近くの公園に散歩に行くと、石橋の欄干の柱にユリカモメが並んでいます。秋に飛来した鳥たちも、もうそろそろ旅立ちの時を迎えるようです。
人はみな馴れぬ歳を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天
(永田紅 『日輪』)
今こうして公園の湖に憩っているユリカモメが、寒さをしのぐ短い期間を過ごして、遠くに旅立って行くのを見送ることは、自分がひとつずつ歳をとっていくことを意味します。鳥たちが去ったあとの歳は、それを見ている自分にとっても、長い飛行に旅立つような「馴れぬ歳」なのです。
しみじみこう感じるのも、わが家の双子の娘たちが、もうすぐ卒業式を迎え、社会人になるからなのかもしれません。それぞれインターン先にお別れの挨拶をして送別会を開いてもらったりする毎日です。彼女たちはいま、間違いなく「馴れぬ歳」を生きようとしています。
以前、この歌を紹介したときに、こんなことを書きました。
「馴れぬ歳」という感慨は、自分の歳としっくり折り合いをつけているような自分を想定して、それとは程遠い自分があるから、生じるものではないでしょうか。だとすれば、折り合いのつかない自分が、いずれ見出すはずの解答のようなものとして「折り合いをつけた自分」をどこかで夢想しているのだと思います。折り合いのつかない現在によって、無限に繰り延べられる解答が置かれるのです。
「馴れぬ歳」の感慨は、これから社会に出て行く娘たちの方が、私よりもはるかに大きいのだろうと思います。ひるがえって私にとって「折り合いをつけた自分」との距離が縮まるということは、人生に折り合いをつけてしまおうという退歩に違いありません。
娘たちには、職場やそのほかの環境に早く慣れてほしいと思います。
同時に「馴れぬ歳」を生きて、今抱いている違和感をいつまでも抱いてほしいと思います。仕事に対しても、人生に対しても。