犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

半澤鶴子さんのこと

2024-01-25 18:53:08 | 日記

“時々気を転じ日々に情をあらたむ
これは松尾芭蕉の『笈の小文』に出てくる言葉です。「そのときそのときに従って気(気分)を転じ、その日その日に新しい心と出会う」という意味だそうです。

昨日の自分からも、明日の自分からも自分を解き放ち、一日一日を新鮮に生きたに違いない先人たち。瑞々しい感性を持つ旅人の姿が思い浮かびます。”

茶事行脚を続ける茶人、料理人 半澤鶴子さんの著書『人生に愛される』(講談社)のなかの一節です。
半澤さんが、鍋釜と茶道具をバンに積み込んで、みずからハンドルを握り、茶事を催すために行脚する姿を収めたドキュメンタリー「女ひとり70歳の茶事行脚」は、2016年にNHKで放送され大反響を呼びました。この番組は、2015年に “Tsuruko’s Tea Journey” として、NHKワールドで海外向けに放送され、大きな反響を呼んだのを受けて、改めて日本でも放送されたものだそうです。
私はたまたま、YouTubeでこの英語版の方を見つけ、観終わったあと、放心状態に陥るほど感動しました。多少とも茶道に関わる人間として、このような素晴らしい茶人の存在を知らなかったことを恥じました。

番組は、お寺の境内にある、今は使われていない茶室があるという話を聞きつけては、そこに出向き、たったひとりで料理もこなして、茶事を催す半澤さんの姿から始まります。漁村に野宿して、漁師たちを引き込んで茶事を催す、高校生たちを誘って雪国の雪原で茶事を催す、倦むことなく茶事行脚続けるその姿には、凄みさえ感じました。まるでみずからを痛めつけるようでもあり、これは「托鉢」なのだと自身でも語っていました。

印象的なのは、半澤さんが茶事を通して「啓蒙」しようとする驕りが全くないことです。むしろ、人との出会い、茶事というやり直しのきかない場を通じて、みずからがいかに未熟であるのかを、そのままに受け入れたいという思いが、半澤さんを駆り立てているのだそうです。

幼くして両親と離別し、給食費さえ払えないような環境に育ちながら、自然はいつも豊かに応えてくれたと語っています。結婚後に通信制の高校で学び、調理師の資格を取得して、お茶の世界に入ったのは四十を過ぎたときのことだそうです。番組のなかで、半澤さんが「自分はいつも渇望している」と言われていたのが、とても印象的でした。

それは、より多くを求める渇望ではなく、みずからの更新を求めてやまない渇望なのだと思います。冒頭の芭蕉の言葉「時々気を転じ日々に情をあらたむ」を、そのままに実践されておられると感じました。
玄侑宗久さんが「ないがまま」で生きるということを言っていて、半澤鶴子さんの生き方が、そのままに重なります。(前掲YouTubeは英語が聞き取れなくても理解できます)


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「あるがまま」と「ないがまま」

2024-01-21 13:40:13 | 日記

 

初釜茶会では、床の間に「結び柳」が飾られていました。入門して最初に初釜茶会に参加したときには、なぜ柳の枝が床の間に、しかもこんな形で、と驚いたものでしたが、茶席と柳とは縁の深いものだということが次第に分かってきました。
たとえば茶席によく掛けられる言葉に「柳緑花紅(りゅうりょくかこう)」があります。北宋の詩人、蘇軾は「柳がみずみずしい緑の葉におおわれ、花は紅く咲いている」という、ただそれだけの事象を、そのままに受け入れるのだと詠いました。

「あるがまま」を受け入れようという蘇軾の詩は、政治に翻弄されて、役人としては不遇な生涯を送った蘇軾の境遇に鑑みると、その切実さを感じるところです。しかし、柳は緑、花は紅という、それだけの事実に触れて「あるがまま」を受け入れたとしても、あるがままの現実は矛盾に満ちています。矛盾を「込み」で受け入れようとしても難しいでしょう。

玄侑宗久が著書『ないがままで生きる』(SB新書)で面白いことを書いています。人生論には大きく分けて2種類ある、「あるがまま派」と「ノウハウ派」なのだと。
「あるがまま派」は怠惰に陥る可能性があるけれども、自己肯定感が強いから明るく、活発になりやすい。一方「ノウハウ派」は、まじめで立派だが、光がないといった印象をもたれやすい、というそれぞれ一長一短があります。

