佐藤文隆著「職業としての科学」(岩波新書;2011)を読んでみました。科学と社会との関係は、科学の制度化・大規模化、研究者の雇用流動化のみならず、国際政治動向(冷戦の終結等)などにも影響され、再定義されねばならなくなっている、という現状を多面的な筆致で解き明かしています。
骨格となるストーリーを抽出してみると、
a.1995年の科学技術基本法成立以来、科学技術関連予算は増加を続けている。
a'.しかし、この予算は公募のなかから勝ち残った研究プロジェクトに配分される「競争的資金」であり、そこで雇用される研究者はみな任期付きとなり、研究現場は不安定雇用の者で溢れかえることになった。
a".日本は人口1万人あたりの研究者数では世界で断然トップである。従来、「科学」的営為とは、ある種の聖域として自律的な地位を保持していたが、ここまで規模が大きくなると、科学と国家あるいは社会の関係は変わっていかざるを得ない。
b.科学のあり方として、マックス・プランクとエルンスト・マッハという対立軸を考えることができる。
プランク:
1)「制度化された科学」を目指す。社会から隔離された専門家集団としての科学界。
2)科学の学問としての純粋化を目指す。研究それ自体が目的。
マッハ:
1)科学精神をもって一般市民の力を向上させることができるとする。問題解決のための科学。
2)「科学は思惟経済である」=労働や思考を節約する手段としての科学。道具としての科学。
b'.制度科学のエートスを、カール・ポパーとトマス・クーンという対立軸で考える。
ポパー:
1)制度科学は、科学者魂を体現する独立な科学者たちに支えられている。
2)反証主義に基づく「漸次的社会技術」piecemeal engineeringを唱導。
3)科学の理論は、人類全体に共有な客観的実在である、とする。科学の実在論。
クーン:
1)制度化された科学における研究者は、研究対象と対峙するだけでなく、同業者の動向や科学業界の気配を読むことにエネルギーを注いでいる。いわば、科学業界「市場」で
の評価が研究の価値を決めると言える。
2)社会構成論(制度科学内の社会=「市場」)。
1980年代くらいからクーンの言ったことが現実化しだしたとされる。制度科学は批判精神の集団ではなく、ノーベル賞を目指して成功を競い合う知識エリートたちの集団と見なされるようになった。
c.問題系a-a"の解決策として、「科学技術エンタープライズ」を提唱する。これは「研究者を主とした科学界という構造に代わって、今日の医療業界の姿が示唆するような、さまざまな専門の職能集団というイメージに拡大した」(p.18)ものである。
c'.日本の科学技術の「生きた」人的・物的資産を活用するため、研究という狭い分野にとどまらず、起業や教育、臨床や基礎、事務・財務といった周辺分野にまで拡大したエンタープライズ(事業体)を構想し、雇用を創出していく。
b-b'とc-c'をつなぐロジックとして、第6章「知的爽快」において科学の効用理論を提唱している。即ち、
d.科学を「思考する」営みと見たうえで、以下の二つの効用を仮定する。
I.科学が見出す新しい知識は、社会に有用なインパクトを与える源泉である。
II.科学の実行は、達成感を伴う楽しいことである。
d'.3つの仮想国家を想定してみる。
A国:政府が科学研究を監視・統制する。
B国:徹底した省エネ・エコ社会を目指す。反「進歩」の安定社会。
C国:科学研究は市場原理に委ねられる。科学者の経済的・社会的ステイタスは高く、世界中の野心的な若者が科学者を目指す。実験装置の開発・製造、出版・教育、博物館等が多様な雇用をもたらしている社会。
d".A国はI型効用を純化させた社会、B国はI型効用の意義を反転させた社会、そしてC国はI型効用を排し、II型効用に特化した社会。
著者はII型科学に期待を寄せている。しかし、その目指すところはC国のような科学と享楽的文化産業の融合とは、いささかベクトルを異にするようである。
例えば、著者は「マッハ=ポパー的な科学者魂」という視点を提示する。様々な課題に対し、形而上学を排して合理的・実証的批判精神で立ち向かう姿勢を指す。そして、「科学者こそその体現者であり、この精神を社会的に広げることが、科学の営みの一つの社会貢献だというのである。民主主義社会を担う市民のロールモデルというわけである。これがマッハの夢である。」(p.160)
著者はプランク対マッハという対立軸ではマッハに、ポパー対クーンではポパーに、より共感を寄せているように思える。「科学技術エンタープライズ」という発想も、研究者の雇用状況の改善というプラグマティックな問題関心とともに、科学者的な批判精神や社会へのコミットメントといったマッハ=ポパー的な問題系への回答とも解釈できよう。もちろん、制度科学はプランク的な純化を進めてきたし、制度科学内部ではクーン的な市場競争原理が働いていることを前提としたうえでの回答である。
