犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

老後に向けての宣言

2022-12-28 17:28:01 | 日記

前に少し書いたことがありますが、このブログを始めたきっかけが、仕事上の人間関係でストレスをため込んでいた時に、自分自身を励まして、ひいては人を励ますことができる文章を書こうと決めたことでした。
それ以外のことを書くことは極力避けていたつもりなのですが、最近ついつい泣き言が多くなってしまったように思います。私自身、永田和宏や川本三郎の文章に力づけられたのは事実なのですが、読んでくださる方にご心配をおかけしてしまい、反省しています。

今年の投稿もおそらく今回が最後ですので、今年文章を書いていて良かったことを記そうと思います。
私はクライアントにお送りする毎月の通信の末尾に、当ブログを若干アレンジした身辺雑記を載せています。そのなかで、志村ふくみが「六十の手習い」について述べている文章を引用しました。
当ブログにも載せた、こんな文章です。

六十の手習いというのは、六十歳になって新しいことを始めるという意味ではなく、今まで一生続けてきたものを、改めて最初から出直すことだと思う。(中略)
今まで夢中で山道を登ってきたつもりが、よく見ればいかほどの峠にさしかかったわけでもない。もう一度山の麓に立って登り直す方がずっと魅力的だと思うわけは、要するにもう一度あの、わくわくした新鮮な驚きをもって仕事をしたいのである。(『語りかける花』)

読書の一人が連絡をくださり、「あの一文に救われた」と仰っていただきました。
同年輩の親しい人が亡くなったり、病気になったりして、仕事に向かう元気がなくなっていたところに、「もう一度、あのわくわくした新鮮な驚き」をもって仕事をしようと決意をした人がいることで、勇気をもらったと言われました。
頂いた言葉を、素直に受け取ったのですが、私自身、志村ふくみの決意をきちんと我がものとしていないことを、内心痛感しました。いや、むしろ読んでいて気圧されるような感覚をもっていたというのが正直なところです。
お子さん二人を抱えて、火の燃え盛る荒野に飛び込むような日々だったと、志村ふくみ自身が語っていて、そのうえでもう一度自らを鍛え上げようとする迫力には、到底及ばないと思うのです。
私は、これからしばらく仕事を続けて行くつもりですが、「六十の手習い」はまだまだ私にとっての宿題です。

それでも、あえてはっきりと「もう一度」と言えるものがあるとすれば、妻との生活です。「私の老後」は「妻との生活」と同義のものではなかったかと、つくづく考えます。未熟な者には未熟ななりの無邪気な関係があったのかもしれませんが、思い起こせば、余りにも私の配慮が欠けていたように思うのです。
僕の老後は君との生活のことだ、と妻には言いました。そのつもりで精一杯生きるつもりだから、ついてきておくれと。
これは自分自身の老後に向けての、宣言でもあります。


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思い出して生きること

2022-12-22 19:59:52 | 日記

昨日の朝日新聞朝刊に、川本三郎が『思い出して生きること』という一文を寄せていました。
2008年に7歳下の妻を亡くして、自分はもう78歳になったけれども、14年間なんとかひとりで生きているという話です。縁起でもないと思いながら指折り数えてみると、来年妻に万一のことがあった場合の、私たち夫婦と同じ歳の組み合わせになるのでした。来年から数えて14年後に、私は78歳になっています。

奥さんを失ったとき、保険会社の女性から、妻に先立たれた夫は長生きできないと、川本は言われたそうです。そういう自覚もあって、自炊を試みたのもほんの束の間のこと。外食ばかりに頼っていたために、今年の夏には友達と飲んでいて倒れ、医者に栄養失調という診断を受けて愕然としたと書いています。台湾の虎尾の町を旅したとき、子ども食堂ならぬ「老人食堂」を町が運営しているのを見つけ、日本にもこんなものがあればと語っているのには、私も深く頷きました。

川本はまた、柳宗悦が妹を亡くしたときの、次の言葉を引いています。
「悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる」
自分がなんとか14年間ひとりで生きてこられたのは、悲しみや淋しさと共にあったからだろうと述懐するのです。

