この秋二度目の台風に備えるために、雨漏りの被害の可能性のある書棚を整理していると、ほぼ半世紀前の歌集がでてきました。
わたしの叔母は、病で亡くなる前の二年間に立て続けに二巻の歌集を遺しており、そのうちの一冊に久しぶりに出会ったわけです。
青年時代にこれらの歌集を何度か読んでいたはずなのですが、当時はがん闘病歌の壮絶さばかりが印象に残って、細部まで読み込むことはありませんでした。美しく快活な人だったので、そのつらい日常を正視するのが辛かったこともあります。
わたし自身、叔母の死んだ年より、ほぼ二十年も歳を重ねた今となって読み返してみると、彼女の気負いや逡巡や、みずからを鼓舞する姿をとてもいとおしく感じます。
背を立ててまっすぐ遠く見て歩む酔ひてもわれはさうして歩む
(藤絹子『花野』短歌新聞社 1973年)
さびしくはあらねどふかく酔ひしかば手にあまるまで花を求めぬ(同)
専業主婦であることを捨て、地縁も血縁も断ち切って、ひとり東京の大学夜間部に通い、税理士試験を受け合格し、叔母はやがて自分のオフィスを構えます。経営コンサルタントとして全国に講演旅行をするほどの多忙を極めるようになりますが、このときも少女時代からの作歌を続けています。
限界を越えし仕事をもちてゐてわが充実の日々と呼ばむか(同)
この超多忙のなか、乳がんの告知を受け、両乳房の切除と抗癌剤治療の日々が始まります。つらい闘病生活を詠んだ歌のなかに次の一首があり、救われる気持ちになります。
ありありと見えゐて花野の道ひとつ死はあるときにはなやぐ如し(同)
花野の道のひとすじの先に、はなやぐような死を思い描くとき、それは全力疾走をしてきたみずからの生とひと繋がりのものであったように思います。岡本かの子の晩年の歌に「年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり」があります。余命いくばくもなく悲しみは深まるばかりだけれども、それだからこそ一層命が華やぐのだと詠っています。かの子の歌に通じる力強さを、叔母の歌からも感じ取りました。
台風が、はからずも数十年ぶりに叔母との再会をはたしてくれましたが、そこにいるのはまだ中年期に差し掛かったばかりの、おそらくやり残したことを山ほど抱えていたであろう人の姿です。少しでも長く生きて何かを遺したいと渇望している、私よりもはるかに年少の女性がここに蘇って、あなたはこれまで何をしてきたの、と問うているようにも思います。