“時々気を転じ日々に情をあらたむ
これは松尾芭蕉の『笈の小文』に出てくる言葉です。「そのときそのときに従って気(気分)を転じ、その日その日に新しい心と出会う」という意味だそうです。
昨日の自分からも、明日の自分からも自分を解き放ち、一日一日を新鮮に生きたに違いない先人たち。瑞々しい感性を持つ旅人の姿が思い浮かびます。”
茶事行脚を続ける茶人、料理人 半澤鶴子さんの著書『人生に愛される』(講談社)のなかの一節です。
半澤さんが、鍋釜と茶道具をバンに積み込んで、みずからハンドルを握り、茶事を催すために行脚する姿を収めたドキュメンタリー「女ひとり70歳の茶事行脚」は、2016年にNHKで放送され大反響を呼びました。この番組は、2015年に “Tsuruko’s Tea Journey” として、NHKワールドで海外向けに放送され、大きな反響を呼んだのを受けて、改めて日本でも放送されたものだそうです。
私はたまたま、YouTubeでこの英語版の方を見つけ、観終わったあと、放心状態に陥るほど感動しました。多少とも茶道に関わる人間として、このような素晴らしい茶人の存在を知らなかったことを恥じました。
番組は、お寺の境内にある、今は使われていない茶室があるという話を聞きつけては、そこに出向き、たったひとりで料理もこなして、茶事を催す半澤さんの姿から始まります。漁村に野宿して、漁師たちを引き込んで茶事を催す、高校生たちを誘って雪国の雪原で茶事を催す、倦むことなく茶事行脚続けるその姿には、凄みさえ感じました。まるでみずからを痛めつけるようでもあり、これは「托鉢」なのだと自身でも語っていました。
印象的なのは、半澤さんが茶事を通して「啓蒙」しようとする驕りが全くないことです。むしろ、人との出会い、茶事というやり直しのきかない場を通じて、みずからがいかに未熟であるのかを、そのままに受け入れたいという思いが、半澤さんを駆り立てているのだそうです。
幼くして両親と離別し、給食費さえ払えないような環境に育ちながら、自然はいつも豊かに応えてくれたと語っています。結婚後に通信制の高校で学び、調理師の資格を取得して、お茶の世界に入ったのは四十を過ぎたときのことだそうです。番組のなかで、半澤さんが「自分はいつも渇望している」と言われていたのが、とても印象的でした。
それは、より多くを求める渇望ではなく、みずからの更新を求めてやまない渇望なのだと思います。冒頭の芭蕉の言葉「時々気を転じ日々に情をあらたむ」を、そのままに実践されておられると感じました。
玄侑宗久さんが「ないがまま」で生きるということを言っていて、半澤鶴子さんの生き方が、そのままに重なります。(前掲YouTubeは英語が聞き取れなくても理解できます)