怖れと共に、私はこの言葉を読みました。

この記事を読んで、小池光の歌集『思川の岸辺』(角川短歌叢書)にある「砂糖パン」という一連の歌を思い出しました。小池も川本と同じく、妻が可愛がった老猫を慈しんだ人です。

一枚の食パンに白い砂糖のせ食べたことあり志野二歳夏五歳のころ

自転車の前後に乗せて遠出して砂糖パン食べきかはゆかりにき

砂糖パンほんとおいしいと川のほとり草の上こゑを揃えて言ひき

おもひたちけふの昼餉に砂糖パンわれひとり食ひてなみだをこぼす

前三首は、娘たち(志野と夏)が小さい頃、自転車で川のほとりに出かけて行って、食パンに砂糖をかけたものを食べ、おいしいと言い合った宝もののような思い出を語っています。最後の一首は、それから数十年が経ち、妻に先立たれた六十過ぎの作者が、砂糖パンをひとり食する姿が詠まれています。
淋しさのみが淋しさを癒すということが、そのままに描かれていると思います。


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「辛いねえ」のひと言

2022-12-15 20:45:07 | 日記

永田和宏の著書『地の体力』(新潮新書)に、あるホスピスで余命半年と宣告されたご主人を介護している奥さんの話が紹介されています。

その患者に解熱剤を処方するけれども、なかなか効かない。24時間つきっきりの奥さんは、看護師になぜ効かないのかを問いただします。看護師が丁寧に説明すると一応納得するけれど、翌日同じ質問を繰り返すので、ナースステーションでは「クレーマー」として問題になりかけていました。
そんな時、あるベテランの医師がやってきて、奥さんに面会しました。奥さんは同じように医師にくってかかりましたが、医師は説明をしません。そのかわり、たったひと言「奥さん、辛いねえ」と言ったのだそうです。
奥さんはそのひと言でわっと泣き崩れ、翌日からは二度とその質問をしなかったのだそうです。
その人は、きちんとした説明を求めていたのではなく、なぜ自分の家族だけがこんな目に遭うのかという不条理を訴えたかったのです。

家族が病気になったときに、自分に原因があるのではないかなどと考えます。健康に十分に配慮してあげていなかったとか、そういう合理的な理由ではなく、例えば最近の引越しがよくなかったのではないかなどという、荒唐無稽な因果関係などを引き摺り出したりするのです。
それは、どうして自分の家族がこんな辛い思いをするのかという不条理を、説明可能な世界に押し込めようとする「あがき」なのだと思います。「あがき」は次から次へと新しい説明を求めて、鎮まることがありません。

永田和宏と妻河野裕子、そしてその家族が、河野裕子の闘病とその死に向かい合って記した『家族の歌』(産経新聞出版)を再読して、永田和宏の次の文章から、しばらく目が離せませんでした。

テレビなどで、伴侶の病気を「共に背負う」という言い方をするが、私にはよくわからない。病人の無念さ、寂しさを当人と同じように担うなんて、到底できないと思う。河野が泣いて泣いて、私の知らないところで繰り返し泣きながら、今の自分の状況に折り合いをつけてきたのはよく知っている。そんな時にも、何もしてやれなかった。苦しみや悲しみを、一緒に分かち持ったなどとは、とても言えない。
いま私の心のすべてを占めているのは、河野の病状である。その不安や怖れは当人以上のものかもしれないと思う。しかしそれは、じつは、河野を失い、一人残される〈私のその後〉への不安だと気づいて、愕然とする。(前掲書 40-41頁)

どんなきれいな説明でも、この一文には敵わないと思います。肩に手を置いて「辛いねえ」と言ってもらっているように感じました。


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一陽来復

2022-12-09 20:45:01 | 日記

先日、NHK教育テレビで裏千家家元千宗室が話をしておられたのを観ました。そのなかで、家元は「一陽来復」という言葉を引いて、炉開きの頃の茶人の心映えに触れておられました。

