そんな古いはなし、誰もがおとぎの国の物語と思うに決まっている。
ところが、1000年以上前の平安時代の古―い話を思い出した。当然、人も縄張り(派閥)をつくり勢力を誇示したい。
鎌倉時代につくられた「平家物語」は、権力をにぎり大きく栄えた平家が源氏との戦いに破れて滅びていく様を描かれた戦記物語だそうだ。
私は紀州(和歌山県)の生まれ、川を遠く坂上れば深い木々に覆われ、平家の落人(おちうど)の村もあった。
平氏もこんな奥深いところまで、追われて、気が付いたらここだったような気がする。まるで、今のようだ。
総裁選挙、誰が天下を取るのだろう。もうすでに、10人ほどの人が名乗りを挙げている。
この10人の方は、東の国の人か、西の国の人か選挙基盤をみれば、源氏か平氏がわかる。京都を境に西が平氏、東が源氏にわかれるようだ。
平氏も源氏も元は天皇家で皇室の財政上、天皇家を継承する見込みのない皇族を外し武士として扱い、そのかわり平氏、源氏の性(かばね)を名乗っていいとした。平(たいらの)、源(みなもとの)のを付くのは天皇家の子孫を表している。
皇室の真子様が小室さんと結婚したことによって、真子様が皇室から外れ、臣籍降下(しんせきこうか)によって、真子様への国からのお手当てがなくなり、小室さんの給料で生活するようになる。小室真子となる。
平清盛の平氏が源氏との戦いで皆殺しにしようとしたが、幼い源頼朝は伊豆に流され、監視役であった、北条時政の政子と恋仲になってしまう。大反対したが、平氏に隠れて婚姻した。ってことは北条時政は平氏だったのが源氏になったのだろう。
大人になった源頼朝は北条時政、義時とともに安房国(千葉県)に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。
北条政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで、池の鳥が一斉に飛び立ち頼朝軍の夜襲と勘違いして逃げ去った。頼朝軍は戦わずして平氏に勝った。
各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。
源頼朝は、母違いの弟の義経と再会し、33歳の頼朝、21歳の義経が協力して平氏と戦った。
源頼朝は人望にあつく、弟の義経は戦略家であった。
一方、平氏の頭領、平清盛は娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、出来た子が安徳天皇です。武士の清盛はえらくなり、「平氏でなければ、人間じゃない」と言わせる安泰な身分となった。
平清盛は交易によって経済を発展させたいと思って、福原(兵庫県)に港町を作った。現在も港町神戸として発展している。瀬戸内海を交易ルートとして、大いに利用した。
戦の天才、源義経は福原に強固な陣地を構えた平氏を、思わぬ方法で海に追い出した。これが「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえの逆落とし)だそうだ。まさか裏山の崖から源氏が攻めて来るとは思いもせず、平氏は海に追い出した。
ここで、栃木の那須の与一が登場し船上か平氏の船上の的(まと)を弓を放ち見事、的に命中した。という那須の与一の伝説ができた。伝説かどうか知らないが、栃木には今も那須の与一の館があった。
平氏は本拠地の屋島に追われ、とうとう下関の壇ノ浦まで追いやられた。瀬戸内海の水軍の助けもあった。
下関は海峡で、海の流れも荒く変わる。平氏は海での戦いは慣れている。源氏は舟を操る(あやつる)船頭(せんどう)に弓を引いたようだ。舵(かじ)を無くした舟は荒海にのみこまれ海に沈んだようだ。
あんなに栄えていた平氏が壇ノ浦の戦いで源氏に滅ぼされた。栄枯盛衰の感だ。
平家との戦いに最も功績のあった弟の義経を殺し、さらに、義経を殺させた藤原氏までも打ち取った。
源頼朝が平家を滅ぼした後、20年後には源氏は絶えてしまった。
武家社会は、肉親,友の抹殺は日常茶飯事に行われている。権力と独裁は必ず衰える時が来ることを教えている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という平家物語の最初の一節だそうだ。
現在の日本を考える時、日本の領土の45倍の国、日本の人口の約12倍の国、日本より小さな国で核ミサイルをつくっている国、
に囲まれた日本、今更、引っ越しも出来ない国日本の舵取りを任せるトップを決める総裁選挙が今月末に決まる。
平清盛にたどり着くまで、平氏のあゆみは250年も要している。
さて、総裁選挙の候補者の記者会見を覗き見させていただいたが、勉強なさっている候補はただお一人いた。
後は自民党の義理で若い候補も古い候補も、何か話しておられた。
私のにわか評論は、おこがましいが、日本のおかれている世界は大変厳しい。舵取りを間違えば来年の日本はないかもしれない。
世は、青年も中年も高齢者もみんな共存している。古いだの新しいだの生まれてないよ、と言っている時間はない。
スマホも必要だし、新しい情報、古い情報、嫌な情報、学びの情報が人間の生きざまになる。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
義父が亡くなられ、小さくなって、お墓に納骨された。
総裁、内閣総理大臣となられるお方は、明日からの日本国のあるべき姿を国民に示すことであり、いち大臣ではない。日本国民を守ることにある。
今が良ければいいと思う気持は理解できないでもないが、未来は与えられるものでもなく、踏み台にされないことを願う、自分の未来は自分でしか作れないと思った。
敬具。
がん細胞は甘いものがお好だとか。がん保険に入ってなかったの? だって、がんになるつもりなかったから。(ある知人の話から)