前者の「あるがまま派」は蘇軾の「柳緑花紅」の姿勢と言えるでしょう。
しかし、これでは、何を積極的に肯定すべきなのか、迷いが深まって自縄自縛に陥ってしまいます。そこで、勢い「ノウハウ派」に軸足を移そうともするので、振り子のようにゆらゆらと腰の落ち着かないことになってしまう。こう玄侑さんは述べます。

それならば、いっそのこと「ないがまま」で開き直って、その場で新たに自己を立ち上げるしかない立場に立ってみてはどうだろうか、というのが玄侑さんの提案です。あらかじめの自己イメージを捨てたところから、その時その場の自己を立ち上げる。そうすれば、結局のところ怠惰にも陥らず、ノウハウにも逃げない、程よい立ち位置に収まるのではなかろうか、と。

それでは「ないがまま」の立ち位置とはどういうものでしょうか。
芭蕉の晩年の句に、次のようなものがあります。

よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな

「よく見る」ことによってようやく気づく密やかな美の境地です。そして芭蕉をして「よく見る」ことをさせたのは、なずなの花の醸し出す枯淡な風情、言い方を換えれば、盛りを過ぎた芭蕉自身の「喪失体験」を重ね合わせることができる対象だったからだと、玄侑さんは指摘します。
「ないがまま」の立ち位置から、なずなの美、なずなと自らの関係を立ち上げる姿。ここには単なる自己肯定にとどまることのない、しなやかな姿を見ることができます。


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越境の花、孤高の花

2024-01-17 20:12:45 | 日記

今年の初釜茶会の花は蝋梅でした。鶴首花入に水仙を活ける予定だったのが、茎や葉が思いのほか太く、花器に入りきれないので、急きょ変更になったのだそうです。

一週間後の初稽古では、水仙が鶴首にきれいに収まっています。花をよく見ると、中心にある筒状の副花弁が小さく、花弁も丸みを帯びているようです。調べてみると、日本水仙とは違う小杯水仙という種類なのかと思いました。茎も葉も日本水仙より細いので、鶴首花入に収まったのだと思います。
ともあれ、水仙は唐銅の花入に活けると、稽古場全体が引き締まった雰囲気になります。

水仙の花は、近世以降の短歌には頻繁に姿を現します。たとえば、次の二首。

黄いろなる水仙の花あまた咲きそよりと風は吹きすぎにけり(古泉千樫)

真中の小さき黄色のさかづきに甘き香もれる水仙の花(木下利玄)

ところが、この花が古い歌に詠まれることは稀です。水仙がわが国に到来するのが平安末期と比較的新しく、大和言葉で呼ばれることがなかったため、歌に詠まれる機会が少なかったのだそうです。
ギリシア神話にも登場する水仙は、もともと地中海地方の原産で、それがはるばるとシルクロードをたどって唐に渡ると、水辺の仙人になぞらえて「水仙」と名付けられました。時代がさらに下って、大陸から黒潮や対馬海流に乗って漂着したものが、わが国の海辺に自生して、それが大陸で付けられた名前のまま愛でられるようになったのです。

地中海を出自とし、大陸の不思議な名前を持つ水仙は、エキセントリックな存在でもあったのでしょう。毒性があるのも知られており、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出しています。
侘茶の祖と言われる村田珠光は、それまでの唐物中心の茶の湯の道具に、和物を調和させて新しい美をつくることを目指し、その姿勢を「和漢のさかいをまぎらかす」と言いました。境界を横断するように移動する水仙が、「さかいをまぎらかす」存在として認められているのかもしれません。唐銅など「真の花入」つまり最も格の高い花入に適した花とされるのも、この不思議な佇まいが原因ではないかと思います。

ナルキッソスはみずからに見惚れて、水鏡の向こう側の世界に行ってしまいました。人を魅了しながら境界を移動する姿の原型が、ここにあるようにも思います。境界を易々と越える人、それゆえ特定の場の論理に染まらない孤高の人、といった姿も思い浮かびます。


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洛陽の牡丹大輪を開く

2024-01-11 23:28:17 | 日記

近くの神社脇の花庭園では、冬牡丹が絹のような花びらを幾重にも広げていました。
一株ごとに藁帽子で大事に守られた牡丹の姿は「百花の王」というよりも、手塩にかけた箱入り娘と言ったほうが相応しいかもしれません。