「一陽来復」とは、陰暦の十一月、冬至の日に一つ陽が来て、もとに復していくところを表す言葉です。寒さが厳しくなるなかで、一日ごとに日が長くなるように、今日より明日を良きものにしようという、いわば励ましの言葉でもあります。
悪いことばかりが続いて、これからは良いことしか起こらないと、自分に言い聞かせるような開き直った気持ちをも表すこともあり、まさに今、力づけられる言葉を聞いたと思いました。

日が長くなる上り坂の始発の日は、しかし下り坂の始発の日から続いていることも、思わずにはいられません。

一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間 もうすぐ夏至だ
(永田和宏『夏・二〇一〇』)

妻河野裕子に乳癌の転移が見つかり、この一首を詠んだときには、もう抗癌剤も効かなくなり始めていました。このときの心境を永田和宏は、残された時間が楽しければ楽しいだけ、残された時間が一日ごとに減っていくのを痛切に感じる、と語っています。「引き算の時間の残酷さ」とも。

冬至と夏至とが回り灯篭のように回転している姿を想像していると、こんな俳句に出会いました。

冬至夏至けふは夏至なる月日かな
(及川貞)

及川は「馬酔木」婦人会を結成するなど、多くの女流俳人を生み出す礎を作った人で、生涯を家庭の主婦として通しました。その私生活は三人の子を亡くすなど、必ずしも明るいものではなかったようです。
「冬至夏至」という上句は、そういう日常の達観のようなものから、ひねり出されたように思います。


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巨木に倣って

2022-12-03 20:55:54 | 日記

この12月4日で、中村哲医師が銃弾に倒れて3年を迎えます。
現地PMS(平和医療団日本)は、この秋東部ナンガルハル州の谷間で灌漑事業を開始したと、新聞に載っていました。深刻な干ばつが発生するにもかかわらず、急な斜面のために中村医師も、なかなか手がつけられなかった場所だそうです。昨年タリバンが復権し、銀行取引が停止されるなどの厳しい環境のなかで、中村医師の志が着実に受け継がれ、かたちを結んでいます。

この記事を読んで、巨木が倒れた骸のうえに新しい木々が育つ姿を連想しました。「倒木更新」というこの現象は、新しい木々が、倒木のうえに一直線に整然と並んでいて、もとの巨木の姿を思い起こさせるのです。環境が厳しければ厳しいほど、困難に立ち向かおうとする不屈の姿を、新木は巨木に倣って体現しているようです。

幸田文が著書『木』(新潮文庫)のなかで、富良野の東大演習林で「倒木更新」を見たときの感慨を綴っています。前日の雨で濡れそぼった森の中で、古木の骸のうえに立つ若木も、触れれば指先が凍るように冷たかったと言います。そのとき若木から古木に伸びた根の奥に、赤褐色の部分があって、そこに手を入れてみると、不思議な温かさを感じたのだそうです。
美しい文章ですので、そのまま引用します。

古木の芯とおぼしい部分は、新しい木の根の下で、乾いて温味をもっていた。指先が濡れて冷えていたからこそ、逆に敏感に有りやなしのぬくみと、確かな古木の乾きをとらえたものだったろうか。温い手だったら知り得ないぬくみだったとおもう。古木が温度をもつのか、新樹が寒気をさえぎるのか。この古い木、これは、ただ死んじゃいないんだ。この新しい木、これもただ生きているんじゃないんだ。生死の継目、輪廻の無惨をみたって、なにもそうこだわることはない。あれもほんのいっ時のこと、そのあとこのぬくみがもたらされるのなら、ああそこをうっかり見落とさなくて、なんと仕合わせだったことか。

今年のペシャワール会会費を納入した後、お礼状が送られてきて、中村哲医師の写真が印刷されていました。広大な畑を背に、こちらに笑いかける写真で、2019年撮影なので亡くなる数か月前の姿です。この畑も中村医師が訪れるまでは砂漠だったのです。照れたように笑う顔が、この文章の古木の「ぬくみ」のように感じます。


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