回し飲みによる感染を避けるために「各服点」(次客以降の濃茶を各服で供する点前)で執り行う予定だった正月の初釜茶会も、昨年末に中止の決定が下されました。新年早々の緊急事態宣言で稽古自体も暫くの間お休みです。
近所の花庭園では、冬牡丹が絹のような花びらを幾重にも広げていました。一株ごとに藁帽子で大事に守られた牡丹の様子は「百花の王」というよりも、手塩にかけて育てられた箱入り娘と言った方が相応しいかもしれません。しかし、まだ凍りつくような大地の下には、生命のドラマが繰り広げられています。一本一本数え上げれば気の遠くなるような長さの根が生え、それぞれの根からはおびただしい根毛が伸びていて、水やリン酸、窒素やその他の養分を休みなく吸いあげているのです。五木寛之さんが『大河の一滴』に書いていますが、アイオワ州立大学の生物学者が、小さな木箱にライ麦の苗を植えて、その根や根毛の長さを測って累計したところ、実に1万1千2百キロに及んだそうです。シベリア鉄道の1.5倍にも達するその根の力が、貧弱なライ麦の一本の生命を支えているのです。
一口吸尽西江水(一口に吸尽す 西江の水)
千利休が参禅の師と仰いだ大徳寺の古渓宗珍 により示された禅語で、これにより利休は大悟したとされています。
中国の禅僧が、禅師に「万法を超越した人とはどんな人ですか」と尋ねたところ、禅師は「お前が西江の水を一口に飲み尽くすことができたら、それを教えてやろう」と答えたのだそうです。これだけでは何を言おうとしているのか分かりませんが、この後には次の句が続きます。
洛陽牡丹新吐蘂(洛陽の牡丹 新たにズイを吐く)※ズイ=雄蘂と雌蘂の意
大地が地下に水を蓄え、その地下水を牡丹が吸い上げて、大輪の花を咲かせる、と続くのです。
最初の句では、「万法を超越した人」についての問いに、禅師は西江の水を一息に飲んでみろと答えます。禅僧の問いそのものが間違っているという答えにもなるのかもしれません。ところが、これに続いて、大地の水を吸い上げて泰然と咲く牡丹の姿が描かれます。
根の丈を倦むことなく伸ばし続け、根の先に根毛を絶えず押し広げ、そこから大地の水を吸い上げる、驚くべき命の力がそこにあるではないか、そして牡丹の花の大輪となって生命の形をまさに表している。奢ることもなく息づいている自然の姿に、まず驚くべきだろう、これは超越すべき何ものでもない、と禅師は語ったのではないでしょうか。
そのようにとらえてみると、「雪間の草」に茶の心を見ていた利休の、能動的な美の世界にも通じるように思います。諸々の茶事が止まっても、茶のこころは伸び伸びとどこまでも広がるのだと、励まされるようにも感じます。