しかし、まだ凍りつくような大地の下には、生命のドラマが繰り広げられています。
一本一本数え上げれば気の遠くなるような長さの根が生え、それぞれの根からはおびただしい根毛が伸びていて、水や養分を休みなく吸いあげているのです。五木寛之が『大河の一滴』に書いていますが、生物学者が小さな木箱にライ麦の苗を植えて、その根や根毛の長さを測って累計したところ、実に1万1千2百キロに及んだそうです。シベリア鉄道の1.5倍にも達するその根の力が、貧弱なライ麦の一本の生命を支えています。

一口吸尽西江水(一口に吸尽す 西江の水)

中国の禅僧が、禅師に「万法を超越した人とはどんな人ですか」と尋ねたところ、禅師は「お前が西江の水を一口に飲み尽くすことができたら、それを教えてやろう」と答えたのだそうです。これだけでは何を意味しているのか分かりませんが、この後には次の句が続きます。

洛陽牡丹新吐蘂(洛陽の牡丹 新たにズイを吐く)※ズイとは、雄蘂と雌蘂の意

大地が地下に水を蓄え、その地下水を牡丹が吸い上げて、大輪の花を咲かせる、と続くのです。
根の丈を伸ばし続け、根の先に根毛を絶えず押し広げて、そこから大地の水を吸い上げる、そして牡丹の花の大輪となって生命の形をまさに表している。奢ることもなく息づいている命の力に、まずは驚くべきだろう。万法を超越するなどと大言壮語するのではない、愚直ながら壮大な営みに注目せよ、と禅師は語ったのではないでしょうか。

この禅語は、千利休が参禅の師と仰いだ大徳寺の古渓宗珍 により示されたもので、これにより利休は大悟したとされています。
『南方録』で利休の境地を示したとされる藤原家隆の歌

花をのみ まつらん人にやまざとの ゆきまの草の 春をみせばや

は「雪間の草」の命の力に焦点を当てています。その命の力に同期するように、人の心にも春はめぐって来るのだと詠うのです。
生きて、生きて、ひたすらに生きてやまない命の力を思いながら、この一年の茶道の稽古に励もうと思います。


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答の結晶

2024-01-04 19:00:31 | 日記

妻の実家で正月元日を過ごしました。コロナ禍の間は長居を避けるようにしていましたが、今年は比較的ゆっくりと過ごすことができました。三年前に義父が他界した後、義母の生活もようやく落ち着いたようで、かつての正月に戻ったような気がします。

茨木のり子の詩に「答」というものがあり、義母に重ね合わせて読み直しました。長くなりますが引用します。


ばばさま/ばばさま/今までで/ばばさまが一番幸せだったのは/いつだった?

十四歳の私は突然祖母に問いかけた/ひどくさびしそうに見えた日に

来しかたを振りかえり/ゆっくりと思いめぐらすと思いきや/祖母の答は間髪を入れずだった/
「火鉢のまわりに子供たちを坐らせて/かきもちを焼いてやったとき」

(中略)

ながくながく準備されてきたような/問われることを待っていたような/あまりにも具体的な/答の迅さに驚いて/あれから五十年/ひとびとはみな/掻き消すように居なくなり

私の胸のなかでだけ/ときおりさざめく/つつましい団欒/幻のかまくら

あの頃の祖母の年さえとっくに過ぎて/いましみじみと噛みしめる/たった一言のなかに籠められていた/かきもちのように薄い薄い塩味のものを 
(『食卓に珈琲の匂い流れ』『茨木のり子集 言の葉3』所収)

娘たちがまだ幼い頃、義父母と我が家とで南阿蘇まで足を伸ばし、わらび狩りをして、阿蘇神社の境内で皆で食べたおにぎりの美味しかったこと。あの時のことは、義母とも話すことはあって、共通の楽しい思い出ではあります。しかし、この詩のなかの「かきもちを焼いてやった」ときのような、かけがえのない一番の幸せは、きっと義母の心のなかに別に、大切にしまってあるのでしょう。

「問われることを待っていたような/あまりにも具体的な/答」は、最初とても小さな粒子であったものが、次第に結晶のように美しく形づくられるのだと思います。
今年という一年は「答」の結晶を、しっかりと育てる時間でもあります。


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