ところが、1000年以上前の平安時代の古―い話を思い出した。当然、人も縄張り(派閥)をつくり勢力を誇示したい。
鎌倉時代につくられた「平家物語」は、権力をにぎり大きく栄えた平家が源氏との戦いに破れて滅びていく様を描かれた戦記物語だそうだ。
私は紀州(和歌山県)の生まれ、川を遠く坂上れば深い木々に覆われ、平家の落人(おちうど)の村もあった。
平氏もこんな奥深いところまで、追われて、気が付いたらここだったような気がする。まるで、今のようだ。
総裁選挙、誰が天下を取るのだろう。もうすでに、10人ほどの人が名乗りを挙げている。
この10人の方は、東の国の人か、西の国の人か選挙基盤をみれば、源氏か平氏がわかる。京都を境に西が平氏、東が源氏にわかれるようだ。
平氏も源氏も元は天皇家で皇室の財政上、天皇家を継承する見込みのない皇族を外し武士として扱い、そのかわり平氏、源氏の性(かばね)を名乗っていいとした。平(たいらの)、源(みなもとの)のを付くのは天皇家の子孫を表している。
皇室の真子様が小室さんと結婚したことによって、真子様が皇室から外れ、臣籍降下(しんせきこうか)によって、真子様への国からのお手当てがなくなり、小室さんの給料で生活するようになる。小室真子となる。
平清盛の平氏が源氏との戦いで皆殺しにしようとしたが、幼い源頼朝は伊豆に流され、監視役であった、北条時政の政子と恋仲になってしまう。大反対したが、平氏に隠れて婚姻した。ってことは北条時政は平氏だったのが源氏になったのだろう。
大人になった源頼朝は北条時政、義時とともに安房国(千葉県)に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。
北条政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで、池の鳥が一斉に飛び立ち頼朝軍の夜襲と勘違いして逃げ去った。頼朝軍は戦わずして平氏に勝った。
各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。
源頼朝は、母違いの弟の義経と再会し、33歳の頼朝、21歳の義経が協力して平氏と戦った。
源頼朝は人望にあつく、弟の義経は戦略家であった。
一方、平氏の頭領、平清盛は娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、出来た子が安徳天皇です。武士の清盛はえらくなり、「平氏でなければ、人間じゃない」と言わせる安泰な身分となった。
平清盛は交易によって経済を発展させたいと思って、福原(兵庫県)に港町を作った。現在も港町神戸として発展している。瀬戸内海を交易ルートとして、大いに利用した。
戦の天才、源義経は福原に強固な陣地を構えた平氏を、思わぬ方法で海に追い出した。これが「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえの逆落とし)だそうだ。まさか裏山の崖から源氏が攻めて来るとは思いもせず、平氏は海に追い出した。
ここで、栃木の那須の与一が登場し船上か平氏の船上の的(まと)を弓を放ち見事、的に命中した。という那須の与一の伝説ができた。伝説かどうか知らないが、栃木には今も那須の与一の館があった。
平氏は本拠地の屋島に追われ、とうとう下関の壇ノ浦まで追いやられた。瀬戸内海の水軍の助けもあった。
下関は海峡で、海の流れも荒く変わる。平氏は海での戦いは慣れている。源氏は舟を操る(あやつる)船頭(せんどう)に弓を引いたようだ。舵(かじ)を無くした舟は荒海にのみこまれ海に沈んだようだ。
あんなに栄えていた平氏が壇ノ浦の戦いで源氏に滅ぼされた。栄枯盛衰の感だ。
平家との戦いに最も功績のあった弟の義経を殺し、さらに、義経を殺させた藤原氏までも打ち取った。
源頼朝が平家を滅ぼした後、20年後には源氏は絶えてしまった。
武家社会は、肉親,友の抹殺は日常茶飯事に行われている。権力と独裁は必ず衰える時が来ることを教えている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という平家物語の最初の一節だそうだ。
現在の日本を考える時、日本の領土の45倍の国、日本の人口の約12倍の国、日本より小さな国で核ミサイルをつくっている国、
に囲まれた日本、今更、引っ越しも出来ない国日本の舵取りを任せるトップを決める総裁選挙が今月末に決まる。
平清盛にたどり着くまで、平氏のあゆみは250年も要している。
さて、総裁選挙の候補者の記者会見を覗き見させていただいたが、勉強なさっている候補はただお一人いた。
後は自民党の義理で若い候補も古い候補も、何か話しておられた。
私のにわか評論は、おこがましいが、日本のおかれている世界は大変厳しい。舵取りを間違えば来年の日本はないかもしれない。
世は、青年も中年も高齢者もみんな共存している。古いだの新しいだの生まれてないよ、と言っている時間はない。
スマホも必要だし、新しい情報、古い情報、嫌な情報、学びの情報が人間の生きざまになる。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
義父が亡くなられ、小さくなって、お墓に納骨された。
総裁、内閣総理大臣となられるお方は、明日からの日本国のあるべき姿を国民に示すことであり、いち大臣ではない。日本国民を守ることにある。
今が良ければいいと思う気持は理解できないでもないが、未来は与えられるものでもなく、踏み台にされないことを願う、自分の未来は自分でしか作れないと思った。
敬具。
がん細胞は甘いものがお好だとか。がん保険に入ってなかったの? だって、がんになるつもりなかったから。(ある知人の話から)