骨格となるストーリーを抽出してみると、
a.1995年の科学技術基本法成立以来、科学技術関連予算は増加を続けている。
a'.しかし、この予算は公募のなかから勝ち残った研究プロジェクトに配分される「競争的資金」であり、そこで雇用される研究者はみな任期付きとなり、研究現場は不安定雇用の者で溢れかえることになった。
a".日本は人口1万人あたりの研究者数では世界で断然トップである。従来、「科学」的営為とは、ある種の聖域として自律的な地位を保持していたが、ここまで規模が大きくなると、科学と国家あるいは社会の関係は変わっていかざるを得ない。
b.科学のあり方として、マックス・プランクとエルンスト・マッハという対立軸を考えることができる。
プランク:
1)「制度化された科学」を目指す。社会から隔離された専門家集団としての科学界。
2)科学の学問としての純粋化を目指す。研究それ自体が目的。
マッハ:
1)科学精神をもって一般市民の力を向上させることができるとする。問題解決のための科学。
2)「科学は思惟経済である」=労働や思考を節約する手段としての科学。道具としての科学。
b'.制度科学のエートスを、カール・ポパーとトマス・クーンという対立軸で考える。
ポパー:
1)制度科学は、科学者魂を体現する独立な科学者たちに支えられている。
2)反証主義に基づく「漸次的社会技術」piecemeal engineeringを唱導。
3)科学の理論は、人類全体に共有な客観的実在である、とする。科学の実在論。
クーン:
1)制度化された科学における研究者は、研究対象と対峙するだけでなく、同業者の動向や科学業界の気配を読むことにエネルギーを注いでいる。いわば、科学業界「市場」で
の評価が研究の価値を決めると言える。
2)社会構成論(制度科学内の社会=「市場」)。
1980年代くらいからクーンの言ったことが現実化しだしたとされる。制度科学は批判精神の集団ではなく、ノーベル賞を目指して成功を競い合う知識エリートたちの集団と見なされるようになった。
c.問題系a-a"の解決策として、「科学技術エンタープライズ」を提唱する。これは「研究者を主とした科学界という構造に代わって、今日の医療業界の姿が示唆するような、さまざまな専門の職能集団というイメージに拡大した」(p.18)ものである。
c'.日本の科学技術の「生きた」人的・物的資産を活用するため、研究という狭い分野にとどまらず、起業や教育、臨床や基礎、事務・財務といった周辺分野にまで拡大したエンタープライズ(事業体)を構想し、雇用を創出していく。
b-b'とc-c'をつなぐロジックとして、第6章「知的爽快」において科学の効用理論を提唱している。即ち、
d.科学を「思考する」営みと見たうえで、以下の二つの効用を仮定する。
I.科学が見出す新しい知識は、社会に有用なインパクトを与える源泉である。
II.科学の実行は、達成感を伴う楽しいことである。
d'.3つの仮想国家を想定してみる。
A国:政府が科学研究を監視・統制する。
B国:徹底した省エネ・エコ社会を目指す。反「進歩」の安定社会。
C国:科学研究は市場原理に委ねられる。科学者の経済的・社会的ステイタスは高く、世界中の野心的な若者が科学者を目指す。実験装置の開発・製造、出版・教育、博物館等が多様な雇用をもたらしている社会。
d".A国はI型効用を純化させた社会、B国はI型効用の意義を反転させた社会、そしてC国はI型効用を排し、II型効用に特化した社会。
著者はII型科学に期待を寄せている。しかし、その目指すところはC国のような科学と享楽的文化産業の融合とは、いささかベクトルを異にするようである。
例えば、著者は「マッハ=ポパー的な科学者魂」という視点を提示する。様々な課題に対し、形而上学を排して合理的・実証的批判精神で立ち向かう姿勢を指す。そして、「科学者こそその体現者であり、この精神を社会的に広げることが、科学の営みの一つの社会貢献だというのである。民主主義社会を担う市民のロールモデルというわけである。これがマッハの夢である。」(p.160)
著者はプランク対マッハという対立軸ではマッハに、ポパー対クーンではポパーに、より共感を寄せているように思える。「科学技術エンタープライズ」という発想も、研究者の雇用状況の改善というプラグマティックな問題関心とともに、科学者的な批判精神や社会へのコミットメントといったマッハ=ポパー的な問題系への回答とも解釈できよう。もちろん、制度科学はプランク的な純化を進めてきたし、制度科学内部ではクーン的な市場競争原理が働いていることを前提としたうえでの回答である。
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