ポール・クルーグマンが著書「自己組織化の経済学-経済秩序はいかに創発するか」Self-organizing Economyにて展開したモデルをベースにしているからである。シミュレーションとはいえ、空間経済学の知見を都市計画へ直接導入した例は、おそらくあまり多くはあるまい。


本作品に関するICCのサイトの説明は以下のとおり。

「2008年にノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンは,著書『自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか』において,資本主義に基づく資本の自己増強(自己組織化)のメカニズムが,どのように都市空間の発展,さらにその帰結として中心地と後背地といった不均衡をもたらすかを,複雑系の概念を応用した数学的モデルによって独自に説明しています.このインスタレーションは,その資本の自己増強メカニズムを逆手にとって解釈し,都市の不均衡を招く空間的自己組織化をゆるやかに解体・コントロールする方法論を,新しい幾何学と数理モデルによって提案します.動的な中心地と後背地の関係を記述する都市モデル自体が,都市の生成プログラム・コントロール・システムとなることで,自己組織化に関与する新しい都市モデルがグラフィカルに提示されます.」

クルーグマン・モデルの帰結は、空間は結局、中心地と衰退する郊外に二極化し、その格差は固定化・拡大する一方になる、ということなのだが、本作品はその格差を内生的に是正するプログラムを組み込んでいる。


再びICCのサイトから引用すると、

「都市の格差が固定化した瞬間に,より言うならば繁栄する中心地と衰退する郊外の分岐が拭いがたく展開したその瞬間に,中心がずれて移動し,都市の中のまったく新しい場所が新たな中心として定義され,その格差のメカニズムが解体するという新しい格差是正の都市のモデルを提示するものである.」


続いて『アーキテクチャとクラウド』から引用する。

柄沢:...べき乗則でどれくらいの時間で自己収束が行われて、都市が後背地と中心地に分岐するかをシミュレーションで演算し、その結果を使って廃れた後背地に今度は繁栄する中心が移動するという都市計画のシステムです。

掬矢:中心点を自由に移動させることもできるのですか。

柄沢:シミュレーションで生まれてきた中心を、今度はべき乗則でいうロングテールの部分に移動させることもできます。

掬矢:つまりそれは勝手にでき上がるのではなくて、ある種の操作が可能ということですね。

柄沢:そうです。もし今の時代に社会工学や国家的な行政のストラテジーとして介入すべき状況があるとしたら、それしかないと思います。民間が利潤を追求するならば、そういったことはできません。...

掬矢:...民間や市場原理に基づけば、べき乗則によって自己収束が行われますが、それを別レイヤーで編み換える力があるのは行政やパブリックだけ。...

柄沢:ノージックのリバタリアニズム以後の戦略的な提言を行うことができたと思っています。ノージックの理論だと民間は自分たちの資本でユートピアや社会福祉やサービスを提供するという発想ですが、それが破綻した時にはべき乗則で現れる経済収束を再配分すべきだということです。それが国家の役割です。...


ここに至り、この作品がリバタリアン的市場経済から国家の手に空間編成のイニシアチブを取り戻す試みという意味を帯びていることに思い当たる。
(もちろん、現在の主流派経済学はいわゆる「新自由主義」礼賛ではなく、「市場の失敗」のようなフリクションを組み込んだモデルを想定しているのであるが。)


さらに「ユリイカ」2011年8月号に収められた柄沢氏のエッセイ「メタボリズム=アルゴリズムの射程とは」について。
このエッセイでは、アルゴリズム建築とメタボリズムとの間の密接なつながりが宣言されるとともに、メタボリズム=アルゴリズムの大規模都市計画への志向性が明らかにされる。そのうえで、柄沢氏は次のように語る。

「50年前のメタボリズムは、高度経済成長下における人口爆発に対応する都市・建築のヴィジョンという意義をひとえに担っていた。今日のメタボリズム=アルゴリズムは果たしてどのような射程をもつのであろうか。どこまでも縮小してゆく日本経済と疲弊しきった地方都市の再生へと、そのヴィジョンは応用可能なのか。それとも莫大な経済発展と人口の増大を迎える新興諸国へとそのヴィジョンは応用されてゆくのだろうか。さしあたっての私の回答は、この二つの世界の中間領域が存在しており、そこにおいてこそメタボリズム=アルゴリズムは絶大なる可能性を展開してゆくのだと、ここで明確に予告しておきたいと思う。」

しかし、シュリンクし続けるニッポンにおいて、再びかつてのメタボリズムのような壮大な構想力を伴う運動への志向が強まっているのは興味深い。しかも、それを先導するのはミクロとマクロを自由な発想で往還する若手・中堅建築家である。


新たな国土計画への志向は、たとえば藤村龍至氏の「復興計画β:雲の都市」や、重松象平氏の「ポスト・クライシスのグランド・ヴィジョン」にも見られる。

「...新たな日本をどのように実現していくのかをイメージしていくために、建築家は国土、都市、建築の各スケールでアイディアを出し、絵を描いて提示していく必要がある。...それはかつて1960年代、農業国だった日本が工業国へと転換していくプロセスで丹下健三やメタボリスト、田中角栄や下河辺淳が果たした役割にほかならない。」(思想地図β vol.2 藤村龍至+東洋大学藤村研究室「復興計画β:雲の都市」 p.50)

「1950年代からの日本のGDPの推移と僕の人生をオーバーラップさせると、GDPのアップダウンと自分の人生の節目が重なります。これだけアップダウンが激しいということは「プレクライシス(危機以前)」も「ポストクライシス」も実は表裏一体の関係で、「近代化」も「縮小」も同じように等価な関係にあるんじゃないかというのが僕の仮説です。でも、建築も行政も、右肩上がりのお金があって税収があるときのグランドビジョンしか出てこない。

そういうことを考えているときに東日本大震災が起きたわけです。ふたつの問題が露呈されたと思っていて、ひとつはそのエナジークライシスとセーフティで、もうひとつは人口がこの先の50年で約半分になると言われているなかで過疎化した村を再生することの意義を考えました。メタボリズムとか60年代、70年代はグランドビジョンが出てきましたが、こうやって縮小する社会ときこそ、グランドビジョンが必要だと思いますね。」
(重松象平「ポスト・クライシスのグランド・ヴィジョン」, Art and Architecure Review Nov.2011)


八束はじめ著「メタボリズム・ネクサス」が指摘するように、メタボリズム(およびその影響下にある国土計画)の源流には、満鉄調査部や企画院を経て、経済安定本部などに至る計画経済への志向がある。今の若手・中堅建築家は、おそらくはその発想からは自由であろう。その代りにあるのが、情報テクノロジーと「つくることの民主化」(柄沢他著『設計の設計』)ではなかろうか。


コメントを投稿